南方熊楠
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南方マンダラ
1903年7月18日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている[5]。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した[32]。
概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという[5]。
熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある[32]。
自然保護運動
熊楠は自然保護運動における先達としても評価されている。
1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。
特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点で極めて先進的であった。
この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、2004年(平成16年)に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている[33]。
記憶力
熊楠は子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。
この伝説については、一部分を丸暗記して筆写した可能性はあるが、105巻すべてをそのまま記憶して筆写したというのは虚構である。むしろ本を借りてきて写し書くことによって内容を隅から隅まで記憶していったというのが正確だろう[5]。
熊楠は自身の記憶法については土宜法龍(真言宗僧侶)に書簡で述べている。それを簡単にまとめると以下のようになる[5]。
- 自分の理解したことを並べて分類する。
- 分類したまとまりを互いに関連させ連想のネットワークを作る。
- それらを繰り返す。
日本の雑誌に論考を発表するようになってからも、必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶していて、いきなりそのページをぱっとあけたり、原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていった[9]。
蔵の中へ出たり入ったりしていてどこに何ページということはちゃんと覚えていた。よく「何ページにあるとおもったら、やっぱりあった」と言って喜んでいた[34]。
田辺在住の知人野口利太郎は熊楠と会話した際、“某氏”の話が出た。熊楠は即座に「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている。
元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方を色々調べたことがあった。その後、熊楠と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほど経って今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ熊楠は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれるが、研究が進展した現在、伝記を著した唐澤太輔は、南方が『華厳経』そのものを読んでいた形跡がないことを指摘しており、また友人土宜法龍は「仏教の有名な寓話(譬喩)を無理やり持ち出してきているだけで、教理をしっかり押さえていない(大意)」と批判指摘している [35]。
さすがの熊楠も老化には勝てず、晩年は記憶力低下に対して様々な策を講じていた。本の内容を即座に検索できる索引の作成、自身の発表していた和文論文の利用。さらにどうしても思い出せないときは知人に手紙を宛てて文献の出典などを聞いていた[5]。
夜中の離れの書斎で独り言を言っていた。夜通し喋っており「このぐらいのことがおぼえられませんかね、バカやろう」「南方先生はバカだから」と言っていた。晩年はさすがに覚えていても忘れて、それを涙をこぼして歯がゆがった。「どうしてこんなことになったのかな」といった[34]。
注釈
- ^ 熊楠の生まれた時、父弥兵衛は39歳、母住が30歳であった。ちなみに、この二人の間には、長男藤吉、長女くま、次男熊楠、三男常楠、次女藤枝、四男楠次郎の6人が生まれている。生誕地は橋丁二十二番地、その跡地に当たる駐車場の角に、和歌山市によって熊楠の胸像が1994年に建てられている[7]。
- ^ 速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。
- ^ 中国明代の辞書『正字通』にある「落斯馬」という動物がイッカクであると書いたシュレーゲルに対し、熊楠はセイウチであると主張した論争。熊楠が勝利。
- ^ 発見場所は、稲荷村(現・田辺市)の糸田にある猿神祠(古くは山王権現社と呼ばれていた)で、高山寺のある台地の会津川に臨む見晴らしの良い場所にあった[13]。
- ^ 当時の『ネイチャー』誌における投稿論文は、現在の査読を行わない読者投稿欄のようなものであった[要出典]。
- ^ 写真多数の図版本。長谷川興蔵(1924-1992)は、編集者として生涯かけ平凡社・八坂書房で著作資料の校訂を担当した。
- ^ 同じ谷川健一編で、熊楠を柳田国男・折口信夫と比較論考した『南方熊楠、その他』(思潮社、1991年)がある。
- ^ 著者没後に刊、編者ほか3名による共著。
出典
- ^ 松居竜五・岩崎仁編『南方熊楠の森』(方丈堂出版、2005年)4〜13頁
- ^ a b c d e f g h i j k 南方熊楠大辞典. 勉誠出版. (2012年1月30日)
- ^ a b 田村義也「語学力」(『南方熊楠大事典』129-133頁)
- ^ 飯倉照平「熊楠伝説」、『南方熊楠大事典』(勉誠出版、2012年)124〜129頁などを参照。
- ^ a b c d e f 唐澤太輔「南方熊楠 日本人の可能性の極限」. 中央公論新社〈中公新書〉. (2015年4月)
- ^ a b c d 『読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年10月24日1面【ニッポン絵ものがたり】南方熊楠「菌類図譜」F.4198
- ^ 飯倉 2006, p. 2.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk 南方熊楠大事典(第六部 年譜). 勉誠出版. (2012年1月30日)
- ^ a b c d e f g h i 漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人. 鳥影社. (2019年4月3日)
- ^ Collectors of the UNC Herbarium(英語) - ノースカロライナ大学チャペルヒル校植物標本館(ノースカロライナ植物園の一部門でもある。)
- ^ William Wirt Calkins - ウェイバックマシン(2019年3月13日アーカイブ分)(英語) - イリノイ州自然史調査所
- ^ 松居竜五「ジャクソンヴィルにおける南方熊楠」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第11号、龍谷大学、2009年6月30日、 210-228頁、 NAID 110008739278。
- ^ 飯倉 2006, p. 206.
- ^ 飯倉 2006, p. 200.
- ^ 松居竜五「南方熊楠宛スウィングル書簡について」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第7号、龍谷大学、2005年3月25日、 149-156頁、 NAID 110004628956。
- ^ a b 南方熊楠顕彰会>ゆかりの地
- ^ 変形菌分類学研究者 - 日本変形菌研究会
- ^ Minakatella longifila G. Lister -- Discover Life
- ^ Minakatella longifila G.Lister, 1921 - Checklist View
- ^ Gulielma Lister - Wanstead's Wildlife(英語)
- ^ 変形菌分類学研究者の紹介(国外) - 日本変形菌研究会
- ^ 雲藤等「『南方熊楠全集』(平凡社)と書翰原本との異同 : 上松蓊宛・平沼大三郎宛書翰を中心に」『社学研論集』第20巻、早稲田大学大学院社会科学研究科、2012年9月、 139-155頁、 ISSN 1348-0790、 NAID 120005300994。(18)の異同を参照。
- ^ 紀田順一郎「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」においては、ブレサドラの『菌誌』とも。
- ^ 南方熊楠顕彰館所蔵資料・蔵書一覧(南方熊楠顕彰館2012) 5.関連p.14の"関連0958"に資料名として『ブレサドラ菌図譜』とあわせて「名誉賛助名簿」とある。
- ^ a b c d e f g h 南方熊楠大事典(第二部 生涯). 勉誠出版. (2012年1月)
- ^ 南方熊楠大事典(第三部 人名録). 勉誠出版. (2012年1月)
- ^ 飯倉 2006, p. 36.
- ^ 飯倉 2006, p. 277.
- ^ 飯倉 2006, p. 279.
- ^ 飯倉 2006, p. 273.
- ^ 萩原(1999)、p.244
- ^ a b 南方熊楠大事典. 勉誠出版. (2012年1月)
- ^ 和歌山県神社庁公式サイト 鬪鷄神社
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 南方文枝「父 南方熊楠を語る」、付神社合祀反対運動未公刊史料. 日本エディタースクール出版部. (1981年・昭和56年7月)
- ^ 唐澤太輔「〈研究論文 ワーキングペーパー 報告書〉「南方曼陀羅」と『華厳経』の接点」『2015年度 研究活動報告書』、龍谷大学世界仏教文化研究センター、2016年3月、 191頁、 NAID 120005969550。
- ^ 『日本学者フレデリック・ヴィクター・ディキンズ』秋山勇造 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
- ^ 飯倉 1974, p. 290.
- ^ 「平家蟹の話」
- ^ 紀田(1994)
- ^ “資料 (PDF)”. 和歌山県教育センター学びの丘. 2018年4月28日閲覧。
- ^ 大本泉『作家のごちそう帖』(平凡社新書 2014年)pp.33-42
- ^ 世界的植物学者、奇行の巨人死去『東京日日新聞』(昭和16年12月30日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p747 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 飯倉 2006, pp. 334–335.
- ^ 英国科学誌での熊楠の研究に、志村真幸『南方熊楠のロンドン 国際学術雑誌と近代科学の進歩』慶應義塾大学出版会、2020年 がある。
- ^ “知の巨人に和歌山・田辺市が名誉市民章授与 10月22日、紀南文化会館で南方熊楠生誕150周年記念式典 - 産経WEST”. 産経新聞. (2017年9月27日) 2018年10月16日閲覧。
- ^ “「熊楠は日本人の夢」 生誕150周年で中沢新一さんら”. 紀伊民報. (2017年2月22日) 2017年2月24日閲覧。
- ^ 清酒 世界一統-知られざる巨人-南方熊楠-南方熊楠と世界一統の歩み
- ^ a b c II 南方熊楠をめぐる人名目録南方熊楠を知る辞典
- ^ 縛られた巨人、南方熊楠 -何によって縛られていたか『天皇と日本国憲法(毎日新聞出版): 反戦と抵抗のための文化論』なかにし礼、PHP研究所, Mar 7, 2014
- ^ a b 南方熊楠 履歴書(口語訳5)ロンドンに渡るMikumano.net
- ^ 南方熊楠 履歴書(口語訳13)母と兄Mikumano.net
- ^ 南方熊楠 履歴書(口語訳15)帰国Mikumano.net
- ^ 南方熊楠 履歴書(口語訳16)和歌山Mikumano.net
- ^ 熊楠を支えた弟/和歌山『毎日新聞』2017年3月20日
- ^ 南方熊楠の家族と日常南方熊楠記念館
- ^ 飯倉 2006, p. 359.
- ^ 飯倉 2006, p. 337,360.
- ^ 遺著に『長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの』南方熊楠資料研究会
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