アントワーヌ・ヴィールツとは? わかりやすく解説

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アントワーヌ・ヴィールツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 10:31 UTC 版)

アントワーヌ・ヴィールツ
Antoine Wiertz
『自画像』
誕生日 1806年2月22日
出生地 ベルギー ディナン[1]
死没年 (1865-06-18) 1865年6月18日(59歳没)
死没地 ベルギー ブリュッセル
国籍 ベルギー
運動・動向 象徴主義
芸術分野 画家
代表作 麗しのロジーヌ、小説を読む女
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アントワーヌ・ヴィールツ(Antoine Wiertz, 1806年2月22日 - 1865年6月18日)は、19世紀ベルギー画家彫刻家。ベルギー象徴派の先駆的な人物。アントワーヌ・ウィールツとも。

神話などに題材を取ったルーベンス風の大画面の作品を制作する一方、死や狂気を描いた超現実的・幻想的な作品を遺した。代表作に「麗しのロジーヌ」(La Belle Rosine) など。

略歴

ディナンに生まれた。1820年にアントウェルペン王立芸術学院に入学した。オランダ王ウィレム1世から奨学金を得ることができた。1829年から1832年の間、パリに留学し、ルーブル美術館の巨匠の作品を学んだ。

1828年にフランス政府が有望な学生に贈るローマ賞で、2位となり、1832年にもローマ賞に応募し、1834年から1837年の間、在ローマ・フランス・アカデミーに留学することができた。ローマ滞在中に歴史画の大作、『パトロクロスの遺体を争うギリシャ軍とトロイア軍』を製作した。この作品は1837年にアントウェルペンで展示され高い評価を得た。ベルギー帰国後はリエージュで活動した。

ブリュッセルにベルギー政府から建ててもらった旧アトリエを利用した国立ヴィールツ美術館がある。

代表作

脚注

  1. ^ 鈴木智之「幻のワロニー : 文学雑誌『ワロニー』における地域主義的企図の生成と展開(9)」『社会志林』第60巻第2号、法政大学社会学部学会、2013年9月、21-43頁、doi:10.15002/00021159ISSN 1344-5952NAID 1200053241772021年11月24日閲覧 

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