行幸と廃都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:07 UTC 版)
天平宝字5年(761年) 1月21日、保良京で諸司の役人に宅地を班給する。 10月11日、保良遷都のためとして、藤原仲麻呂らに稲束を支給。 10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。 10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移ると詔し、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」と勅して、都に近い2郡(滋賀郡と栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、庸を停めて平城京に準じた調を納めるようにした。これは唐の陪都「北京太原府」を意識したものとみられる。 天平宝字6年 1月1日、保良宮が未完成のため朝賀の儀をとりやめる。 3月3日、保良宮の西南に新しく池亭を造り、曲水の宴を設ける。 3月25日、保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させる。 5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入る。前年に孝謙上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。2人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していた。 天平宝字8年 このころ、孝謙上皇と関係が深い吉備真備が台頭。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)勃発。仲麻呂の敗退により造営中止。廃都。
※この「行幸と廃都」の解説は、「保良宮」の解説の一部です。
「行幸と廃都」を含む「保良宮」の記事については、「保良宮」の概要を参照ください。
- 行幸と廃都のページへのリンク