中国人民志願軍の参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)
「ダグラス・マッカーサー」の記事における「中国人民志願軍の参戦」の解説
詳細は「中国人民志願軍」を参照 仁川上陸作戦の大成功によりマッカーサーの自信は肥大化し、その誇大な戦況報告にワシントンも引きずられ、統合参謀本部は国連決議を待たず、9月28日付で北朝鮮での軍事行動を許可した。戦争目的が「北朝鮮軍の侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」にエスカレートしたのである。国防長官ジョージ・マーシャルはマッカーサーに「38度線以北に前進することに関して、貴下には戦略的・戦術的に何の妨げもないものと考えていただきたい」と極秘電を打つと、マッカーサーは「敵が降伏するまで、朝鮮全土が我が軍事作戦に開かれているものと理解する」と回答している。しかし、中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の部隊は使用しない」「中国東北部およびソ連領域への空海からの攻撃を禁止する」という制限を設けた。中ソの全面介入の防止の他にも、ホイト・ヴァンデンバーグアメリカ空軍参謀総長は、空軍の作戦域を拡大することで自然・戦闘損失で空軍力を消耗し、その補充のために2年間はヨーロッパ方面の防空力が裸になると考え、国防総省もその考えを支持し、マッカーサーにも伝えられた。しかしこの作戦制限は、全面戦争で勝利することが信条のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じられなかった。 10月15日にウェーク島で、トルーマンとマッカーサーは朝鮮戦争について協議を行った。トルーマンは大統領に就任して5年半が経過していたが、まだマッカーサーと会ったことがなく、2度にわたりマッカーサーに帰国を促したが、マッカーサーはトルーマンの命令を断っていた。しかし、仁川上陸作戦で高まっていたマッカーサーの国民的人気を11月の中間選挙に利用しようと考えたトルーマンは、自らマッカーサーとの会談を持ちかけ、帰国を渋るマッカーサーのために会談場所は本土の外でよいと申し出た。トルーマン側はハワイを希望していたが、マッカーサーは夜の飛行機が苦手で遠くには行きたくないと渋り、結局トルーマン側が折れて、ワシントンから7,500 km、東京からは3,000kmのウェーク島が会談場所となった。 トルーマンが大いに妥協したにもかかわらず、マッカーサーはこの会談を不愉快に思っており、ウェーク島に向かう途中もあからさまに機嫌が悪かった。同乗していた韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオに、「(トルーマンの)政治的理由のためにこんな遠くまで呼び出されて時間の無駄だ」と不満をもらし、トルーマンが自分の所(東京)まで来てしかるべきだと考えていた。トルーマンの機を先に着陸させるために島の上空でマッカーサー機が旋回していた、会談に1時間遅れて到着したためトルーマンが激怒して「最高司令官を待たせるようなことを二度とするな。わかったか」と一喝したなどのエピソードが流布されているがこれは作り話である。実際にはマッカーサーはトルーマン機の到着を滑走路上で出迎え、そのまま共に会談が行われた航空会社事務所に向かっている。 その後の会談ではマッカーサーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は感謝祭までに終わり、兵士はクリスマスまでには帰国できる」と言い切った。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もよりトルーマンへの敵意を強め、破局は秒読みとなった。 その後もマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境の鴨緑江にまで迫った。先にソ連に地上軍派遣を要請して断られていた金日成は、1950年9月30日に中国大使館で開催された中華人民共和国建国1周年レセプションに出席し、その席で中国の部隊派遣を要請し、さらに自ら毛沢東に部隊派遣の要請の手紙を書くと、その手紙を朴憲永に託して北京に飛ばした。毛沢東はすぐに行動を起こし、10月2日に中国共産党中央政治局常務委員会を招集すると「一日の遅れが将来にとって決定的要因になる」「部隊を送るかどうかが問題ではなく、いつ送るか、誰が司令官になるかだ」と政治委員らに説いた。政治委員らも、アメリカ軍が鴨緑江に到達すれば川を渡って中国に侵攻してくる、それを阻止するには部隊派遣をする必要がある、との考えに傾き、毛沢東の決断通り部隊派遣を決め、10月8日に金日成に通知した。ただしアメリカとの全面衝突を避けるため、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍から組織するが、形式上は義勇兵とした「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の派遣とした。毛沢東はヨシフ・スターリンに航空支援を要請するが、スターリンはアメリカとの直接対決を望んでおらず、毛沢東に中国国内での上空支援と武器・物資の支援のみに留めるものにすると返答している。中国軍の指揮官となった彭徳懐は、ソ連の航空支援なしでは作戦に不安を感じていたが、部隊派遣は毛沢東の強い意思で予定通り行われることとなった。さらに毛沢東は北朝鮮軍の指揮権も彭徳懐に一任することと決め、戦争は中国の指揮下に置かれることとなった。 10月10日に約18万人の中国野戦第4軍が鴨緑江を越えて北朝鮮入りし、その数は後に30万人まで膨れ上がった。マッカーサーはこの危険な兆候を察知していたが、敵の意図を読み取ることが出来ず、一層攻撃的になった。当初はトルーマンの指示通り、国境付近での部隊使用を韓国軍のみとするため、中朝国境から40から60マイル(64kmから97km)離れた場所を韓国軍以外の国連軍の最深到達点と決めたが、10月17日にはトルーマンの指示を破り、その最深到達点を中間点に変え、さらに国境深く前進するように各部隊司令官に命令した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給が困難となっていったが、マッカーサーはその事実を軽視した。マッカーサーのこの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった。かつて毛沢東が参謀の雷英夫にマッカーサーの人物について尋ね、雷英夫が「傲慢と強情で有名です」と回答すると、毛沢東は「それであれば好都合だ、傲慢な敵を負かすのは簡単だ」と満足げに答えたということがあったが、いまや中国が望むのはさらにマッカーサーが北上を命令し、補給ラインが危険なまでに伸びきることであった。しかし中国の罠にはまるようなマッカーサーの命令違反に、表立って反対の声は出なかった。マッカーサーの圧倒的な名声にアメリカ軍内でも畏敬の念が強かったこと、また強情なマッカーサーに意見するのは無益だという諦めの気持ちもあったという。そのような中でも副参謀長のマシュー・リッジウェイは異論を唱えたが、意見が取り上げられることはなかった。 待ち受ける中国人民志願軍の大軍は、降り積もる雪とその自然環境を巧みに利用し、アメリカ軍に気づかれることなく接近することに成功した。S.L.Aマーシャル(英語版)はその見事な組織力を『影無き幽霊』と形容し「その兵力、位置、どこに第一撃を加えてくるかの秘密は完全に保たれていて、二重に武装しているに等しかった」と賞している。10月26日には韓国軍と中国軍の小競り合いがあり、中国兵の18名を捕虜にし、救援に駆けつけたアメリカ軍第1海兵師団は中国軍の戦車を撃破している。またアメリカ第8軍司令ウォルトン・ウォーカー中将は非常に優秀な中国軍部隊が国境付近に存在することを敏感に感じ取っており、慎重に進撃していたが、これらの情報が重要視されることはなかった。というのも連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部(G2)部長チャールズ・ウィロビーらマッカーサーの幕僚らは、マッカーサーの先入観に疑いを挟むような報告を最小限に留め、マッカーサーに正確な情報が届かなかったことも一因であった。通常の指揮官であればできるだけ多くの正確な情報を欲しがるが、マッカーサーは情報報告が自分の行おうとしていることに完全に融合しているのを望んでいた。ウィロビーらはマッカーサーの性格を熟知しており、マッカーサーがやろうとしている鴨緑江への最後の進撃を妨害するような情報をそのまま上げることはせず、慎重に細工された情報をマッカーサーに報告していたため、マッカーサーに正確な情報が届いていなかった。そのため、新聞各紙が先に中国軍の不穏な動きを察知し記事にしたが、GHQはワシントンに「確認されていない」と楽観的な報告をしている。 そのような状況下で、11月1日に中国人民志願軍が韓国軍第二軍団に襲いかかった、韓国軍3個師団は装備を放棄して全面的に敗走した。朝鮮半島は国境に近づくほど北に広がっているため、国境に向けて進撃していたアメリカ第8軍と第10軍の間はかなり開いていた。その第8軍の右翼に展開していた韓国軍が崩壊すると、中国人民志願軍は笛や喇叭を鳴らしながら第8軍の側面に突撃してきた。第8軍は人海戦術の前に、たちまち大損害を被った。マッカーサーは中国軍の大攻勢開始の報告を受けてたが、中国が本格的に介入してきたのかどうか判断することが出来ず、自分自身で混乱していることを認めた。そのため、前線部隊への的確な指示が遅れ、その間に各部隊は大きな損害を被ることとなった。戦況の深刻さをようやく認識したマッカーサーは国防総省に「これまで当司令部はできる限りのことをしてきたが、いまや事態はその権限と力を超えるとこまで来ている」「われわれは全く新しい戦争に直面している」といささかヒステリックな打電を行っている。
※この「中国人民志願軍の参戦」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「中国人民志願軍の参戦」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。
中国人民志願軍の参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)
金日成は北朝鮮が滅亡の危機に瀕するとまずソ連に援軍を求め、スターリンへ戦争への本格介入を要請したが、スターリンは「勝利には少しばかりの挫折や敗北は伴うものだ。北朝鮮は、アジアにおける帝国主義に対抗する解放運動の旗手だ。金日成同士よ、忘れないで欲しい。あなたは孤立していない」として矢面に立つことを避け、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と回答してきた。 当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てており、この頃、スターリンはモスクワに東ヨーロッパの指導者を集めて「無敵と言われていたアメリカは北朝鮮にさえ勝てない。これでアメリカは今後2~3年、アジアで足止めされるだろう。これは我々にとって好都合だ。ヨーロッパにおける軍事基盤を固めるため、このチャンスを有効に活かすべきだ」と呼びかけており、アメリカをアジアに釘付けにすることでヨーロッパでの覇権争いを有利に進めようとした。 ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めた。中国では、数名の最高幹部は参戦を主張したが、毛沢東共産党主席と林彪や残りの多くの幹部は反対だった。国連軍の反撃に遭い苦境に陥った金日成が、「敬愛する毛沢東同志! 我々の力だけでは、この危機を乗り越えることは困難です。中国人民解放軍を出動させ、敵と戦って下さい」と援軍を求めたが、毛沢東は金日成を相手にせず、「慎重に検討した結果、軍事行動は厳しい結果を招くという結論に達しました。我が軍の装備は貧弱で、アメリカ軍に勝つ自信はありません。さらに中国が参戦すれば、アメリカとの全面戦争に突入する危険があります」として参戦は難しいとスターリンに弁明した。反対理由としては次のようなものがあった。 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い 長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い 1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える中国国民党の蔣介石総統による「台湾国民政府」の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など「国内問題」の解決を優先すべき しかし、スターリンは毛沢東をとがめ、いずれ日本の軍国主義が復活し、朝鮮半島の戦火は中国に及ぶと揺さぶりをかけ、中国人民解放軍の参戦をけしかけ、毛沢東にはスターリンから参戦をけしかける電報が届けられた。そして、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された。副司令官は北朝鮮で要職を務めていた朝鮮族出身の朴一禹を任じ、12月の中朝連合司令部の設置からは朴一禹が朝鮮人民軍を主導することになる。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで26万人、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。 参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。 中朝国境付近に集結した中国軍は10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始した。中国軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。 中国軍の作戦構想は平壌-元山以北に二重、三重の防御線を構築し、国連軍が北上すれば防御戦を行い、国連軍が停止すれば攻勢に転ずるものであった。しかし中国軍が北朝鮮に進撃した10月19日に平壌は占領されたため、これは不可能となった。そこで彭徳懐は亀城-球場洞-徳川-寧遠の線で国連軍を阻止しようとしたが、これも韓国第2軍団の急進撃で不可能となった。さらにこの時の中国軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力であった。このため彭徳懐は防御によって国連軍を阻止することは困難と判断し、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、その成果として国連軍を阻止しようとした。 それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。10月25日、クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報を報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた。またマッカーサーの元にも同様な情報が届けられたが、この情報は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーにより、マッカーサーに届けられる前に、マッカーサーの作戦に適う情報に変更されていた。第10軍団参謀ジョン・チャイルズ中佐は「マッカーサーは中国が朝鮮戦争に参戦するのを望まなかった。ウィロビーはマッカーサーの望むように情報を作り出した。」と指摘している通り、マッカーサーはウィロビーより下方修正された情報を報告され信じ切っており、鴨緑江を越えて北朝鮮に進撃した中国兵は30,000名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている。 マッカーサーの作戦は朝鮮半島の西部をウォーカーの第8軍、東部をアーモンドの第10軍団、中央を韓国軍が鴨緑江を目指し競争させるものであった。10月26日、韓国軍第6師団第7連隊の偵察隊が遂に鴨緑江に達し、マッカーサーはその報告に歓喜した。同日に長津湖に向かって移動中だった韓国第1軍団の第26師団は上通で強力な敵と交戦したが、迫撃砲を中心とした攻撃に大韓民国国軍はこれを朝鮮人民軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国軍の大部隊が中朝国境の鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。韓国軍部隊は第8軍に中国軍の介入を報告したが、中国が公式に介入したという兆候が見られなかったため、私的に参戦した義勇兵と判断した。10月28日には米第1海兵師団も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた。 前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった。 さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた。清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した。その後、前線から中国軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した。中国軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった。 毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ。 マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍団が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍団の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、最もあてにならないと思われていた。 11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散った。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍団のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している。しかし実際には前進どころか、第10軍団の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた。 ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し、またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった。 中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった。 マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍団を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った。退却した距離は10日で200kmにもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ。 12月11日、戦況が悪化した為、大韓民国の李承晩政権は国民防衛軍法を発効すると直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した。
※この「中国人民志願軍の参戦」の解説は、「朝鮮戦争」の解説の一部です。
「中国人民志願軍の参戦」を含む「朝鮮戦争」の記事については、「朝鮮戦争」の概要を参照ください。
- 中国人民志願軍の参戦のページへのリンク