因果応報
「因果応報」とは、「よい行いをすれば幸せが訪れるし、悪い行いをすれば災いが降り掛かる」というような「行動の善悪に対応する結果が自分に返ってくること」を意味する表現である。
「因果応報」は「因果」と「応報」の2語からなり、「因果」と「応報」はどちらも「原因に応じたそれなりの結果が生じる」という意味の言葉である。「善行や悪行」が「吉凶・禍福・利益や苦役」に直結するという考え方を示している。
「因果応報」は元々は仏教の用語であり考え方である。仏教における「因果応報」は、自身の「過去の行い」だけでなく「前世の行い」の結果も我が身に返ってくると説く。
「因果応報」は、本来は「善行の結果(幸福)」と「悪行の結果(災難)」のどちらを指す意味でも使える表現であるが、今日ではもっぱら後者の「悪い事をすればその分だけ災難が自分に降りかかる」というネガティブな意味で用いられている。「ざまを見ろ」「それ見たことか」というような罵りのニュアンスを込めて用いられる場合も少なくない。
「因果応報」の類語・言い換え表現
「因果応報」の類語・類似表現・言い換え表現としては、「善因善果」「悪因悪果」「自業自得」「自業自縛」などが挙げられる。いずれも「因果応報」と同じく仏教に由来する言葉である。「善因善果」は「よい行いをすれば良い結果となって自分に返ってくる」ということである。同じく「悪因悪果」は「悪い行いをすれば悪い結果が自分に返ってくる」ということである。要するにこれらは「因果応報」が含むポジティブな側面とネガティブな側面を個別に切り出した表現である。
「自業自得」は「自分の行ったこと(=業)の報いを自分が受ける」という意味の言葉であり、ほぼ「因果応報」と同じ趣旨である。とりわけ「過去の悪業が自らの災難や困難を招く」「この苦境は自ら招いたものだ」というネガティブな意味で用いられることが多い。
「自縄自縛」は、「自分の過去の言動が影響して身動きが取りにくい立場に陥る」「過去の行いのせいで自ら苦境に立たされる」という意味の言葉である。因果応報(悪事をはたらいて災難を招く)とは趣旨が異なるが、「自分の過去の行いが相応の結果をもたらす」という意味においては共通した含蓄を持つ表現といえる。そして「自縄自縛」もネガティブな意味で用いられる。
その他、「身から出た錆」「悪事身に返る」「自分で蒔いた種」といったことわざや慣用句も、「因果応報(のネガティブな用法)」と同じ意味で使える。
「因果応報」の用法・用例・使い方
因果応報
「因果応報」とは・「因果応報」の意味
「因果応報」とは、人の行いの善悪に応じて報いがあることを意味する四字熟語で、類語の「自業自得」や、スピリチュアルで使われる「カルマ」などと類似した仏教の教えに基づく言葉である。「因果応報」は「いんがおうほう」と読み、「因果」と「応報」の2つの熟語が組み合わさったものである。「因果」とは、仏教における自己の存在にかかわる原因と結果のことを示す。「因果」には、すべての行為は後の運命を決定するという意味があり、前世の悪い行いの報いとして今の不幸があることも表している。すなわち、どんな結果にも必ず原因があり、原因なしで起こる結果は1つもないということを表現し、原因がないと思われる事柄は、原因がわからないだけであるという考えにもつながる。また、「応報」は、行為に対して受ける報いや果報のことを表し、善悪に見合ったことが起こっていくさまを示している仏語である。つまり、「応報」とは原因に応じた結果が現れる状況のことを表していて、それが必然であるということを強調する言葉である。
「因果応報」は、苦しいことやよくない出来事は自分自身の過去の悪い行いによるものであるという意味のネガティブなイメージがあり、一般的には悪い結果に対して用いられることが多い。しかし、本来は悪いことだけに限定された言葉ではなく、善いことも悪いことも自分が受ける結果のすべては自分自身に原因があるということを意味している。そのため、「因果応報」はバチが当たった、痛い目に遭ったというようなマイナスの意味でも、努力が報われたというニュアンスのプラスの意味でも、あらゆるシーンで用いることが可能である。
仏教の中で「因果応報」を説いた釈迦は、自分たちの幸福であったり不幸になるという運命を決めるのは自身の行いであると説き、善い運命も悪い運命も全てが行いに応じて現れていることをくり返し教えている。そのことによって、むやみに人を恨んだり憎んだりすることなく、善い行いを重ねる前向きな生き方につながることを指南しているのである。
類語の「自業自得(じごうじとく)」も、自分で行ったことの報いは自分で受けるという意味を持つ四字熟語で、「因果応報」と非常に似通っている。本来は「因果応報」と同じく、自分の行いが自分の運命を生み出していくという仏教の教えであり、悪い行為に限定される言葉ではない。しかし「自業自得」は悪い行いをしたら悪い報いを受けるのは当然のことであるというニュアンスがとても強く、世間一般では、「因果応報」よりもさらにネガティブなイメージが強い。自己責任を問われたり、反省するような場面で用いられる言葉として浸透しているため、善い行いやおめでたい結果に対して使うことは避けるよう、注意が必要である。
釈迦の教えには、はっきりと善い行いと悪い行いについて区別する言葉もある。善い行いが幸せな運命を生み出すことは「善因善果(ぜんいんぜんか)」、悪い行いが不幸や災難を引き起こすことは「悪因悪果(あくいんあっか)」という言葉で教えている。「因果応報」や「自業自得」と異なり、善悪が明確である言葉のため、「因果応報」を使う場面で確実に誤解を生じることがないようにするためには、シチュエーションに応じて「善因善果」や「悪因悪化」に置き換えて伝える方法もある。
一方、「カルマ」も仏教の教えに基づく言葉であるが、日本語では「業(ごう)」と訳される。仏教における「カルマ」の語源は、サンスクリット語の「karman(カルマ)」であり、人間の行為を指す。「カルマ」の言葉全体が持つ意味合いは、「因果応報」の思想とよく似ていて、現在の行為や行動が未来に役割を持つとともに影響を与えるというものである。スピリチュアルの世界でも「カルマ」という言葉がよく使われていて、前世での思考や行いを記憶している魂が現世での人格や行動を生成して、さらに来世へと引き継がれていくものであることを表している。
そのほかにも「因果応報」の類義語として、来世で次の命へと生まれ変わってもそれまでの行いの善悪に応じて報いを受け続けるという「輪廻応報(りんねおうほう)」、過去と現在と未来の3世にわたり因果の法則が支配していることを表す「三世因果(さんぜいんが)」、さまざまな事柄は全て原因と結果で成り立っていることを示す「因果因縁(いんがいんねん)」などがある。いずれも「因果応報」と同じく、仏教の教えが由来となっている仏教用語である。
不特定多数の人たちがやりとりをする知恵袋のような掲示板でも、「因果応報」にまつわる質問や具体例が頻繁に見受けられる。そのことから、日常生活や人生を送る中で、多くの人たちが「因果応報」という概念を身近に感じながら生きていることがわかる。また、「因果応報」などの仏教の教えがもとになっている四字熟語は、他人にエピソードを伝える時に「つまりこういうことである」というまとめの言葉としてよく用いられる。「因果応報」は、人に対する教訓につなげたい具体例などのまとめで用いると、説得力もありわかりやすい。
「因果応報」の熟語・言い回し
「因果応報は必ずある」とは
「因果応報は必ずある」とは、釈迦の教えとして知られているフレーズである。スピリチュアルの世界でも「因果応報は必ずある」という思想が基本であり、「因果応報」を信じることで幸せになれると考えられていて、逆に「因果応報」からうまく逃れて生きることはできないとされている。これは、スピリチュアルの根幹となっている「引き寄せの法則」にも通じるものであり、前世または今現在の思考が未来を創造しているため、自分が今行っていることは例外なく自分の身や近しい人のもとに必ず返ってくるということを意味している。
一般の人たちの意見は「因果応報は必ずある」というものだけではなく、「因果応報はあるとは限らない」と考える人も多くいる。「因果応報が必ずある」と考える人は、これまでの経験や行いと自分の今を照らし合わせて思い当たることがあると、「因果応報」を信じるようになる。一方で、「因果応報はない」と考える人は、自分に起こるできごとについて確率や統計などの数学的な捉え方をしたり、偶然のできごとであると受けて止めがちな傾向がある。
「因果応報」の使い方・例文
・あの人はいつも威張り散らしてばかりでやるべきことをやらないから、ピンチの時に助けてくれる人がいなくても因果応報だ・彼は昔から悪いことばかりしてきたから、今回の不幸な出来事は因果応報であろう
・因果応報だといって責めてばかりいないで、きちんと原因をみつけて改善していくことを考えよう
・これまでさんざん悪い行いをしてきたので、今起きていることは全て因果応報だと諦めている
・友達にいじわるばかりしていたら、先生に呼び出されて1時間以上怒られたらしい。因果応報だね
・悪人が無残な最期を迎えても、因果応報であるから同情することはできない
・因果応報は必ずあると信じて真面目に努力を続けていれば、いつかきっとよい結果に結びつくだろう
・入社以来誠意を持って仕事に取り組んだことで、彼が20代で管理職に抜擢されたのは因果応報でしょう
・シェフがコツコツと腕を磨いておいしい料理を出し、丁寧な接客を心がけているから、不景気でもあの店が繁盛しているのは因果応報だ
・彼女はいつもまわりの人を気遣っているので、彼女の立場が危うくなった時にはたくさんの人がサポートしてくれた。これも因果応報であると言えるだろう
いんが‐おうほう〔イングワ‐〕【因果応報】
因果応報
因果応報
因果応報
因果応報
因果応報
因果応報
因果
(因果應報 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 01:29 UTC 版)
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因果(いんが)は、原因と結果を意味する用語[2]。仏教用語として用いられる場合は業(カルマ)論と関連せしめられて自己の境遇に関する因果関係として語られる[3]。時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。 因果は 転じて原因と結果のことを指すようになった。
ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、AをBの原因といい、BをAの結果という。このとき、AとBの間には因果関係があるという。
また果報(かほう)とは、過去の行為を原因として、現在に結果として受ける報いのこと[4]。因に対する果、業に対する報に由来する[4]。
ヴェーダやバラモン教における説明
因中有果(いんちゅううか)
正統バラモン教の一派[要説明]に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。
仏教における説明
仏教における因果(いんが, hetu-phala)は、因縁(梵, 巴: hetu-pratyaya[5])と果報 (Vipāka)による熟語。仏教では、一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ、「無因論」「神による創造」などは否定される[6]。
また、「原因に縁って結果が起きる」という法則を縁起と呼ぶ。縁起の解釈は流派によって異なり、「縁起説」とも呼ばれている。善因には善果、悪因には悪果が訪れるという業の因果の法則が説かれている。
仏教において因果は次のように説かれる。
因は善あるいは不善(悪)であり、果は楽であれ苦であれ無覆無記となることについて、因から果が異なって熟することを異熟果と呼ぶ。因果を否定する見解を、釈迦は邪見だと断じている[9]
単純に「善因楽果・悪因苦果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、因と果は、数えきれないほどの過去における生を想定する概念であるために、その機序は複雑であり、今生の因が今生で果となるとは限らない。また、「良いことをすれば思い通りのことが起きる」という独自な教えを説く団体もあるが、厳密には正確な解釈ではない。
過去現在因果経

『過去現在因果経』は、5世紀に求那跋陀羅(ぐなばつだら)によって漢訳された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行(本生譚、ジャータカ)と現世での事跡(仏伝)を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。
六因五果論
阿毘達磨倶舎論では、以下の六因五果論が提出された。
- 六因 - 能作因, 倶有因, 同類因, 相応因, 遍行因, 異熟因
- 五果 - 増上果, 士用果, 等流果, 異熟果, 離繫果
因果応報
Yādisaṃ vapate bījaṃ tādisaṃ harate phalaṃ, Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ pāpakārī ca pāpakaṃ,
人が持ち去る作物は自分が蒔いた種によるものです。
そのように善行為をした人は善果を、悪行為をした人は悪果を得るのです[10]。
まだ悪果が熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。
しかし悪果が熟したときは、悪人は災いに遭う。
一切が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、因果応報と呼ぶ。
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。
もともとインドにおいては、沙門[11]やバラモン教などさまざまな考え方において広く、業と輪廻という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。
仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻しているとする。
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。
修行によって悟ることができない人の場合は、(現世で悟りに至らなくても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。
因果応報の受容
インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。
中国ではもともと『易経』などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報と輪廻をめぐる論争(神滅・不滅論争)が起きたという。
とはいうものの、因果応報はやがて、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。
日本では、平安時代に『日本霊異記』で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され「悪行は必ず神仏に裁かれる」という意味で使われることが多い。ただ、『日本霊異記』においての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現在世というただ一世での因果を強調しているという事実も見逃すことはできない。
脚注・出典
- ^ 丸山 2007, pp. 189–192.
- ^ 三枝充悳、日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。『因果』 - コトバンク
- ^ 世界大百科事典 第2版、平凡社。『因果』 - コトバンク
- ^ a b 『岩波 仏教辞典』(2版)岩波書店、2002年、「果報」。ISBN 978-4000802055。
- ^ Hetu: 21 definitions - WISDOM LIBRARY
- ^ スマナサーラ 2012, No.全1930中 807 / 42%.
- ^ SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2018版 (SAT 2018), 東京大学大学院人文社会系研究科, (2018), Vol.23, No.1442
- ^ a b スマナサーラ 2014, No.91/359.
- ^ パーリ仏典, 中部大四十経, Sri Lanka Tripitaka Project
- ^ スマナサーラ 2014, 7%.
- ^ 【概要】遊行と僧院の建設とサンガの形成 (森 章司) - 「中央学術研究所紀要」モノグラフ篇 No.14
関連文献
- 丸山勇『ブッダの旅』岩波書店〈岩波新書〉、2007年4月20日。 ISBN 978-4004310723。
- 神塚, 淑子「霊宝経と初期江南仏教--因果応報思想を中心に」『東方宗教』第91号、日本道教学会、1998年5月、1-21頁、 NAID 40002637326。
- 西本, 陽一「上座仏教における積徳と功徳の転送:北タイ「旧暦12月満月日」の儀礼」『金沢大学文学部論集. 行動科学・哲学篇』第27巻、金沢大学文学部、2007年3月25日、81-98頁、 ISSN 1342-4262、 NAID 110006311674。
- アルボムッレ・スマナサーラ『無我の見方』(kindle)サンガ、2012年。 ISBN 978-4905425069。
- アルボムッレ・スマナサーラ『Power up Your Life 力強く生きるためにブッダが説いたカルマの法則』(Kindle)サンガ、2014年。 ISBN 978-4904507230。
関連項目
因果応報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 00:09 UTC 版)
一切が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、因果応報と呼ぶ。 「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。 もともとインドにおいては、沙門宗教やバラモン教などさまざまな考え方において広く、業と輪廻という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。 仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻しているとする。 仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。 修行によって悟ることができない人の場合は、(現世で悟りに至らなくても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。
※この「因果応報」の解説は、「因果」の解説の一部です。
「因果応報」を含む「因果」の記事については、「因果」の概要を参照ください。
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