昭和天皇 逸話

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 13:58 UTC 版)

逸話

幼少・皇太子時代

馬上の皇太子裕仁親王。大正時代。
  • 6歳だった1907年(明治40年)12月18日に、両親(当時皇太子だった大正天皇と皇太子妃だった貞明皇后)からクリスマスプレゼントとして靴下に入った玩具を貰っており、皇室が異文化や他宗教に大らかだったことがわかっている[198]
  • 幼少時、養育係の足立たか(のちの鈴木貫太郎総理大臣の夫人)を敬慕し多大な影響を受けた[199]
    • 学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、その明治天皇を実の祖父に持つ裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様のことはよく知らないが、義経公のことはたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
  • 昭和天皇実録の1910年(明治43)1月の記述には、「午前は学習院の授業、午後は御用邸内においてジャーマン・ビリヤード、人取り、玉鬼、相撲、クロックノールなど種々のお遊び」とあり、他には百人一首木登り椅子取りなどの遊びをしていた他、1917年(大正6年)には「欧洲戦争将棋」との記述も見える[200]
  • 11歳だった1912年(明治45年)3月16日に、母の貞明皇后などから聞かされていたイソップ物語に触発され、1作目となる「海魚の不平」と題した物語を自作し「裕仁新イソップ」と名付けている[198][201]。盲目のウナギが他の魚の才能を羨むホウボウタイを窘める話で、「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との教訓を記している[198][201]
  • 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山(たけやま)」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(この提案に学友が従ったかどうかは不明)。
  • 皇太子時代にフランスを訪問したとき、パリ地下鉄に初めて乗車した。このとき改札切符駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は記念品として保存されたという。
  • この外遊時、パリの地下鉄に乗ろうとして、列車が発車しようとしていたので職員に押しもどされ、目の前で柵を閉められたことを、かえって喜ばれ、「みなとおなじ扱いを受けたのは、これがはじめてだった。おそらくこれが最後だろう。人生で最高の思い出の一つだ。」と語られたという[202]
  • この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで5人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。

天皇時代

戦前

1937年(昭和12年)頃、昭和天皇も参加した皇族親睦会
  • 父親の大正天皇が先鞭をつけた一夫一妻制を推し進めて、「(一夫多妻制での)側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で自宅通勤」を認めた。
  • 晩餐時、御前で東條英機杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」「アメリカの先住民瞑想するのに煙草を用いる」などと煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒に関しては、5歳の頃、正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、悪酔いして寝正月を過ごす破目になって以降、儀式や宮中晩餐会等のやむを得ない場合に限り、一口だけ口にする程度であった[203]
  • 小説でも「天皇の料理番」秋山徳蔵晩餐会のメインディッシュであった料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、自分以外の招待客の皿について「同じミスがなかったか」を訊ね、秋山が「ございませんでした。」と答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
  • 学習院在学中に古式泳法小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
  • ダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツ・770(通称:グロッサー・メルセデス)に乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども所持していたといわれる。
  • ナチス・ドイツ第二次世界大戦フランスに勝利した1940(昭和15年)6月22日に、第一次世界大戦ドイツ帝国がフランスに降伏した場所と同じコンピエーニュの森にて、フランス側に降伏文書の調印をさせた。そのことを知った昭和天皇は、「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」と言ってヒトラーの対応を批判したという。(『昭和天皇実録』1940年7月31日の記述)[204][115]

戦時中

  • 対英米開戦後初の敗北を喫したミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、「大戦中期のガダルカナル島の戦いにおける敗北以降、各地で日本軍が連合国軍に押され気味になると、言動に余裕がなくなった」という。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し、大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという[要出典]
  • 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回に一層努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
  • ガダルカナル島の戦いでのヘンダーソン基地艦砲射撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官山本五十六と司令部にも伝わっていた[205]。だが、参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず[206]、再度の艦砲射撃を企図した際、待ち伏せていたアメリカ軍との間で第三次ソロモン海戦が発生。御召艦を度々務めた戦艦「比叡」を失い、翌日には姉妹艦「霧島」も沈没し、天皇の懸念は的中した。
  • 太平洋戦争大東亜戦争)のペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も3度も与えている。
  • 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させた」と伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山元気参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
  • 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。1943年(昭和18年)、第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶の為に参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(「あきつ丸」「神州丸」など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?」とさらなる下問があった。 そのときはそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、「返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えた」という。
  • 戦争中、昭和天皇は靖国神社伊勢神宮などへの親拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治史研究家の原武史は、「昭和天皇が熱心な祈りを通じて『神力によつて時局をきりぬけやう』[207]とするようになったという。
  • 大戦末期に開始された特別攻撃に対しては複雑な感情を抱いていた。特攻開始当初は、戦果を上奏した米内光政海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と発言するなど、戸惑っていたが[208]、陸軍初の特攻隊「万朶隊」に対しては「万朶隊はそんなにたくさんの弾丸を受けながら、低空攻撃をやって、非常な戦果をあげたことは結構であった」と述べている[209]。1945年の元旦に宮中恒例の晴れの御膳が大膳職からだされたが、その後に軍からも白布に包まれたお膳が届けられた。軍からそのお膳について「連日のごとく出撃している特攻隊員に対し、その壮途にはなむけて出す料理でございます」という説明を聞いた昭和天皇は長い間何も言わずそのお膳を見つめていたが、手をつけることはなくそのまま侍従武官に下げた。下げられた武官たちは昭和天皇の胸の内を察して胸がつまる思いになったという[210]。しかし「一撃講和」を考えていた昭和天皇は特攻に期待を抱いており、神風特別攻撃隊「第2御盾隊」が硫黄島の戦いで、空母を撃沈する大戦果を挙げたとの上奏があると、硫黄島へ再度の特攻出撃を命じている[211]。沖縄戦でも日本軍は多数の特攻機を出撃させたが、毎日夕刻に侍従武官から受ける特攻の戦果の上奏に対して、昭和天皇は「そうか、本当によかった」と心から喜んでいた。ある日、侍従武官が地図を広げて天皇に戦況を説明していると、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしたので、侍従武官は、天皇が懸命に耐えている悲痛な心の一端を示したのだと察した[212]。昭和天皇には、軍の最高指揮官大元帥として部下将兵の戦果を褒めたたえる面と、天皇として臣民を十死零生の非情の作戦に従事させ悲しむ面の両面を、両立させざるを得ない立場にある苦悩があったという指摘もある[213]。昭和天皇は戦後に特攻に対して「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。」という思いを述べている[214]
  • 「天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件終戦の時だけであった」と語っている(後述)。
  • 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、対米英開戦時の首相であった東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」「東條は一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、「追い詰められた東條の苦しい言い訳には、顔をしかめることもあった」と伝わる。しかしながら、のちに極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦争犯罪人として有罪が確定し死刑となった東條の葬儀には勅使を遣わしている。東條の側近に対しての評価は辛辣で、「田中隆吉とか富永恭次次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しで非難している[215]。東條の首相失脚後に、後ろ盾を失った富永が、第4航空軍司令官としてフィリピンの最前線に送られたときにも、昭和天皇は、富永の指揮能力を懸念してその人事に難色を示していたが、レイテ島の戦い初期において富永は積極的な作戦指揮でマッカーサーを苦戦させ[216]、一時的にレイテ島の制空権を確保するなど健闘していたため[217]、昭和天皇は「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」と称賛している[218]。また田中については、東京裁判の際にジョセフ・キーナン主席検事から昭和天皇の戦争責任を回避するための協力を求められ、昭和天皇の訴追回避のために検事側証人として出廷したとする説もある[219]
  • 昭和天皇独白録』などにより松岡洋右白鳥敏夫宇垣一成大島浩などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由としていい感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、フィリピン転出の際には拝謁を果たしており、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものともいわれる)。晩年、「『この間出た猪木正道近衛文麿について書かれた本が正確だ』、と中曽根に伝えよ」と昭和天皇に命ぜられたと宮内庁長官・富田朝彦が当時の首相・中曽根康弘に言ったという。中曽根は『評伝 吉田茂』で批判的に書かれていた近衛と松岡についてのことだと理解した[220]
  • 終戦時の陸軍大臣でかつて侍従武官として昭和天皇に仕えた阿南惟幾には好感を抱いており、阿南が侍従武官のときには馬術の指導を受けたり、長い時間2人で話し込んだり、自分のワイシャツを贈ったりしている[221]。阿南が師団長として戦場に赴くこととなったときには、出征の門出として阿南を宮中に招き2人きりで陪食している。これは前例がなかったことで、2人は松花堂弁当を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んでいる[222]。昭和天皇は阿南のことを親しみをこめて「あな」と呼んでいた[223]。阿南は陸軍大臣に就任すると「国体護持」と「昭和天皇の安全の保障」のために早急な降伏に反対したが、最後は昭和天皇が「聖断」を下して終戦が決まると、泣き崩れる阿南に「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いた[224]。その後、阿南は責任を取って自決したが、そのときに身に着けていたのは昭和天皇から拝領したワイシャツであった。阿南自決の知らせを聞いた昭和天皇は「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」と蓮沼蕃侍従武官長にもらしている[225]。侍従長の藤田尚徳によれば、阿南は昭和天皇が信頼していた数少ない陸軍軍人で、阿南の率直豪快な性格を好んでおり、その死を悼んでいたという[226]
  • 宮内省と宮殿の間にある大膳寮で調理された食事は、御文庫(戦争後半から天皇皇后が暮らした建物)に車で運ばれ、当直侍医の「おしつけ」(毒見)を受ける。開戦直後から食糧事情が厳しくなった上、生真面目な昭和天皇が闇物資を仕入れることを禁じたため、戦争末期の食事はかなり貧しかった。主食は配給の丸麦や外米を混ぜたものを日に一度だけ、他の2食はうどんそばすいとん、代用パンイモ類など。物資を囲い込み、贅沢を続けた軍部とは大違いだった[227]
  • 御文庫の御書斎の飾り棚にエイブラハム・リンカーンチャールズ・ダーウィンブロンズ像を置いていた。敵国の元大統領と皇室の神話とは相いれない進化論を唱えた科学者である。だが、昭和天皇はリンカーンを政治家として尊敬し、ダーウィンの学者としての真摯な姿勢に共感し、何の違和感も抱いていなかったらしい。ちなみに、1942年(昭和17年)4月29日(天長節)、自身の41歳の誕生日の夜に香淳皇后と側近たちと共に「ミッキーの捕鯨船」というアメリカ映画を鑑賞したことが記録されている[227]

戦後

助け合って食糧難を乗り越えるようラジオで呼びかける昭和天皇、1946年(昭和21年)5月。
  • 初の日本社会党政権を成立させた片山哲首相に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、社会主義イデオロギーに基づく急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は「内奏を望む昭和天皇への違和感」を日記に記している[228]
  • 1947年(昭和22年)9月23日、東京都内の天皇側近からGHQを通してアメリカ合衆国国務省に伝送されたいわゆる「天皇メッセージ」によると、「天皇はアメリカ合衆国沖縄県をはじめ琉球諸島軍事占領し続けることを希望していた」とされる。天皇の意見によると、「その占領は、アメリカ合衆国の利益になり、日本を守ることにもなり、沖縄の主権は、日本に残したまま長期租借という形で行われるべきである」と考えられた。これは「日本本土を守るため、沖縄を切り捨てた」とする見方がある一方、「租借という形で日本の主権を確保しておく」といった見方もある[229]
  • 農地改革後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に「農地改革の成果」と「ダグラス・マッカーサーをどう思うか」について質問したとき、マッカーサーのことを「お雇い外国人」と思いこんだ老人から「陛下も本当にいい人を雇ってくださいました」と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある[注釈 48]
  • アメリカ政府からの使節が皇居新宮殿について「新しいのですね」と感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年(昭和36年)まで、昭和天皇と香淳皇后は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて仮住居としていた。
  • 皇居の畑で芋掘りをしていたとき、日本では滅多に見ることのできない珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見、侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情の分からない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
  • イギリスなど君主制国家に対しては、比較的新興国の部類に入るイラン帝国なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない1956年(昭和31年)にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満洲国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった1976年(昭和51年)の中央アフリカ帝国建国に際しても祝電を送っている。
  • 1971年(昭和46年)6月佐藤栄作首相がアーミン・マイヤー米国駐日大使と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと蔣介石台湾中華民国政府)を支持するよう促された」と伝えられていたことが、秘密情報解除されたアメリカ国務省の外交文書で判明。しかし、国連代表権は同年10月国連総会採択され毛沢東主席の中華人民共和国に移行した[230]
  • 1975年(昭和50年)に『タイム』誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており[231]1978年(昭和53年)10月に中国の指導者として初めて訪日した鄧小平中国共産党中央軍事委員会主席と会見した際は天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪して鄧小平を感激させ[232]1984年(昭和59年)4月には「中国へはもし行けたら」と述べて中国政府の訪中要請に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた[231][233]
  • 生真面目な性格もあり、戦後政治において政争絡みで日本の政治が停滞することを好まなかったことが窺える。『入江相政日記』には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
  • 侍医を務めた伊東貞三も「伊東…きょうは満月だよ、そこを開けてごらん…きれいだよ」と末期がんであった昭和天皇に言葉をかけられたことを、「とても命の危機が迫っているとは思えない人間離れしたお姿だった」と回想している[196]

公務におけるもの

  • 「あ、そう」に象徴されるように発言のバリエーションが少ない一方、表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップ(GHQカメラマンディミトリー・ボリアが撮影、時期は1950年(昭和25年)- 1951年(昭和26年)頃)なども写真に残っている。ただし、終戦まで天皇の笑顔を写した写真は、検閲によって一切公開不許可であった[234]
  • 1982年(昭和57年)の園遊会黒柳徹子と歓談した際、黒柳が当時の自著『窓ぎわのトットちゃん』を「国内で470万部売って、英語で外国でも出ることになりました」と説明すると、昭和天皇は「よく売れて」と答えた。あたかも天皇へ自著を自慢しているように映ってしまい、周囲の大爆笑に黒柳は照れ笑いを浮かべながら「(売上を)福祉のために使うことができました」と説明した。このほか、柔道家の山下泰裕が昭和天皇から「(柔道は)骨が折れるだろうね」と声をかけられた際、文字通りに受け取ってしまい「はい、2年前に骨折しましたが、今はよくなって頑張っております」と朗らかに返答したエピソードがある。
  • 1983年(昭和58年)5月、埼玉県行田市埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸。天皇がガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたいてその様子を撮影しようとしたため「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。カメラのフラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。
  • 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」という声が上がった。ところが天皇は「むしろ楽しみにしてるんだから、楽しみを奪うような事を言わないでくれ」と訴えたという。

家族・家庭

大正天皇の4人の皇子たち。右から雍仁親王、宣仁親王、崇仁親王。左端が裕仁親王。
1952年(昭和27年)、第五子・長男の皇太子明仁親王(当時)と共に。
1955年1月、昭和天皇と皇太子明仁親王の将棋を観戦する香淳皇后。
  • 3人の弟宮との兄弟関係は良好で、特に性格のほぼ正反対といってよい長弟・秩父宮雍仁親王とは忌憚のない議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、薨去前日に見舞いを希望しながら、秩父宮への精神的影響への配慮のため後ろ倒しにしたため臨終に間に合わなかった[235]。そのため、次弟・高松宮宣仁親王が病気で療養すると、3度見舞いに訪れ、その3回目が薨去当日であった[236]。また妃たち同士(香淳皇后雍仁親王妃勢津子宣仁親王妃喜久子崇仁親王妃百合子)も仲が良好で、これもまた兄弟関係を良好に保つ大きな助けとなった。
  • 久邇宮家出身の女王である后・香淳皇后(名:良子〈ながこ〉)のことは、側近と相談して決めた愛称の「良宮」(ながみや)と呼んでいた。一方、香淳皇后は昭和天皇のことを「お上(おかみ)」と呼んでいた。2人の間には7人(2男5女)の子宝にも恵まれ、夫婦仲は円満だった。岡本愛祐(当時東宮侍従)の回想によれば、結婚当初から、当時の男女としては珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった[237]
    • 1919年(大正8年)、宮内大臣波多野敬直から、婚約を知らされる[20]。翌1920年(大正9年)に久邇宮邸で良子女王と儀礼的に対面したが、言葉を交わすことは無かった[20]。その後、二人の対面も計画されたが実現せず、結局、婚約中に親しく会う機会はなく、印象もない[20]
    • 婚約中の1921年(大正10年)に訪欧したとき、婚約者とその妹たちへの土産に、銀製の手鏡・ブラシセットを購入した[238]。結婚後も、行幸先、植物採集に出かけた先では必ず「良宮のために」と土産を購入、採集した。また1971年(昭和46年)の訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。
    • 天皇の手のを切るのは、皇后が行っていた。侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した[239]
    • 香淳皇后との間には当初皇女が4人続けて誕生したため、事態を憂慮した宮内省(現:宮内庁)は側室制度(一夫多妻制)を復活させることを検討し始めていた。しかし側近が側室を勧めた際、昭和天皇は「良宮でよい」と返答した。側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。また、香淳皇后に対しては「皇位を継ぐ者は、秩父さんもおられれば、高松さんもおられる」「心配しないように」と励ましたという[240]
    • 5人目の子にして、待望の第一皇子(第一皇男子)・継宮明仁親王を得た際の昭和天皇の喜びようは大変なものだった。しかしそれにも増して、それまで華族たちから「女腹」(女子ばかりでお世継ぎたる男子を出産できない)と陰口を叩かれて肩身の狭い思いをしていた香淳皇后へのねぎらいはひとしおなものだった。男子誕生の知らせを受けた昭和天皇はいても立ってもいられず、まっしぐらに香淳皇后のもとへ赴いて母子を見舞い、万感の思いを込めて「よかったね」と一声かけるとすぐに退出、ところがすぐにまた引き返し、ふたたび同様に声をかけ皇后をねぎらった[241]
    • 香淳皇后の老いの兆候が顕著になったあとも「皇后のペースに合わせる」[242]などと皇后を気遣っており、1987年(昭和62年)9月に行われた昭和天皇の手術後の第一声も「良宮はどうしているかな」[243]だった。
  • (夭折した第2皇女子・久宮祐子内親王を除く)6人の皇子女たちは近代以降初めて、両親の手元によって皇后の母乳で育てられたが、学齢を迎えるころから4人の内親王たちは呉竹寮で、2人の親王たちは3歳ごろより別々に養育され、家族とはいえ、一家が会えるのは週末のみになってしまった。しかし会える時間が短いとはいえ、天皇が四女・厚子内親王の勉強の質問に丁寧に答えたなどの逸話がある[244]
  • 長男で皇太子の継宮明仁親王には「(帝王学の一環として)西洋の思想も学ばせるべきである」と考え、家庭教師にエリザベス・ヴァイニングを招いた。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与え、父親の昭和天皇自ら対戦して皇太子の知恵を育んだ[245]
  • 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起し、記者会見で「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」と回想している。長弟・秩父宮雍仁親王も同様の発言をしている。
  • ひげを蓄えたのは、香淳皇后との成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」とも、その理由を説明している。他方、1986年(昭和61年)以降、孫の一人である文仁親王が口ひげをたくわえ始めたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。なおひげの手入れは「自ら電気カミソリで行っていた」という[246]
  • 自身の初孫で、長女・成子内親王(東久邇成子)の長男・東久邇信彦に対し、結婚相手の条件として「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家にガン系統がないこと」などを伝え、「条件に合えば自分の好きな人でいい」とした[239]

人物像

天皇自身の発言

1972年(昭和47年)3月7日・『ニューヨークタイムズ』のインタビュー[247][248]
[天皇] 自身の人生と知的発達にもっとも影響を与えた人物は、ドイツで学んだあとに日本の西洋史の権威となった日本人教授、箕作元八である。
[天皇] 箕作元八の著書は、何年か前に私に西洋史の傾向や西洋民主主義を理解することの重要性を証明してくれた。そして、私の勅書においても、具体的なアイデアの速やかな採用に貢献した。

生活・趣味

1935年、東京駅満洲国皇帝溥儀の到着を待つ間、カメラに向けて破顔する昭和天皇。この写真は当時新聞掲載を差し止められた[249]
  • 趣味として、ゴルフを勧められ、1917年(大正6年)の皇太子時代よりゴルフを行っていた。当時は病弱であり、結核を予防するという意味もあったという。皇太子はゴルフに熱心となり、欧州旅行中も行い、また、来日中の英国王太子(のちのエドワード8世国王、エリザベス2世女王の伯父)と1922年(大正11年)4月19日、プレーしている[250][注釈 49]。妃の良子女王も裕仁親王から教えられゴルフを行っている[251]。赤坂離宮に6ホール、那須御用邸に9ホール、吹上御苑に最初4コース、のち9コースのゴルフコースでプレイした。成績として9コース、58,51,54、良子女王の60という記録がある。満洲事変のあとは中止し、吹上御苑コースなども廃止された[252][注釈 50]
  • 生物学研究所の顕微鏡を古くなっても買い替えることはなく、鉛筆は短くなるまで使い、ノートは余白をほとんど残さず、洋服の新調にも消極的であった[253]
  • 不自然なものを好まず、盆栽を好まなかった[254]
  • 1926年(大正15年)5月、摂政宮として岡山県広島県及び山口県の3県へ行啓の際、御召艦となった戦艦長門」で将兵の巡検後タバコ盆が出された甲板で「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、(「朕」ではなく)はっきり「僕」と言うのを当時主計中尉で「長門」勤務だった出本鹿之助が聞いている[255]
  • 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスでの餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。
  • スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身につくものはなかった」と発言した。昭和天皇自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。
  • デッキゴルフやビリヤードを好み、戦艦「比叡」を御召艦にしていた際に侍従を相手に興じている[256]。乗艦時は無表情だった昭和天皇が、このときは屈託もなく笑って楽しんでいたという[257]
  • 映画も大の好みであった。「ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞された」と、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っている[258]
  • 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかということには答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した[74]
    • 現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており[259]NHK朝の連続テレビ小説と『水戸黄門』が好きだったとされる[254]
    • おしん』では「その当時の女性の苦労というものを、察していましたが、当時はあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知っていましたけれども、それは非常に大ざっぱな感想しか、その当時は承知していませんでした。」と感想を述べた[260]。『おしん』の原作と脚本を手掛けた橋田壽賀子によれば、おしんの誕生年設定はあえて昭和天皇と同年の明治34年としており、その意図は「昭和天皇にご覧頂くため」であったことに言及している[261]
    • テレビ番組に関してはこのほか『自然のアルバム』などもよく視聴した。意外なところでは『プレイガール』も視聴したことがあるという[262]。『刑事コロンボ』も好きで、訪米の際には主演のピーター・フォークを昼食会に招待しようと希望した[263]という記事もあるが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている[264]
  • テレビの被写体になることに関して、『皇室アルバム』のプロデューサーを務めた古山光一が「秋田国体に行かれたときに、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、古山も天皇と皇族の動静がテレビで報道されることに一定の理解を示していた[265]
  • 好角家として知られる昭和天皇は、当時の日本相撲協会理事長・春日野清隆が「蔵間大関になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、あるとき「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野理事長は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後、蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。
    • また高見山が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)へ「見山がなぜ辞めたのかね」「見山は残念だったろうな」と発言。そのことをのちに森文部大臣が見山に伝えると高見山は「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという[266]

食事・好物

1949年(昭和24年)頃、皇居での立食の宴にて秋山徳蔵主膳長(左)の横で寿司をつまむ昭和天皇(右)
天皇のお食事というものは賜宴、陪食の場合は別として、たいそう質素であり、特に主食では一般の家庭より無味なものを召し上がっておられることを解ってもらえれば、結構だとおもう。[267]

天皇皇后と皇太子一家の食事は、宮内省大膳寮(後に宮内庁大膳課)に所属する主膳長(宮内庁では主厨長)以下約50人の料理人が担当した。昭和天皇の食事や好物は、1972年(昭和47年)の引退まで主厨長を務め小説・テレビドラマ『天皇の料理番』のモデルとなった秋山徳蔵[267]や、1974年(昭和49年)から5年間宮内庁大膳課に勤務した工藤極[268]が著書などで詳しく書き残している。

  • 工藤の回想によると、朝食洋食昼食夕食洋交互で、同じ食材や調理法(煮る・焼く等)が続かないよう考慮されていた。食事を含め他人の手を煩わせないよう極力配慮しており、夜食が必要な時のために待機していた宿直にも声がかかることはなかった[269]。メニューに関して何が食べたいという希望が出されることはなく、長らく仕えていると自ずと好き嫌いは察することができた[267]。朝食は、ハムエッグを食することを好んだという。戦後は、オートミールと副菜(ドレッシング抜きのコールスロー、蕪のクリーム煮など)にトースト2枚、サラダ、果物、牛乳の朝食[267]で、晩年まで定番とした。
  • 料理の好みは、「どちらかといえば薄味をお好みになるが、油濃いものも、うなぎ中華料理てんぷらも」と秋山は書いている[267]蕎麦も好物で、1955年(昭和30年)頃は一週間に一度手打ちのざるそばが出され、お代わりをするほどだった[267]。天ぷらは、香淳皇后が調理することがあった[267]1963年 (昭和38年)には、赤坂御所神田小川町天政」店主・橋井政二の手によって、屋台で揚げられた江戸前ハゼ毒見無しで食べたことがある。
  • 変わった好みとしては、スルメから骨とゲソを取り除いてオーブントースターで焼いてからちぎり、鉢ですり潰した「イカ粉」をカレーにかけていた[269]椎茸も好物で、生椎茸が献上された際には、グラタンやバター焼に調理されたものを食べた[267]。このほか、すき焼きも好んだと伝わるなど、食に関する逸話は非常に多い。
  • 甘党で、おはぎ汁粉が好物。また、果物も好きで毎食提供されていた。一方で、酒は幼少期に屠蘇で苦しんで以来苦手になり、一切口にしなかった。1955年(昭和30年頃)に侍医の勧めで少し飲むようになったが、ワインが「いくらかお苦しい」ようであるほかは「やはりだめでいらっしゃる」[267]
  • 猫舌で、天ぷらは冷め加減を見て提供されたが、まれに熱いまま口に入れると「熱い!」と言うことがあった[267]。また、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。
  • 食材は、生鮮食品を中心に自給していた。野菜は、皇居の生物学御研究所(現・生物学研究所)や新宿御苑(戦前のみ)の田畑で栽培されたもち米や野菜が用いられた。卵や肉製品(ハム、ソーセージなど)、牛乳、乳製品(バター、チーズ、乳酸菌飲料など)は、御料牧場千葉県三里塚、後に栃木県宮内庁高根沢御料牧場に移転[269])から、10日ごとに皇居に届けられた。精肉は、御料牧場から提供されたほか、同時に市井の精肉店からも購入した。魚介類は、昭和初期まで築地の魚河岸に置かれた「魚精方」が納品し調理も行っていたが、大膳寮が調理を行うようになり共同水産から購入した。ただし、骨はすべてピンセットで引き抜いて調理された[267]。果物や調味料などその他の食材は市中から購入[267]し、カレーの付け合わせとしてラッキョウ桃屋製、福神漬酒悦製など市販品も使われていた[269]
  • 戦前から戦後の食糧難の時には、昭和天皇自ら白米を節制し、節米料理を摂るようにしていた。戦前に食料事情が悪化し始めた時点で「半つき米に丸麦混入の御飯」で、晩餐会を除き、寿司の場合でも白米の使用を許さなかった。戦時中も、この麦飯は1日一食のみで、あとはパンを食べていた。1955年(昭和30年)の時点でも、「配給の七分づきの米に、丸麦を混ぜたもの」を1日に一食だけで、他の二食はうどんや蕎麦、蕎麦がき、すいとん類(サツマイモジャガイモ)で済ませていた。自らパンに代用品を混ぜた代用パンの調理を提案し、大膳寮がきな粉トウモロコシ、乾燥野菜などを順番に混ぜて試作し提供した。戦後も配給品による食事にこだわり、ヤミの食材の購入は一切許さなかった。たまにが配給されてくると、秋山は「飛び上るほど嬉しくて、いそいそと御膳にのぼせたものであった」が、実は魚河岸の篤志家の商人が自腹で闇市で仕入れた魚だという事が後で分かったという事もあった[267]
  • 晩年は、芋類、麺類(蕎麦)、肉料理、鰻、天ぷら、乳製品、チョコレートの順に好物であったとされる[270]。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。
  • 基本的に調理は大膳寮(大膳課)が行い、行幸啓の際も随伴した大膳寮(戦後は大膳課の指導の下、地元の調理師)が行った。ただし、終戦直後には自ら世話をしたニワトリのや育てた野菜で、自ら料理を作ることもあった[267]
  • 1964年(昭和39年)に下関に行幸した際には、中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。
    • 宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、ときには「資格を持った調理人がさばいたフグを食べるのに何の問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。しかし、ついに生涯フグは食べることができなかった。

生物・自然

  • 生物学者だった昭和天皇は、1912年4月27日に学習院初等学科5年生の授業でカエルの解剖を習った。帰宅してからもトノサマガエルの解剖を行い、観察後は死骸を箱に入れて庭に埋め、「正一位蛙大明神」の称号を与えたという[198][201]
  • 昭和天皇は海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、すべて食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(のちに「あまりおいしいものではなかった」と述べた)という。採集品については食べることはなかったともいわれ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。
  • 1929年(昭和4年)、戦艦「長門」で和歌山県に訪問し進講を受けた南方熊楠のことを昭和天皇は後々まで忘れることがなく、その名を戦後の御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。通常はの箱で渡される標本は森永キャラメルの大箱に入れられていたが昭和天皇はそれさえも面白がったという。
  • テツギョ」というキンギョフナの雑種とされる魚を飼育していた。のちに遺伝子分析でキンブナリュウキンの雑種と判明した。
  • 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について「サンク(仏語で5つ)」と「3個」をかけて近習をからかったことがある[239][271]
  • 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年(昭和12年)に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。
  • 雑草という植物はない」と言ったとされることでも知られる。これに関連し、1984年(昭和59年)8月の取材において、雑草と言う呼称について「少し侮辱的な感じがして、どうも好まないのです」「どうもおもしろくない名前」と発言している[272]
  • 2018年、生前採取していたテヅルモヅルが新種であったことが判明し、「トゲツルボソテヅルモヅル」と命名された[273]

注釈

  1. ^ 明仁親王が誕生する1933年(昭和8年)12月23日以前の皇嗣。ただ、昭和天皇と香淳皇后の間に男子が誕生する可能性が充分にあったため、皇太子や皇太弟にはたてられなかった。
  2. ^ 1933年(昭和8年)12月23日以降
  3. ^ 代数は皇統譜による。
  4. ^ 2021年令和3年)9月2日、退位し上皇となっていた明仁が、父である昭和天皇に並んで歴代最長寿の天皇となった[6]
  5. ^ 常陸宮正仁親王は第二皇男子/第6子、秋篠宮文仁親王は孫、悠仁親王は曽孫にあたる。
  6. ^ 祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせており、他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
  7. ^ 允(まこと)に厥(そ)の徳を(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ
  8. ^ に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり
  9. ^ 益は徳のなり
  10. ^ これ、兄弟の綽綽にしてあり
  11. ^ 問ふを好めば則ちに、自ら用(こころ)みれば則ち小なり
  12. ^ であらば仁の作すなり
  13. ^ このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王(鳩彦王妃允子内親王)、泰宮聡子内親王(東久邇聡子)の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
  14. ^ 4月23日に竹田宮恒久王が薨去し、多くの皇族が服喪した。
  15. ^ 「波」はポーランド(波斯・ペルシャイランとは異なる)。ポーランドは、1919年から1921年のポーランド・ソビエト戦争で、レーニンが率いたボリシェビキ軍に敗退していた。
  16. ^ 1922年には、起訴便宜主義の法制化や、外国人も対象とした破産法の新設などが行われた。また、3月には私学の華族学校の女子学習院の組織が『女子学習院官制』により官営化され、9月28日には、納采の儀などの儀式が執り行われて、良子女王との婚約が正式に告示された[30]
  17. ^ (昭和とは)別の元号(「光文」読み:こうぶん)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、『東京日日新聞』に発表されてしまったので政府が急ぎ慌てて「昭和」に変更したとの説もある(光文事件)。
  18. ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
  19. ^ 仙洞御所内の御殿跡地に造営された。2019年令和元年)5月1日に「京都仙洞御所」に改称。
  20. ^ 同年9月に、記者から恒例化について質問を受け、天皇は個人としての感想については言葉を濁しつつ「関係者に検討させ、その答えをもって決定したい」と述べた[75]
  21. ^ 長男である皇太子明仁親王同妃美智子(いずれも当時)は出席したものの、后である香淳皇后腰椎骨折による身体不自由状態のため欠席した。
  22. ^ このとき後藤田正晴内閣官房長官が同席しており、妻から山本悟宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている[77]
  23. ^ 崩御の際、御座所には長男・次男夫妻の皇太子明仁親王・同妃美智子、常陸宮正仁親王・同妃華子及び竹下登内閣総理大臣が詰めていたとされる。
  24. ^ なお、NHKの記者であった橋本大二郎(後に高知県知事などを歴任)も、当時の藤森昭一宮内庁長官や高木顯皇室医務主管(兼侍医長)が発表した経緯から、「多臓器不全の状態だったのではないか」と語っている。また、「腫瘍の原発部位が十二指腸なのか膵臓なのかが分からなかったようだ」とも語っている。
  25. ^ 大行天皇(たいこうてんのう)とは、皇位継承が起き即位した新天皇と区別するため、追号されるまでの崩御した先代の天皇に対する呼称。
  26. ^ 関東大震災では山階宮武彦王の妃佐紀子女王閑院宮家の寛子女王東久邇宮家の師正王が薨去した。
  27. ^ 木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
  28. ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳だけはこれを信じていない[110]
  29. ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から鈴木貫太郎内閣において2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では「受諾賛成」が鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)、米内光政(海相)、受諾反対が阿南惟幾(陸相)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼騏一郎(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
  30. ^ ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を紹介したものである。
  31. ^ 全国の地方部隊にも、行事の中止・派手なイベントの自粛を通達している。
  32. ^ 文化祭(学園祭・大学祭)を中止したのは大妻女子大学(校舎が皇居近くにあるため)、防衛医科大学校(防衛庁からの行事自粛通知)[156]
  33. ^ 代わりに「謹迎新年」「清嘉新春」が使用された[157]
  34. ^ 日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている。
  35. ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。『毎日新聞』ほか。
  36. ^ 6時35分からの宮内庁会見で宮尾盤次長による危篤発表を受けて、6時36分18秒に緊急放送チャイムとともに「臨時ニュース」と表示され、全波同時放送に切り替え。
  37. ^ 7時55分からの宮内庁会見で藤森昭一長官による崩御発表を受けて、7時57分6秒に緊急放送チャイムとともに黒地に白で「天皇陛下 崩御」と表示された。
  38. ^ 緊急放送チャイムとともに「新元号決まる」と表示され、教育テレビ・ラジオ第2・衛星第2でも放送される。
  39. ^ 総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2
  40. ^ 7日5時24分から6時および7日6時36分18秒から8日0時5分40秒。7日6時から6時36分18秒までのFMは通常番組『あさの音楽散歩』を放送。
  41. ^ 1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ニュース』(6時36分から10時まで)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から13時10分まで)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
  42. ^ 沖縄タイムス』『琉球新報』は昭和天皇の死に際して、沖縄県民の反天皇感情から「崩御」の文字を使うことは天皇の神聖視と映るため、反発を招くと判断したため「ご逝去」という表現をした。また、日本新聞協会加盟の新聞社では前述2紙の他に『苫小牧民報』『日本海新聞』『長崎新聞』も「ご逝去」として報道した。
  43. ^ 宮内庁の正式な発表による7時55分の死去を含む。
  44. ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
  45. ^ 牛場信彦駐米大使宛て福田赳夫外相公電要旨「米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立寄りに過ぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい。本来儀礼的行事である今回の御会見はTop4(昭和天皇、香淳皇后、ニクソン大統領夫妻)の御会談が主であるべき。これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方としては到底受け入れられない。政治的会談ならば単独会談に続いて随員を加えての会談も考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何等の役割を有しない。この部分にTop4よりも長い時間をかけることは、日本人に天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではない。」[188]
  46. ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
  47. ^ 1921年大正10年)3月6日に、欧州訪問への往路で6時間余り沖縄本島に滞在したことが、結果的に生涯唯一の同県訪問(皇太子時代のため「行啓」)となっている。詳細は皇太子裕仁親王の欧州訪問#往路及び昭和天皇の戦後巡幸#沖縄県についてを参照。
  48. ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
  49. ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[250]
  50. ^ ただし、事変直後ではない[252]
  51. ^ 日本でのカルロス3世勲章捧呈は翌1924年(大正13年)5月24日[298]
  52. ^ 日本での金羊毛勲章奉呈は、翌1929年2月26日[308]

出典

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