第2次原監督時代
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「読売ジャイアンツ」の記事における「第2次原監督時代」の解説
第1次では同じ時期に現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だったが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘(しょうへい)、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行い、投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。 2006年 チーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに倣い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫した。また一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず、走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチに配置転換することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。 2007年 5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5,000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている。球団は、期待不足に終わったジェレミー・ゴンザレスとジェレミー・パウエル、デーモン・ホリンズの外国人3選手を自由契約とすると、ロッテから自由契約となった藤田宗一、横浜から自由契約となったマーク・クルーン、ヤクルトから自由契約となったセス・グライシンガーとアレックス・ラミレスを獲得した。 2008年 オープン戦から主力選手の故障、松井秀喜以来となる10代での開幕戦スタメンを勝ち取りセ・リーグ史上初となる高卒2年目での全試合スタメン出場を果たした坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びが出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原が共に不調で二軍降格する等戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏したのに加え、投手陣では2年間一軍登板のなかった越智大祐がリーグ2位の68試合に登板し150キロ近い速球と落差のあるフォークで101三振と12球団で唯一かつ40試合以上登板したリリーフ投手の中で最も多く三振を奪ったのに加え、山口鉄也がリーグ3位の67試合に登板し、3.91の防御率だった昨年を大幅に上回る2.32と結果を残し球団史上初の全てリリーフ登板で二桁勝利を挙げる11勝、6月1日にソフトバンク戦とのビジターゲームで当時日本球界最速の162キロをマークしたクルーンが61試合登板で球団新記録の41セーブを挙げた。また7回から9回の3イニングに喫した失点数は前年は168失点だったのがリーグ最少の132失点。投手を5人以上起用した試合は前年10勝27敗2分け、勝率.270だったのが29勝20敗2分け、勝率.592とリーグ断トツの成績を残し強力中継ぎ陣が確立された事で抑えから復帰した上原を含めた先発陣の不調をリリーフ陣がカバーした。また打撃陣ではオガラミ弾と呼ばれる3番・小笠原と4番・ラミレスのアベックホームランが15試合あってそのうち7月8日に阪神に敗れて以降最終戦までの66試合で11試合も記録し、7月9日から最終戦までのホームランが100本と198本のホームランにモノを言わせた強力打線でパ・リーグを制した西武をも凌ぐ破壊力とリーグ2位の78盗塁を記録する機動力野球を武器に後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝しラミレスは9月21日の5回裏にスコット・アッチソンから5-2にリードを広げるタイムリーを放ち、並んでいた与那嶺要を抜いて1338安打とセ・リーグ外国人最多安打記録を更新した。最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録する等猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差からの逆転優勝を果たし、1989年 - 1990年以来となるリーグ2連覇を達成した。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したので、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。クライマックスシリーズでは、第2ステージで昨年ストレートで敗れた中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来6年ぶりの日本シリーズへの出場を決めるが、リーグ連覇を決めた10月10日のヤクルト戦で6回表にキャプテン・阿部がセカンドの牽制球を手から帰塁した際に右肩を負傷してしまい、診断の結果右肩関節挫傷で離脱。阿部の出場機会が減った事が祟ってか先に日本一に王手をかけながら東京ドームに戻っての最後の2戦を落としてしまい、3勝4敗で西武に敗れた。日本シリーズ後上原がFA宣言してメジャーリーグ・ボルチモア・オリオールズへ移籍し、トレードで日本ハムからマイケル中村・工藤隆人を獲得したが、その2人との交換トレードで坂本の台頭や足の故障、スキャンダルで出番が激減した二岡・不調でシーズンの大半を二軍で過ごした林昌範が移籍した。また清水が移籍を志願し金銭トレードで西武へ移籍し第2次長嶋体制時代から主力として支えてきた生え抜き選手が形は違えど相次いでチームを去る形になった。なおヤクルトを自由契約になったディッキー・ゴンザレスを獲得した。 2009年 シーズンは、創設75周年を迎えた。原監督が2009 ワールドベースボールクラシック日本代表監督に就任した事もあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、松本哲也を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年から1973年のV9時代以来となるリーグ3連覇、33回目のセントラル・リーグ優勝を決める。クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で勝ち抜けて日本選手権シリーズに出場を決めた。1981年の後楽園シリーズ以来となった日本ハムとの日本シリーズは、4勝2敗で勝利し2002年以来7年ぶり21回目の日本一を獲得した。11月14日には長崎で行われた韓国シリーズ勝者起亜タイガースとの日韓クラブチャンピオンシップに勝利し、日韓王者に輝いた。ドラフト会議では巨人を熱望してきた長野久義を1位指名で獲得した。 2010年 開幕直後に前年限りで現役を引退しコーチとなっていた木村拓也が試合前の練習中にクモ膜下出血で倒れ急死、野手では亀井義行、投手ではゴンザレスが不調でグライシンガーも故障で長期離脱だったが、ルーキーの長野久義を加えた強力打線は球団史上4度目のシーズン200ホームラン越え(226本)と相変わらずで開幕からしばらくの間は先発投手陣も好調であり、首位に立っている時期も長かったが、7月以降は相次いで好調だった先発投手陣が不調に陥り、野手陣でも坂本と松本が調子を落としてしまう。また、この年のクローザーのマーク・クルーンが不振に陥り、抑え投手がたびたび変わる等中継ぎ投手陣も安定しなかった。それでも最後まで首位争いに絡み続けるが、前述の投手陣の低迷とナゴヤドームの中日戦で2勝10敗と大きく負け越したのが響き、中日と1ゲーム差ながらリーグ4連覇を逃しただけではなく、引き分け以上で2位(クライマックスシリーズではホームアドバンテージを得る事が出来る権利)が確定する10月8日のヤクルトとの最終戦では4-3と1点リードで9回に登板したクルーンが2アウト且つ2ストライクと後1球のストライクで勝利が確定する所まで追い込みながら畠山和洋に同点タイムリーを打たれると、木佐貫との交換トレードで加入した高木康成が1死2塁3塁のピンチで川本良平にライトスタンドへ飛び込む勝ち越しの3ランホームランを浴びてしまい逆転負けで3位に転落した。クライマックスシリーズでは甲子園での第1ステージで阪神に2連勝し勝ち上がるものの、続く第2ステージでは中日相手に1勝4敗で敗れ敗退している。この年、南海ホークスを経験した最後の現役選手であった大道典嘉が引退した。また不安定な投球が目立ったクルーンが翌シーズンの構想から外れ退団した。ドラフト会議では、中央大学の澤村拓一をドラフト1位で指名し獲得した。 2011年 この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で開幕が3月25日から4月11日に延期。開幕戦は山口県の宇部市野球場で行われ、1952年のフランチャイズ制導入以後、地方球場で初となる巨人主催試合開幕戦となった。また電力の節電要請で4月の東京ドームの使用を自粛、延期になった分を含めて大幅に試合日程が変更となっている。この年から導入された統一球の影響を12球団で一番と言って良い程もろに喰らってしまい、小笠原とラミレスが不調に陥り、打撃陣全体の長打力も2010年までと比べると激減(特に本塁打)する等、打撃陣が不振に陥った。一方で投手陣はルーキーの澤村拓一が4月21日に初勝利を挙げるなど、先発投手陣が引っ張った。その反面、前半は抑え投手が固定出来なかったこと、阿部慎之助が開幕時にケガで離脱したこと、獲得した多くの外国人選手が活躍できなかった事もあり、オールスターまでの前半戦はBクラスに低迷することとなった。後半戦に入り抑え投手に久保裕也が固定できたことなどで8月に7連勝するなど調子を上げていく。終盤は阪神との3位争いとなったが、10月の阪神、中日との6連戦を5勝1敗として、クライマックスシリーズ進出を決め、最終的には首位から3.5ゲーム差の3位で終えている。クライマックスシリーズはヤクルトと対戦するが、先発投手が好投するも継投でつまづき1勝2敗で敗退している。打撃陣では長野が首位打者、藤村大介が盗塁王のタイトルを獲得している。11月11日、ヘッドコーチ人事を巡って清武英利球団代表が渡邉球団会長が不当に介入したとして渡邉球団会長を告発する問題が起きた。清武球団代表はこれを理由に18日付で職を解任されている(詳細は清武の乱参照)。このオフ、FAで横浜DeNAベイスターズから村田修一を、ソフトバンクから杉内俊哉をそれぞれ獲得した。その一方で外国人と移籍組で史上初の先発4番としての通算100号を達成したラミレス、グライシンガー、大村三郎、鶴岡一成らが退団した(ラミレスと鶴岡はDeNAに、大村とグライシンガーはロッテにそれぞれ移籍)。 2012年 3月15日、球団が1997年から2004年度に6選手と結んだ契約でこのうち計27億円が最高標準額(2007年までは上限ではなく超えても構わないというのがプロ野球全体の理解であり、超過の場合に制裁措置と定められたのは2007年以降)を超過していたのではないかと朝日新聞の記事で報じられた。開幕序盤は球団史上初の開幕戦完封負けを喫するなど低迷し、4月4日の対広島戦(マツダ)に敗れ単独最下位となり、開幕8試合で5度の完封負けで46イニング無得点を記録するなど、4月は2度の5連敗を記録した。しかし、原監督は「必ず噛み合う様になる」と信じた通り、5月は6日の阪神戦から25日のロッテ戦まで破竹の10連勝(3分挟む)を記録、5月14日に勝率5割としている。交流戦に入っても好調は続き、6月6日にリーグ首位に立ち、6月16日の対楽天戦(Kスタ宮城) に勝利して、17勝7敗でセ・リーグ球団初の交流戦優勝を達成。その後中日との首位争いとなるが、東京ドームで行われた6月29日からの中日戦をスウィープ(同一カード3連勝)して7月1日に首位に立つと、前半戦を中日と4.5ゲーム差、貯金20の首位で折り返す。後半戦に入っても7月は14勝4敗3分け(勝率.778)と一気に駆け抜けると8月には6連勝と7連勝を記録、8月23日に優勝へのマジックナンバー30を点灯させ、9月8日の対ヤクルト戦(新潟)に勝利してクライマックスシリーズ進出を決め、1度も優勝へのマジックナンバーを消滅させる事なく9月21日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で勝利して3年ぶり34度目のリーグ優勝を達成。最終的に86勝43敗15分で、2位中日に10.5ゲーム差。最終戦ではDeNAに2-1でサヨナラ勝ちしDeNA相手に東京ドームで無敗を記録した。打者では阿部慎之助が首位打者、打点王の二冠、長野と坂本が最多安打を獲得、投手では15勝の内海哲也が最多勝、杉内俊哉が最多奪三振、最高勝率の二冠を獲得した。チームとしても防御率2.16は、1966年の西鉄ライオンズ(2.13)以来の好成績となり、2年目の澤村が10勝、ソフトバンクから移籍した杉内とホールトンが12勝と1990年以来となる二桁勝利の投手が4人誕生。ルーキーの高木京介が球団記録の29試合連続無失点を記録した。クライマックスシリーズファイナルステージでは2位の中日と対戦するが、3連敗で中日に王手をかけられ土俵際まで追い込まれた後に怒涛の3連勝という、クライマックスシリーズ史上初の3連敗からの3連勝で日本シリーズ進出を決める。3年ぶりに実現した日本ハムとの日本シリーズは主将の阿部が負傷離脱するアクシデントに見舞われながらその阿部が6戦目で決勝タイムリーを放ち4勝2敗で3年ぶり22度目の日本一を達成。アジアシリーズ2012では決勝戦で台湾のLamigoモンキーズに6対3で勝利し、初のアジア王者となった。これで交流戦、セ・リーグ、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズの全てで優勝し、日本プロ野球史上初の5冠を達成した。ドラフト会議では前年日本ハムの1巡目指名を拒否した東海大の菅野智之を単独指名で獲得した。また東野峻をオリックスへトレードし、交換で阿南徹と香月良太を獲得した。 2013年 開幕から球団タイ記録の7連勝を飾り、5月5日の東京ドームでの対広島戦の試合前に終身名誉監督の長嶋茂雄と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている。交流戦は13勝10敗の3位。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し。8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯。9月7日に7年連続でクライマックスシリーズ進出が決定。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れたため、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、首位を譲らなかった。広島とのクライマックスシリーズファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた。迎えた楽天との日本シリーズでは第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の田中将大にこの年初の黒星をつけタイに持ち込むが、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した。この年のオフにFAで西武の片岡治大と広島の大竹寛、中日を自由契約となった井端弘和を獲得した。 2014年 球団創設80周年を迎えた。4月19日、キューバの国内リーグ「セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル」の中心選手であるフレデリク・セペダと契約。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した。シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0.5ゲーム差となるが、9月に入り4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。20日の対ヤクルト戦に勝利し、クライマックスシリーズ進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した。なお打線では規定打席に到達しての3割打者がおらず、チーム打率はリーグでブービーの.257(厳密には.25668)と平成に入ってリーグ優勝を果たしたシーズンとしては1996年の.25269、2012年の.25643に次ぐ低い水準だった。2位の阪神とのCSファイナルステージでは菅野と大竹を欠いた状態で臨んだ事が響いてCS史上初の4連敗で敗退し、日本シリーズ進出を逃した。同年オフ、東京ヤクルトスワローズから相川亮二がFA権を行使して入団、また横浜DeNAベイスターズから金城龍彦も入団した。さらに、テキサス・レンジャーズからマイルズ・マイコラス、アーロン・ポレダを獲得した。同年に木田優夫が引退し、後楽園球場が本拠地だった時代に在籍していた選手が姿を消した。 2015年 序盤はDeNAと首位を争う展開となった。4月15日に監督の原がB型インフルエンザウイルスに感染し、当面自宅で静養となり監督代行をヘッドコーチの川相が務めることが発表された。約1週間の休養を経て、4月21日の広島戦で復帰。4月末、阿部、坂本、亀井が故障離脱、レイズから自由契約になっていたホアン・フランシスコを獲得した。交流戦では4年ぶりに負け越し11位に終わった。6月後半に首位の座を阪神に明け渡すも、7月にはすぐに首位に復帰。しかし前半戦最後のカードの対DeNA戦に3連敗を喫し首位から陥落、前半戦を2位で通過した。7月18日、ニューヨーク・メッツ3Aからアレックス・カステヤーノスを獲得した。8月5日の対ヤクルト戦(神宮)において、公式戦通算10,000試合を達成した。阪神、オリックス、中日に次いでプロ野球4球団目となった。後半戦は阪神・ヤクルトとの優勝を競ったが、カステヤーノスらを補強しても相変わらず打線が不振で、首位に立つチャンスを幾度となく逃し、終盤はヤクルトや阪神の後塵を拝する事になる。9月27日に東京ドームでのヤクルト戦を1-2で落としてヤクルトの優勝マジック3を点灯させた事が決定打となり、10月2日にヤクルトが優勝した事でリーグ4連覇への挑戦は失敗に終わり、レギュラーシーズンは2位で終えた。CS開幕前の10月5日に所属選手の野球賭博への関与を告発した。クライマックスシリーズのファーストステージは、シーズン3位の阪神と対戦、2勝1敗で勝利する。シーズン1位のヤクルトとのファイナルステージでは、初戦こそキャプテン・坂本の2ランホームランなどもあり勝利を挙げたものの、2戦目以降は勝ち頭のマイコラス・菅野で落とし、打線も2戦目以降は規定打席越えの3割打者が1人もいなかった事を象徴する貧打、26イニング連続無得点などもあり3連敗した。最終的には1勝4敗(アドバンテージ1敗含む)で、2年連続で日本シリーズ進出を逃した。なお、巨人が2年連続でCSファイナルステージで敗退したのはこれが初めて。そしてCS終了後、原は辞任を表明、10月19日、記者会見で原が監督退任を正式表明し、第2次体制の10年、第1次体制と合わせて12年間の監督生活にピリオドを打った。次期監督として球団OBで野球評論家の江川卓やヘッドコーチの川相昌弘、打撃コーチ兼外野手の高橋由伸などが候補と報道された。10月22日、2016年シーズンから、一軍、二軍のほかに育成選手を中心とした三軍を編成することを発表。10月23日、高橋由伸の新監督就任および2015年限りの現役引退が発表された。同時に井端弘和と金城龍彦が引退し、それぞれ一軍内野守備・走塁コーチ、三軍打撃コーチに就任した。10月26日、高橋の監督就任会見が行われた。3年契約で背番号は現役時代と同じ「24」。また、前監督の原辰徳が2016年1月1日付で、球団特別顧問に就任することが決定。11月23日に行われたジャイアンツ・ファンフェスタ2015において高橋由伸の現役引退および監督就任セレモニーが行われた。シーズンオフには埼玉西武ライオンズから脇谷亮太が古巣に復帰、長打復活のためにニューヨーク・ヤンキースから4番候補のギャレット・ジョーンズ(登録名:ギャレット)、千葉ロッテマリーンズから自由契約となったルイス・クルーズを獲得し、打線強化を図った。
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