ぎょう‐こう〔ギヤウカウ〕【行幸】
み‐ゆき【行=幸/▽御▽幸】
行幸
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行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が居所から外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸という[1]。
注釈
- ^ これについて、高埜利彦は江戸幕府が社会に広く天皇の存在と権威を直接示すことを拒む朝廷統制策(「江戸幕府による行幸禁止政策」)があったとする。これに対して藤田覚は行幸の衰退・廃絶傾向は鎌倉時代後期から一貫して見られる現象であり、なおかつ財政的な問題もあったことから、それが江戸時代における朝廷側の行幸への消極的な姿勢につながっているとする[3]。また、鎌倉時代後期から行幸の衰退・廃絶について、佐古愛己は財政的な問題に加え、行幸に際して随行した公家たちの対する叙位が行われたことで、随員に選ばれず他者に超越される(位階を越される)ことになった公家の反発を招いて公家社会内部でのトラブルが深刻化したことにより、徳政の目標として「公平な人事」を求める声が高まり、叙位発生の原因となる行幸そのものが抑制された可能性を指摘する[4]。
- ^ この規則は、天皇の行幸、皇后、皇太后、皇太子及び皇太子妃の行啓並びにその他の皇族のお成りの場合の警衛に関し必要な基本的事項を定め、もってその適正な実施を図ることを目的とする[5]。
出典
- ^ 精選版 日本国語大辞典『行幸』 - コトバンク
- ^ 日本書紀にも記載がある為、奈良時代の朱鳥年間には既に使われていたものと思われる
- ^ 藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)第6章「天保期の朝廷と幕府-朝覲行幸再興を中心に」
- ^ 佐古愛己『平安貴族社会の秩序と昇進』(思文閣出版、2012年)補論2「中世公家社会における叙位の一考察」
- ^ 国家公安委員会規則『警衛要則』第1条
- ^ 富山県護国神社『富山県における聖帝四代の御製を拝す 』富山県護国神社、2012年、p27頁。
- ^ 柴崎力栄「関東地方における明治天皇親率演習---一八八一年の厚木行幸を中心に」(年報近代日本研究12・近代日本と情報、山川出版社、1990年)133-136頁に「明治天皇聖蹟の史跡指定」について記述がある。
- ^ 遠山美都男『天皇と日本の起源「飛鳥の大王」の謎を解く』(講談社現代新書、2003年)pp.289-290.
- ^ 永田英明「天皇の行幸」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P94-95
- ^ 山本雅人『天皇陛下の全仕事』(2009年、講談社現代新書)
- ^ 第71航空隊 US-1A 90号除籍記念式典
行幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。 寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。 寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。 その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。 寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。 元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。 文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。
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行幸
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「源氏物語各帖のあらすじ」の記事における「行幸」の解説
(源氏36歳12月-37歳2月) 冬、大原野の行幸で玉鬘に執心する冷泉帝を垣間見た彼女も、にくからず思う。源氏は内大臣に真相を打ち明け、入内に向けてまずは玉鬘の裳着(古代女性の成年式)を行うことを話し合う。年明けて春、玉鬘は裳着を行い、内大臣と親子の対面を果たす。行幸参照。
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行幸
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戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。1923年(大正12年)には台湾(台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。 戦後は先述の通り1946年(昭和21年)2月から約8年半かけて日本全国を巡幸して国民を激励し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた(戦後巡幸)。これとは別に、1947年(昭和22年)9月に襲来したカスリーン台風の被災地には「現地の人々に迷惑をかけてはいけない」として、お忍びで視察を行い、避難所を訪れて激励を行った。 そのほか、行幸先での逸話、御製(ぎょせい:天皇が詠む短歌)も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。なお、当時の宮内次官加藤進の話によれば、「昭和天皇が(1945年3月10日の)東京大空襲直後に都内の下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、のちの全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないか」と推測している。なお、この東京大空襲同日には皮肉にも、自身の長女である成子内親王(東久邇成子)が防空壕の中で初出産をして、自身の初孫にあたる東久邇信彦が誕生した日でもあった。 また、昭和天皇は1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に、敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたとみられている。 昭和天皇は全国46都道府県を巡幸するも、沖縄県の巡幸だけは第二次世界大戦終結後も長らくアメリカ軍の占領下であった上、返還後も1975年(昭和50年)の長男・皇太子明仁親王と同妃美智子夫妻の訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができなかった。 ただし、即位前の皇太子時代に、一度だけ沖縄県へ訪問したことはある。それは、1921年(大正10年)3月6日に、欧州訪問への出発に際して半日足らずの滞在をした(詳細は「皇太子裕仁親王の欧州訪問#往路」参照)。 その後、病臥した1987年(昭和62年)秋に第42回国民体育大会(沖縄海邦国体)への臨席が予定されていたが、自ら訪沖することが不可能と判明したため皇太子明仁親王夫妻を名代として派遣し、「おことば」を伝えた。これに関して「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した明仁親王は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりして詣りました」と手にした父帝の「おことば」をおし頂き、真摯にこれを代読した。 その死の床にあっても、「もう、ダメか」と自身の病状よりも沖縄巡幸を行えなかったことを嘆いていたという。 なお、天皇として初めての沖縄県訪問は長男の明仁が、1993年(平成5年)4月23日-4月26日の日程で実現させた(目的:第44回全国植樹祭臨場と地方事情視察)。その後も、2019年(平成31年)に譲位(退位)するまで計6回にわたり皇后美智子同伴で沖縄県を行幸啓した。
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行幸
「 行幸」の例文・使い方・用例・文例
- 大学へ行幸あらせらる
- 日光へ行幸おおせ出さる
- 病院長の御前行にて各病室へ行幸あらせらる
- 博覧会行幸仰せ出さる
- 陛下には午前九時御出門平和博へ行幸あらせらる
- 行幸
- (天皇が)行幸先からもどる
- 行幸中の天子
- 以前に天皇が行幸になった所
- ひそかに行幸する
- 行幸先で天皇,皇后が休息するために臨時に設けられた場所
- 天子が,行幸の途中で車を止めること
- 天子が,行幸先に滞在すること
- 宮中で行幸や行啓の供をした役
- 雑仕という,宮中で行幸や行啓の供をした役の人
- 天皇行幸の際の仮の御所
- 彼は,陸路より費用がかからないので行幸は海路で行われるべきだと主張している。
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