中国人奴隷、朝鮮人奴隷の貿易とは? わかりやすく解説

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中国人奴隷、朝鮮人奴隷の貿易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:06 UTC 版)

奴隷貿易」の記事における「中国人奴隷、朝鮮人奴隷の貿易」の解説

前期倭寇朝鮮半島山東遼東半島での人狩り捕らえた人々手元において奴婢として使役するか、壱岐対馬北部九州奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。 後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易行い中国東南部江南、淅江、福建などを襲撃し住人拉致捕らえられたものは対馬松浦博多薩摩大隅などの九州地方奴隷として売却された。 1571年スペイン人調査報告によると、日本人海賊密貿易商人支配する植民地マニラカガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエンバターン、カタンドゥアネスにあったマニラの戦い (1574)カガヤンの戦い (1582)影響力低下したが、倭寇貿易ネットワークフィリピン北部に及ぶ大規模なのだった乱妨取り文禄・慶長の役朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大東南アジア拠点拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地売却され奴隷一部ポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインド送られものもいたという。イエズス会倭寇恐れており、1555年書かれ手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇一団から身を守るために、宣教師たち武器に頼らざるを得なかったことを語っている。 鄭舜功編纂した百科事典日本一鑑』は南九州高洲では200-300人の中国人奴隷家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人福州興化泉州漳州出身だったという。 歴史家米谷均は八の事例挙げている。浙江漁師で、1580年倭寇捕らえられた。薩摩京泊に連れて行かれ、そこで仏教僧に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬中国人商人売られた。6年間、対馬働き、自由を手に入れたは、平戸移り住んだ平戸では、や布を売って生活していた。そして1590年中国船でルソン島渡り翌年中国帰国することができたという。 文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に 日本よりもよろずの商人も来たりしたなか人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き男女老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て歩み候わねば後よりにて追い立て打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹罪人責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えをくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 慶念『朝鮮日々記』 と記録残している。 渡邊大門によると、最初乱取り禁止していた秀吉方向転換し捕らえた朝鮮人進上するように命令発していると主張している。 多聞院日記によると、乱妨取り拉致され朝鮮人女性子供略奪品一緒に対馬壱岐経て名護屋送られた。 薩摩武将大島忠泰の角右衛門という部下朝鮮人奴隷国許に「お土産」として送ったと書状に書いている。

※この「中国人奴隷、朝鮮人奴隷の貿易」の解説は、「奴隷貿易」の解説の一部です。
「中国人奴隷、朝鮮人奴隷の貿易」を含む「奴隷貿易」の記事については、「奴隷貿易」の概要を参照ください。

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