ブルーノとの画廊経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/10 13:51 UTC 版)
「パウル・カッシーラー」の記事における「ブルーノとの画廊経営」の解説
1898年、従兄弟のブルーノ・カッシーラーとともに、ベルリンのヴィクトーリア通りに画廊を開き、当時ドイツでは目新しかった印象派の絵画を扱い始めた。画廊の内部は、ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデが設計したもので、華美な装飾を避けた、進歩的な趣味のものであった。 当時、ベルリンはドイツ帝国とプロイセン王国の首都として急成長を遂げており、ドイツの現代美術市場として、ミュンヘンに取って代わろうとしていた。彼は、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンといった印象派・ポスト印象派の絵画をドイツに紹介した。また、1898年に立ち上げられたベルリン分離派を支援し、ロヴィス・コリント(英語版)、マックス・リーバーマン、レッサー・ユリィ(英語版)、エルンスト・バルラハなどの絵を取り扱った。友人のハリー・ケスラー(英語版)伯爵とともに、モダニズム絵画の美術関係者のサークルを形成し、展覧会を開催したり、絵を購入したり、モダニズムを宣伝する記事を書いたりして、ドイツの旧態依然としたアカデミズム絵画を克服しようとした。1900年には、アンブロワーズ・ヴォラールがパリで初めてのセザンヌ個展を開催してからわずか5年後に、ドイツで初めてのセザンヌ展を開催し、1901年には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊がゴッホ回顧展を行ったのと同じ年に、ドイツで初めてのゴッホ展を開催した。 パウルとブルーノは、画廊の傍ら、出版業も行い、ヴァン・デ・ヴェルデや、美術館長フーゴ・フォン・チューディ(英語版)、アルフレート・リヒトヴァルク(英語版)、ヴィルヘルム・フォン・ボーデ(英語版)などの本を出版した。
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