植村直己 冒険スタイル

植村直己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 14:35 UTC 版)

冒険スタイル

単独行に傾倒した以降[いつ?]の植村は、アマゾン川単独筏(いかだ)下り、犬ぞりによる北極点到達単独行、犬ぞりによるグリーンランド縦断単独行など数々の有名な冒険を達成している。

単独行の際の特徴としては、例えば登山における高度順化を目的とはせず、冒険する現地で生活し、現地の人びとの生活に慣れ技術を習得するような“生活順化”をする点が挙げられる。

特に、犬ぞり行に先立つ約5か月間、単身、グリーンランドのエスキモーと共同生活し、衣食住や狩り釣り・犬ぞりの技術などを極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。それらは、犬ぞり行でシロクマに襲われた翌日に同じシロクマと思われる個体を狩りでしとめ、さばいて生肉を食べ極地では貴重なタンパク質を摂取するなどに活かされた。キビヤックは、特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だった[476]

冬山単独行では、1964年11月、モンブランクレバスに落ちた際に、アイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた[477][注 175]。植村が行方不明となった最後のマッキンリー(現:デナリ)の山行においても、腰に竹竿をくくりつけて登攀して行く姿が見られた[478]

エピソード

生まれ故郷にある植村直己冒険館
  • 日本人初のエベレスト登頂に成功した際、松浦輝夫の前を歩いていた植村は、頂上まであと10mのところで松浦に道を譲り、松浦を先に頂上に立たせたと、植村は自著に書いている[191][479]。しかし、松浦の証言によると、植村に「どうぞ、先に登ってください」と言われた松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立った[480][193]
  • エベレストに登頂した際、「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と松浦輝夫を説得し、「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」という言い訳を考え、NHKから渡されていた最新型のビデオカメラを山頂に置いてきた。(カメラは、その翌日、日本の第2次登頂隊[注 176]によって発見され、無事に日本に戻ってきた。)
  • エベレストの山頂に、植村がアマゾン川を筏(いかだ)下りしていた頃に日本で交通事故死した、明治大学山岳部同僚・小林正尚の生前の写真を埋めた[482][483]。(一緒に登頂を果たした松浦輝夫も同じく、山頂に写真を埋めている[注 177]。)その後、帰国した植村は、小林の家を訪ねて、仏壇の前で、「お前の代わりにエベレストに登ったよ。頂上の石も持って来たぞ」と言うなり、声をあげて泣き出した[193]
  • 犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った毎日放送から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影した。周囲には誰もいないことから、その後、彼方から引き返しカメラとフィルムを回収するという貴重な記録映像となった。当時の番組では、その「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送された。

死去に対する反応

記者「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」
公子「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)[490][491]
記者「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」
公子「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして、)反対しても出かけていく人でした[492]
  • 行方不明後、標高4,200mの雪洞で発見された日記には、登頂アタック前の最後の日である2月6日日付で、最後に「何が何でもマッキンリー登るぞ[注 179]」と書かれていた[493]。これについて野口健は、「何がなんでも」という言葉は素人が使う言葉であり、その言葉を変えれば「いかなる状況下においても決行せよ」という意味であると解釈している[494]。その上で「自然を相手に、植村さんなら、そんなことするべきではないってよくわかってるはずですよね。だから、その彼がどうしてなのか、と。」と疑問を呈している[494]

注釈

  1. ^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
  2. ^ アラスカ州裁判所による死亡認定をもとに、1985年1月、板橋区役所死亡届が受理された[4][5]
  3. ^ 日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長:松方三郎、登攀隊長:大塚博美)の一員として、松浦輝夫と共に登頂した。
  4. ^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
  5. ^ 「かみのごう」と読む。
  6. ^ 兄4人、姉2人である[8]。なお、直己のすぐ上の兄は2歳で死去した[9]
  7. ^ 植村の誕生当時は農業のみであり、植村が小学校高学年の頃からわら製造も始めた[13]
  8. ^ 1970年日本人初のエベレスト登頂に成功した際、遠征隊を後援していた『毎日新聞』では「直巳」と表記された[6]
  9. ^ 新日本運輸からの採用通知の1週間後に、関西大学からの合格通知が届いたが、新日本運輸が親戚の紹介先であったことから、進学を諦めて就職した[27][28]
  10. ^ 大学に進学したのは、「東京では学歴がある者が勝つ。東京で勤めるなら、その前に、大学に行かねば」と思ったからである[29][31]。また、同大学の農産製造学科を受験したのは、家の農業のためではなく、志望者が少なくて、入学が比較的容易であったため[32][33]
  11. ^ 山岳部に入れば、緑の見られない都会の雑踏から逃れられ、自然の中で山に登ることもでき、また、テントで同じの飯を食えば、友だちも得られると思ったからである[32]
  12. ^ 植村は、自著に「あれほどみじめなことはなかった」と記している[36]
  13. ^ 後に植村は「あれほどの屈辱を感じたことはない」と親しい友人たちに話している[37]
  14. ^ 毎朝6時に起きて、山道を約9kmランニングした[38]
  15. ^ テント無しの、雪洞での山行であった[40]
  16. ^ 植村は、この山行を、サブリーダーとして人の上に立つための試練と考えた[40]。しかし、これは山岳部に無届でしたものであり、これまでも他に単独山行をしていたことも含めて、部に知れるところとなり叱責された[44]
  17. ^ チーフリーダーは、小林正尚であった[45][39]
  18. ^ 植村修は、1931年5月3日生まれであり[50]、直己とは10歳近く歳が離れている[51]
  19. ^ その理由を、植村は両親に「世の中に植村直己の名を残したい」からと語っている[55]
  20. ^ 貿易の自由化に伴い、観光旅行が自由に認められるようになるのは、1964年になってからである[54]
  21. ^ この再入学は、海外旅行をする上で学生の身分の方が何かと有利ではないかと考えたからだと思われる[58]
  22. ^ パンキュウリを食べて支出を減らそうと考えていた[59]
  23. ^ 実家に帰って、父母に相談したが大反対されたため、近くの円山川の橋で泣いた後、部屋で布団をかぶって3日間断食した[60]。困り果てた父母は、植村の長兄の植村修に判断を一任し、植村修は弟・直己の思いを理解し、渡航を承諾してくれた[61]
  24. ^ ロサンゼルスの外港のサンペドロに入港した[67]
  25. ^ 植村は少しは英語を話せるようになっていたが、それでは本心が伝えられないと思い、名前以外は何を聞かれても、日本語しか話せないと繰り返して言った[71]。そこで、通訳として日系人が呼ばれ、その人に登山の資金を貯めるために働いていることを、「機関銃のようにしゃべりまくった」。その結果、取調官の“温情”措置により、強制送還を免れることができた[72][73]
  26. ^ 山頂が氷に覆われており、気候によって標高が変動する。2007年の計測では4,810.9m。
  27. ^ 雪をかぶって表面からは見えないクレバスである。
  28. ^ 約2m落下したところで、頭を打って気絶したが、アイゼンの爪が氷壁に引っかかり、背中のザックと胸がはさまって、植村いわく“見事に”止まった。
  29. ^ 植村はあまりスキーが上手くなかったが、就職面接の際、ジャン・ヴュアルネの前で「私はグッド・スキーヤーだ」と言い、スキーで滑る真似をしてみせた。そのとき、ヴュアルネは、植村の“嘘”を見抜いていたが、それを指摘もせずに採用してくれた[77]
  30. ^ 正確には、「明治大学ネパールヒマラヤ学術調査隊」である[81]
  31. ^ 登山隊長・高橋進、藤田佳宏、平野真市、尾高剛夫、小林正尚、入沢勝、長尾悌夫である[83]
  32. ^ 学術調査隊の隊長である渡辺操(明治大学山岳部長)が急用のため帰国したため、その代わりということで入山を許可された[84]
  33. ^ イタリアのローマからカトマンズまでは飛行機を利用した。これは、明治大学隊に合流するのに日数がなかったからである[86]。なお、航空運賃は、植村からの要請を受けて、長兄の植村修が負担した[87]
  34. ^ 植村は、中島祥和(明治大学山岳部の2年先輩)への手紙に「泥棒猫みたいなことをしてしまった」と記している[91]
  35. ^ お金を持っていなかった植村の代わりに、ジャン・ヴュアルネが入院費用の支払いをしてくれた[97][98]
  36. ^ この頃、植村は、山行資金を貯めようとしてお金を節約するために、有料の宿舎ではなく、ロープウェイ終点にある板囲いの機械小屋で暮らしていた[99]。また、主食じゃがいもフレンチフライであり、これにパンとスープを添えて食べていた[100][101]
  37. ^ クレバスに落ちないよう、スキーのポールを腰に付けた[103]
  38. ^ イタリア側西稜ルートでの登頂である。
  39. ^ 「荷物を積み入れる船底の広間」の4等船室であり、「部屋というよりは監獄という方がふさわしい」ところだった[106]
  40. ^ 標高4,700m超の山小屋までガイド(兼ポーター)1人が同行した[108]。なお、このガイドは山岳ガイドではなく、ジャングルを通るために雇ったものである[109]
  41. ^ 最高峰のバティアン峰(標高5,199m)の登頂は断念した[107]。この主峰は、岩登りで大変な時間がかかるためであった[110]
  42. ^ キリマンジャロケニア山と並んでアフリカ3山と呼ばれる、ウガンダのルーエンゾリ(標高5,110m)にも登りたかったが、手持ちの資金が少なく、断念した[112][113]
  43. ^ 1968年日本大学隊(隊長・池田錦重[120])がグリーンランド横断を達成したため、この夢は消えた[115]
  44. ^ エスキモーと一緒に生活したいと思ったが、言葉が分からなかったため、ソーカトプン村の村はずれでテント生活した[119]
  45. ^ 船上で迎えた1968年1月1日日記に「冒険であろうと、それはわが人生の一つの遊びにすぎない」とし、「定職を持つことこそ、真の人間として生きる価値がある」と記した[123]
  46. ^ 当初は登る予定はなかったが、アルゼンチン軍によるアコンカグアの登山許可がなかなか下りなかったので、自分の実力を見せてやろうと思い、登頂した[127]
  47. ^ 正確には6,960.8m。
  48. ^ 標高4,200mの山小屋を出発してから15時間15分で登頂した[129][130][131]
  49. ^ アンデスの山に登りたかったが、雨期であったため断念した[133][134]
  50. ^ モルジヌを発つ前に植村が書いた覚え書きによると、その時点で、アコンカグア単独登頂とともに、アマゾン川下りも漠然と夢見ていた[136]
  51. ^ 自著『青春を山に賭けて』では、「アマゾン川は(中略)全長六千キロにおよぶ」としか記していない[139]が、自著『冒険』では「全行程、ザッと六〇〇〇キロ」と記している[140]。また、自著『エベレストを越えて』では、「六一〇〇キロの大河の上の一人ぼっちの生活であった」と記している[141]
  52. ^ 家畜輸送に使っていた中古であり、バルサの丸太を組んだもので、全長4m、幅2.5mの大きさであった[142]。植村はこの筏(いかだ)を15円で購入し[142]、「アナ・マリア」と名付けた[143]。これは、南米行の船上で出会い、植村が恋に落ち、結婚を申し込んだ修道女の名前である[144][145]
  53. ^ 食事は、主にバナナタロイモピラニアであった[27]
  54. ^ 山仲間の結婚式に向かう途中、自動車事故で死亡した[148]
  55. ^ 2012年の計測では6,190.4m。
  56. ^ 植村は、自著で「1か月働いた」と記している[152][153]
  57. ^ 当地の国立公園法により4人以下の登山隊の登山は許可されていない[152][155]
  58. ^ 一時は、粉末牛乳の袋詰めの仕事もした[160]
  59. ^ 地殻変動などによって、標高が年々変動している。1999年の計測では8,850m。
  60. ^ 植村より20歳近く年上である[163]
  61. ^ 偵察隊の任務は、続く第2次偵察隊と共に、未踏の南壁に登頂ルートを見つけることであった[165]
  62. ^ 明治大学山岳部の先輩である[166]
  63. ^ この現地での越冬は本部からの指示によるものであり[176]、実質的に大塚博美の考えによるものである[177][178]
  64. ^ 1965年、ゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)に、一緒に初登頂したシェルパのペンバ・テンジン宅に寄宿した[179][180]
  65. ^ 毎日、朝6時半に起き、登山靴を履いて山道を6~7kmマラソンした[181][182][183]
  66. ^ 30万円であった[187]
  67. ^ エベレスト登頂者であれば、特別に入山を許可してくれるのではないかとの“読み”があった[198][199][200]。また、エベレスト登頂後のこの時期であれば、身体が高度順化されているという利点があった[200]
  68. ^ これも正式な許可は出なかったが、公園長の好意により、書類的には、別に入山したアメリカ隊の隊員として入山する形をとることで“許可”された[201]
  69. ^ 1989年12月東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸の最高峰はモンブランであるという説が一般的であった。
  70. ^ もっと大きな氷河が見たいと思ったからである[210][211]
  71. ^ 2004年の計測では標高4,892m。
  72. ^ 隊長・小西政継、星野隆男、高久幸雄、今野和義、堀口勝年、植村の6人のパーティーであった[219]
  73. ^ 自著『エベレストを越えて』では「40年ぶりの大寒波」と記している[220]
  74. ^ 西稜ルートと南壁ルートからの登攀であった[223]。南壁からの登頂は未踏であった。
  75. ^ 1970年のエベレストで同じ隊にいた[224]
  76. ^ 予定では、小西政継が参加するはずであったが、先のグランド・ジョラス北壁で、両足指全てと手の小指1本を切断するという重度の凍傷を負った[225]ため参加できなくなった[226]
  77. ^ ザイルにぶら下がったまま疲労凍死した[229]
  78. ^ 植村は、腹を立てて「オレはやってられないよ」と伊藤に心中をこぼした[232]
  79. ^ 国際隊の解散後、植村だけがバフグナの遺族を弔問した[235]
  80. ^ 列車時刻表の鉄道距離で計算すると2995.9kmになった[236]
  81. ^ 文藝春秋』のカメラマンの安藤幹久(植村とは同年齢)が所々で自動車で同行して、植村の姿を撮影している[237]
  82. ^ を3足履きつぶし、体重が5kg減った[238]
  83. ^ 宗谷岬にある「日本最北端の地」の碑の前で撮影された写真がある[240]
  84. ^ 所持品はパンツ1枚、手帳ビニール製の雨具、タオル1枚、所持金は35,000円であった[238]
  85. ^ 表向きは、見学とその報道が目的ということでアルゼンチン軍の許可を得た[250]
  86. ^ 植村が構想していたのは、南極のロス海に面した米国設営のマクマード基地を出発し、南極点を経て、ロス海とは反対側のウェッデル海のヘネラル・ベルグラ-ノ基地(アルゼンチン)に到着するというコースであった[255]
  87. ^ この挑戦について、植村は、先の南極偵察のために『文藝春秋』から資金援助を受けたにもかかわらず、同社に黙って、アマゾン川筏下りの際の知人に会いに行った旅のことが「心にひっかかり、(中略)南極の偵察の他に、(中略)何かをやってかえる必要を感じた」からだと記している[256]。また「南極を推進するに当り、自分をもっと記録の上から他人に売り込む必要がある」からだとも記している[256]
  88. ^ 植村は、自著に「満足な装備もなく、梱包用のビニールひもをザイルがわりに使用した」と記している[258]
  89. ^ 当初はエスキモー宅に単身寄宿し、後に、廃屋ではあるが、自分専用の“家”に移り住んだ[261]
  90. ^ これに先立つ9月4日シオラパルクを偵察している[263]
  91. ^ シオラパルクからウパナビックまでの間の往復である。
  92. ^ この3,000kmの距離は、南極のロス海から南極点を経てウェッデル海までの最短コースと同じである[264]
  93. ^ 「ご親切にしてくれて、ありがとう」との添え書きがあると公子は語っている[272]
  94. ^ 出会ったのは、植村の行きつけのとんかつ屋「奴(やっこ)」であった[269][266]。植村は、自著の『青春を山に賭けて』に「謹呈 野崎公子様」と書き[注 93]、サインをして、公子に贈った[273][272]
  95. ^ 植村、以下、西村一夫、長谷川良典の3人である[275]
  96. ^ 媒酌人は、明治大学山岳部の先輩であり、日本人初のエベレスト登頂を果たしたときに登攀隊長であった大塚博美の夫妻である[280]。大塚は後に、植村がマッキンリー(現:デナリ)で消息不明となった際、植村捜索の中心として活動し、そのための特別委員会の委員長を務めた。
  97. ^ 植村は「おこがましい」として結婚式を嫌がったが、山岳部同期の廣江研が一晩かかって説得した[281]
  98. ^ 植村は、「そんな晴れがましいことをする資格はない」として披露宴をするつもりも、お金がないからと新婚旅行に行くつもりもなかったが、山岳部の仲間たちが植村を祝福しようと手配した[283]
  99. ^ 結婚式は板橋区の氷川神社[注 97]披露宴赤坂プリンスホテル新婚旅行水上温泉である[282][注 98]
  100. ^ ヤコブスハウンから出発する予定であったが、海が結氷していなかったので、12月20日、船でケケッタに向かった[288]
  101. ^ 越夏期間を除いた実質走行日数は313日である[296]
  102. ^ ソ連のスポーツ担当官も同行した[258]
  103. ^ 文藝春秋毎日新聞毎日放送である[301]
  104. ^ 電通である[302]
  105. ^ 北極点到達に成功すれば、極地探検家としての実力が認められ、南極への道が開けてくるのではないかという期待があったからである[304]
  106. ^ 正確には、コロンビア岬とエドワード岬の間の氷原(北緯83度06分、西経71度02分)である[308]
  107. ^ そり”に「オーロラ」と名付けた[310]。出発時の“そり”の大きさは、長さ4.5m、幅96cm、重さ150kgであったが、4月1日の補給の際に、長さ4.15m、幅96cm、重さ100kg弱の“そり”に交換した[311]
  108. ^ 正確には、直線距離で769kmである。ただし、乱氷群や氷丘脈があるので、まっすぐ進めるわけではない[312]
  109. ^ 無補給ではなく、ツインオッターで4回補給を受けている。また、続くグリーンランド縦断を含めて、サポートチームによる無線人工衛星による位置確認などの最新科学技術の支援を受け、それに伴い巨額の費用を要した。こうした“冒険”のあり方に批判的な意見もあり[315]、「タライの中にボートを浮かべたような」探検だという声もあった[316]
  110. ^ 植村の北極点到達は、気象衛星ニンバス6号」が植村の発信する電波を受信し、アメリカ航空宇宙局(NASA)を経由、スミソニアン研究所によって確認された[317]。なお、位置情報だけでなく、気温気圧のデータも含まれている[318]
  111. ^ 北極点到達を取材するため、植村の近くの氷上に強行着陸したチャーター機の計器は、北緯89度59分90秒を指していた[319]。北極点まで10秒 (184m) の地点であった[319]
  112. ^ スポンサーは、日本テレビ読売新聞である[320]
  113. ^ 堀江謙一も同時期に氷上ヨット(全長9.5m、幅5m、マストの高さ12m、船殻はアルミ合金製)で北極点到達を目指そうとしていた[323]が、帆走滑走)試験の段階で断念した[324]
  114. ^ 1978年9月号である。なお、記事は28ページあり、そのタイトルは『SOLO TO THE POLE』である(表紙には『SOLO TO THE NORTH POLE』と書かれている。)。
  115. ^ 北極点到達だけでなくグリーンランド縦断も行ったのは、その内陸氷床が、南極大陸冠氷とそっくりだったからである[304][326]。なお、その距離は3,000kmである[327][328]
  116. ^ 正確には、グリーンランド最南端には到達していない。最終到達地点は、北緯61度39分、西経44度15分である[329]
  117. ^ グリーンランド最南端ではなく、北緯61度39分、西経44度15分地点であり、ナルサスワックの町から約90km離れている。これより南の氷河はヒドゥン・クレバス(雪をかぶって表面からは見えないクレバス)が多く危険であるため、ここを旅のゴールとした[329]
  118. ^ このアイデアは植村が考えつき、沖縄海洋博記念の単独無寄港太平洋横断ヨットレース(1975年)で完走した小林則子に相談し、実現したものである[335]。なお、マストの高さは6mであった[334]
  119. ^ この地で記者会見を開催したのは、「世界のウエムラ」をアピールするために、電通がセッティングしたものである[337]
  120. ^ 講演1回が50万円であった[340][341]
  121. ^ サイン会1回が30万円であった[340]
  122. ^ 講演スケジュールは、電通が組んだ[339]
  123. ^ 着物姿の妻・公子が同席しており、公子と共に記念写真の撮影に応じた[348]
  124. ^ エベレストの冬期とは、正式には12月1月を指すので、その意味ではポーランド隊は冬期登頂に成功していないと、植村は主張している[357]
  125. ^ 冬期エベレスト山行に必要なシェルパの予約と、冬期初登頂に“成功”したポーランド隊に登頂状況を聞き、装備を見せてもらうためである[358]
  126. ^ 隊は、総員8人であった[360]
  127. ^ 隊長・植村、土肥正毅(明治大学山岳部の2年先輩[364])、菅沢豊蔵(明治大学山岳部の1年後輩[166])、竹中昇、松田研一、三谷統一郎である。
  128. ^ 地質学1人、雪氷2人、高所医学2人である。
  129. ^ 明治大学百周年記念の一つとして、同大学山岳部が1981年春にエベレスト遠征を決定していたことも、隊の編成に影響した[367]。明治大学山岳部の2年先輩である中島祥和は、「本来であれば、母校と合同でエベレスト登頂を目指すのが“常識”であるが、ひとつにまとめるには“障害”があった」と語っている[367]北極点グリーンランド犬ぞり単独行を支援した“グループ”との関係など様々なしがらみ、あらゆる方面への義理や、頼まれると断り切りないジレンマがあったのではないかと推測している[366]
  130. ^ 日本国内では「転落死」と報じられたが[368][369]、竹中昇の死を目前で見た植村によると、滑落はしたものの、その距離は5m以内であった。ベースキャンプに下ろされた遺体は凍結しており、明確な死因は不明である[370][350][371]。このとき、竹中は27歳、早稲田大学の学生であった[372]
  131. ^ 強風のため第4キャンプが設営できなかった[363]
  132. ^ フォークランド紛争自体は、1982年6月14日アルゼンチン軍降伏したことで終結したが、その戦争責任により、植村に協力的だったアルゼンチン軍幹部が入れ替わった影響だと思われる[380]。表向きは、南極大陸気候が不安定であり、物資補給を行う飛行機の離着陸に大きな危険が伴うためという理由であった[381]
  133. ^ 成田空港での見送りは、妻・公子と土肥正毅(明治大学山岳部の2年先輩で、冬期エベレストなどで植村と山行を共にしている。)の2人だけであった[388]。これは、植村がごく限られた人にしか今回の旅行を教えなかったからである[388]。実家にも、アメリカに渡ることすら連絡を入れていなかった[389]
  134. ^ 植村は生徒としての参加を希望したが、学校側が「世界のウエムラ」ということで準指導員(アシスタント・インストラクター)(無報酬)として迎え入れた[391][384]
  135. ^ 植村は、民間機C-130輸送機補給物資を空中投下してもらうことを構想していた[395][394]
  136. ^ この地で植村が宿泊したのは、「ラティチュード62」という名前のロッジ風のホテルである[397]。ホテル名の「62」は、ホテルが北緯62度の位置にあることにちなんでいる[396]
  137. ^ テレビ朝日取材スタッフである[402]。スタッフは、ディレクター・大谷映芳(早稲田大学山岳部OBK2の西稜ルートからの初登頂者[402])、カメラマン、助手、番組構成者の計4人である[399]が、植村のベースキャンプ入りに同行したのは、大谷、カメラマン、助手の3人である[399]
  138. ^ 登頂時刻については、翌2月13日交信の際に植村がそう発言したことによる。正確には、植村は、「7時10分前にサウスピークの頂上に立ちました」と言い、もう一度聞き直されて「きのうの夜の7時10分前にサウスピークの頂上につきまして」と言った[403][404][405]。なお、続けて「きのうの夜10時頃おり始めましたんですが、ルートがよく分かりませんでビバークいたしました」と言った[403][404][405]。3時間も頂上で何をしていたのかというのも、謎の一つである。
  139. ^ テレビ朝日取材チャーター機である[390]。植村と交信したのは、カメラ助手である[403]
  140. ^ 何度も繰り返して言った、この「20,000フィート」という語が植村の最期の言葉となった[407][408]。なお、植村は、本当は「19,000フィート (5,791m)」と伝えようとしたが、交信がうまくいかず、「20,000フィート」と言い換えたのではないかという推測もある[407]。このとき既に電波状態が悪化しており、これ以降、交信が途絶した[407]
  141. ^ 天候が悪く、植村の姿は視認できなかった[409]
  142. ^ ベースキャンプに植村をピックアップ[要曖昧さ回避]に行った飛行機である[411]パイロットを含めて2人が搭乗していた[411]
  143. ^ 植村が帰途のピックアップを依頼していた飛行機である。乗っていたのはパイロットの1人だけである。
  144. ^ 雪洞から上半身を出して手を振っていたという[414]。なお、手を振るのは元気であることを示し、じっとしているのは救助を要することを示すと、植村と登攀前にサインの取り決めをしていた[415]飛行機は何回か旋回して確認した[414]。しかし、炉辺会による第2次捜索隊の隊長・廣江研が、あらためてパイロットに訊いたところ、「標高4,900m地点でダークグレーの小さな点を見つけた。この小さな点は人間が手を振っているように見えた。この場所でダークグレーの点を見たのはこの時だけである」と証言した[416]
  145. ^ ただし、後日の捜索の結果、最終キャンプとして使った標高5,200m地点の雪洞に大量の装備が残されており、また5,200mの雪洞がルート上見落とされる箇所にないことから、植村は山頂から5,200mの雪洞まで帰り着いていないという推測もある[417][418]
  146. ^ ベル212である[419]
  147. ^ 大谷映芳(植村の山行を取材していたテレビ朝日ディレクター早稲田大学山岳部OBK2の西稜ルートからの初登頂者)と、ジェームズ・ウィックワイヤ(アメリカ人、シアトル在住、K2登頂者、植村の友人。今回の植村の山行の前に植村と面会している[422]。)である[423]
  148. ^ ベースキャンプを出発した日である2月1日から2月6日まで書かれていた。
  149. ^ 植村と思われる人物が手を振っているのが飛行機から視認された所である。
  150. ^ 2人は、標高5,000mまで登って捜索した[425]
  151. ^ 炉辺会の第1次捜索隊は、隊長・橋本清(明治大学山岳部の2年先輩[428])、行動リーダー・松田研一(1980年の冬期アコンカグア、また同年から1981年かけての冬期エベレストで植村と行動を共にしている。)、中西紀夫、高野剛、米山芳樹の5人であった[427]
  152. ^ 植村の故郷である兵庫県豊岡市にある、植村の墓碑には「昭和59年2月16日寂」(原文縦書き漢数字)と刻まれている。昭和59年は1984年。「寂」は、仏教用語死亡の意。
  153. ^ 炉辺会の第2次捜索隊は、隊長・廣江研(明治大学山岳部の同期[434])、副隊長・菅沢豊蔵(明治大学山岳部の1年後輩[166])、他12人であった[435]
  154. ^ 植村のであることは、後日、妻・公子によって確認された[436]。植村の登山前に、その旗を日本から送ったのは公子である[437]
  155. ^ それまでに登頂した外国人の複数の登山隊や山頂付近を飛行した軽飛行機によって、日章旗が山頂にあることは確認されていた[438][416][441]。併せて、星条旗の切れ端も回収された[440]。青色の帽子も回収されたが、これは植村とは無関係とされた[442]
  156. ^ 登頂したのは、長谷川良典、田中淳一、松田研一である[443][440]
  157. ^ 高鮮明の航空写真の撮影も行われたが、植村の姿らしき“点”は見当たらなかった[444]
  158. ^ 表彰状には「あなたは幾多の試練に耐え、世界五大陸の最高峰登頂、犬ぞりによる単独の北極点到達及びグリーンランド縦断など数々の前人未到の偉業をなしとげられ、青少年をはじめ多くの国民に夢と勇気を与えてこられました。よって、ここに国民栄誉賞を贈り、これを表彰します。」と記されている。なお、原文に句読点はない。
  159. ^ 撮影したのは、文藝春秋カメラマンである安藤幹久である。
  160. ^ 供物は一切受け付けなかったが、祭壇に唯一供えられたのは常陸宮家からの供え物である[455]。植村は、華子妃に同行して、富士山穂高に登っている[455]
  161. ^ 双耳岩峰であり、その位置は、北緯61度39分、西経44度15分である[454]
  162. ^ 『植村直己に別れを告げる会』の席上、デンマーク政府の駐日大使により発表された。
  163. ^ 1996年6月26日、大谷映芳(マッキンリー(現:デナリ)で植村を最後に取材した。)、安藤幹久(文藝春秋カメラマン)、森田洋(山岳ジャーナリスト)ら8人が初登頂した[458][459][460]
  164. ^ 植村が名誉町民第1号である[5]
  165. ^ 植村の妻・公子は体調不良のため、代わりに植村の長兄の植村修が出席した[461][462]
  166. ^ 前年1984年12月のアラスカ州裁判所による死亡認定を、その根拠とした[4]
  167. ^ 通報者は、登山家コンラッド・アンカーである[468]
  168. ^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰はモンブランであるという説が一般的であった。
  169. ^ 1989年12月東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
  170. ^ モンブランヨーロッパ大陸最高峰とする説もある。
  171. ^ 正確には、グリーンランド最南端には到達していない。最終到達地点は、北緯61度39分、西経44度15分である[329]
  172. ^ 織田信恒漫画正チャンの冒険』で主人公が被っていた帽子である。
  173. ^ 「正チャン帽[注 172]」を被って、しょんぼりしている姿が、ドングリそっくりなので、「ドングリ」というあだ名(ニックネーム)を付けられたという説もある[473]
  174. ^ チーフリーダーは、同期であり、親友の小林正尚である[474][46]
  175. ^ 途中でデポ(デポジットの略。荷物を登路の途中に一時的に置いておくこと。)していった[477]。また、DVD『冒険家・植村直己の世界』(テレビ朝日)にもその姿は映っている。
  176. ^ 平林克敏とシェルパのチョタレイである[481]
  177. ^ 松浦輝夫が埋めたのは、このエベレスト遠征中、第1キャンプで心臓麻痺により死亡した成田潔思[484]の写真である。また、成田の遺髪とお守り、好きだったタバコピース」1箱とマッチも山頂に埋めた[191][483][485]
  178. ^ 会見に同席したのは、大塚博美(明治大学山岳部の先輩であり、植村がエベレストに日本人初登頂したときの登攀隊長である。炉辺会による植村捜索の特別委員会の委員長を務めた。植村の媒酌人でもある。)、中尾正武(明治大学山岳部OB炉辺会理事長[488])、土肥正毅(明治大学山岳部の2年先輩[364])である[489]
  179. ^ 原文は、「何が何でもマッキンレー登るぞ」である。
  180. ^ 墓碑の裏面に、「昭和61年10月吉日 兄 植村修建之」と刻まれている。なお、原文は、縦書き漢数字である。
  181. ^ 昭和59年は1984年原文縦書き漢数字である。
  182. ^ 仏教用語死亡の意である。
  183. ^ 生い立ちから1971年1月のグランド・ジョラス完登までを記した書である。ただし、大学入学までの記述は極めて少ない。
  184. ^ 北極圏ひとり旅』と題する章が追加されている。北極圏12,000km犬ぞり単独行の際に、植村が毎日新聞社に随時、電報電話手紙で旅の様子を知らせてきた。この章は、いわば、植村による「北極通信」(章の冒頭にそう記載されている。)である。
  185. ^ 1979年11月23日東京サンケイホールで行われた聖教文化講演会での植村の講演をテープ起こしした書。併せて、植村が北極点グリーンランド単独行をしている間の妻・公子の日記が収録されている。
  186. ^ 対談相手は、井上靖、五月女次男、五木寛之王貞治三浦雄一郎新田次郎、大槻彰、西丸震哉今井通子畑正憲、斎藤照子の11人である。
  187. ^ 副題の『植村直己 対談・エッセイ集』の記載はない。
  188. ^ 目次:「第一次偵察隊」、「第二次偵察隊」、「ヒマラヤ越冬」、「日本エベレスト登山隊」、「国際エベレスト登山隊」、「日本冬期エベレスト登山隊」、「エベレストの魅力と南極の夢」
  189. ^ カバーには植村が著者であるかのような表示がされているが、奥付には植村が著者であるという表示はない。著作権者は、「植村公子」であると奥付に記載されている。植村公子は、植村直己の妻である。
  190. ^ 1983年8月から9月にかけて、延べ50時間録音された植村の談話をテープ起こしした書である。
  191. ^ 文庫本には、植村直己が著者であると奥付に記載されている。また、著作権者は植村公子であると併せて記載されている。
  192. ^ 判型は、ほぼ文庫本である(少し大きい:縦16.0cm×横11.0cm)。
  193. ^ 著作権者は「植村公子」であると奥付に記載されている。植村公子は、植村直己の妻である。
  194. ^ 1983年5月8日-5月9日、1泊2日のキャンプで、小学館アウトドア雑誌ビーパル』の取材スタッフによる植村へのインタビューテープ起こしした書である。ちなみに、キャンプしたのは「千曲川の最上流の谷」であると記されている。
  195. ^ 雑誌『ビーパル2013年8月号;通巻395号』の別冊付録として発行された“復刻版”である。分売不可。
  196. ^ 植村が妻・公子に宛てた書簡集である。
  197. ^ 植村直己が著者であるという表示はされていない。
  198. ^ 植村の対談・鼎談集である。対談・鼎談相手は、加藤芳郎石原慎太郎五木寛之王貞治三浦雄一郎堀江謙一、池田錦重、遠藤周作開高健伊丹十三小西政継藤井康男井上靖榛名由梨早川種三、大貫映子、西堀栄三郎多田雄幸
  199. ^ その他の著者は、荒俣宏池内紀池波正太郎井伏鱒二岡本かの子岡本綺堂小川未明角田光代川端康成川本三郎北杜夫斎藤茂太坂口安吾高村光太郎武田百合子太宰治田辺聖子種村季弘田村隆一田山花袋つげ義春平林たい子松本英子[要曖昧さ回避]村上春樹室生犀星山下清柳美里横尾忠則吉川英治四谷シモンである。杉田淳子、武藤正人 (go passion) /共編。
  200. ^ 植村直己/著『ふるさと城崎温泉』が収録されている(全6ページ)。
  201. ^ 原題は『Expeditions:the experts' way』である。
  202. ^ 明治大学ヒマラヤ登山隊の登山隊長である。
  203. ^ 奥付には発行年月までの記載しかない(日付の記載がない。)。
  204. ^ 『登頂の感激』と題する植村の手記が収録されている。
  205. ^ 会期:1970年8月1日 - 同年8月30日。会場:東京名古屋福岡大阪。主催:社団法人日本山岳会毎日新聞社日本放送協会
  206. ^ パンフレット。24cm×24cm。62ページ。頒価不明。
  207. ^ 著者は、日本エベレスト登山隊の隊員として参加した、NHKエベレスト取材班団長である。なお、NHKの取材班は内藤を含めて4人参加した。
  208. ^ 文庫本には副題は記載されていない。
  209. ^ 植村による“解説”が収録されている(全5ページ)。
  210. ^ 植村直己/著『アマゾン単独イカダ下り:大河と取組んだ六〇日間』が収録されている(全11ページ)。
  211. ^ 著者は、エベレスト国際隊(正式名は「1971年国際ヒマラヤ遠征隊」)に医師としてイギリスから参加した。
  212. ^ 原題は『Doctor on Everest』である。
  213. ^ 星野隆男の妻である。
  214. ^ 『困難を恐れない人だった』と題する、植村による追悼文が収録されている(全1ページ)。
  215. ^ 植村が参加した、1970年末のグランドジョラス北壁完登についての星野隆男による手記が収録されている(全9ページ)。
  216. ^ 1978年春、日本人初の北極点到達を果たした日本大学遠征隊を軸に、同時期に北極点に挑戦した植村直己と堀江謙一についても記述されている。
  217. ^ 1969年日本山岳会エベレスト遠征隊の第1次偵察隊と、翌1970年、同遠征隊の本隊に参加している。
  218. ^ 植村がマッキンリー(現:デナリ)で消息を絶ったくだりを記述した章などが追加されている。
  219. ^ 植村直己との対談が収録されている。
  220. ^ ヒマラヤ初登頂:昭和11年』の節で、植村へのインタビューが収録されている(植村へのインタビュー部分は全3ページ)。なお、この節は、1936年(昭和11年)10月5日、「ナンダ・コート」(標高6,867m)に日本人として初登頂した立教大学隊を紹介したものである(全28ページ)。
  221. ^ 植村直己/著『はてしない雪原を犬と共に』が収録されている。
  222. ^ 非売品である。
  223. ^ 植村による『南極で聞いた登頂と遭難の報』と題する追悼文が収録されている(全2ページ)。文末で「生きていてほしかった。生きて帰って来てほしかった」と記している。
  224. ^ 書籍のどこにも発行年月日の記載がないが、表紙に「緊急出版」と書かれていることから、植村の生存が絶望視された1984年3月頃に発行されたものだと思われる。
  225. ^ 明治大学山岳部の2年先輩である[497]
  226. ^ 1980年6月7日仙台市で行われた植村の講演(明治大学創立百周年記念講演集から転載)(抜粋)が収録されている。
  227. ^ 『植村直己 - 母は勝気で頑固で……私も家の手伝いをしないとばしっと叱られたものです』と題する章が収録されている。
  228. ^ 『植村直己の石:An Explorer's Collection』と題する項が収録されている(全4ページ)。なお、“石”とは、植村が収集した「五大陸最高峰頂上石」(石を収めたケースの裏に植村がそう書いている。)のことである。
  229. ^ 植村直己/著『青春を山に賭けて』が紹介されている。
  230. ^ 「ろばたかい」と読む。
  231. ^ 『単独行 - 植村直己とその妻』と題する章が収録されている。
  232. ^ 書名の“遺書”は昭和58年度(1983年度)の、“冒険”は昭和59年度(1984年度)の講座の綜合テーマである。植村についての講座は、“冒険”のテーマにおいて語られている。
  233. ^ 講演をテープ起こしした書。大塚博美(明治大学先輩であり、植村がエベレスト日本人初登頂したときの登攀隊長である。炉辺会による植村捜索の特別委員会の委員長を務めた。植村の媒酌人でもある。)が植村について語った講演が収録されている(全34ページ)。講演のタイトルは「植村直己と世界の冒険家たち」。
  234. ^ イヌイットと植村直己さん』という節が収録されている(全9ページ)。著者は、植村と面識がある。
  235. ^ 植村直己の講演が収録されている。
  236. ^ 毎日放送プロデューサーである。
  237. ^ 第8回(1986年講談社ノンフィクション賞受賞作品。
  238. ^ 『植村直己 - 未知の大地に挑む男の情熱とロマンとは』と題する文が収録されている。
  239. ^ 明治大学山岳部の同期であり、炉辺会による第2次捜索隊の隊長を務めた[434]
  240. ^ 奥付は『わが友 植村直己』と表示されている。
  241. ^ 1981年6月13日鳥取県米子市で開催された、植村による広江病院五十周年記念講演が収録されている。
  242. ^ 植村の妻・公子による『マッキンリーを見ました』と題する手記が収録されている。表紙の題字は公子の筆による。
  243. ^ 映画植村直己物語』の監督佐藤純彌主演西田敏行倍賞千恵子による『ここまで「植村直己」になれました』と題する座談会が収録されている。また、同映画の全シナリオが収録されている。
  244. ^ 著名人100人の晩飯風景の写真集である。植村直己の項が収録されている。
  245. ^ 『植村直己夫人』と題する節が収録されている。
  246. ^ プライベート・エッセイ集。『植村直己物語』と題する文が収録されている(全3ページ)。
  247. ^ “努力”- 記録に挑んだすべての人に共通することばである。スポーツに、勝負に、冒険に、人生を完全燃焼させた人びとの栄光の歴史をいまここに再現する。植村直己、王貞治ほか200余名を収録。(「BOOK」データベースから引用)
  248. ^ 原題は『Quest for adventure』。
  249. ^ 『たった一人の北極行:植村直己の夢』と題する文が収録されている。
  250. ^ 『植村直己:自然にも人間にも優しさを失わなかった、偉大なる冒険家』の章が収録されている(全30ページ)。
  251. ^ 植村直己/著『ふるさと城崎温泉』が収録されている(全5ページ)。
  252. ^ 植村直己/著『世界の五大巨峰を征服して』(昭和59年)が収録されている(全15ページ)。なお、同書の文庫本には収録されていない。
  253. ^ 『植村直己 - 少年のように輝いていた』と題する文が収録されている。
  254. ^ 副題は記載されていない。
  255. ^ 植村直己/著『グリーンランド単独縦断』(昭和53年)が収録されている(全11ページ)。また、妻・植村公子/著『妻の日記』(昭和53年)が収録されている(全9ページ)。
  256. ^ 1972年、植村がグリーンランドエスキモー村のシオラパルクに入ったその3か月後に入村し、植村と接触している[498]。また、植村が1978年北極点到達を目指した際、同じ北極点到達を目指す日本大学遠征隊に参加した。
  257. ^ 『植村直己さんの消えた山:マッキンリー植村直己捜索隊』と題する章が収録されている(全19ページ、うち本文18ページ)。
  258. ^ 『植村直己マッキンリーに消ゆ』と題する文が収録されている(全5ページ)。(初出:『週刊朝日』、穴吹史士、1984年3月9日。)
  259. ^ 植村直己へのインタビューが収録されている(全18ページ)。(初出:1978年12月号。)
  260. ^ 『残された空白への挑戦:人はなぜ旅をするのか』と題する、植村直己との対談が収録されている(全50ページ)。
  261. ^ 『植村直己の生活用具[極点への挑戦]』と題する章が収録されている(全6ページ)。
  262. ^ 風雪のマッキンリーに消息を絶って7年。植村直己の独創的な五大陸最高峰登頂、極北に架けた夢の全てをカラーで再現した決定版。(「BOOK」データベースから引用)
  263. ^ 『植村直己の母』と題する文が収録されている。
  264. ^ 渾身の力を込めて走った砂漠には、生も死も落ちていた。その瞬間、どちらを掴もうとも自由なのであった…。著者の二度に渡るパリ・ダカ挑戦の全記録と、中畑清ユーリ海老原など、スポーツという物語に寄せる熱い思いを集めたスポーツノンフィクション。(「MARC」データベースから引用)『植村直巳の自画像』と題する文が収録されている(全4ページ)。(初出:『週刊朝日』、1991年3月8日。)なお、タイトルが“直己”ではなく、“直巳”となっているが、著者が意図したものか、単なる誤字なのかは不明である。
  265. ^ 植村直己/著『青春の日々』が収録されている(全14ページ)。なお、この文は、植村直己/著『青春を山に賭けて』から再録されたものである。
  266. ^ 植村直己、今井通子らはなぜこれを選んだのか。本物の冒険家に学ぶ本物のモノ選びの本。(「MARC」データベースから引用)
  267. ^ 『植村直己 : 正直に生きることは、徹底的に遊ぶこと。』と題する節が収録されている(全6ページ)。
  268. ^ 石原裕次郎高倉健ビートたけしから、淀川長治埴谷雄高開高健まで、『話の特集』編集長のインタビュー集。60年代から80年代まで「時代が恋した」大物スターたち18人。(「MARC」データベースから引用)植村直己との対談が収録されている(全6ページ、うち本文4ページ)。植村の節の初出は、『話の特集』、1967年2月号。
  269. ^ 『植村直己・マッキンリーの銀嶺に』と題する節が収録されている。
  270. ^ 『植村直己 -「すいませんです。じつはですね」』と題する章が収録されている。
  271. ^ 植村直己の長兄である。
  272. ^ 文庫本には副題は記載されていない。
  273. ^ 『厳冬のマッキンリーに消えた植村直己』と題する節が収録されている。
  274. ^ 『植村さんのグリーンランド』と題する章が収録されている。
  275. ^ 別タイトルは『The lives of the Japanese great sportsmen in twentieth century』。
  276. ^ 『植村直己とその時代』と題する節が収録されている(全17ページ、うち本文15ページ)。
  277. ^ 『ハングリー精神と覚悟』と題する、植村直己と小西政継との対談が収録されている。
  278. ^ 黒沢明、植村直己、チャールズ・チャップリン宮沢賢治イチロー…。私たちに大きな夢を与え、歴史に確かな足跡を残した古今東西の偉人たち35人の波瀾万丈のストーリーを紹介。(「MARC」データベースから引用)
  279. ^ 義理堅かった「世界の冒険家・植村直己」』と題する節が収録されている。
  280. ^ 『植村直己の母・梅、冒険を支えた母の教え』と題する章が収録されている(全18ページ)。
  281. ^ 日本および海外のさまざまな旅のテーマを取り上げ、関連書籍を紹介する図書目録。日本と世界の紀行・旅行記から自然・冒険をテーマにした図書8396点を、日本百名山パタゴニア・植村直己など各分野・テーマに分類し収録。(「MARC」データベースから引用)
  282. ^ 著者は小学校で教えており、本書は児童に向けた“学級通信”をまとめたものである。
  283. ^ 『伝説となった巨人』と題する章で、植村の「何かに守られていることが危機を呼ぶこともある」と、「初心に『結果』はない」という言葉について記述されている(全14ページ)。
  284. ^ 植村についての記述がある(全6ページ)。
  285. ^ 巻末特別付録として、ドキュメントCD『北極圏「1万2千キロ」犬橇の旅:世紀の大冒険の記録』(植村直己/語り、名古屋章/ナレーションBMGファンハウス/原盤、収録時間45分)が付いている。
  286. ^ 雪洞に残した絶筆:冒険家・植村直己:享年四十三』と題する項が収録されている(全2ページ)。
  287. ^ 茂太さんの元気の素は旺盛な「好奇心」にあった。ファーブルエジソン野口英世、植村直己、コロンブスダ・ヴィンチなど、古今東西の歴史人物から学べることはいっぱいある。その生かし方は、茂太さんが身をもって教えてくれる。(「BOOK」データベースから引用)
  288. ^ 『日本人冒険家 植村直己、単独で北極点到達に成功』と題する節が収録されている(全14ページ)。
  289. ^ 産経新聞に掲載された連載『凛として』の中から12人を選んでまとめた書。『不世出の冒険家・植村直己』と題する章が収録されている。植村について取材執筆したのは中島幸恵(東京社会部)である(奥付に記載)。
  290. ^ ヒマラヤという大自然の中で激しく生きた、明治大学山岳部の若者たち。1970年の植村直己に始まる、33年間の青春群像を描いている。
  291. ^ 沢庵宗彭円山応挙志賀直哉志村喬、植村直己…。時代、活動分野の違いを超えて多士済々を輩出、峻烈な四季の国「但馬」にゆかりの深い50人を紹介する。(「MARC」データベースから引用)
  292. ^ 徳川家康、植村直己、杉原千畝坂本龍馬野茂英雄ほか40人の日本の偉人を、5つの項目にわけて紹介。朝の会や帰りの会、道徳や学級の時間などの話材として最適。偉人に学ぶ「子どもたちへのメッセージ」も収録。(板橋区立図書館のデータベースから引用)
  293. ^ 『“ケンカ・ガク”とよばれたころ:石原慎太郎氏との空しい口論、植村直己氏との悲しいケンカ』と題する章が収録されている(全11ページ)。
  294. ^ 『植村直己:氷河の山マッキンリーに消えた勇者』と題する章が収録されている(全92ページ)。ちなみに、植村のほか、一ノ瀬泰造、池田拓、鈴木紀夫上温湯隆若山美子多田雄幸星野道夫の7人について記述されている。
  295. ^ 植村直己/述『極限のなかでこそ人間本来のものに戻れる:世界で初めて五大陸の最高峰を制した冒険家』が収録されている(全9ページ)。
  296. ^ 伊藤周左エ門(登山家冒険家谷川岳の山樽山荘主人。1989年和泉雅子北極点遠征に協力し、和泉と共に北極点に到達した。)を軸に、植村直己らの冒険家を記述している。
  297. ^ 植村直己の言葉が紹介されている(全2ページ)。
  298. ^ 植村直己の言葉が紹介されている。
  299. ^ 正木徹/著『植村直己へ:本当に直己ちゃんですか』が収録されている(全4ページ)。なお、正木徹は、植村の小中学生時代の同級生であり、「植村直己後援会」の代表を務めた。
  300. ^ 『夢を追い求めよ - 植村直己』で、植村の言葉が紹介されている(全4ページ)。
  301. ^ 植村直己/著『冬期エベレスト遠征隊』が収録されている(全6ページ)。
  302. ^ 別タイトルは『the wise remarks of Explorers』。
  303. ^ 「他人のやったことはやりたくない。人の踏んだ道をまた踏むだけなら、これはもう冒険とはいえません」などの植村の言葉が紹介されている。
  304. ^ 『冒険がないと進歩はない』と題する、新田次郎と植村直己との対談が収録されている(全16ページ)。
  305. ^ 『植村直己:北極圏出発前の猛アプローチ』と題する項が収録されている(全2ページ)。
  306. ^ 古今東西の文芸作品から国内外の骨太ノンフィクションまで、様々な書物を通して探検家はひたすら考える、「なぜ、探検をするのか―」。数多のノンフィクション賞を受賞した探検家の、爆笑にして深遠なエッセイ。(「BOOK」データベースから引用)『超人ウエムラの秘密:植村直己『北極圏一万二千キロ』を読む』が収録されている(全11ページ)。
  307. ^ 植村直己/著『世界の五大巨峰を征服して:世紀の冒険野郎の手記:昭和59年』が収録されている(全18ページ)。
  308. ^ 『植村直己 - 前人未到の華々しい偉業の裏で、献身的なサポートでも信頼を得た「孤高の冒険家」』の節が収録されている。
  309. ^ 植村直己/著『青春を山に賭けて』が紹介されている(全5ページ)。
  310. ^ 『植村直己「そろそろ晴れてもよいのに。天候は私に非情なり」』と題する項が収録されている。
  311. ^ 『植村直己:時代を超えた冒険家』と題する章が収録されている(全48ページ:うち本文45ページ、植村の肖像写真1ページ、植村の経歴1ページ)。
  312. ^ ダーウィンクック船長アムンゼン、植村直己など古今東西の冒険家たちが、旅先での体験や発見を描写したスケッチブックやノートを収録している。
  313. ^ 各界で活躍する著名人たちをの50の名言をわかりやすい解説で紹介(「BOOK」データベースから引用)。植村直己の言葉が紹介されている。
  314. ^ 植村による「南極偵察日記(1972年1月5日 - 同年2月2日)」のほぼ全文が収録されている。
  315. ^ 『40年ぶりに発掘された「単行本未収録連載」を一挙掲載!』と表紙に記載されている。全128ページ。分売不可。
  316. ^ 極限まで同行取材したプロカメラマンと植村さん自身が撮影した映像で綴る、感動のドキュメント。(VHSのパッケージより)
  317. ^ 人気長寿番組「徹子の部屋」が、遂にビデオシリーズ化。昭和の大スター植村直己の出演回を、新たな映像も追加して紹介。(「VIDEO INSIDER JAPAN」データベースから引用)
  318. ^ 1984年にテレビ朝日系で放映された、植村直己の足跡を追うドキュメンタリー番組ビデオ化したものである。
  319. ^ 主として、北極圏12,000km犬ぞり単独行と、最期となったマッキンリー(現:デナリ)の山行(入山前の街での植村の姿や、登攀前のインタビュー等)が収録されている。
  320. ^ ナレーション江守徹である。
  321. ^ 植村を含めて8人の人物が収録されている。ちなみに、植村ほかの7人は、棟方志功宇野重吉ジャイアント馬場三島由紀夫高柳健次郎佐治敬三岡本太郎である。
  322. ^ 『植村直己:夢・冒険・ロマン:没後20年記念特集』(河出書房新社KAWADE夢ムック:文藝別冊〉、2004年9月30日。)の巻末特別付録としてCD化されている。
  323. ^ 帯に記載されている副題は『ロマンの男』となっているバージョンもある。
  324. ^ 大型カラーポスター付、豪華写真集付、解説書付。植村が歌う『雪山讃歌』が収録されている。
  325. ^ 最初の住まいは3畳一間のアパートであった[499][500]。なお、このアパートは現存していない[499]

出典

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  491. ^ 中島祥和『遥かなるマッキンリー』講談社〈文庫〉1986, p.17-18。一部、字句修正した。
  492. ^ 中島祥和『遥かなるマッキンリー』講談社〈文庫〉1986, p.18。一部、字句修正した。
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  496. ^ a b 廣江研『我が友 植村直己』立花書院、1986年, p.133。
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