校風
学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:37 UTC 版)
1923年に日本初の写真学校として小西六写真工業(コニカ)社長が創設した小西写真専門学校を原点とする。著名な写真家を多く輩出している。2003年4月には、芸術学部に日本初となるアニメーション学科が開設された。 写真が「工学的写真技術」を用いて「美的価値」のある写真を作り出すことから、本学では工学と芸術が相互に深く関係するものとして捉えられてきた。実際、大学名に“Polytechnic”(多様な技術の総合)という単語が使われている。 新学制に拠り東京写真短期大学として発足。1966年には工学部が新設された。これは従来の写真の理論教育に高い水準の工学的基礎教育を学部増設を機会に拡張したもので、芸術学部の拡張と位置づけることができる。 教授陣(鎌田弥寿冶、保積英次、宮本五郎、宮川俊夫)や菊池真一学長ら芸術・写真畑の「写真・印刷」に詳しい教員が、写真の理論と化学を基礎に芸術学部(当時短期大学部)に工学部を増設した功労者であった。こうした事情もあり当初、工学部では画像メディア工学(印写工学)とナノ化学(応用化学)を学問的領域の中心としてきた。 最近は工学部における建築学の充実に加え、芸術学部も写真学科のみならず映像学科、デザイン学科、インタラクティブメディア学科、アニメーション学科、ゲーム学科、マンガ学科が加わり、大きく拡大している。
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学風
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小林教授の学風はその厳密かつ正確な学術的態度に特色がある。小林教授は津田左右吉の「思想史的方法」を用いつつ、文の「語句」ではなく「意味」を重視し、「歴史的概念」(歴史的に実在した概念)と「現代的概念」(現代の学者が便宜的に使用する学術的概念)を峻別して、あらかじめ概念規定を行った上で持論を展開する。小林教授の仏教研究は、常盤大定、塚本善隆、横超慧日、道端良秀、鎌田茂雄らの「仏教史学派」の立場に与している一方、初期道教の研究については、それまでの「通説」では説明できない「反則事例」を解明するために長年にわたり組み上げられた独自の学説、すなわち「新パラダイム道教史」を提唱するに至った(以下、後述)。主な教え子に阿純章(天台宗圓融寺住職)、 吉村誠(駒澤大学)、Shawn Eichman,、渋谷由紀(國學院大学)、酒井規史(慶應義塾大学)、林佳恵(早稻田大学)、王皓月(中国社会科学院)などがいる。
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学風
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戦後最初の分析哲学、科学哲学、言語哲学の開拓者の一人である。山元の研究テーマは戦前の実存主義(ニーチェ)、戦後の科学哲学(パスカル、デューイ[要曖昧さ回避])、言語哲学(ヴィトゲンシュタイン)へと変化していった。『空虚と実験』(1972年)と『コトバの哲学』(1965年)はそれぞれ戦後の研究テーマを代表する著作である。早すぎる死が山元哲学の発展を疎外することになった。
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学風
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「神戸女学院中学部・高等学部」の記事における「学風」の解説
神戸女学院では、一人一人が自主性をもって、自らの果たすべき責任を充分に果たす人間になるという意味での「自由」を大切にしてきた。この自由は、神の呼びかけにふさわしく応答しようとする者の態度を指している。つまり、他者のために自分が何をなすべきかを考え、自らの良心に従って、その役割や責任を果たそうとする態度を自由と呼んでいる。 したがって、神戸女学院は自由な校風であり、細かい校則はない。開校以来制服を採用していないのもその一つである。 規律は教員によってではなく、ほとんど高2、高3生が呼びかけ、他の生徒が協力する形で守られている。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:30 UTC 版)
経綸事功をもっとも貴び、孟子以降の人としては隋の王通を推賞する。当時の儒者がいたずらに正心誠意を説くばかりで実効性のある政策に寄与しないことを難じ、慷慨していた。したがって朱熹とは意見が合わず、朱熹も陳亮を粗豪と評した。ただし朱熹は陳亮が没した後に、「龍川陳先生之墓」の碑銘を書いており、交友は終始続いていたと考えられる。その学友に倪朴がおり、門下には喩偘・喩南強・呉深・林慥・陳頤など、いわゆる永康学派の儒者がいる。 日本では長野豊山が「陳亮の議論は奇怪でその学問は危ういところがあるが、一世の豪傑というべきだ」と評し、佐藤一斎は「陳龍川の酌古論は王陽明・方孝孺の文に匹敵し、識見に富んだ名文だ」と書く。西郷隆盛も陳亮を好み、「畏天愛民」「推倒一世之智勇、開拓萬古之心胸」などの節を愛したという。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 18:41 UTC 版)
「遠山茂樹 (イギリス史)」の記事における「学風」の解説
著書『森と庭園の英国史』は英国庭園の成り立ち、プラントハンターの活躍、ジェントルマンと狩りの関係を描いている。英国のジェントルマンは「地主貴族層」を意味するが、肉体労働から解放されていることが条件である。その代わりに田舎で余暇を過ごす。余暇として兎狩り、狐狩りが好まれる。1671年の狩猟法では狩猟行為をジェントルマン階級に限定した。ジェントルマンは最も多いときでも全人口の5%程度であった。英国17世紀のスチュアート時代のフランシス・ベーコン (哲学者)は、庭づくりは「人間の精神の最大の気晴らし」であり、「楽しみの中で最も純粋なこと」であるとした。名誉革命以降は、園芸先進国オランダから国王が迎えられたため、ケンジントン宮殿の庭がオランダ式に改造された。イングリッシュ・ガーデンとは「風景庭園」すなわち、見渡す限りの風景全体を取り込んで構成した庭園を指す。「風景庭園」では不規則性と多様性が重視される。18世紀後半になると「風景庭園」への批判が強まり、花壇やテラスが復活するようになった。 『中世ヨーロッパを生きる』(東京大学出版会)では「アルビオンの森林史話」の執筆を担当し、世ヨーロッパを生きる人々の生活と文化を自然との共生を通して語った。訳書『プラントハンター 東洋を駆ける』では、18~20世紀に日本と中国に植物を求めてやってきたヨーロッパの植物収集探検家たちの活躍が描かれている。 大学では一般教養向けの「イギリス史」や「西洋史」の講義を担当してきた。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 08:52 UTC 版)
顧憲成は、明代の主流であった陽明学が道徳の根源を心に求め、心の外から学問や思弁の功によりもたらされるのではないと主張したことを斥け、生死を度外視して真理を追究する学問として朱子学を奉ずる。講義の合間に政治を批判し官界の人物を論じたので、現状に不満を持つ士大夫をひきつけ、為政者には「東林党」として排斥される勢力をつくりあげた。また、皇帝こそが道統の継承者であり、朱子学や陽明学は臣下でありながら道を濫りに論じていると批判していた管志道とは万暦20年代に論争を繰り広げ、それが顧憲成の名声を高めて東林書院再興のきっかけとなった(顧憲成と管志道は思想的な対立に加えて王錫爵の批判者と擁護者としての政治的対立もあった)。天啓元年(1621年)に太常寺卿の位を贈られ、魏忠賢の時代に剥奪され、崇禎元年(1628年)に吏部侍郎の位を贈られるなど、後世の毀誉褒貶にさらされた人物である。
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学風
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煙山の学問上の特徴は、個別的な事実を丹念に調査していき、その成果によって「一般的把握」を行う帰納的なスタイルである。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:42 UTC 版)
勤奮 厳謹 競取 活躍「勤勉、慎み、進取心、活発」の意味を表す。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 07:27 UTC 版)
専門課程として自然科学系、社会科学系、人文科学系が揃っており、そこには医療系、芸術系、メディア系、教育系、建築デザイン系なども含まれている。また教養科目を一本化し、大学・短大の別なく、すべての学部・科の学生が机を並べて授業を受けるようにしている。これによって学生の交友関係と視野が広がり、小さな総合大学としての特質が強化されている。
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学風
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江戸時代の懐徳堂と同様に庶民教育を重視したが、京都帝国大学の内藤湖南教授らを顧問として専門性の高い研究活動をも行っていた。重建懐徳堂の専任講師であった武内義雄が校訂し1936年に懐徳堂から出版した『論語義疏』は、現在もなお最善の版本とされる。 重建懐徳堂の設立時には大学令は未だ施行されておらず、また重建懐徳堂は専門学校令に基く専門学校としての認可も申請しなかった。しかし、ながく帝国大学が設置されなかった大阪において、重建懐徳堂は事実上唯一の文科大学としての機能を担っていたとされる。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:19 UTC 版)
「現代文明論1・2」を全学部・学科・専攻に必修科目として課している。「現代社会のさまざまな事象を幅広く取り上げることとともに、現代文明の誕生までの経緯、現代文明の諸問題、これからの現代文明のあり方について、学生に考えさせて広い視野を身に付ける」という創立者の意図によって、設置された科目である。創立者が存命していた時は、創立者自らが数千人の学生に対して、一度に講義をしていた歴史がある。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:14 UTC 版)
創立者である小原國芳は、教育における宗教的情操・感化を重視して学園を創設したため、キャンパス内にはチャペルや礼拝堂があり、教育の一環として礼拝の時間もある(大学1年次に必修)。通信教育部の夏期スクーリングにおいても、朝の授業前に各期ごとに1回、全3期通じて計3回行われている。2000年に新設されたチャペルには、礼拝堂にあった辻オルガン(1978年製)が移設されている(礼拝堂にあるパイプオルガンは、アメリカ・シカゴのキンボール社製で、1931年設置)。 なお、キリストの教えに従うことは学則第1条にも謳われているが、特定の教会(会派・宗派)と結びついたミッションスクールではない。小原國芳自身はクリスチャンであったが、宗教観・情操の面で良いものは良く、尊いものは尊いとして他の宗教も大いに尊重し、この姿勢は現在の学園にも受け継がれている。 また、小原國芳は「服装は人格を宣言する」と唱え、身なりも玉川学園における教育の一環とした。そのため、公式行事などでは、男子はダークスーツを着用し、校章をつけることが定められており、これは伝統的に「第一装」と呼ばれる。以前は、色も紺の背広と紺のネクタイと指定され、さらに大学創立時にはこれが制服(毎日着用)であった。女子については、自己に相応しい服装を自ら考え、TPOに応じた服装のセンスを磨くことを重視し、併設の下級学校を含め、開校当初から制服等は設けていない(小原國芳全集第14巻312頁参照)。したがって女子学生の第一装については、「男子の第一装に見合う清楚な服装」と定めるにとどまる。「学生生活規定」では、これ以外に学内外での生活の心構えも記されている。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 10:22 UTC 版)
宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇された。 20世紀末になって再評価の機運が高まった。益田勝実は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている(論考新版は『説話文学と絵巻ほか 益田勝実の仕事1』に収録、ちくま学芸文庫)。 宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/22 16:30 UTC 版)
蘭台は自由な学風を好んだ。「はじめから才能を宿しているのだから他者の学説に頼りすぎて自分を失う事があってはならない。自分の好むところに従ってその長所を伸ばすべきである」として、弟子の個性を尊重した。門弟とあたかも友人のように接して少しも驕ることがなかった。なぜならば、「ひたすらに孔子の道を究めるのであるから、儒者であるためには孔子をもって師とすべきであり、他に子弟関係があろうはずがない」とし、また、「道を同じにするのであるからすなわち朋友であり、単に年長者としてその手助けをするのみである」として、終生その信条を貫いた。 このような自由な学風であったから門下には多くの個性的な俊英が育ち、その後華々しい活躍をしている。
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学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 01:12 UTC 版)
イギリス理想主義のトーマス・ヒル・グリーン、アメリカ・プラグマティズムのジョン・デューイを研究、その思想の近代日本への影響をもテーマの一つとし、綱島梁川と河合栄治郎に焦点を当てている。 道徳教育について研究を進め、主として価値選択の道徳教育、自己実現の道徳教育を主テーマとし、さらには生命倫理の問題にも取り組んでいる。 日本イギリス哲学会名誉会員、日本ピューリタニズム学会、日本イギリス理想主義学会会長、日本デューイ学会、比較思想学会、日本道徳教育学会、広島哲学会会員。
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