星新一 星新一の概要

星新一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 05:45 UTC 版)

星 新一ほし しんいち
星新一
早川書房S-Fマガジン』1963年12月号より
誕生 星 親一
1926年9月6日
日本東京府東京市本郷区曙町
(現:東京都文京区本駒込
死没 (1997-12-30) 1997年12月30日(71歳没)
日本東京都港区高輪 東京船員保険病院
(現:JCHO東京高輪病院
墓地 青山霊園
職業 小説家SF作家
国籍 日本
活動期間 1949年 - 1996年
主題 ショートショートSF、評伝
代表作 『未来いそっぷ』(1971年)
ボッコちゃん』(1971年)
主な受賞歴 日本推理作家協会賞(1968年)
日本SF大賞特別賞(1998年)
デビュー作 セキストラ(1957年)
子供 星マリナ(次女)
親族 星一(父)
小金井良精(外祖父)
小金井喜美子(外祖母)
森鷗外(大伯父)
出澤三太(異母兄)
岡部三郎(弟の義父)
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父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一森鷗外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力第一」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である[注釈 2]

膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。

また、小松左京筒井康隆と合わせて「SF御三家」と呼ばれる[3]

略歴

1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父小金井良精の家がある本郷で1945年昭和20年)まで育つ。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精森鷗外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫にあたる[4]

東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中学の同期には、槌田満文武蔵野大学名誉教授)、今村昌平映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一東京大学名誉教授)などがいた。

附属中在学中の1941年12月に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。

高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。当時の寮生活について、親友の北杜夫小松左京がしばしば旧制高校の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」[5]、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」[6] と回想している。これには戦後と戦中の違い、四修の星が若年だったことも大きい。星は高校も2年で終えているため、新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している[注釈 3]

1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した[7]。農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の穂積忠彦(俳優・穂積隆信の兄)がいた[8]。卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。高級官吏採用試験である高等試験(のちの国家公務員I種試験、現在の国家公務員総合職試験)に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する[注釈 4]。修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスはコウジカビのこと)であった[10]

1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。

1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた[11][7]。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。

会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。この研究会は三島由紀夫石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。

星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった[注釈 5]

1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目され[注釈 6]、当時江戸川乱歩の担当編集だった「宝石」に転載されてデビューした[7]

1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生樹下太郎佐野洋、竹村直伸、水上勉結城昌治と参加した[12]。なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。

1960年(昭和35年)には「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。また「弱点」「雨」などショートショート6編で直木賞候補となる。また、この年に横山光輝原作の実写版テレビドラマ『鉄人28号』でSFアドバイザーとしてクレジットされる。

1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。

1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。

以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。

1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照)

1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。

1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。

それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。

かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており[13]、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。

1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・せんぽ東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。71歳没[14]

評価

2007年(平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウな存在として遇され、安部公房純文学とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。

星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし大庭みな子鶴見俊輔尾崎秀樹奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。晩年の谷崎潤一郎が星作品を愛読していたと石川喬司が紹介しており、また星が「歴史もの」を執筆するにあたり取材を受けた池波正太郎もその新境地開拓を称賛するなど、後述するSFファンの冷淡さに比べると文壇内部での評価は決して低くはなかった。

受賞(受賞候補)歴

  • 1961年(昭和36年)2月、ショートショート6編(『弱点』、『生活維持省』、『雨』、『誘拐』(『その子を殺すな!』)、『信用ある製品』、『食事前の授業』)で直木賞の候補作に選ばれる。
  • 1962年(昭和37年)、ショートショート集『人造美人』、ショートショート集『ようこそ地球さん』(旧バージョン)、ショートショート集『悪魔のいる天国』で第15回日本推理作家協会賞候補。
  • 1965年(昭和40年)、長編小説『夢魔の標的』で第18回日本推理作家協会賞候補。
  • 1968年(昭和43年)、ショートショート集『妄想銀行』で第21回日本推理作家協会賞を受賞[15][7]
  • 1981年(昭和56年)、「マンボウ・マブゼ共和国」(北杜夫が自宅を領土として設立したミニ独立国)から文華勲章が授与される。「日本の勲章ならみっともなくて下げておられぬが、外国の勲章なら…」と語った。
  • 1998年(平成10年) - 第19回日本SF大賞特別賞を受賞[16]

星雲賞

SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞(1970年創設)を星は一度も受賞していない。その低評価の事情について筒井康隆は、筒井自身が星の真価がわかるようになったのは30歳に近くなってからだったと述べた後、星雲賞の母体であるSFファン・グループは10代から20代が多数を占めている(当時の話)ため、そういった若い世代からショート・ショートというものがたいへん軽いものと見られているのでは、と想像している[17]

ただし、1983年の「ショートショート1001編を達成」を機に、翌1984年夏の日本SF大会で、日本SFファングループ連合会議議長の門倉純一の提案で「星雲賞特別賞」を授賞することとなる。実際に授賞式まで行われたが、星の側が受賞を拒否し、「幻の星雲賞」となった[18]

後年、手塚治虫矢野徹米澤嘉博野田昌宏柴野拓美小松左京らは死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星の死去時は授賞されなかった。第39回(2008年)において、最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』が星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。


注釈

  1. ^ 北杜夫との対談「わが習作時代とSF文学と」では、北杜夫から好きな外国作家を聞かれ「シェクレー、ブラッドベリー、ハインライン、フレドリック・ブラウンもうまいし」と答えている[2]
  2. ^ ただし、堤の場合は西武の経営参加や上場よりも創作活動が遙かに先行しており、星の場合は完全に経営を離れたのちに創作活動が始まっている。
  3. ^ 通常なら帝国大学の場合は満23歳。
  4. ^ ただし、星自身は「先日、東大の大学院の女性の会(妙なのがあるな)に呼ばれ、話をした。修士課程を二つ出て、博士課程に在籍の人もいた。まいったね。それから私は、自分の略歴から、大学院に行ったことを削るようにしている。学歴で作品が書けるわけじゃない」と述べている。[9]
  5. ^ その後、1970年の『日本紳士録』第58版にも「星薬科大理事」との肩書が記載されている。
  6. ^ ただし最相葉月は『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007年平成19年))のpp.208-217で「矢野からしきりに『セキストラ』を読むよう勧められた乱歩は、一読してこれは傑作だと思い『宝石』に掲載することを考えたが、自分が責任編集をしている雑誌に自分が推薦するのではどうも具合が悪い。そこで乱歩が大下宇陀児に提灯もちを依頼し、九月末発行の十一月号でデビューさせることになった」「大下が推賞したのは事実であるとしても、大下が『発掘』したというのは宣伝用の惹句で、矢野が書き残している通り、乱歩から依頼された大下の『提灯もち』が、いつのまにか大下の『発掘』という定説になってしまった」と述べている。その根拠として当事者だった矢野の証言の他、肝心の大下本人の推賞文が短い一文しか存在しないこと、それに比して乱歩が『宝石』の『セキストラ』末尾に記したルーブリックは約800字と長く、作品の具体的内容にまで言及して絶賛していることなどを挙げている。
  7. ^ 「電子頭脳」を「コンピュータ」に、「ダイヤルを回す」を「電話をかける」に直すなど。
  8. ^ 星新一は『きまぐれエトセトラ』「いわんとすること」で、執筆、発表当時は公害という言葉も概念もなく、公害問題と結びつけられたことでショートショートとしての面白さが損なわれると嘆いている。
  9. ^ 1985年時点で英語ドイツ語フランス語イタリア語中国語ロシア語朝鮮語ルーマニア語ポーランド語チェコ語インドネシア語ウクライナ語ノルウェー語ラトビア語リトアニア語ベンガル語セルビア・クロアチア語マジャール語アゼルバイジャン語エスペラントの20言語[19]
  10. ^ 2人とも父親は医薬系組織(製薬会社と病院)のトップで東北出身、欧米留学経験あり、母親は東京のブルジョア(小金井良精の娘と大病院の娘)で、本人は東京山の手(本郷と青山)育ち。
  11. ^ 外祖父・小金井良精と大伯父・森鴎外については有名だが、父・星一も留学経験こそないものの、フリッツ・ハーバー訪日の援助をしたり、ベルリン工科大学名誉教授の称号を贈られるほどの親独家として名高い。
  12. ^ 5年以内にショートショートの公募に匿名で応募して入賞することを目指すとしている。
  13. ^ 下訳は当時早川書房の編集者だった福島正実南山宏常盤新平らが担当している。星による訳者あとがき(2005年の再版では割愛されている)では、単に協力者として3人への謝辞が書かれているが、下訳の事実について福島らの元同僚・内田庶がエッセイの中で言及している。

出典

  1. ^ 星新一「『心中』に魅入られて」(『川端康成全集第6巻』第7回月報)(新潮社、1969年)
  2. ^ 北杜夫『マンボウ談話室』p.183、講談社、1977年
  3. ^ 宮崎哲弥『いまこそ「小松左京」を読み直す』 NHK出版新書、2020、p.7
  4. ^ 『きまぐれ読書メモ』p.219(有楽出版社、昭和56年(1981年))
  5. ^ 星新一『きまぐれ読書メモ』p.20(有楽出版社、1981年昭和56年))
  6. ^ 『きまぐれ暦』p.225(新潮文庫1979年(昭和54年))
  7. ^ a b c d 東宝特撮映画全史 1983, p. 540, 「特撮映画スタッフ名鑑」
  8. ^ 『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)p.108
  9. ^ 『気まぐれスターダスト』p.75(2000年、出版芸術社)を参照
  10. ^ 「星新一年譜」(『別冊新評 「星新一の世界」 76 AUTUMN』、新評社、1976年(昭和51年))、p.202。
  11. ^ 『人民は弱し 官吏は強し』、『星新一 一〇〇一話をつくった人』
  12. ^ 探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典・多岐川恭
  13. ^ 星新一『きまぐれ遊歩道』pp.90-92(新潮文庫、1996年)。星は「高級住宅地なのだろうが、高級さをひけらかさないところがいい」「戦前の本郷の屋敷町にも、そういうムードのとこがあった」と述べている。
  14. ^ 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』上、新潮社〈新潮文庫〉、2010年、pp.11-18。
  15. ^ 1968年 第21回 日本推理作家協会賞
  16. ^ 日本SF大賞
  17. ^ 『'60年代日本SFベスト集成』への星の収録作「解放の時代」の解説
  18. ^ 牧眞司「ぼくのSFファン修業時代、星作品に関係することなど」http://www.hoshishinichi.com/note/34.html
  19. ^ 深見弾「星新一―億の読者をもつ作家」(新潮文庫「たくさんのタブー」巻末)より)
  20. ^ 『ボッコちゃん』解説(新潮社
  21. ^ 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人(下)』新潮文庫 pp.161-163
  22. ^ 星新一「文句を言い忘れた『W3』の主人公名」『朝日ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年。
  23. ^ 第一回奇想天外SF新人賞選考会:選考過程”. 2009年2月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2008年6月20日閲覧。 (『奇想天外』1978年2月号「新人賞選考座談会」より一部抜粋)
  24. ^ 『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)p.178
  25. ^ 武田康廣『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを創った男たち』ワニブックス、2002年、pp.120-121。
  26. ^ 『きまぐれ遊歩道』(新潮文庫)pp.111-112他
  27. ^ 星新一『きまぐれ遊歩道』p.76(新潮文庫、1990年)
  28. ^ 北杜夫『怪人とマンボウ』p.118(講談社、1977年)
  29. ^ 北杜夫『怪人とマンボウ』p.119(講談社、1977年)
  30. ^ 佐々木清隆『さよならバーバリー 2』(1998年)http://www.asahi-net.or.jp/~jg3k-ssk/hoshi2.html
  31. ^ 第3回星新一賞に応募しました。” (2015年9月24日). 2016年1月29日閲覧。
  32. ^ ホシヅルの日@SFの国”. 日本SF作家クラブ. 2014年12月29日閲覧。
  33. ^ "『星新一の不思議な不思議な短編ドラマ』放送決定 水原希子、永山瑛太、高良健吾、北山宏光ら出演". ORICON NEWS. oricon ME. 18 February 2022. 2022年2月18日閲覧
  34. ^ "「星新一の不思議な不思議な短編ドラマ」放送のおしらせ". ドラマトピックス. 日本放送協会. 18 February 2022. 2022年2月18日閲覧
  35. ^ 最相葉月『星新一(下)』(新潮文庫)p.267






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