昭和天皇 生涯

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 06:08 UTC 版)

生涯

幼少時代

旭日旗を持つ迪宮裕仁親王(1902年頃、満1歳)

1901年明治34年)4月29日午後10時10分、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と同妃節子(のちの貞明皇后)の第一男子(親王)として誕生した[7]身長は168(約51センチメートル)、体重800(3,000グラム)であった。明治天皇の初孫(内孫)であり、皇室典範の規定による「皇孫」の誕生であった[8]

御七夜の5月5日、称号を「迪宮みちのみや」、名を「裕仁ひろひと」と命名された[9][注釈 6]

同日には、宮中賢所皇霊殿神殿において「御命名祭典」が[11]、続いて豊明殿にて祝宴が催され、出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている[12][注釈 13]

生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官川村純義海軍中将伯爵)邸に預けられた[13]。御乳人として矢崎しげ、増田たまの両女が奉仕申し上げた[14]1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(のちの秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した[15]

1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長の乃木希典陸軍大将に教育された。また、幼少時の養育係は清水しげ子と足立たか(当時、のち鈴木貫太郎夫人)が奉仕し、御遊戯のお相手として山階宮芳麿王殿下、千田貞清(千田男爵令孫)、久松貞謙(久松定詮伯爵令息)、稲葉直通(稲葉順通子爵令息)らが選ばれた[16]

皇太子時代

20歳の皇太子(動画)

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる[8]大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日皇族身位令第17条の規定により満11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった[17]。また、同日付で大勲位菊花大綬章を受章した[17]

1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。東宮御学問所では、杉浦重剛(倫理)、白鳥庫吉(歴史)、石井国次山崎直方(地理)、飯島忠夫(国漢)、和田猪三郎・服部広太郎(理科)、吉江琢児(数学)、澤田節蔵・土屋正直・山本信次郎仏語)、壬生基義馬術)ら、学者や軍人・官僚らが教育にあたった[18]。また、学習院時代からの学友5名が出仕して共に学んだ[18]

1914年(大正3年)10月31日、満14歳で陸海軍中尉に昇任した[19]1916年(大正5年)10月31日には満15歳で陸海軍大尉に昇任した[20]。さらに、同年11月3日に宮中賢所立太子礼を行い、正式に皇太子となった[21]

1918年(大正7年)1月久邇宮邦彦王の第一女子・良子女王皇太子妃に内定。ただし裕仁親王が自身の婚約を知ったのは翌年であり、翌々年になって儀礼的に面会したのみで、婚姻以前に良子女王と親しく会う機会は無かった[22]

1919年(大正8年)4月29日に満18歳となる。当初は誕生日に成年式が執り行われる予定であった[23]が「都合により」延期された[24][注釈 14]5月7日に成年式が執り行われ[25]、翌5月8日に大正天皇・貞明皇后主催の饗宴が催された[26]。また、帝国議会貴族院皇族議員となり、践祚まで約7年8か月間在任した[27]

1920年(大正9年)10月に満19歳で陸海軍少佐に昇任した[28]1921年(大正10年)2月10日、良子女王との婚約に変更無しと公表され、婚約を巡る騒動は決着した(宮中某重大事件)。同年2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化のなかで、同年3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランスベルギーオランダイタリアの欧州5か国を歴訪した(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。また往路で、沖縄に立ち寄ったのが、生涯唯一の同地訪問となった。英国訪問中の5月9日イギリス国王ジョージ5世から「バス勲章」「ロイヤル・ヴィクトリア勲章」を授与され、「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された[29]

摂政時代

原敬暗殺事件に続き高橋是清内閣総理大臣(兼大蔵大臣)が組閣した1921年(大正10年)11月、皇太子は陸軍特別大演習の統監を代行した[30]。直後の11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、満20歳(数え年21歳)で摂政に就任し[31]、以降は摂政宮せっしょうみやと称された。旧皇室典範下で、天皇に代わって大権を行使する皇族摂政に就任したのは、裕仁親王のみである。

当時は戦後処理の時期にあたり、1921年には太平洋に関する四国条約1922年には支那に関する九国条約山東懸案解決に関する条約ワシントン海軍軍縮条約、日波通商航海条約に調印し[注釈 15]、台湾事業公債、関東州事業公債を創設した[注釈 16]1923年(大正12年)4月には、戦艦「金剛」で台湾を視察する(台湾行啓)。

しかし、この頃若き摂政宮はビリヤードにはまっており、1922年(大正11年)11月23日の摂政就任後初の新嘗祭は松山にいたこともあり欠席した。この時、摂政宮は久松定謨の別邸でビリヤードをしていたという[33]

1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した[34]12月27日虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。

1924年(大正13年)1月7日、婚姻に先立って東宮職女官官制が制定され、大幅な規模縮小と習慣(源氏名御所言葉等)が廃され、裕仁親王自身の主体的な意思により一夫一妻制の基盤が築かれた[35][36]。同年1月26日、良子女王と結婚した[37]。儀式は史上初の神道形式だった両親と同様の形式で執り行われた[35]。また、裕仁親王は結婚を機に口ひげを生やすようになった[38]。夫妻は2月24日に結婚式中「神宮ニ謁スルノ儀」として伊勢の神宮を参拝した[39]。さらに二人は新婚の夏を福島県耶麻郡猪苗代町高松宮翁島別邸(現天鏡閣)で仲睦まじく過ごした[40]。西洋式の若い皇太子夫妻の姿は、文部省主導の生活改善運動を背景に、人々の憧れとなった[41]

1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で、高松宮宣仁親王朝融王を伴い、当時は南半分が日本領だった樺太を視察した(樺太行啓)。9月に赤坂離宮内に「生物学御研究所」が設立され、学問所時代から服部広太郎に師事して本格的な研究を行い、ライフワークとなった[42]10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一皇女・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。

即位

1926年(大正15年)12月11日には日帰りで、そして13日からは泊りがけで、皇太子夫妻は葉山御用邸に行啓し、重篤となった大正天皇を見舞った[43]。そして12月25日午前1時25分、大正天皇が崩御した。

同日午前3時15分、掌典長賢所で祭典(儀式)を行うとともに皇霊殿と神殿に奉告を行い、また同時刻に葉山御用邸で新天皇である第124代昭和天皇の「劔璽渡御ノ儀」が執り行われた[44]。同日「昭和しょうわ」と改元する詔書を渙発する[45][注釈 17]。12月27日に東京へ還御し[46]、28日に「践祚後朝見ノ儀」が執り行われた[47]

なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日継宮明仁親王の誕生まで続いた。

1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う[注釈 18]。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)1月17日、即位の礼と大嘗祭の期日が告示された[48]。同年3月8日、第二皇女の久宮祐子内親王が薨去。9月14日、赤坂離宮から宮城内へ、皇后と共に遷御(転居)した[49]

天皇・皇后は、同年11月6日午前7時に宮城を発ち、鉄道で名古屋へ移動し同地に一泊した後、翌11月7日午後3時20分に京都皇宮へ到着した[50]。そして、予定通り11月10日京都御所即位礼「紫宸殿ノ儀」を挙行[51]。11月14日午後4時25分、天皇・皇后は京都皇宮を発ち、大嘗宮[注釈 19]頓宮に到着。14日から翌15日にかけ大嘗宮で「大嘗宮ノ儀」(大嘗祭)を挙行した後、15日午前3時52分に頓宮を発って京都皇宮へ還御した[52]。その後即位礼に関連する儀式として、同月21日に伊勢の神宮を[53]、23日に神武天皇陵を[54]、24日に仁孝天皇孝明天皇陵を[55]、25日に明治天皇陵を[56]それぞれ親謁した。26日に京都を発って名古屋で一泊した後、27日に東京に還御した[57]

1929年(昭和4年)4月26日、即位後初となる靖国神社の親拝[58]。同年9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。

1931年(昭和6年)3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。

1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇、現・上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。

1935年(昭和10年)4月、日本を公式訪問する満洲国皇帝愛新覚羅溥儀朝最後の皇帝)を歓待した。4月6日東京駅に到着した溥儀を自ら出迎えた[59]赤坂離宮を溥儀の宿泊先とし、秩父宮と馬車に同乗させて宮城に招き入れ、鳳凰の間で天皇・皇后と会談した[59]。昭和天皇は、溥儀を宮殿の車寄せで出迎えて案内し、帰りも車寄せで見送った[59]。同日夜は、天皇・皇后と皇族・王公族らと会食を行った[59]。4月14日夜に再び別れの会食を催し、翌4月15日に溥儀は東京駅を発った[60]。同年11月28日、第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。

日中戦争と第二次世界大戦

昭和天皇御前の大本営会議の様子
(1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)

1937年(昭和12年)11月30日、支那事変の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、第1回御前会議で『支那事変処理根本方針』を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。

1939年(昭和14年)には、ナチス・ドイツポーランド侵攻によりヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。

満洲国皇帝溥儀が、1940年(昭和15年)6月26日から7月2日まで来日した際も、5年前同様に天皇自ら東京駅に出迎え[61]、会食を複数回行っている[61][62]。一方、同年5月にはナチスドイツはフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに対する電撃戦を決行してこれら諸国を占領。さらに7月からは英独航空戦を開始した。英国がドイツの本土上陸危機を凌いだ直後の9月27日、日独伊三国同盟の締結により、日本は西欧諸国や米国との対立を深めることとなった(ABCD包囲網)。

1941年(昭和16年)9月6日、第6回御前会議の冒頭で、祖父帝明治天皇御製和歌)を引用したが、太平洋戦争開戦に至る決定を覆すことはできなかった(後述)。同年12月1日に第8回御前会議で対米英開戦を決定。同年12月8日マレー作戦真珠湾攻撃が行われた後に、自身の名で宣戦の詔書を渙発することとなった[63]。ここに大東亜戦争(当時の閣議決定による呼称、現在の太平洋戦争と日中戦争の総称)に突入した。

1942年(昭和17年)12月11日に東京を出御し、伊勢神宮へ必勝祈願で行幸後、13日に還御した[64]

1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に第10回御前会議において『大東亜政略指導大綱』を決定する。

1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲により、一夜で約10万人の死者を出すほど東京の下町地域は甚大な被害を受ける。皮肉にもこの日、長女の盛厚王妃成子内親王が第1子の信彦王を防空壕で出産し、昭和天皇にとっての初孫が誕生した。その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内へ行幸し、罹災状況を視察した[65]。同年5月25日の空襲(山の手大空襲)では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。6月23日沖縄戦組織的戦闘終結、8月6日広島市への原子爆弾投下8月8日ソ連対日参戦8月9日長崎市への原子爆弾投下を経て連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の第14回御前会議では、重臣の賛否が同数で割れる中で、いわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の第15回御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、自身の名で『終戦の詔書』を渙発した[66]日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、翌8月15日ラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。日本史上初めて、天皇の肉声が一般国民に伝えられた。この14から15日にかけての間、放送用に録音されたレコード(玉音盤)奪取を図って、受諾反対派の将校らによるクーデター未遂事件が発生した(宮城事件)。

昭和天皇は9月27日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した(昭和天皇・マッカーサー会見)。11月12日に東京都を出御し、伊勢の神宮並びに神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)に親拝して終戦を奉告した後、同月15日に還御した[67]。同月17日には、同様に父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝した[68]

「象徴天皇」として

1956年(昭和31年)11月、国家元首国賓としては戦後初となるエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世を迎えての宮中晩餐会にのぞむ昭和天皇と香淳皇后
1975年10月、訪米時、米軍の儀仗礼を受ける

戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)を渙発[69]。「天皇ヲ以テ現御神トシ、日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ことを「架空ノ概念」として全否定した上で、国民の団結に期待し、新日本建設への希望を述べた[69]

同年2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県川崎市横浜市鶴見横浜)へ行幸[70]。天皇自身の発案により[71]、以後1954年(昭和29年)8月まで全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を巡幸した(昭和天皇の戦後巡幸)。行幸に際しては、奉迎する国民に向かって食事のことなど、生活に密着した数多くの質問をし、「あ、そう」等の発言が話題となる(後述)。

1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。

1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法及び皇室典範が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。同年6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて一人称に「わたくし(私)」を用いる[72]。同年10月14日付で、形式上は自発的な意思により伏見宮系皇族である11宮家51名が臣籍降下(皇籍離脱)し、10月18日に天皇・皇后、皇太后に対する朝見の儀[73]の後、別離の夕食会が行われた[74]

1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効した。同年5月3日に皇居外苑で挙行された主権回復記念式典で「あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんこと期す」と述べ、占領期間中に話題に上った「天皇退位説」を否定した[75]。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を奉告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

1964年(昭和39年)10月の東京五輪開会式、及び、1972年(昭和47年)2月の札幌五輪開会式では、オリンピック憲章によって開催国の国家元首が行うと定められている開会宣言を行った。

1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、奥崎謙三(暴行の現行犯で逮捕)からパチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。

1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともに日本航空の特別機でイギリスオランダなどヨーロッパ各国を歴訪し[76]1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を初訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた[77]

1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官(現在の防衛大臣職に相当)増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らし、「天皇の政治利用」と批判された。最終的に増原長官は、わずか3日後の5月29日に辞任することとなった(増原内奏問題)。

1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として立川飛行場跡地(東京都立川市)に「国営昭和記念公園」が建設された。11月10日に天皇陛下御在位五十年記念式典が挙行され、また記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日)から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。

1981年(昭和56年)、昭和天皇は80歳になるのを機に、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べ、以後恒例となった[注釈 20]。同年2月24日、来日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会見した。

1985年(昭和60年)7月12日、第108代後水尾天皇と並び歴代最高齢に達した際、本人の意向により祝賀行事などは行われなかったが、側近らと鰻重を食べたという[79]

1986年(昭和61年)4月29日、政府主催で天皇陛下御在位六十年記念式典が挙行され[注釈 21]、第26代継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。

晩年

1983年(昭和58年)11月9日、国賓として来日したアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン夫妻を赤坂迎賓館に迎えての歓迎式典に臨む昭和天皇。

1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中、嘔吐症状で中座した[注釈 22]。8月以降になると吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明した。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。

しかし、1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日全国戦没者追悼式が天皇として最後の公式行事出席となった。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る際に、原宿駅側部乗降場(皇室専用ホーム)ほかで映されたのが最後の公の姿となった。

昭和天皇は9月18日大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌9月19日の午後10時頃、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行った。その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸尿毒症を併発一進一退の状態となった。マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道した。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した。

同年2月24日新宿御苑において日本国憲法・現皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる[81]


注釈

  1. ^ 明仁親王が誕生する1933年(昭和8年)12月23日以前の皇嗣。ただ、昭和天皇と香淳皇后の間に男子が誕生する可能性が充分にあったため、皇太子や皇太弟にはたてられなかった。
  2. ^ 1933年(昭和8年)12月23日以降
  3. ^ 代数は皇統譜による。
  4. ^ 2021年令和3年)9月2日、退位し上皇となっていた明仁が、父である昭和天皇に並んで歴代最長寿の天皇となった[6]
  5. ^ 常陸宮正仁親王は第二皇男子/第6子、秋篠宮文仁親王は孫、悠仁親王は曽孫にあたる。
  6. ^ 祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせており、他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
  7. ^ 允(まこと)に厥(そ)の徳を(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ
  8. ^ に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり
  9. ^ 益は徳のなり
  10. ^ これ、兄弟の綽綽にしてあり
  11. ^ 問ふを好めば則ちに、自ら用(こころ)みれば則ち小なり
  12. ^ であらば仁の作すなり
  13. ^ このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王(鳩彦王妃允子内親王)、泰宮聡子内親王(東久邇聡子)の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
  14. ^ 4月23日に竹田宮恒久王が薨去し、多くの皇族が服喪した。
  15. ^ 「波」はポーランド(波斯・ペルシャイランとは異なる)。ポーランドは、1919年から1921年のポーランド・ソビエト戦争で、レーニンが率いたボリシェビキ軍に敗退していた。
  16. ^ 1922年には、起訴便宜主義の法制化や、外国人も対象とした破産法の新設などが行われた。また、3月には私学の華族学校の女子学習院の組織が『女子学習院官制』により官営化され、9月28日には、納采の儀などの儀式が執り行われて、良子女王との婚約が正式に告示された[32]
  17. ^ (昭和とは)別の元号(「光文」読み:こうぶん)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、『東京日日新聞』に発表されてしまったので政府が急ぎ慌てて「昭和」に変更したとの説もある(光文事件)。
  18. ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
  19. ^ 仙洞御所内の御殿跡地に造営された。2019年令和元年)5月1日に「京都仙洞御所」に改称。
  20. ^ 同年9月に、記者から恒例化について質問を受け、天皇は個人としての感想については言葉を濁しつつ「関係者に検討させ、その答えをもって決定したい」と述べた[78]
  21. ^ 長男である皇太子明仁親王同妃美智子(いずれも当時)は出席したものの、后である香淳皇后腰椎骨折による身体不自由状態のため欠席した。
  22. ^ このとき後藤田正晴内閣官房長官が同席しており、妻から山本悟宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている[80]
  23. ^ 「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
  24. ^ 第1位:(皇嗣) 秋篠宮文仁親王(53歳)、第2位:悠仁親王(12歳)、第4位以降は不在。
  25. ^ 関東大震災では山階宮武彦王の妃佐紀子女王閑院宮家の寛子女王東久邇宮家の師正王が薨去した。
  26. ^ 木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
  27. ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳だけはこれを信じていない[113]
  28. ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から鈴木貫太郎内閣において2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では「受諾賛成」が鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)、米内光政(海相)、受諾反対が阿南惟幾(陸相)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼騏一郎(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
  29. ^ ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を紹介したものである。
  30. ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
  31. ^ 牛場信彦駐米大使宛て福田赳夫外相公電要旨「米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立寄りに過ぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい。本来儀礼的行事である今回の御会見はTop4(昭和天皇、香淳皇后、ニクソン大統領夫妻)の御会談が主であるべき。これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方としては到底受け入れられない。政治的会談ならば単独会談に続いて随員を加えての会談も考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何等の役割を有しない。この部分にTop4よりも長い時間をかけることは、日本人に天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではない。」[153]
  32. ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
  33. ^ 1921年大正10年)3月6日に、欧州訪問への往路で6時間余り沖縄本島に滞在したことが、結果的に生涯唯一の同県訪問(皇太子時代のため「行啓」)となっている。詳細は皇太子裕仁親王の欧州訪問#往路及び昭和天皇の戦後巡幸#沖縄県についてを参照。
  34. ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
  35. ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[215]
  36. ^ ただし、事変直後ではない[217]
  37. ^ 昭和天皇もファン 昭和天皇も「刑事コロンボ」の大ファンで、訪米された際にフォークさんとの対面を求めたが実現しなかった。
  38. ^ 昭和天皇もコロンボのファンで、1975年に訪米された際は実現こそしなかったが、フォークが昼食会に招待されたこともあった。
  39. ^ ――(日本で人気のあった)アメリカのドラマ『刑事コロンボ』を陛下も見るそうだが、どんなところを楽しんでおられるのか。
    時間の都合がつかず、私自身はその番組を見ることはできませんでしたが、一般の国民が非常に楽しんで見たと聞いています。
  40. ^ 日本でのカルロス3世勲章捧呈は翌1924年(大正13年)5月24日[263]
  41. ^ 日本での金羊毛勲章奉呈は、翌1929年2月26日[273]

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