式次第
式次第
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「聖母マリアの夕べの祈り」の記事における「式次第」の解説
先唱と応唱 (詩篇69:1):6声の合唱と合奏先唱: Deus in adjutorium meum intende 応唱: Domine ad adjuvandum me festina『オルフェオ』序曲からの転用。 詩篇: Dixit Dominus (詩篇110): 6声の合唱と合奏 モテット: Nigra sum (雅歌): テノールソロ 詩篇: Laudate pueri Dominum (詩篇113): 8声の合唱と通奏低音 モテット: Pulchra es (雅歌):二重唱 詩篇: Laetatus sum (詩篇122): 6声の合唱 モテット: Duo Seraphim (イザヤ書 6:2-3; ヨハネの手紙一 5:7):二重唱からの三重唱二人の天使が呼び交わすさまが二重唱で開始される。テキストが進むにつれ、3人目のソロを加えて三位一体を歌う。 詩篇: Nisi Dominus (詩篇127):10声の合唱 モテット: Audi coelum (作者不詳の典礼文):二人のテノールソロによる歌い交わしからの6声の合唱 詩篇: Lauda Jerusalem (詩篇147):2群の3声合唱とテノールの定旋律 ソナタ: sopra Santa Maria Sancta Maria, ora pro nobis:合奏と斉唱 賛歌: Ave maris stella(8世紀に成立した単旋律聖歌):2群の合唱とソロ Magnificat Ⅰ: 7声の合唱と合奏 Magnificat Ⅱ: 6声の合唱
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 00:58 UTC 版)
大統領と福音派の議員はニコライ教会(ドイツ語版)で、またカトリックの議員はペテロ・パウロ教会(ドイツ語版)でミサに参加した後、市内を練り歩き、その後、衛戍教会での式典を行うこととなっていた。しかし、ヒトラーとゲッベルスはミサ聖祭に参加せず、代わりにベルリンのルイーゼンシュタット(ドイツ語版)で、殉職した突撃隊員の墓前に花輪をささげた。このことは正面切っての侮辱と受け止められた。KPD議員は既に逮捕され、SDP議員は参加を拒否した。 ラジオでは全式次第が中継され、またラジオを所有していない人々向けに、地域ごとの催し物もあった。大規模なミサ聖祭の後、12時少し前にヒトラーとヒンデンブルクらの一行は衛戍教会前で落ち合い、様々な有力者が衛戍教会前でパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領に挨拶を述べた。ヒンデンブルク大統領はヒトラーと握手をかわしている。この短い邂逅は映像にも納められている。アメリカ人写真家が撮影したスナップショットは、後にナチスのプロパガンダに徹底的に利用された。ヒトラーは制服ではなくモーニングコートにシルクハットの装いで、大統領に恭しく深々と首を垂れる姿は「ポツダムの日」に厳粛な趣を与えるものであった。 会場には空席であるドイツ皇帝の玉座が据えられ、アウグスト・ヴィルヘルム、オスカー、アイテル・フリードリヒらといった旧帝室の面々が列席していた。ヒンデンブルクとそれに付き従うようにヒトラーが教会に入場し、向かい合って着席した。ヒンデンブルク大統領のごく短い演説が行われ、次いでヒンデンブルクの付託により国家指導を行うことや、新政権の方針を述べる首相の演説があった。ゲッベルスはその日記に、ヒンデンブルクの目に涙が浮かぶのを見たと記述している。 国家行事の後には、軍事パレードが行われた。ゲッベルスは、この日にナチ的な形式を与えようとしたものの、街を埋め尽くしたのは、ナチの鉤十字の旗()ではなく、黒赤金(ドイツ語版)の三色旗()であった。 式典ののち、臨時の国会議事堂となったクロルオーパーで行われた国会で、全権委任法の法案が提出された。ヒトラーは、大統領、国会、参議院といった国家機関の権利は不可侵である、と述べたが、これは事実に反するものであった。ヒンデンブルクが1934年8月に死去すると、大統領職は首相職と統合され、指導者兼首相(ドイツ語: Führer und Reichskanzler)であるヒトラー個人に大統領の権能が移譲された(総統)。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:53 UTC 版)
射撃祭を構成する重要行事は、射撃王閲兵行進、祝祭行列、射撃王決定戦である。また付随して行われる様々な催し物がある。射撃祭は8月の最終日曜日の週末に行われる。土曜日に始まり、終了は火曜日である。キルメス(ドイツ語版)は既に金曜日の午後5時に伝統的な樽開き(ドイツ語版)を合図に始まる。 射撃祭は正式には土曜日の正午に始まる。祝砲が轟き、公私の建物には旗が掲げられ、クヴィリヌス修道院聖堂(ドイツ語版)の鐘が鳴らされる。 午後5時には市庁舎前のマルクト広場で追悼式が行われる。これに続いて鼓笛隊が「人生を楽しめ(ドイツ語版))」を奏でると(呼集、Reveille)、街中の様々な地点から一か所に向かう行進 (Sternmarsch) が始まる。 夜には最初の行列、松明行列が行われる。射撃兵は模擬銃の代わりに松明を持ち、服装も制服に代わり暗い色のスーツである。小隊ごとにテーマを選んで山車燈籠を造り、街を引き回す。山車燈籠は松明行列の見ものである。台数は約85台から95台ほどである。 日曜日の午前中、射撃王の栄誉を讃えるパレードが挙行され、連隊はマルクト市場で射撃王と委員会を前に行進する。著名人が賓客となるのも稀ではない。2010年には当時の連邦内務大臣トーマス・デメジエールが姿を見せた。日曜日午後の行進は、毎年、地元公共放送WDRがテレビ中継している。撃兵の祝典隊列が街を行進するのは、この他にも日曜日は午後、月曜日と火曜日は午後と夜である。 火曜日の午後の行進が終わると、祭りの会場となる草地広場で新たな射撃王が選出される。射撃王の座を狙う射撃兵は、柱の上に括り付けた割り木(通称「Vogel, 鳥」)を順番に撃つ。割り木に当てるのは簡単だが、撃ち壊すにはコンビネーションガンでも20発から40発を必要とする。そのため王の栄誉は、射撃の腕前よりも運の側面が大きい。 射撃王決定戦の後、草地広場に建てた祝祭テントの中で、公式の「大帰営譜(ドイツ語版)」が執り行われる。 演奏は毎年順番は異なるものの、1904年創立ノイス連隊第1鼓笛隊 (Neusser Regimentstambourkorps 1904)、1968年創立ノイス鼓笛隊「揺るがぬ忠誠」 (Neusser Tambourkorps „In Treue fest“ 1968)、1912年創立ノイス連隊合同鼓笛隊ノヴェジア (Neusser Regiments- und Bundes-Tambourkorps Novesia 1912)、1956年創立ホルツハイム音楽協会 (Musikverein Holzheim 1956) である。鼓笛隊と音楽隊はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヨルク行進曲(ドイツ語版)に合わせ、1830年創立ノイス工兵部隊 (Das Neusser Sappeur Korps von 1830) が随行する中、テントに入場する。 夜には最後の祝祭行列「ヴァッケルツーク (Wackelzug)」が行われ、街中の路上で人々が踊り廻る。一部では射撃兵が制服を「飾ったり」、行列でどんな出し物を披露しようかと趣向を凝らす。射撃兵の多くは午後の内にバラの花を用意しておくが、これは夜の行列を観ようと街頭に集まった女性たち「ニュッサー・レースケス (Nüsser Röskes)」に手渡すためである。射撃兵は花の返礼にと好みのダンスを女性に申し込む。行列の最後に、新射撃王の前を行進する。 翌午前1時頃、修道院聖堂広場 (Münsterplatz) では、1415年創立ノイス標的射撃協会小隊 (Der Zug der Neusser Scheibenschützen-Gesellschaft von 1415) による大帰営譜が行われる。これはノイス市民射撃協会の公式行事ではないが、委員会、新射撃王、ノイス射撃愛好団 (Neusser Schützenlust) が参加する。1951年創立ロッゲンドルフ/テンホーフェン(ドイツ語版)「ドイツ騎士団団長ケルン」鼓笛隊 (Tambourcorps „Deutschmeister Köln“ 1951 Roggendorf/Thenhoven)、1926年創立シュトラベルク(ドイツ語版)連合猟兵音楽隊 (Vereinigte Jägerkapelle Straberg 1926) がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヨルク行進曲を演奏しつつ姿を現す。小夜曲として軍隊行進曲の合同演奏が行われる。例えばカール・カール(ドイツ語版)のムシナン(ドイツ語版)行進曲、アンドレアス・レオンハルト(ドイツ語版)のアレクサンダー行進曲(ドイツ語版)、ゲオルク・ザイフェルト(ドイツ語版)の国王ルートヴィヒ2世行進曲 (König-Ludwig-II.-Marsch) などである。またクーノ・フォン・モルトケ伯爵(ドイツ語版)の大選帝侯騎兵行進曲(ドイツ語版)はシュトラベルク連合猟兵音楽隊が単独で演奏する。松明、隊旗行進、ティンパニ、ドイツ国歌、締めくくりに鳴り響くクヴィリヌス修道院聖堂の鐘の音は、多くの人々に盛況の射撃祭が厳粛に終わりを迎えたことを実感させる。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:08 UTC 版)
明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、「即位の礼」の項目を参照。以下、特記がない場合は主な骨格が定まった『延喜式』の記述に従い、それ以降の変更(特に、明治以降の物)については追加して記載する。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:25 UTC 版)
「ウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンの婚礼」の記事における「式次第」の解説
二人が選んだ次第は、イングランド国教会が1927年に出版した1928 Prayer Bookと実質的に同一のものであった。ウェストミンスター寺院首席司祭のジョン・ホールが、式のほとんどを司宰し、カンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズが祝賀を、ロンドン主教のリチャード・シャルトルが説教を担当した。伝統的に長い間、カンタベリー大主教がイギリス国教会の最高位の聖職者であり、イングランドの国王や将来の国王の結婚式を司宰してきた。シャルトルはチャールズの親しい友人で、ウィリアムとケイト・ミドルトン両方の授堅を行った。 式は、エリザベス2世、フィリップ、聖職者の行進で始まった。その直後、ケイト・ミドルトンが花嫁介添人と小姓を伴って到着した。聖歌隊がチャールズ・ヒューバート・パリーの作曲したアンセムを歌い、新婦は、父と共に会衆席と聖歌隊の中を通って、3分半の行進を行い、ウィリアムと出会った。式は形式にのっとって進行し、招待客はオルガンとオーケストラに乗せて、3曲の有名な賛美歌、ファンファーレ、アンセムを合唱した。 結婚の誓いの際、二人は互いに「愛、安らぎ、名誉、持続」を約束し、これは指輪の交換によって確認された。 新婦の弟ジェームズ・ミドルトンが読み上げた教訓は、新約聖書のローマの信徒への手紙(12章1-2節及び9-18節)であり、高潔に平和に生きることを勧める内容であった。 ロンドン主教の説教は、その日が祝日であったシエナのカタリナの引用で始まった。主教は二人に、無私無欲で、互いの必要性を意識し、改善を求めるのではなく愛による変革を求めるように促した。彼は、二人が考案した祈りの言葉で説教を締めくくった。 式は、主席司祭と大主教による祈りと説教とともに進行した。聖歌隊は新しく作曲されたアンセムを歌った。歌が終わった後、ウィリアムとケイトは通路を下り、女王に礼をするために一旦立ち止まった。彼らの後には、他の出席者や親族の行列が続き、ドアのところで2人の最も若いフラワーガールが加わった。 鐘が鳴る中、寺院を離れる際には、様々な部隊から自ら選んだ近衛連隊の列を通り抜け、群衆からの歓声で祝福された。彼らは、4頭の白馬に引き、ライフガーズにエスコートされた四輪馬車「1902 State Landau」に乗り込んだ。他の出席者も、ブルーズ・アンド・ロイヤルズにエスコートされた似たような無幌の馬車に乗った。女王ら王室のメンバーは、女王の所有するクリーブランドベイの引く大型四輪馬車か公用車に乗車した。
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式次第
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「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の記事における「式次第」の解説
式典の流れは次のとおり。 開式 原爆死没者名奉安 式辞 献水 献花 黙とう 長崎平和宣言 平和への誓い 児童合唱 来賓挨拶 合唱 千羽鶴 閉式
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 06:34 UTC 版)
現在は半日間の催しだが、昔は寅の一点(午前4時)に始まり、12番半(25曲)の舞楽を舞い、終日かかって行われた。江戸時代(明治3年まで)には、門外にある太子堂での四箇法要(唄、散花、梵音、錫杖という四つの声明曲を具備した法要)の前半を行なったのち、楽人・衆僧らの右方・左方の行進により聖徳太子像と仏舎利が境内の六時堂に渡御、安置され、堂の前で舞楽を伴う法要があり、その後、本尊への奉納と参詣者の娯楽をかねて演奏される「入調」と呼ばれる舞楽が十数曲行われ、再び太子堂へ還御し四箇法要の後半を行うという組み合わせだったが、現在は、六時堂の前の舞台で総礼伽陀という声明曲が唱えられたのち舞楽が行われる舞楽法要部分のみを執り行うものとなっている。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 09:00 UTC 版)
式典の流れは次のとおり。 開式 原爆死没者名簿奉納 式辞 献花 黙とう・平和の鐘 平和宣言 放鳩 平和への誓い あいさつ ひろしま平和の歌(合唱) 閉式
※この「式次第」の解説は、「広島平和記念式典」の解説の一部です。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/04 04:44 UTC 版)
現在の大相撲においては、本場所初日前日の午前10時から約30分間行われる。 清祓いの儀 脇行司が土俵に上がり、土俵上の三方の瓶子の蓋をとる。祓詞を奏上し、榊で参列者一同を祓い清める。 祭主祝詞奏上 祭主が塩をまき、正面の白幣に拝礼、柏手、次いで祝詞を奏上する。 祭幣・献酒 脇行司が白幣を土俵の四隅に立て、上げ俵へ献酒する。 片屋開口故実言上 呼出しの柝にあわせて祭主が軍配を左右に振り、言上を述べる。 鎮め物 土俵中央にあらかじめ掘ってあった穴に鎮め物(勝ち栗、榧の実、昆布とするめ、洗米、塩)を埋める。祭主が徳俵に献酒する。 直会 脇行司が参列者に御神酒を捧げる。 触れ太鼓土俵三周 立呼出しを先頭に太鼓2基が土俵を左回りに3周する。その後、1基は櫓太鼓となり、もう1基は触れ太鼓となり街へ繰り出す。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 14:15 UTC 版)
前日 - 矢代岬の高台にある矢代崎弁天宮へ加茂神社の大禰宜が小舟で渡り参拝。この弁天宮の下に王女らが埋葬されていると言われる。夕方、福寿寺横の弁天小宮(矢代崎弁天宮の分祀)で、宵まつり(神事式)が行われる。 当日午前 - 福寿寺にて西福寺住職らにより王女らの霊を慰め、祭りの役を務める住民が、王女らが飢えをしのぐため食したといわれるヘラモ(箆藻)を食す。加茂神社では本殿で神官が御霊を鎮める。祭り役らは福寿寺から神社に移動して参拝し、長屋(ちょうや)で神酒を飲み、太鼓や甚句が響くなか、「三役」と呼ばれる手杵棒ふり1名と弓矢持ち2名が衣装に着替える。 当日午後 - 手杵棒ふり、弓矢持ち、「唐船丸」と呼ばれる船の模型を運ぶ青年数名、財宝を表す宝頭巾を頭にのせた振袖姿の女児8人(かつては集落の初潮前の長女子から選ばれていた。人数が足りないときは閉経後の女性が代役した)、大太鼓数名、縁起物の笹を持つ笹持ちの男児4人(7歳以上15歳以下の長男子から選ばれていた)の順に行列して練り歩き、三役が神社境内、鳥居前、福寿寺前で演技する。加茂神社に戻り、唐船丸を持っていた青年たちの甚句で解散し、三役は長屋で着替え、禰宜や祭り役に神酒が回され、終了する。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:09 UTC 版)
鎮魂祭 まず、新嘗祭の前日に綾綺殿で鎮魂祭が行われる。鎮魂祭には新嘗祭に臨む天皇の霊を強化するという意義があるとされる。神楽の奉納が行われる。 新嘗祭 賢所・皇霊殿・神殿の儀 新嘗祭当日、14時に宮中三殿で「新嘗祭賢所・皇霊殿・神殿の儀」が行われる。この儀式では、天皇に代わり掌典職が宮中三殿に神饌と幣帛を捧げ、代拝を行う。また、午後に掌典長以下が神嘉殿内の母屋に神座、寝座、御座の奉安を行う。 神嘉殿の儀 夜、「神嘉殿の儀」が行われる。まず、侍従が剣璽を、東宮侍従が壺切御剣を奉安する。次いで、皇太子が斎戒沐浴し、東宮便殿で祭服に着替え、天皇より先に神嘉殿に入り、御座につく。次いで、天皇も斎戒沐浴の後に綾綺殿で白の御祭服を着用し、松明の明かりが照らす中を神嘉殿に渡御する。この時、楽師により神楽歌が奏でられる。 次に、神饌行立が行われる。天皇は神嘉殿内の母屋で神座の前の御座に正座し、神饌が用意されると、御手水の後、古来のやり方に則りピンセット型の竹箸で柏の葉の皿に神饌を移し、神前に供える(御(ご)親(しん)供(く))。親供が終わると、自ら天照大神および天神地祇の諸神に御(お)告文(つげぶみ)を奏上する。この時、皇太子は座を立ち、南庇の間の中央の座(母屋御扉口の拝座)につき、拝礼する。帳舎の参列者は起立する。続いて帳舎の参列者が正面階下で拝礼する。その後天皇が、神前に供えたものと同じもの(詳細は神饌の節を参照)を食す(御直会(おんなおらい))。それが終わると、陪膳采女の奉仕で神饌が下げられ、天皇は御手水の後、綾綺殿に還御する。 この後、天皇は綾綺殿で再び斎戒沐浴、更衣、神嘉殿へ渡御し、全く同じ所作を再び行う。この2度の所作をそれぞれ「夕御饌の儀」「朝御饌の儀」と呼んでおり、旧例ではそれぞれ亥刻から子刻(22時から0時)および寅刻から卯刻(4時から6時)、現在は18時から20時および23時から1時に行われている。 豊明節会 奈良時代頃から平安時代にかけては、新嘗祭の翌日に豊明節会が行われていた。 伊勢神宮の供儀 新嘗祭当日には神宮(伊勢神宮)でも外宮と内宮で神饌を供える(「新嘗祭大御饌の儀」)。また、神宮に勅使を遣わし(16日に皇居で「神宮勅使発遣の儀」を行う)、外宮、内宮の順に幣帛と五穀を供える(「新嘗祭奉幣の儀」)。神宮では両宮に引き続き、7日間かけて関連するすべての宮社で新嘗祭の一連の儀式を行う。
※この「式次第」の解説は、「新嘗祭」の解説の一部です。
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式次第
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 10:20 UTC 版)
現代の出初式の例示として、平成21年(2009年)1月6日に開催された「平成21年東京消防出初式」の式次第をあげる。主催の東京消防庁は東京都庁の内部機関で予算額は約2500億円、約18000人の職員が消防防災業務に従事する日本最大規模の消防本部である。出初式は「広げよう地域の連携 高めよう防災力」をテーマとし東京ビッグサイトにて開催され、その様子はNHK総合テレビにより放映された。 開式宣言 国旗掲揚 消防総監 訓示 東京都知事 告辞 来賓 祝辞 東京消防歌斉唱及び部隊検閲 表彰 音楽隊演奏 小隊操練 がんばれ消防応援団紹介 消防少年団 祝賀パレード 徒列部隊等(=特別救助隊・特別高度救助隊・山岳救助隊) 分列行進 機械部隊(=消防車)分列行進 江戸消防記念会 木遣行進並びにはしご乗り 消防演技 はしご隊演技並びに一斉放水演技 国旗降納 閉式宣言
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「式次第」の例文・使い方・用例・文例
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