アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > ベルギーの画家 > アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの意味・解説 

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 02:39 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1904年)

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデHenry van de Velde, 1863年4月3日 - 1957年10月25日[1])は、19世紀末から20世紀始めに活躍したベルギーの建築家。アール・ヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物。ヴァン・ド・ヴェルドやファン・デ・フェルデとも表記される。

略歴

ベルギーアントウェルペン生れ。父はパリ・コミューンに参加した革命家であり、死刑判決を受け、ベルギーに亡命していた。ヴァン・デ・ヴェルデは画家を目指してパリに渡り、印象派の絵画から影響を受けた。ベルギーに帰国し、1887年に友人らとアール・アンデパンダン(独立芸術)というサークルを結成した(1884年にパリで独立芸術家協会が創立されていた)。

1894年頃から住宅設計を始め、1895年にパリでサミュエル・ビングのギャラリー Maison de l'Art Nouveau のインテリアを担当した。その後ベルリンに渡り、さらにザクセン大公ヴィルヘルム・エルンストに招かれ、1902年ヴァイマルに工芸ゼミナールを設立、1906年、工芸学校に発展し、校舎(1911年)の設計も行った。また、ドイツ工作連盟に参加し、中心メンバーとして活躍したが、第1回ドイツ工作連盟ケルン展(1914年)をきっかけに製品の規格化を推進するヘルマン・ムテジウスに反発し、作家の芸術性・個性を主張して論争を行った(規格化論争)。

第一次世界大戦のため、工芸学校の後継者をヴァルター・グロピウス(1883年 - 1969年)に託し、ドイツを去った(1915年)。工芸学校は後のバウハウスの元になった。

スイスではロマン・ロランと交友したり、ミューラー家の依頼で美術館を設計した(現在、ゴッホのコレクションで有名なクレラー・ミュラー美術館[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ アンリ ヴァン・デ・ベルデ』 - コトバンク
  2. ^ 谷克二『ブリュッセル歴史散歩 中世から続くヨーロッパの十字路』日経BP企画、2009年、226頁。ISBN 978-4-86130-422-4

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ」の関連用語

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS