主な登山歴
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1993年3 - 4月:知床半島全山縦走(単独) フリーソロ完登。劔岳チンネ・中央チムニー、左稜線 谷川岳一ノ倉沢・烏帽子奥壁・南稜、変形チムニー、滝沢第三スラブ(冬季)、南アルプス三峰川支流岳沢など 1996年:標高世界第2位のK2登頂 1997年:黒部横断・大滝尾根冬季第二登 1998年4月:南アルプス甲斐駒ヶ岳黄蓮谷右俣初滑降(山スキー) 2001年正月:黒部横断・北薬師岳東稜冬季初登 2002年:黒部横断・黒部別山中尾根主稜、剱岳八ツ峰II峰北面滝ノ谷下部氷瀑、袖ノ稜冬季初登 2005年:北アルプス黒部別山東面主峰ルンゼ初滑降(山スキー) 海外登山は、ウシュルバ(ロシア)・アシニボイン(カナダ)など、スキーツアーでは、カナディアン・ロッキー、オートルート(アルプス)、ヒマラヤ(インド)など。
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主な登山歴
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1984年 アンナプルナⅡ峰(7937m) 雪崩により敗退 1987年 デナリ 1990年8月18日、ナンガ・パルバット(8,125m) ルパール壁シェル・ルート、無酸素登頂。川崎市教員登山隊。 1991年夏 ブロード・ピーク(8,047m) 大雪と時間切れにより敗退。イエティ同人隊。 1993年7月31日、ガッシャーブルムII峰(8,035m) 無酸素登頂。チームメンバーは小西浩文、山野井泰史、山野井妙子。 1994年 - K2(8,611m) 8360mで敗退 1995年7月20日、ブロード・ピーク(8,047m) 北峰~中央峰~主峰をアルパインスタイルで無酸素縦走。チームメンバーは北村俊之、服部徹。 秋 カンチェンジュンガ無酸素登頂を目指したが、同行メンバーが凍傷のため8,400mで断念。メンバーは小西浩文、棚橋靖、松原尚之。のちに単独で再アタックするも8,350mで敗退。 1996年7月29日、K2 南壁ククチカ・ピョトロフスキールート断念後、南東稜に転進し無酸素登頂。高所ポーターなしの個人隊。 1998年ポストモンスーン期 チョモランマ北壁ジャパニーズ・クーロワールを7,100mで断念後、北壁グレート・クーロワールに転進し8,500mまで。
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主な登山歴
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1960年 東京女子医大学山岳部に入部。谷川岳一ノ倉沢衝立岩〜コップ状岩壁連続登攀をはじめ、谷川岳烏帽子奥壁ダイレクトルート初登攀など。 1967年 東京女子医科大学欧州アルプス遠征隊長として渡欧。若山美子とザイルを組み女性同士のパーティとして世界で初めてヨーロッパアルプス・マッターホルン北壁登攀成功。 1969年 ヨーロッパアルプス・アイガー北壁日本隊ルート開拓。 1971年 ヨーロッパアルプス・グランドジョラス北壁登攀。(女性として世界初の欧州三大北壁完登者となる)以降都会に逃げ込んでいる日本の人々に自然と親しんでもらうため現在に至るまで、毎年ヨーロッパアルプスをはじめとし、世界各国の登山ハイキング、カヌー、カヤック、ウォーターラフティング、ホースバックトレッキング等、自然の中でのアクティビティーを体験出来る旅行講師を務めている。 1975年 ネパールヒマラヤ・ダウラギリIV峰、カモシカ同人隊員及び医師として遠征。 1979年 ネパールヒマラヤ・ダウラギリII・III・IV峰縦走登山隊長として、男性16人を率いてクロス縦走を成功させる。7,500m以上の三山の登頂は世界初。 1983年 中国側チョモランマ(エベレスト)峰(8,848m)北壁冬季登山隊長として遠征。 1984年 同隊は、8,100mにて断念。 1985年 隊長として再度チョモランマ峰北壁へ向かうが、登山隊は8,450mにて断念。しかし、北壁からの冬期世界最高到達地点を記録する。(2019年冬期時点でこの記録は破られていない) 1987年 厳冬季に北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国の白頭山、金剛山、妙香山に登頂。(建国以来初の外国人隊の記録) 1987年 秋季に標高世界第6位のヒマラヤのチョー・オユー峰(8,201m)に中国側より登頂。(通子隊長以下全隊員登頂に成功。夫、高橋和之は山頂からベースキャンプへのパラグライダー飛行に成功) 1989年 アフリカ最高峰のキリマンジャロ(5,895m)登頂後、山頂よりパラグライダー飛行に成功。アフリカ、ウガンダ最高峰のルウェンゾリ(5,109m)に登頂する。 2002年 60歳を迎え、春季チョモランマ峰へ向かうが、前日、高所障害で意識不明になった人命救助に借したシェルパが寝不足と寒さを訴えたため8,500mにて断念する。
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主な登山歴
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1990年 8月(16歳) モンブラン(4,810m)登頂(ヨーロッパ大陸) 1990年12月(17歳) キリマンジャロ(5,895m)登頂(アフリカ大陸) 1992年 9月(19歳) コジアスコ(2,228m)登頂(オーストラリア大陸) 1992年12月(19歳) アコンカグア(6,960m)登頂(南米大陸) 1993年 6月(19歳) マッキンリー(6,168m)登頂(北米大陸) 1994年12月(21歳) ヴィンソン・マシフ(4,892m)登頂(南極大陸) 1996年 1月(22歳) エルブルス(4,892m)登頂(ヨーロッパ大陸、ロシア) 1996年9月(23歳) チョ・オユー(8,201m)登頂 1999年 5月(25歳) エベレスト(8,844m)登頂(アジア大陸)ネパール側 - 七大陸最高峰登頂の世界最年少記録樹立(当時) 2007年 5月(33歳) エベレスト(8,844m)登頂(清掃登山)チベット側 - ネパール、チベットの両方からの登頂成功者は日本人8人目。
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主な登山歴
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1985年秋 - エベレスト(南東稜ルート)登頂。 - 映画『植村直己物語』撮影隊。 1987年冬 - アンナプルナI峰登頂 1988年春 - エベレスト(北東稜ルート)登頂 1988年秋 - シシャパンマ登頂 1988年秋 - チョ・オユー(西稜ルート)登頂
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