生涯と事績
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「マヌイル・アンゲロス・フィランソロピノス」の記事における「生涯と事績」の解説
マヌイルは父(もしくは兄)で前任者のアレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノスの後を継いでセサリアの支配者となった。しかし既にオスマン朝はバヤズィト1世の支配下にトラキア-マケドニア地方一帯の支配を確立し、ギリシア本土からペロポニソス半島へと南下しつつあった。セサリアは地理上その途上にあり、君主国の独立は風前の灯火であった。マヌイルがその短い治世に残した事績は殆ど知られていない。 1393年、バヤズィト1世は自らセサリアに遠征し、ラリサ、ドモコスなど主要都市を占領し同地を併合した。恐らくマヌイルは自発的にその支配権を放棄したものと思われる。彼の後半生について殆ど記録はなく、没年は不明である。
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生涯と事績
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「アレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノス」の記事における「生涯と事績」の解説
アレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノスはセサリアの有力者の一人であり、セルビア人君主・「皇帝」ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴスはメテオラ修道院群の一つメタモルフォシス修道院に引退するにあたって、彼にその支配権を移譲した。 アレクシオスがセサリアの支配権を掌握した翌1382年、東ローマ共治帝マヌイル2世パレオロゴスが近隣のセサロニキを中心とするマケドニア沿岸一帯に自治的な政府を樹立し、伸長著しいオスマン朝との対決姿勢を打ち出した。アレクシオスはイピロス専制公トマ・プレリュボヴィチと共にマヌイルの同盟者としてその宗主権下に入り、彼からケサルの称号を授与された。アレクシオスはセサリアにおいては半独立的な君主であったが、一方でセサロニキ市内に居所と財産を有していたことが知られており、その点では東ローマ帝国の市民、皇帝の臣下でもあった。 マヌイル帝との同盟関係は実質的な効果をほとんどもたらさなかった。マヌイル帝が孤立無援のままにセサロニキを去り、同市がオスマン朝に併合されると(1387年)、アレクシオスは転じてオスマン朝への臣従を余儀なくされる。アレクシオスはオスマン軍がピンドス山脈を越え、イピロスのアルバニア人と戦うにあたり同道し、プレリュボヴィチの後継者エザウ・ブオンデルモンティと共にアドリアノポリスのオスマン宮廷に伺候した(1389年10月)。アレクシオスのその後の足跡については断片的な情報しかないが、アドリアノポリスからの帰国後間も亡くなったものと思われる。
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生涯と事績
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「トマ・プレリュボヴィチ」の記事における「生涯と事績」の解説
父の死後、セサリア地方は東ローマ帝国から自立した専制公ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニによって掌握され、イピロスを支配していたシメオン・ウロシュ・パレオロゴスの一家と共にマケドニア地方カストリアに難を逃れる。1359年のニキフォロス2世の死後、シメオンはセサリア・イピロス両地方の掌握に乗り出した。この時同行したグルグール・プレリュブの息子トマはめざましい働きを見せ、シメオンの権力確立後、1362年にその娘マリア・アンゲリナを妻に得た。 シメオンはトリカラに宮廷を構え、「皇帝」としてセサリア・イピロス支配を開始する。しかしイピロス地方には既にアルバニア人の勢力伸長が著しく(ニキフォロス2世は彼らの制圧を試みて敗死した)、ピンドス山脈を超えて彼らを支配することは困難であった。シメオンは直接支配を諦め、アルバニア人の首長ピェタル・リョシャ(英語版)とジン・ブア・スパタに専制公の称号を与え、彼らにイピロス南部を二分(エトリア、アカルナニア)して与え、名目的支配を維持することでよしとせざるを得なかった。 ヨアニナを中心とするイピロス北部はシメオンの直接支配下に留まったものの、その権力は十分に及ばず政情は不安定であった。そこでヨアニナ市民はシメオンに、より強力な支配者の派遣を願い出る。シメオンは、当時マケドニア地方の辺境エデサ(ヴォーデン)に在った婿トマに白羽の矢を立てた。かくして1367年、トマは妻マリアと共にヨアニナ入城を果たした。 トマは富国強兵策と強権政治をヨアニナに敷いた。税の徴収は厳格化され、防備を強化するための築城・補修工事に多数の動員がなされた。治世中に何度か起きたペストの流行と人口減に対しては、ギリシア人寡婦とセルビア人男性の再婚を奨励した。無論こうした政策は領民、ことに特権を無視されがちであった貴族層・教会指導者の反発を招いた。トマはこうした動きに対し、仮借ない態度で臨む。多数の貴族が投獄あるいは追放され、その財産は没収された。市内の至る所に牢が設けられ、投獄された貴族には過酷な拷問が待っていたという。 一方、既にイピロス南部に勢力を確立したアルバニア人は北部、すなわちトマの領域への拡大を目指した。最初の侵入は1367年から1370年にかけてのエトリア専制公ピェタル・リョシャによるヨアニナ包囲戦で、トマはこれを苦心の末に防衛し、和平をなさしめた。この時、トマの娘イェリナ(ギリシア名イリニ)とリョシャの息子ジンとの結婚が取り結ばれた。 しかし1374年にピェタル・リョシャが死ぬと、隣国アカルナニアの専制公ジン・ブア・スパタが彼の遺領を襲って併合し、沿岸部の要塞を巡るトッコ家、及びその同盟者聖ヨハネ騎士団団長ファン・フェルナンデス・デ・エレディア(英語版)との戦いに勝利した。1377年9月14日、勢いに乗るスパタはヨアニナに対し新たな遠征を開始した。この戦争はリョシャによるものよりも遙かに大規模なもので、数度の和平(この時、トマの姉妹イェレナがスパタの妻となった)をはさみつつ長期化した。 スパタは巧妙かつ執拗な戦略を練り、収穫期に侵攻し、葡萄畑や農場などを荒らして補給面での苦境を強いた。更に1379年2月、トマに対するヨアニナ市民の不満を利用して、内通者による反乱を起こさせたため、一時はヨアニナの城塞地区の一部が占領されるにまで至ったが、トマ側につくヨアニナ市民防衛軍の奮起もあり、最終的にアルバニア人は撃退された。 トマによる戦後処理は過酷なものであった。彼はアルバニア人捕虜を全て殺すか、奴隷として売り払い、戦役中に内通した者を探り出しては拷問を加えて殺害した。ヨアニナ城郭に今も残る、彼が建設した塔に刻まれた「アルバニア人殺しソマス」というギリシア語銘文は、この時の報復の凄まじさを今に伝えている。 トマはうち続くアルバニア人との戦況を打開するため、当時バルカン半島に勢力を広げつつあったオスマン朝との同盟に乗り出した。1380年、彼はこの同盟によってアルバニア人に対する戦争を有利に進め、いくつかの要塞を奪った。ジン・スパタはやむなく1382年に休戦を申し出る。 同年、東ローマ共治帝マヌイル2世パレオロゴスがセサロニキに自治政府を樹立して、対オスマン戦争を開始した。軍事支援に対するオスマン側の要求が次第に増大していくことに不安を覚えたトマは、近隣諸国との同盟を求めるマヌイル2世の申し出に応じて、彼の(形式的な)臣下にして同盟者となり、その返礼として皇帝から正式に専制公の称号を授与された。この同盟関係は実質的な利益をもたらすことはなく、オスマン軍はイピロス、セサロニキ双方に攻撃を継続していく。 一方、東ローマ宮廷との結びつきは教会組織間の往来をも復活させ、ヨアニナへの府主教派遣などが行われたが、トマは間もなく府主教を追放に処してしまった。しかし、教会に対するトマの過度に厳しい姿勢は、逆に彼自身の立場を次第に危ういものにしていき、最終的には彼の命をも奪うことになった。 トマは1384年12月23日早朝、自分の護衛兵であったフランク人アントニオらによって暗殺された。彼の死を知ったアルバニア人が再び攻撃をかけてくる中、未亡人となった専制公妃マリアは兄弟である元君主の修道士ヨアサフらと協議の上、マリアの母方の家系オルシーニ家と縁戚関係にあるエザウ・ブオンデルモンティ(英語版)と再婚し、彼を専制公に任じた。エザウはアルバニア人を撃退し、事態を収拾して統治を開始した。トマの死をもってイピロスのセルビア人支配は終了し、イタリア人支配の時代へと移り変わっていく。
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生涯と事績
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「ランディ・ウェストン」の記事における「生涯と事績」の解説
ウェストンは1940年代の後半に、ブル・ムース・ジャクソン、フランク・カリー、そしてエディ・ヴィンソンのリズム・アンド・ブルース・バンドでキャリアをスタートさせた。1949年にはアート・ブレイキーと、1953年にはケニー・ドーハムと、1954年にはセシル・ペインと一緒に仕事をした。1954年から55年にかけてレコード会社「リバーサイド」に雇われた後、彼は自分のジャズコンボを結成し、最初のアルバムをドーン・レコードのレーベルで出したほか、レッスンも行なった。アフリカ文化に興味を広げ、1958年にはニューポート・ジャズ・フェスティバルに参加、1961年と1963年にナイジェリアを、1967年には西アフリカと北アフリカを訪問した。1968年にモロッコへ移り住み、1972年から73年にかけてチャールズ・ミンガスの公演に客演するため米国に行ったほかは、ヨーロッパで暮らした。1980年代半ばから彼は再びモロッコに移り、1990年代の始めに米国へ帰ってきた。 「Hi-Fly」や「Little Niles」などウェストンが作曲した曲のいくつかは、早くも1950年代のスタンダードになった。彼はアフリカ系アメリカ人音楽家の中で、アフリカの打楽器だけでなく、彼のレコード「Uhuru Africa」 (1960年、共演者はクラーク・テリー、スライド・ハンプトン、ユセフ・ラティーフ、アルマンド・ペラーサそしてババトゥンデ・オラトゥンジ) に見られるようにアフリカの (反植民地主義の) スワヒリ語の吟唱を取り入れ、また「Highlife」 (1963年、ブッカー・アーヴィンと共演) のようにアフリカのポップミュージックを作品に取り入れた最初の一人である。後のアルバム「The Spirit of Our Ancestors」 (1991年、ディジー・ガレスピー、ファラオ・サンダースと共演) には、モロッコのグナワ人との交友を反映した音楽が入っている。ウェストンは30年以上にわたり、編曲者メルバ・リストンと一緒に仕事をした。彼の息子である打楽器奏者アゼディン・ウェストンは、彼の作品のいくつかに貢献している。 2001年に彼は米国芸術基金 (NEA) からNEAジャズマスターズ賞を受賞し、2014年にはドリス・デューク慈善財団からドリス・デューク芸術家賞として27万5千ドルを受賞した。 2016年以降、膨大な原稿、楽譜、録音、写真、そして広範な書簡を含むランディ・ウェストンのアーカイヴが、米国のハーバード大学図書館に所蔵されている。 ウェストンは2018年9月1日朝、ブルックリンの自宅で92歳の生涯を閉じた。
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生涯と事績
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「チェントゥリオーネ2世アサン・ザッカリア」の記事における「生涯と事績」の解説
1402年、サン・スペランが没した時、妻マリアが幼少の息子の摂政としてアカイア公国の支配権を引き継いだ。しかしチェントゥリオーネ2世はこの政権が脆弱な事を見て取り、伯母と従兄弟を追放して自ら支配権を奪い取った(1404年)。当時、ヴェネツィア共和国は海上支配の新たな拠点を求め、ペロポニソス半島北岸の要塞都市の占拠を企てたが、チェントゥリオーネはこれを退けて支配権の確立に成功した。彼が支配権を掌握した当時のアカイア公国は、ペロポニソス半島北部アハイア地方とイリア(エリス)地方、及び南西部のメシニア地方を領有していたが、内部抗争が絶えず不安定な状況にあり、かつ外には2つの敵を抱えていた。1つは急速に勢力を拡大しつつあったモレアス専制公領のギリシア人であり、もう1つは同胞とも言うべきイタリア人のイピロス専制公カルロ1世トッコであった。そしてこれらの敵に対し、チェントゥリオーネは明確な劣勢を強いられていくことになる。 1406年夏頃から、カルロ1世の弟レオナルド2世はアカイア公国の港湾都市グラレンヅァに対する襲撃を開始し、1407年8月から1408年2月の約半年間にわたって占領した。カルロ・レオナルド兄弟はヴェネツィア市民権を持ち、またチェントゥリオーネもジェノヴァ人ながらヴェネツィア市民権を得ていた。このためヴェネツィアは市民権保有者同士の抗争を憂慮し、仲介に乗り出した。その結果グラレンヅァはチェントゥリオーネ公に返還されたが、トッコ家勢力がペロポニソスに対し明確な野心を持ち、かつそれを実現する能力のあることが明白に示された。 チェントゥリオーネ2世はこの劣勢を挽回すべく、カルロと対立関係にあったイピロス南部のアルバニア人君主ムリキ・スパタとの同盟に乗り出す。1412年、チェントゥリオーネはスパタらアルバニア人の陸戦を支援すべく艦隊をイオニア諸島周辺に送り込み、レフカス島を海上封鎖した。しかし同島はカルロの妻フランチェスカ・アチャイウォリによって防衛され、ヴェネツィアの後方支援を受けたトッコ家の艦隊によってチェントゥリオーネの艦隊は敢えなく撃退されてしまい、和平を余儀なくされた(1414年12月12日)。チェントゥリオーネとアルバニア人の同盟関係は、彼自身には大きな成果をもたらすことなく終焉に至った。 1417年、モレアス専制公セオドロス2世パレオロゴスは兄の東ローマ皇帝ヨアニス8世パレオロゴスと共にアカイア公国に対する遠征を開始した。戦局はギリシア人の優勢が続き、半島南西部、カラマタ他メシニア地方はこの頃完全にモレアス専制公領の支配権に入った。チェントゥリオーネはこの攻勢に対抗するため、南イタリア・プーリャにてレッチェ出身の傭兵隊長オリヴェリオ・フランコを雇い入れた。しかし間もなくフランコは公に背き、その不在を衝いてグラレンヅァを自らのものにした(1418年)。この時チェントゥリオーネの妻、娘の一人(個人名は不明)、及び弟ベネデット・ザッカリアらが捕らえられ、娘は間もなくフランコの妻となった。チェントゥリオーネは急遽帰国し、それまでの敵セオドロス2世と和解・同盟してグラレンヅァ奪回へと軍を差し向けた。陸海からの包囲が行われたものの奪回作戦は不成功に終わった。カルロ・トッコは彼の失敗を好機と見て、再度グラレンヅァに向けて遠征を敢行し、陸海両面からの包囲によってフランコに対して開城と市の売却に応じさせた(1422年7月22日)。勢いに乗るカルロはペロポニソス半島に軍団を送り込んだ。カルロの庶子エルコーレとメヌーノはイリア地方を転戦してこの地域を征服した。トッコ家の素早い軍事行動にチェントゥリオーネは為す術もなかった。 チェントゥリオーネ2世の薄氷を踏むようなアカイア支配は1428年、コンスタンディノス・パレオロゴス専制公が協同統治者としてモレアス専制公領に赴任してきた時に大きく変転した。新専制公は積極的な発展政策を採り、1429年3月には北部最大の都市パトラへの包囲作戦を開始した。これと連動し、コンスタンディノスの弟ソマス・パレオロゴスは兄の作戦を側面から支援する目的でアカイア公国領への作戦行動を開始した。チェントゥリオーネ2世は打ち破られて居城ハランドリヅァへ追いつめられた。チェントゥリオーネとセオドロス2世・コンスタンディノスの協議が行われた結果、チェントゥリオーネの娘カテリーナとソマスの結婚、後者への嫁資としてのアカイア公国領全土の割譲が取り決められた。ただ南西岸のアルカディア(キパリシア)城のみがアカイア公の居城として残された。結婚は1430年1月にミストラスで執り行われ、領土の割譲も実行された。その2年後(1432年)、チェントゥリオーネ2世はアルカディア城にて死去し、ソマスは速やかに軍を派遣して同城を接収した。アカイア公の未亡人と庶子は投獄され、ここにアカイア公国は1204年のフランス人による建国以来、約230年にわたる歴史を終えることとなった。
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生涯と事績
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「ズオン・クアン・ハム」の記事における「生涯と事績」の解説
ズオン・クアン・ハムは1898年7月14日に、フンイエン省ヴァンザン県メーソー社のフーティ村の儒教知識人の家に生まれた。父方の祖父ズオン・ズイ・タイン(Dương Duy Thanh / 楊維清、1804-1861)は河内督学を勤めた。父のズオン・チョン・フォー(Dương Trọng Phổ / 楊仲普)、長兄でハノイにおける改革派学校の嚆矢であるトンキン義塾創設者の一人ズオン・バー・チャック(Dương Bá Trạc)、弟のズオン・トゥ・クアン(Dương Tụ Quán)などいずれも当時名の知れた名士であった。 幼いときから漢字を学び、ハノイに出てからはクオック・グーを学んだ。1920年、インドシナ師範専門学校(仏: l'École supérieure de pédagogie de l'Indochine)を首席で卒業した。1920-46年、ハノイのブオイ高校(植民地政庁の高校で、チュー・ヴァン・アン高校の前身)の教員を務めた。1945年の8月革命後、中等教育監察官となり、次いでブオイ高校の校長となった。 20年あまりの間、学校での教育のかたわら、越仏語での初等・中等教育用文学・歴史学の教科書執筆などを精力的に行った。『ベトナム文学史要』(1941年)と『ベトナム詩文合選』(Việt Nam thi văn hợp tuyển、1942年)の2冊はとりわけその水準の高さを評価されている。 『ベトナム文学史要』は、ベトナム共和国教育部が第8学年(今の10年生)の教科書として長年使用してきた。 このほか、以下のような著作がある: Lectures littéraires sur L'Indochine (Pujarnicleと共編) Quốc văn trích diễm (1925) Tập bài thi bằng sơ học yếu lược (1927, ズオン・トゥ・クアンと共編), Những bài lịch sử Việt Nam (1927) Văn học Việt Nam (1939) Việt văn giáo khoa thư (1940) Lý Văn Phức - tiểu sử và văn chương (1945年頃成書) このほか、『南風雑誌』『ヒュータイン』『チータン』といった雑誌・新聞、さらにはフランス人による新聞・雑誌でベトナム語・フランス語の両方で多くの文章を発表している。 1946年12月(日時は不明)、全国抗戦の初期のハノイにて死去した。48歳没。
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生涯と事績
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「アフロディシアスのアレクサンドロス」の記事における「生涯と事績」の解説
アレクサンドロスはカリアのアフロディシアス出身で、2世紀終わりごろにアテナイに移住した。彼は二人のストア派の教師とおそらく一人の逍遥学派の教師、つまり哲学者ソシゲネス、ヘルミノス、そしておそらくミュティレネのアリストテレスの弟子となった。アテナイにおいて彼は逍遥学派の学頭となり、逍遥学派の哲学を教えた。アレクサンドロスがセプティミウス・セウェルス帝およびカラカラ帝に著書『運命について』を自らのアテナイにおける地位に対する謝意とともに献じたのは198年から209年の間であると考えられている。近年公刊されたアフロディシアスの碑文により、彼がアテナイに存在する学派の学頭であったことが確実となり、彼の全名が「ティトス・アウレリオス・アレクサンドロス」であることもわかった。彼の全名から、おそらく彼の祖父かあるいは別の先祖がアシア属州総督時代のアントニウス・ピウスによってローマ市民権を与えられたのだと考えられている。碑文では彼自身と同じくアレクサンドロスという名前で哲学者であった彼の父が讃えられている。さらにこのことから、彼の著作のうちいくつかは彼の父に帰されるのではないかという疑いがもっともらしいものとなっている。
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