第二次上海事変
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第二次上海事変(だいにじシャンハイじへん)は、1937年(昭和12年)8月13日から始まった、中華民国軍と日本軍との軍事衝突のこと[注釈 1]。上海の戦い(シャンハイのたたかい)とも[8][9]。中国側の呼称は淞滬会戦(簡体字中国語: 淞沪会战)。本事変の勃発によって北支事変は支那事変へと拡大し日中全面戦争に発展した[10][11][12][13][14]。
注釈
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第二次上海事変
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詳細は「第二次上海事変」を参照 上海での中国側報復と日本軍増派 同8月9日、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された (大山事件)。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ(兪鴻鈞)中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した。8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した。8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた。8月13日午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した。 8月13日、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた。 翌8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た。 第二次上海事変の勃発により日中全面戦争に発展した。日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もある。近衛内閣は8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は排日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、上海派遣軍が編成された。一方、同8月15日に中華民国も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蔣介石が就任、戦時体制を確立し、さらに中国共産党も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった。 その後、8月下旬、蔣介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。 渡洋爆撃 同8月15日、日本海軍は渡洋爆撃を開始。15日より16日にかけて、海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌・南京・広徳・杭州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃を行った。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。 8月17日、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した。 8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した。 8月20日日本海軍、漢口爆撃。8月21日、中ソ不可侵条約が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された。8月22日には西北地域の共産党軍(紅軍)を国民革命軍第8路軍に改編、総兵力は32000。 8月23日、日本陸軍が上海上陸開始。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった。 南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン(英語版)が銃撃を受けて重症を負い、同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したため、イギリスの対日感情が悪化し、約一か月後に解決した。 ニューヨークタイムズ1937年8月30日記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じた。 1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍・第1軍・第2軍へと編成される。 9月2日 - 日本、北支事変を支那事変と改称。 9月5日 - 日本海軍、中国大陸沿岸の封鎖を宣言。 9月9日 - 山西省の陽高で、関東軍が中国人を虐殺する陽高事件が発生する。 9月13日、国民政府、日本軍の行為を国際連盟に提訴。 9月14日 - 日本軍(北支那方面軍)、北平・天津より南進を開始。保定攻略。 9月15日-22日 - 日本海軍航空隊、広東方面攻撃。22日までに中国空軍、全滅[要出典]。広東空襲に際し国民政府は赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、一週間で100人以上がスパイ容疑で処刑される。 9月21日-22日 - 日本陸軍航空部隊、太原飛行場を爆撃。同21日には国際連盟の日中紛争諮問委員会が開催。 9月22日、第二次国共合作が成立する。 日本海軍航空隊は9月23日に南昌を、翌日の9月24日に漢口を爆撃する。 国際連盟の日本空爆への非難決議 1937年9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。 他方、1937年10月、ローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した[要検証 – ノート]。東京朝日新聞は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した 1937年10月2日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原攻略開始(山西作戦)。ソ連は対日軍事的、経済的制裁の実行をアメリカに打診した。10月5日 - 国際連盟、諮問委員会で日本の軍事行動を九カ国条約・不戦条約違反とする決議採択(翌10月6日、総会でも決議)。同日、米国のルーズベルト大統領、シカゴで侵略国を批判する「隔離」演説。 10月10日 - 日本軍第1軍、石家荘占領。 10月12日 - 中支の紅軍を新四軍に改編。 10月17日、関東軍、包頭を占領(チャハル作戦終了)。10月26日、上海戦線でも難関の大場鎮の占領に成功。
※この「第二次上海事変」の解説は、「日中戦争」の解説の一部です。
「第二次上海事変」を含む「日中戦争」の記事については、「日中戦争」の概要を参照ください。
第二次上海事変
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1937年7月、第二次上海事変勃発。支那事変が始まる。当時、赤城は近代化改装の最中であり、空母蒼龍、飛龍は建造中で実戦投入が可能な空母は加賀と小型空母2隻(鳳翔、龍驤)であった。本艦はこれら三隻の空母の中で最大の攻撃力を持ち、支那事変における空母部隊の主力とされ、常に稼働状態であった。海外メディアも3隻(加賀、鳳翔、龍驤)の活動を世界に報じている。この時点での加賀艦載機は、九〇式艦上戦闘機、九五式艦上戦闘機、八九式艦上攻撃機、九四式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機に更新されていた。加賀便乗中の城英一郎海軍中佐は周囲に「海軍航空部隊の奇襲攻撃により日華事変は3日で終結する」と大本営の判断を語っている。また、日本軍は中華民国空軍を過小評価していた。 加賀は1937年(昭和12年)8月10日、寺島水道を出撃、北支派遣輸送船隊の護衛に従事、8月14日の中国空軍による上海爆撃には間に合わなかった。加賀は翌日8月15日に上海沖に到着。同日、舟山列島付近より九四式艦爆16機、九六式艦攻13機、八九式艦攻16機を攻撃に向かわせた。八九式艦攻は筧橋飛行場を爆撃したが中国空軍第4大隊、第5大隊のカーチス・ホークⅢ(英語版)の迎撃を受けた。九四式艦爆は曹娥飛行場を攻撃し中国機6機爆破を報告したが、同地にあったシュライクの攻撃を受けた。南京に向かった九六式艦攻は密雲のため攻撃できずに引き返した。この攻撃で加賀航空隊は八九式艦攻8機(2機不時着水含む)、九四式艦爆2機(1機不時着水含む)とその搭乗員29名(うち1名が重傷のち死亡)を一挙に失った。加賀戦闘機隊長の柴田武雄少佐は前日、艦攻隊長岩井庸男少佐に対し、旧式の89式艦攻だけでも戦闘機の掩護をつけるべきと説得したが、分隊長安仙三大尉の「万一の場合でも旋回銃で大丈夫、戦闘機は足手まとい」という一言で不採用になったという。当時、戦闘機無用論が支持されていたが、これをきっかけに戦闘機が見直されることになった。大西瀧治郎大佐の要請で九六式艦上戦闘機が加賀に導入されることとなり、8月22日、新郷英城中尉らが操縦する6機が到着、その搭乗員は 小田喜一、高橋憲一各二空曹、半田亘理、稲葉武雄各一空曹ほか1名であった。同日、中島正中尉らが操縦する2機も加賀に到着した。 8月26日、一旦本土に帰還して佐世保に帰港、翌27日出港、上海沖で陸戦に協力、南京空襲や揚子江の艦艇攻撃に参加。9月20日19時00分、支那方面艦隊司令長官長谷川清中将(第三艦隊司令長官兼務、旗艦出雲)は、第二空襲部隊の空母加賀(第二航空戦隊)および、第五空襲部隊(第二連合航空隊、上海公大飛行場駐留)に、揚子江中流の江陰要塞に停泊していた中華民国艦隊(巡洋艦平海、寧海、應瑞、大型砲艦逸仙、水雷艇建康、他多数)に対する攻撃を下令する。 このとき第二航空戦隊は搭載機48機を第二連合航空隊に編入させており、残りの艦載機十数機で作戦に臨んだ。9月21日の空襲予定は、天候不良のため中止。 9月22日午前中、まず連合航空隊の九二式艦上攻撃機12機(60kg爆弾搭載)と九五式艦上戦闘機6機が出撃する(第一次攻撃)。艦攻が水平爆撃を敢行し、「平海」に損害を与えた(直撃弾2、至近弾1)。午後、加賀攻撃隊(九六式艦上攻撃機7機、30kg爆弾搭載)が水平爆撃を実施、2隻(平海、寧海)に小規模な損害を与えた(第二次攻撃)。夕刻の十二空による第三次攻撃(九二式艦攻6、九五式艦戦3)は江陰砲台の対空砲火を受け、また寧海型を視認できず、應瑞型(巡洋艦、2,750トン)に水平爆撃を実施した。 平海は上流の南京へ脱出を図ったが、9月23日、再び連合航空隊と加賀航空隊の波状攻撃を受ける。第四次攻撃隊は十二空(九二式艦攻9、九五式艦戦3、九四式艦上爆撃機12)と十三空(九六式艦上爆撃機)は附近の砲台を制圧し、中華民国艦艇を襲撃。各艦に複数の直撃弾を与えた。第五次攻撃隊は加賀航空隊(艦攻8、艦爆8、艦攻4)から成り、遡江中の「平海」に直撃弾3発を記録、「平海」は炎上して擱座した。9月25日にも十二空(九二式艦攻6、九五艦戦3)が逸仙(砲艦、1,500トン)を空襲、擱座せしめた。。これらの空襲によって、同方面の中華民国海軍艦艇は戦闘力を喪失。。これは記録に残る中で航行中の敵水上戦闘艦(駆逐艦以上)を航空機だけで撃破・擱座させた史上初の例である。 本戦闘を最後に「加賀」は第一航空戦隊(龍驤、鳳翔)と任務を交代、9月26日に佐世保に帰港した。佐世保で補給を行い、10月4日出港、6日から24日まで南支方面作戦に従事、11月17日佐世保に帰港した。11月21日佐世保発、南支方面に向かい、11月24日から29日まで広東方面の爆撃、12月2日佐世保に帰港した。12月10日佐世保を出港、基隆を経て南支方面へ向かい、12月12日から翌1938年(昭和13年)1月21日まで南支方面の各地を爆撃、1938年1月25日佐世保に帰港した。 3月25日横須賀軍港を出港、南支方面に行動し、広東爆撃や厦門攻略作戦などに従事した。4月13日には艦戦・艦攻隊が広州の天河・白雲飛行場を爆撃したのち、上空にて第5大隊第28中隊・独立第29中隊のグロスター グラディエーター18機と初交戦。3機が未帰還となったが、15機(うち不確実3)を撃墜(中国側の記録では7機撃墜、5機被撃墜、うち3名生還)。8月30日には南雄上空にて第3大隊および第5大隊のグラディエーター、カーチスホーク戦闘機計21機と交戦、40分間の空戦で2機未帰還となったが20機(うち不確実4)を撃墜したとしている(中国側の記録では6機撃墜、5機被撃墜、うち3名生還)。10月12日からは広東攻略作戦に従事した。 当時の加賀甲板士官だった板倉光馬によれば、激しい制裁やリンチにより逃亡者や自殺者が出たり、乗組員が食料品を窃盗する「銀蝿」が大規模かつ公然と行われるなど、加賀の船内風紀は海軍艦艇の中で特に乱れていたと語っている。横須賀在泊中に高級将校が艦内に芸者を招いて宴会をしていた事もあった。板倉によれば、大型艦の陰湿な気風はどこも殆ど変わらず、結果として加賀の風紀は、他の大型艦艇に比べ早期の改善に成功し、ちゃんと叱れば彼らは素直に従ってくれ、板倉が駆逐艦如月に転勤するため加賀から去る際には、乗員達は涙を流して別れを惜しみ、カッターを自分達で漕いで見送りたいと志願し(転勤者は内火艇で見送るのが慣わし)、飛行甲板のみならず、機銃座にいる乗員までもが千切れんばかりに帽子を振りながら、鬼の甲板士官と言われた板倉を見送った、という。 同年12月11日佐世保に帰港した。
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