昭和18年の戦いとは? わかりやすく解説

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昭和18年の戦い

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風雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説

詳細は「ケ号作戦」を参照 1943年昭和18年1月18日第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐から吉村真武大佐交代した第10駆逐隊吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦参加したケ号作戦)。1月23日駆逐艦5隻(秋雲夕雲巻雲風雲雪風)は南東方面部隊指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)に編入されそのまま外南洋部隊所属する2月1日第一次作戦および2月4日第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊風雲巻雲夕雲秋雲谷風浦風浜風磯風)に加わり2月7日第三次作戦ではラッセル諸島からの撤退作戦行った撤退作戦成功したが、第一次作戦巻雲触雷夕雲により雷撃処分され、また巻波空襲大破した三水司令官旗艦駆逐艦白雪変更)。第二次作戦では舞風大破第三次作戦磯風中破した。 巻雲喪失した第10駆逐隊は、当面の間3隻編制秋雲夕雲風雲)で行動続ける。第10駆逐隊は、ひきつづき南東方面部隊隷下外南洋部隊増援部隊所属した同時期の日本軍は、日本陸軍部隊中国大陸東岸南東方面輸送作戦実施しており、これを丙号輸送呼称した(丙号輸送部隊指揮官は、第九戦隊司令官岸福治少将)。2月14日外南洋部隊指揮官ウェワク輸送作戦兵力部署下令ケ号作戦従事していた駆逐隊駆逐艦は丙号輸送部隊編入された。第10駆逐隊も丙号輸送部隊組み込まれ輸送部隊指揮官夕雲風雲を丙三号輸送作戦第一輸送隊北上大井讃岐丸相良丸)の護衛加えた。丙三号輸送は、第四十一師団師団長阿部平輔中将)をウェワク輸送する任務である。輸送部隊編入され駆逐艦2月17日パラオ到着第一輸送隊2月17日パラオから出発し2月20日ウェワク到着した3月上旬日本軍ビスマルク海海戦大敗をうけて南東方面への輸送作戦変更する第10駆逐隊司令吉村大佐指揮官とする駆逐艦5隻(秋雲風雲夕雲五月雨皐月)は、ウェワクマダンの間にあるハンサ湾へ第二十師団師団長青木重誠中将)の将兵輸送する輸送6隻の護衛行った第一次ハンサ輸送)。3月8日パラオ出発陸軍戦闘機掩護をうけて3月12日朝にハンサ到着揚陸おこなわれる護衛部隊は二分割される。翌日未明秋雲五月雨輸送船団護衛してパラオへむかい、駆逐艦3隻(風雲夕雲皐月)はラバウル移動14日朝に到着した3月19日、「風雲」と「夕雲」はツルブ弾薬糧食揚陸した。その後ラバウル経てショートランド再進出し、コロンバンガラ島への輸送作戦に加わる。4月1日駆逐艦5隻(五月雨朝雲夕雲風雲秋雲)でコロンバンガラ輸送実施した4月3日、「風雲」はブイン入港時に触雷第一缶室と機械室一部浸水したブインにはアメリカ軍TBF3月20日21日機雷敷設していた。これ以降輸送部隊から外された。4月28日横須賀帰投した。5月修理おこなった詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 5月29日アッツ島地上戦によりアッツ島日本軍守備隊玉砕した6月10日第10駆逐隊秋雲風雲夕雲)は北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官)に編入された。幌筵島到着と共に水雷部隊指揮官木村昌福第一水雷戦隊司令官海軍少将海兵41期)に編入された。同時期に行われていたキスカ島からの第一期撤収作戦は、投入され潜水艦次々損傷し6月23日中止された。そこで水雷戦隊出番となり、第二期ケ号作戦実施される第10駆逐隊は、途中反転第一次作戦成功した第二次作戦ともに参加した収容部隊阿武隈木村少将旗艦〉、木曾島風、響、朝雲薄雲長波秋雲夕雲風雲若葉初霜五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊国後日本丸)という部隊区分だった。他の艦は収容した陸軍装備全て捨てていたが、風雲のみ発動艇を回収し、さらに陸戦隊飼っていたキツネ持ち帰ったという。キツネ上野動物公園寄贈された。撤退作戦終えた後、第10駆逐隊8月3日付で機動部隊復帰した横須賀経て再び南方へと向かった詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 9月15日附で風雲駆逐艦長吉田中佐から橋本金松少佐当時白露駆逐艦長)に交代した9月20日風雲第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐海兵43期、旗艦川内」)の指揮下に入り第10駆逐隊が揃う。間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加したセ号作戦行動経過詳細当該記事参照)。9月21日附で吉村第10駆逐隊司令職務解かれ天野重隆大佐8月20日まで第21駆逐隊司令)に交代する9月28日夜と10月2日夜に二度わたって行われた作戦では夜襲部隊指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官旗艦秋雲」)として敵艦隊の出現備えた連合軍巡洋艦水雷戦隊との間で小競り合いがあった程度特筆すべき海戦生起せず、セ号作戦成功裡終わった詳細は「第二次ベララベラ海戦」を参照 戦い間を置かず続けられ日本軍ベララベラ島からの撤退作戦実施した10月6日未明ラバウル出撃し、ブーゲンビル島南方海域欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海向かった増援部隊指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官秋雲座乗)は夜襲隊(秋雲風雲夕雲磯風時雨五月雨)を指揮して戦闘海域向かった6日夜、フランク・R・ウォーカー英語版大佐率いる第42駆逐群の先制攻撃受けて夜間水上戦闘が始まった日本呼称第二次ベララベラ海戦連合軍呼称ベララベラ島海戦)。当時日本夜襲部隊陣形は、秋雲三水戦旗艦)-磯風風雲夕雲単縦陣であったという。戦闘開始後、風雲後続していた夕雲が第42駆逐群の集中砲火浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦シャヴァリア (USS Chevalier, DD-451) に夕雲魚雷命中して42駆逐群の陣形乱れ始めた風雲二番砲塔被弾戦死1、負傷者数名)、使用不能となった甲型3隻(秋雲磯風風雲)は別働の第27駆逐隊時雨五月雨と共にセルフリッジ(英語版) (USS Selfridge, DD-357) とオバノン (USS O'Bannon, DD-450) に対して魚雷発射したが、距離が遠かったため命中しなかった。風雲夕雲生存者救助したが、夕雲生存者一部アメリカ軍にも救助されている。夕雲沈没により、第10駆逐隊風雲秋雲の2隻となったラバウル帰投後、10月7日限り外南洋部隊第八艦隊第三水雷戦隊)の指揮下から離れ原隊復帰した秋雲とともにツルブへの輸送作戦行った後、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将海兵37期)に合流してエニウェトク環礁進出した10月28日連合艦隊ろ号作戦発動する第一航空戦隊航空隊ラバウル陸上基地転用し第十戦隊第二水雷戦隊から一部艦艇抽出一航戦基地員や物件トラックからカビエンもしくはラバウル輸送することになった風雲大波第二部隊として10月31日トラック出発11月1日カビエン到着した詳細は「ブーゲンビル島の戦い」および「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 11月1日南東方面部隊ブーゲンビル島タロキナ逆上作戦関連し第三襲撃部隊阿賀野若月初風風雲大波長波)を編成した。だが風雲大波輸送作戦従事していたので、同日深夜生起しブーゲンビル島沖海戦には参加できなかった。ラバウル進出した風雲タロキナ逆上作戦部隊に加わる。同時期にラバウル進出した第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦戦隊は、11月5日ラバウル空襲により大打撃を受ける。即日ラバウル撤収したラバウル残った水雷戦隊タロキナ逆上作戦はつづけられ、第一支援隊(阿賀野若月浦風)として輸送作戦支援した11月11日米軍機部隊再度ラバウル空襲敢行日本側は駆逐艦涼波が沈没するなど損害を受ける。第十戦隊第二水雷戦隊大部分ラバウルから退却したトラック帰投後、タラワ地上戦にともない機動部隊遊撃部隊各艦と共にマーシャル諸島進出したその後駆逐艦3隻(風雲秋雲山雲)は戦艦大和空母翔鶴護衛してトラック出港12月17日横須賀帰投した。12月21日司令駆逐艦風雲から秋雲かわったその後風雲東京石川島造船所修理対空兵器増設電探装備工事行った

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昭和18年の戦い

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望月 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説

1943年昭和18年1月9日駆逐艦望月」、水雷艇」は輸送船西阿丸」を護衛してニュージョージア島ムンダ輸送実施した13日、「望月」は敷設艦津軽と共にサンタイサベル島レカタへの輸送実施その際座礁して損傷する何度も損傷した望月」は2月佐世保帰港し修理従事する3月より再びラバウル方面輸送任務従事した3月28-29日、天霧と共に12防空隊50名と糧食弾薬をレカタ基地輸送した30日三日月望月卯月で第30駆逐隊再編され南東方面艦隊第八艦隊第三水雷戦隊秋山輝男少将)に所属した望月は第11航空戦隊、958空部隊と共にビスマルク諸島方面航空部隊にも配属された。 4月2日-3日、「雪風天霧望月」はサンタイサベル島・レカタ基地輸送実施した4月7日、「天霧望月」でレカタ輸送実施するB-17重爆1機の攻撃で「天霧」が損傷した死傷者10名)。4月29日-30日、「天霧夕霧望月」で呉鎮守府第七特別陸戦隊司令官勝野少将歩兵第23連隊230名、弾薬糧食等をレカタへ輸送した5月3日第二回)、5月7日第三回)、5月10日第四回)と、この3隻で輸送作戦実施した4月下旬5月上旬の月暗期輸送はこれで終了し次の暗期(レカタ方面6月末、コロンバンガラ方面7月末)まで物資集積努める。4月下旬5月上旬のレカタ方面における輸送総量は、進出陸軍820名、海軍306名)と後送陸軍507名、海軍58名)及び燃料弾薬90トン糧食150トンであったという。 5月下旬、月暗期となったため日本海軍駆逐艦輸送再開した5月28日5月31日、「望月天霧」はブイン〜レカタ輸送(二回の合計佐七陸戦隊464名、物件220トン燃料120缶)を実施した6月4日-5日、「天霧望月皐月」はラバウルツルブ輸送実施6月6日-7日、「長月望月」によるツルブ輸送実施並行して潜水艦による『モグラ輸送が行われた。6月27日-28日、「望月皐月夕凪」によるコロンバンガラ島輸送陸兵900名、物資100トン)を実施した直後6月30日米軍レンドバ島上陸ニュージョージア島の戦いがはじまる。 詳細は「クラ湾夜戦」を参照 外南洋部隊水上部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官は、司令官直率部隊秋月型駆逐艦/旗艦新月望月皐月夕凪)、先行部隊天霧初雪長月水無月三日月)を指揮してラバウルブインから出撃レンドバ島西方海面到達したが米艦隊遭遇しなかった。7月2日夜、秋山司令官は直率隊(新月旗艦》、天霧初雪長月皐月望月)と陽動隊(軽巡夕張駆逐艦夕凪三日月》)を率いてレンドバ島沖合突入した。だが米艦隊出現せず、日付変更後米軍魚雷艇米軍機夜間空襲を受け、魚雷艇2隻を撃沈し撤収したその頃米軍ニュージョージア島上陸開始日本軍コロンバンガラ島への緊急輸送企図する第一回輸送部隊(第22駆逐隊司令金岡三大佐:第22駆逐隊長月皐月》、新月夕凪)と第二回輸送部隊(第11駆逐隊天霧初雪》、第30駆逐隊望月三日月》)が編制されブイン出撃するが、第一回輸送隊は米艦隊巡洋艦4、駆逐艦4)と遭遇し駆逐艦1隻を撃沈、だが輸送作戦そのもの中止至った7月5日南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将増援部隊全力によるコロンバンガラ島輸送命じ秋山三水司令官新たに陽炎型駆逐艦2隻(浜風谷風)と白露型駆逐艦1隻(涼風)を編制加える。秋山少将直率隊(新月涼風谷風)、第一次輸送隊望月三日月浜風)、第二次輸送隊天霧初雪長月皐月)という部署であった同日夕刻第三水雷戦隊ショートランド泊地出撃コロンバンガラ島到着直前の2348よりウォルデン・L・エインズワース少将率いる米艦隊巡洋艦3、駆逐艦4)との夜間水上戦闘が勃発するクラ湾夜戦)。「新月涼風谷風天霧初雪」が砲戦魚雷戦を展開する中、「望月」は大発動艇の曳索をスクリュー巻き込む事故起こし、「浜風三日月」から遅れてしまう。7月6日午前3時揚陸終えた望月」は単艦で帰途につくが、4時10分に米艦隊から砲撃を受け小破魚雷1本を発射して戦場離脱した。本海戦で「新月」が沈没、「長月」が座礁放棄。とくに「新月沈没により全乗組員秋山少将以下第三水雷戦隊司令部総員戦死。他の駆逐艦損傷した米軍軽巡ヘレナ」が沈没した損傷した初雪望月」はラバウル後退し15日まで応急修理実施している。 増援部隊第三水雷戦隊)は一時的に司令官不在となったため、重巡洋艦鳥海艦長有賀幸作大佐代理指揮をとる7月7日伊集院松治大佐前職戦艦金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官任命され10日着任した。しかし前述のように三水戦は参謀司令部要員ごと全滅しており、そこで第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将旗艦神通」)が増援部隊指揮執ることになった。ところが7月12日夜のコロンバンガラ島沖海戦で「神通」は沈没し伊崎司令官および第二水雷戦隊司令部全滅第七戦隊司令官西村祥治少将当面指揮執ることになった一連のクラ湾夜戦コロンバンガラ島沖海戦日本軍米軍水上部隊大打撃与えた判断しコロンバンガラ島方面での敵艦撃滅輸送作戦を行う計画をたてる。第七戦隊司令官西村少将指揮官とし、主隊(熊野鈴谷)、水雷戦隊川内皐月水無月雪風浜風、清波、夕暮)、輸送隊三日月夕凪松風)という戦力集結16日2200ラバウル進出してブインむかった。「初雪望月」は西村艦隊先行して16日夕刻ラバウル出撃17日午前5時にブイン入港「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件重油の移載をおこなう。7月17日朝、ブイン大型爆撃機19戦爆150機の大空襲を受ける。被弾し「初雪」沈没、「皐月水無月」が小破翌日にも空襲を受け「望月」が小破した。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウル帰投戦力再編したのち18日再出撃した。19日-20日輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡熊野小破駆逐艦「清波、夕暮沈没という損害受けて戦果はなかった。増援部隊艦艇一時ラバウル後退し修理をおこなう。 僚艦三日月ツルブ輸送実施中座礁し7月28日空襲沈没した29日望月皐月応急修理完成した。2隻は損傷した重巡熊野護衛してラバウル出発トラック向かった望月サイパン経由して8月15日佐世保到着修理入った9月21日佐世保出撃トラック泊地経由して29日ラバウル戻り引き続き護衛作戦投入された。10月7日-8日天霧皐月と共にスルミに、21日-22日天霧ブカ島輸送実施した

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昭和18年の戦い

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秋雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説

1943年昭和18年1月上旬呉海軍工廠での修理終える。1月6日特型運貨筒積載してトラック泊地へ向かう水上機母艦甲標的母艦)「日進」を護衛して、「秋雲」は瀬戸内海出発した1月18日附で、第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐後日軽巡大淀艦長空母信濃艦長)から吉村真武大佐交代吉村大佐1月7日まで軽巡龍田艦長)。同日岩国沖を出撃大和型戦艦2番艦「武蔵」、第一航空戦隊瑞鶴瑞鳳)、護衛艦6隻(軽巡神通》、第10駆逐隊秋雲夕雲巻雲風雲》、第16駆逐隊雪風》)という編制トラック泊地へと向かった1月23日トラック到着3度にわたるガダルカナル島からの撤退作戦である「ケ号作戦」に全て参加する。なお、航海中の1月19日第十戦隊旗艦秋月」が米潜水艦ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)の雷撃大破その際木村司令官負傷したため1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将第十戦隊司令官任命された。 詳細は「ケ号作戦」を参照 2月1日からの第一次作戦では692名の人員収容してショートランド帰投する。2月4日からの第二次作戦2月7日からの第三次作戦でも被害を受けることなく作戦遂行した同作戦中、「巻雲」が沈没して第十駆逐隊は3隻(秋雲夕雲風雲となった。 「ケ号作戦終了後パラオ移動しニューギニアの戦い投入される第四十一師団主力ウェワク輸送する丙三号輸送参加。「秋雲」の編入され第三輸送隊2月21日パラオから出発し2月24日ウェワク着いた3月に、ウェワクマダンの間にあるハンサ湾への第二十師団一部などの輸送第一次ハンサ輸送)に参加。「秋雲」と「風雲」、「夕雲」、「五月雨」、「皐月」が輸送船6隻 を護衛して3月6日パラオから出発し3月12日ハンサ湾に到着した帰路は「秋雲」と「五月雨」が船団護衛してパラオ向かったが、途中でB-17爆撃により輸送船桃山丸」が沈没。「秋雲」は91名を収容したその後ラバウル進出4月1日、「秋雲」と「五月雨」、「朝雲」、「夕雲」、「風雲」はショートランド人員弾薬などを揚陸コロンバンガラへの輸送予定であった敵機妨害のため引き返した)。4月5日、「秋雲」と「五月雨」、「朝雲」、「夕雲」はコロンバンガラへの輸送行なった輸送したものは不明4月10日、「秋雲」と「夕雲」はフィンシュハーフェンへの輸送に向かうが、敵機攻撃受けたため目的地変更しニューブリテン島ツルブ兵員などを揚陸した。 このあと第十戦隊旗艦阿賀野》、第16駆逐隊雪風》、第10駆逐隊夕雲秋雲》)は第一航空戦隊瑞鶴瑞鳳)を護衛して内地帰投、「秋雲」も5月9日横須賀帰投した。5月23日には、木更津沖に停泊する連合艦隊旗艦武蔵」に横付けして、4月18日機上戦死海軍甲事件)を遂げた連合艦隊司令長官山本五十六元帥海兵32期)の遺骨引き取り横須賀上陸させるという大任仰せつかった5月31日から6月5日までは横須賀海軍工廠整備行い電波兵器新設工事等を実施した詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 6月10日第六駆逐隊(「秋雲」、「風雲」、「夕雲」)は北方部隊編入6月13日幌筵海峡到着し北方部隊水雷部隊編入された。7月行われたキスカ島撤退作戦には途中反転第一次作戦成功した第二次作戦ともに収容駆逐隊として参加463名の人員収容して幌筵島帰投した。撤退作戦終えた後は8月3日付で機動部隊復帰し横須賀経て 呉へ向かう。8月16日連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊戦艦3隻〈大和長門扶桑〉、空母大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕高雄能代〉、駆逐艦部隊涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう。9月5日付で第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐海兵43期)に編入されラバウル進出後は「セ号作戦」の旗艦務め二度にわたるコロンバンガラ島からの撤退作戦成功させた。コロンバンガラ島からの日本軍の撤退は、同時に隣接するベララベラ島守備隊役割終わった事を意味していたので、ベララベラ島からの撤退急遽行われる事となった。この作戦中の9月21日附で吉村第10駆逐隊司令職務解かれ10月11日より阿賀野型軽巡洋艦3番矢矧艤装員長)、天野重隆大佐8月20日まで第21駆逐隊司令) に交代する詳細は「第二次ベララベラ海戦」を参照 10月5日朝5時、第三水雷戦隊司令官伊集院大佐夜襲隊(秋雲旗艦伊集院司令官座乗》、風雲夕雲磯風時雨五月雨)を率いてラバウル出撃ブーゲンビル島北方海域輸送部隊合流の後ベララベラ島接近する。この時、両部隊はアメリカ軍偵察機によって発見されており、これに基づいてフランク・R・ウォーカー英語版大佐率いる第4駆逐部隊ベララベラ島近海急行した夜半過ぎウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊レーダー夜襲部隊あるいは輸送部隊思われる目標探知し日本側も風雲時雨五月雨相次いで敵影発見した引き続き旗艦務める「秋雲」も見張り員や水雷長、砲術長が少なくとも3隻の巡洋艦および駆逐艦発見していたが、第三水雷戦隊先任参謀に「味方間違いではないか」と問いただされた。相馬艦長見張り員や水雷長、砲術長の言い分総合して相手が敵であると確信し伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間、第4駆逐部隊からの先制攻撃受けた。こうして始まった海戦、後に第二次ベララベラ海戦呼ばれる戦いは、日本側は「夕雲」を失ったものの、ベララベラ島からの人員撤収には成功したアメリカ側シャヴァリア (USS Chevalier, DD-451) が大破処分されたほか、ウォーカー大佐座乗したセルフリッジ (USS Selfridge, DD-357) も魚雷命中艦首失って大破し、オバノン (USS O'Bannon, DD-450) は航行不能となったシャヴァリア追突し損傷撤収作戦阻止する事ができなかった。 海戦後トラック方面下がって機動部隊とともにエニウェトク環礁方面行動した他、トラック横須賀間の護衛任務従事する10月31日、「夕雲」の代艦として朝潮型(満潮型)駆逐艦朝雲」が第10駆逐隊加入朝雲第九駆逐隊からの転出)、第10駆逐隊は3隻編制風雲秋雲朝雲)となる。11月11日秋雲駆逐艦長初春型駆逐艦4番初霜駆逐艦長入戸野焉生少佐交代となる。11月24日、「秋雲」はクェゼリン環礁へ向かう特設運送船給油東亜丸飯野海運10,052トン)を護衛してトラック出港するが、翌11月25日ポンペイ島北方海域アメリカ軍潜水艦シーレイヴン (USS Searaven, SS-196) の雷撃により東亜丸沈没した。ただちに爆雷攻撃行ったものの、シーレイヴンを取り逃がしたその後トラックパラオ間の護衛任務行った12月3日軽巡阿賀野」(十戦隊旗艦)の損傷時に負傷した第十戦隊司令官大杉守一少将退任木村進少将初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官職に就いた12月12日駆逐艦4隻(秋雲風雲山雲谷風)は大型艦2隻(空母翔鶴》、戦艦大和》)を護衛してトラック出発17日横須賀帰着した

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昭和18年の戦い

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神通 (軽巡洋艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説

1943年昭和18年1月16日五十鈴第二水雷戦隊から第十六戦隊編入された。同日附で神通呉鎮守府部隊から第二水雷戦隊編入された。 この間二水戦旗艦は五十鈴ヘンダーソン基地艦砲射撃時)、駆逐艦早潮1942年11月12日第三次ソロモン海戦時)、長波同年11月30日ルンガ沖夜戦旗艦)、照月ドラム缶輸送同年12月12日沈没)、黒潮第六ガ島輸送作戦一時将旗掲揚)などが歴任していた。 1月18日神通は呉を出撃大和型戦艦2番武蔵第二水雷戦隊神通第一航空戦隊瑞鶴瑞鳳)、駆逐艦5隻(第十駆逐隊夕雲秋雲巻雲風雲》、第十六駆逐隊雪風》)という編制だった。1月23日トラック泊地到着同日小柳司令官旗艦長波)は退隊し、一時神通艦長藤田俊造大佐二水司令官職務代理した。30日伊崎俊二少将第二水雷戦隊司令官として着任旗艦神通指定している。 1月31日ガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦支援のため、神通前進部隊警戒隊(阿賀野長良朝雲五月雨陽炎大波時雨敷波涼風初雪、嵐)を率いて出撃前進部隊本隊旗艦愛宕高雄妙高羽黒金剛榛名)・航空部隊隼鷹瑞鳳等)と合流し外洋出た神通朝雲五月雨陽炎大波時雨敷波本隊護衛涼風補給部隊阿賀野以下が航空部隊護衛という区分だった。ただしガダルカナル島北方700海里グリニッチ島の東方海域行動していた為、アメリカ軍交戦することはなかった。 2月3日駆逐艦2隻(朝雲五月雨)は外南洋部隊編入されショートランド泊地向かった2月9日神通以下警戒部隊トラック泊地帰投。それからの神通コロンバンガラ島沖海戦参加するまで、ルオット島輸送以外はトラック泊地待機続けた3月中、神通トラック泊地待機4月トラック泊地待機5月トラック泊地待機5月8日コロンバンガラ島輸送任務従事していた麾下第十五駆逐隊の3隻(親潮黒潮陽炎)が触雷して一挙に沈没6月、ようやく神通出動命じられた。第二航空戦隊隼鷹飛鷹航空隊マーシャル諸島地上基地進出するにあたり第四水雷戦隊長良時雨)等と手分けして基地要員輸送任務命じられのである。2隻(軽巡神通》、駆逐艦江風》)の任務は、ルオット島(ロイ=ナムル島)への基地要員314名)と軍需物資揚陸であった14日二水戦(神通江風)はトラック出港し16日14時ルオット島着いた。同島へ補給困難な点・食糧事情考慮した伊崎二水司令官は、両艦の糧食2週間分残すと、残り現地基地要員のために降ろしてしまった。17日朝に同地出発19日夕刻トラック着。

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