ロマン主義 ロマン主義の概要

ロマン主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 07:54 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ドラクロワ『アルジェの女たち』(1834年、ルーヴル美術館所蔵)

概要

ロマン主義は教条主義古典主義の対概念としてとらえられるもので、アメリカ哲学者・アーサー・ラブジョイ(en:Arthur Oncken Lovejoy)は「ロマン主義の時代」を1780年から1830年としている[1]。また、ロマン主義は部分的には産業革命への反動であった[2]。その萌芽は既にベルナルダン・ド・サン=ピエールディドロに見られ[3]セナンクールスタール夫人バンジャマン・コンスタンフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンといった初期ロマン派作家によって、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の独自性を根本とした表現が特徴とされる。これらはナポレオン1世第一帝政に対する文化的抵抗運動の中で文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、フランスジャン=ジャック・ルソーの著作がドイツに伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた[4]。フランスのロマン主義運動はオノレ・ド・バルザック死を境に1850年代以降は勢いを失い、シャルル・クロスなどの小ロマン派を除いては[5]その座を写実主義自然主義高踏派などに譲ることになるが[6]、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀初頭の後期ロマン主義にまで及んだ。ロマン主義を信奉する傾向や集団を指してロマン派 とも呼ばれる。

ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義や教条主義がしばしば無視した個人の根本的独自性の重視、自我の欲求による実存的不安といった特性である。ロマン主義においては、古典主義において軽視されてきたエキゾチスムオリエンタリズム神秘主義などといった題材が好まれた。また、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、憂鬱不安・動揺・苦悩・個人的愛情などを大きく扱った。また、古典主義はその技法上の制約によって芸術的自由を抑圧したと非難する主張や、古典主義の欠陥に対する反発から、ロマン主義は出発したとされる[7]

この特性および主張は、道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがて写実主義自然主義へと継承された。

フランチェスコ・アイエツ『オダリスク』(1867年、ブレラ美術館所蔵)

「ロマン」の語源

ローマ帝国時代のラテン語には、文語としての古典ラテン語と口語としての俗ラテン語が存在したが、その差はさほど大きくなかった。しかし、衰退期に入ると文語と口語の差は徐々に広がり、やがて、ひとつの言語の変種とは呼べないほどにその違いは大きくなり、文語は、古典ラテン語の知識のない庶民には理解困難なほどにまでなった。対して、その時代の口語をロマンス語と呼んだ。ロマンス語で書かれた文学作品はロマンスと呼ばれるようになり、ギリシャ・ローマの古典文学の対立概念とされるようになった。ロマン主義(ロマンティシズム)の語源はここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。

文学

文学では「ロマンティック (romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。

フランス

ヴィクトル・ユゴー
ジョルジュ・サンド

18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー英語版』やディドロの『ラモーの甥英語版』あるいはルソーの『新エロイーズ英語版』、『告白』などにロマン主義の萌芽は見られた。19世紀に入ると、スタール夫人バンジャマン・コンスタンフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンセナンクールといった初期ロマン派作家によって、現実認識および自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものは、それまでの教条主義では存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時に、この自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴーフランス語版が属した「文学保守フランス語版」誌、あるいは「グローブフランス語版」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。1825年、ヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが自由主義化することで、ロマン主義はより大きなうねりとなった。自由主義・個人主義エゴイズムを柱とするロマン主義の確立は、それまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなく、あらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文で「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適ったすべての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である」と書いている。1830年、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「エルナニ事件フランス語版」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。

19世紀前半の代表的なロマン主義詩人としてはアルフォンス・ド・ラマルティーヌアルフレッド・ド・ミュッセアルフレッド・ド・ヴィニー、ヴィクトル・ユゴー、ジェラール・ド・ネルヴァルらが、小説家としてはスタンダールオノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユゴー、プロスペル・メリメジョルジュ・サンドらが挙げられる。1848年の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、1850年のバルザックの死、および1851年12月2日ルイ・ナポレオンクーデタを通じ、ロマン主義は幻滅の中で写実主義自然主義にその座を譲ることになる[8]。以降のロマン派はシャルル・ラッサイーフランス語版シャルル・クロスエリファス・レヴィらの小ロマン派と呼ばれる詩人・作家たちにパリの文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて象徴主義にたどり着くことになる。

イギリス

イギリスにおけるロマン主義は、ヨーロッパ啓蒙主義に強い影響を受け、ウィリアム・ブレイクの詩をその萌芽とし、ウィリアム・ワーズワースサミュエル・テイラー・コールリッジの共著である詩集『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(1798年)をもって本格的に始まる。さらにロバート・サウジーらが牽引した。ワーズワースやコールリッジらはフランス革命後保守化したが、ナポレオン戦争ジョージ・ゴードン・バイロンパーシー・ビッシュ・シェリージョン・キーツらは先鋭化しイギリスを去ってスイスイタリアなどに移り、理想主義を掲げた。そうした中、『穀物条例歌集』のように政治に深く関わる作品も著された。またバイロンはギリシャ独立戦争に従軍した。これらは産業革命重商主義への反動として産業革命の浸透と時を同じく浸透していったが、やがて産業革命の所産である功利主義的な思想にとって代わられることとなった。バイロンの死去した1820年代以降、イギリスにおけるロマン主義は急速に後退していった。

ドイツ

ドイツロマン派の人物たち

ドイツのロマン主義文学はゲーテの作品や疾風怒濤期の作品から理論の形成に大きな影響を受けたが、ゲーテ自身はロマン主義に批判的であった。ドイツ文学におけるロマン主義運動は北部のイエナを中心とした。イエナにはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の宰相でもあるゲーテの政策によって、国内を代表する学者たちが教授として招かれていた。ドイツの初期ロマン派(ドイツ・ロマン派、イエナ・ロマン派)の文学者には文学誌「アテネーウム」を主宰したシュレーゲル兄弟ティークノヴァーリスなどがいる。イエナのサークルにはゲーテ、シラーシュライエルマッハーフィヒテシェリングが関わった。またこのサークルには加わらなかったが、ヘルダーリンもイエナでフィヒテの講義を聴講している。この初期ロマン派は哲学への志向を持った。この傾向はシュレーゲルに強く近代の特徴的所産としてフランス革命・フィヒテの知識学・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を挙げている。しかしこの文学者からの接近は哲学者からは必ずしも歓迎されなかった。シュレーゲルはイエナ大学で哲学の講義を行ったが、哲学界からは黙殺された。またヘーゲルやシェリングはシュレーゲルの思想を浅薄なものと非難している。しかしフィヒテの後期知識学や、シェリングの後期哲学(積極哲学)には明確にロマン主義の影響が認められる。これらのドイツ観念論とは異なる哲学的思索については、のちにヴァルター・ベンヤミンが芸術批評の思想として発掘し、カール・ハインツ・ボーラーなどにより積極的に評価された。哲学史的意味においてこの時期の古代ギリシア研究にアポロンと対置されたディオニュソス的な存在を見出した影響は大きく、ニーチェらがこの分類を用いたほか、世紀末芸術などにモチーフが受け継がれた。彼らのグループ・イェナロマンティカーは各人の転居や死などにより1800年には解消した。のちにベルリンアルニムらによるサロンを中心とする小説家群が輩出された。この文学者群を後期ロマン主義と呼び、グリム兄弟シャミッソーホフマンらが挙げられる。シュレーゲルの友人であるスタール夫人によりドイツのロマン主義はその源流であるフランスに紹介された。

ベルギー

ヘンドリック・コンシャンス

ヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』の上演をめぐるエルナニ事件が起きた1830年に、ベルギーは臨時政府議会による独立承認が行われている。独立前の政治的混乱と産業革命の成功にともなうブルジョワ階級の功利主義の中でロマン主義の受容は遅れていたといわれ、また当時のフランス王党派色の強いロマン主義文学に対してオランダ王家(オラニエ=ナッサウ家)に対する独立運動を行っていたベルギー人の反応は薄かったといわれている[9]。フランス側からだけでなく、ドイツ側からも喧伝されたが、一部の貴族以外からの反響はなかった[9]。ベルギーがロマン主義の受容を始めるのは、自由主義とロマン主義を明確に掲げた「グローブ」紙が熱心に読まれ始める1820年代中盤、1826年オーギュスト・バロン英語版 (Auguste Baron) がパリからブリュッセルに移り、バロンの執筆した「ブリュッセル・ジャーナル」誌 (Le Journal de Bruxelles) と古典派の拠城とされる「歩哨」誌 (La Sentinelle) との間でロマン主義に関する論争が行われてからのことだった[9]。また、パリに対してその約半分だったブリュッセルの印刷費とフランス第二帝政の厳しい言論統制により、ブリュッセルでフランス向けの海賊出版物が数多く出版されている[9]。この海賊出版はバルザックの『19世紀フランスの作家たちへの書簡』で激しく非難されている[9]。この状態は1852年4月22日にフランス・ベルギー両政府間で「文学・芸術著作権に関する相互保護協定」が締結されるまで続いた[9]。この海賊出版をめぐる論争はフランスのロマン主義に対する攻撃にも発展した。1836年の『ベルギー評論』ではすでに「想像力のもとで良識を抑圧しようとするこの新しい文学は、風俗を廃れさせ、道徳を破壊し、悪徳と罪とに、金の小片を散りばめた真っ赤なマントを纏わせている」と非難されており、1846年には詩人ラウルの『ユゴーに反して』(L'Anti-Hugo) というロマン主義を激しく非難する小冊子が刊行され、ブリュッセルではその後次々とロマン主義を攻撃する風刺的小冊子が刊行された[9]。海賊出版論争の間にベルギー言論界はフランスの自由主義的ロマン主義と自らの矛盾を自覚してベルギー・ナショナリズムが萌芽し、ゲルマン的ロマン主義の模倣を経由しベルギー独自の幻想文学に至っている[9]。このロマン主義を受容した時期に書かれた小説としてヘンドリック・コンシャンス英語版(アンリ・コンシャンス)のロマン主義的歴史小説『フランデレンの獅子』(1839年)が挙げられる[9]

ポルトガル

ポルトガルのロマン主義はフランスのそれの影響が強く[10]、ポルトガルにおいてロマン主義は、1825年に詩人のアルメイダ・ガレットが亡命先のフランスで発表した『カモンイス』(1825年)によって導入された。ガレットのほかに初期のポルトガル・ロマン主義の形成に大きな役割を果たした人物として、歴史家であり、詩人でもあるアレシャンドレ・エルクラーノの名を挙げることができる。写実主義の萌芽が見られるジュリオ・ディニスや、『破滅の恋』(1862年)のような恋愛小説を残したカミロ・カステロ・ブランコ のような第二世代に続いて保守的で形式的な超ロマン主義が文壇を支配し、こうした超ロマン主義に対して1865年に反ロマン主義者がその後進性を批判したコインブラ問題は、ポルトガルの後進性をめぐる文学論争に発展した。

ポーランド

ポーランドの詩人、アダム・ミツキェヴィチ

ポーランドのロマン主義(Romantyzm)は、ポーランド分割に参加したドイツの諸作家およびイギリスのバイロンの影響を強く受けた。1831年のポーランド蜂起から1863年の第2次ポーランド蜂起までが盛んな期間であった。

ポーランドロマン主義三大詩人と呼ばれるアダム・ミツキェヴィチ、ユリウシュ・スウォバツキ、ジグムント・クラシンスキや、歴史小説で知られるユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキらが活躍した。ロマン主義隆盛のあと、ポーランド文学は19世紀後半の実証主義自然主義に向かっていくことになる。

キューバ

キューバにおいてロマン主義は、スペイン植民地支配に対する抵抗の手段としての役割を果たした[11]1830年代から1840年代にかけてキューバのロマン主義文学者はドミンゴ・デル・モンテが創刊した雑誌『レビスタ・ビメストレ・クバナ』(1831 - 1834)に集結し、その中から重要な批評家が現れた。その他にもキューバのロマン主義者として、反スペイン運動に参加した叙事詩人ホセ・ハシント・ミラネスのような人物の名を挙げることができる。

アルゼンチン

エステバン・エチェベリーア

アルゼンチンにおいてロマン主義は、1829年から1852年までアルゼンチンを独裁的に支配したフアン・マヌエル・デ・ロサスとの関係の中で培われた。ロマン主義がラ・プラタ川流域に登場したのは、フランスのロマン主義に影響を受けたエステバン・エチェベリーアの『エルビア、もしくはエル・プラタの恋人』(1832年)によってであった[12]。エチェベリーアはその後『調べ』(1837年)などを著したあとに、ロサスと決定的に敵対したためにウルグアイに亡命し、亡命先でロサスの圧政から着想を得て暴力を描いた小説『エル・マタデーロ』(1840年)を著した。

エチェベリーアがそうであったように、ロサスの反対者は「1837年の世代」と呼ばれるグループを結成し、亡命先からロサスと対立したが、そのような人物の中で特に優れていたのはチリに亡命していたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントだった。サルミエントはラ・リオハ州カウディーリョ、フアン・ファクンド・キロガの生涯を描いた『ファクンド』(1845年)で、アルゼンチンにおける「野蛮」なガウチョやカウディーリョと、「文明」であるヨーロッパの文化との対立を描いている。

ロサス失脚後のロマン主義に位置づけられる作家には、『アマリア』のホセ・マルモルや、ガウチョ文学英語版の大成者であり、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる叙事詩マルティン・フィエロ英語版』(1872年)を著したホセ・エルナンデスの名が挙げられる。

ブラジル

ブラジル帝国においてロマン主義は、ゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836年)によって導入された[13]。ブラジルのロマン主義はヨーロッパの形式の模倣に過ぎなかったが[14]、扱われた主題は新たな国民国家のアイデンティティに関するものだった[14]。ヨーロッパのロマン主義において英雄と見なされたのは中世騎士だったが、中世を経験せず、騎士も存在しなかったブラジルにおいてその役割はインディオによって担わされることになり、インディアニズモと呼ばれる文学潮流が生まれた[14]。その中で目標とされたのは、「ブラジル語」の創造だった[14]。このように、ロマン主義文学者の想像上のインディオはインディアニズモの潮流の中で賞賛されたが、奴隷制に苦しむ黒人は少数の例外を除いてロマン主義文学者のテーマにはならず[15]、実際に存在するインディオに対しては無関心、または敵対的な政策がとられた。

ブラジルロマン主義の文学者としては、詩においてインディアニズモを開拓したムラートのアントニオ・ゴンサルヴェス・ディアス[16]、インディアニズモ小説の『イラセマ』と『グアラニー』でブラジルロマン主義の頂点に立ったジョゼ・デ・アレンカール[13]、『ある在郷軍曹の回想録』(1852年)で帝都リオの風俗を描き、上流階級を揶揄したマヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ[15]、ブラジルロマン主義に「笑い」をもたらし[13]『苦しめられし犠牲者たち』(1869年)で黒人に若干の偏見を持ちながらも黒人奴隷制を告発したジョアキン・マノエル・デ・マセード[15]ヴィクトル・ユーゴーの人道主義に共感し、奴隷制廃止運動に携わった詩人カストロ・アルヴェス[15]、『奴隷女、イザウーラ』(1875年)で白人女性のような黒人女性を描いたベルナルド・ギマランエス[15]などの名が挙げられる。

日本

日本では明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受け、森鷗外の『舞姫』(1890年)によってロマン主義文学が始まり、「文学界」同人の島崎藤村北村透谷らによって推進された。透谷は『内部生命論』(1893年)で「吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり」と主張した。また、写実主義に対する反動から泉鏡花観念小説が書かれ、日清戦争後の社会不安から広津柳浪悲惨小説(深刻小説)が書かれた。日本のロマン主義文学のおもな作品は、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説高野聖』(1900年)、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、高山樗牛の評論『美的生活を論ず』(1901年)などである。国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化していき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。また、夏目漱石は「浪漫」という漢字による当て字を考案した。日本におけるロマン主義は明治末期に始まり大正初期には自然主義への移行で終わったが、「ロマン主義の終焉した大正時代」の文化世相を「大正ロマン(大正浪漫)」と呼ぶ。

1935年(昭和10年)になると新しいロマン主義を模索する保田與重郎をはじめとする日本浪曼派が登場した。これは国粋主義的な思想の強いものであった。「日本浪曼派」の同人には亀井勝一郎檀一雄太宰治等がいる。




  1. ^ ROMANTICISM-Dictionary of the History of Ideas、2009-08-20閲覧。
  2. ^ Romanticism. Retrieved 30 January 2008, from Encyclopædia Britannica Online
  3. ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp.9-10。
  4. ^ 中込純次 (1982年7月29日). “ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」” (日本語). 財団法人山人会. 2006年6月16日閲覧。
  5. ^ 澁澤龍彦『小ロマン派群像』(「悪魔のいる文学史」〔中公文庫〕所収)
  6. ^ a b ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p.83。
  7. ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p.25。
  8. ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp.9-85。
  9. ^ a b c d e f g h i 岩本和子、「ベルギーにおけるロマン主義運動ー想像の「国民文化」形成ー」『国際文化学研究 : 神戸大学国際文化学部紀要』 1999年3月 11号 p.1-35, 神戸大学国際文化学部
  10. ^ 田所(1993:150)
  11. ^ ジョゼ/高見訳(1975:44)
  12. ^ ジャック・ジョゼ/高見英一、鼓直:訳『ラテンアメリカ文学史』白水社(文庫クセジュ)、1975/07 p.38
  13. ^ a b c シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.255
  14. ^ a b c d 田所清克「ナショナル・アイデンティティー構築の歴史とその構想者たち」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09
  15. ^ a b c d e 田所清克「ブラジル浪漫主義の思想と主題」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09
  16. ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.254
  17. ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p.41。


「ロマン主義」の続きの解説一覧




ロマン主義と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロマン主義」の関連用語

ロマン主義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロマン主義のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロマン主義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS