行幸
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明治天皇「聖蹟」
史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定されていた明治天皇の行在所等の「聖蹟」[7]は、1948年(昭和23年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号によって一斉に指定解除された。同告示(『官報』6435号所載)には指定解除物件の一覧がある。
四大行幸啓
天皇は毎年開催される以下の行事には皇后を同伴して行幸するため、「四大行幸啓」といわれる。
この時には当該行事に臨席するだけでなく、天皇、皇后の希望により地域の高齢者福祉施設、障碍者福祉施設の視察・行幸啓を計画に入れるのが慣例になっている。
古代の行幸
のちの女帝持統天皇は正式即位前の持統天皇4年(690年)正月に吉野宮に行幸したが、その後も吉野へ行幸し、計31回となる。これは(天武天皇が天皇号を称したのち)天皇としての権威や正当性を補い、強化するための行幸とみられ、皇后就任の地としての吉野宮を訪れることで、先の女帝である皇極(斉明)天皇と同様に、天皇としての資格・正当性を宣伝する意味合いがあったとされる[8]。
天平15年(743年)に聖武天皇が恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと記されている(『続日本紀』天平15年4月辛卯条)他、また他の奈良時代から平安時代にかけての他の行幸でも1000名以上の随行が確認できる行幸が複数確認できるため、天皇の行幸となるとその1000名もしくは2000名クラスでの陪従者が発生したと考えられる。行幸に際しては律令官人は天皇に随従する「陪従」と宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があった。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子が監国を務めて留守を守ることを前提とした条文が存在しているが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している事例がほとんどで、皇親や議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていた[9]。
平成期以降の行幸啓
現在(平成以降)の行幸は、天皇皇后の二人で行う「行幸啓」が原則である。国内の行幸は金曜日から月曜日、土曜日から火曜日の三泊四日で一つの道府県へ行幸啓するように計画される。行幸啓においては宮内庁の総務課長が「行幸主務官」として責任者となる。そのため総務課長は警察庁からの出向者が務める。行幸啓に使用する交通機関は航空機は民間の航空会社の特別機、新幹線も特別車となる。見送りには首相、宮内庁次長、警視総監が出席する[10]。1994年2月の小笠原行幸啓では、現地に飛行場がなく、船舶では時間がかかるため、海上自衛隊のUS-1A飛行艇が使用された[11]。
供奉者
行幸には以下の者が随行する。これらを「供奉者(ぐぶしゃ)」という。
訪問先では訪問地の知事と首長が供奉者に加わる。
車両編成
行幸啓先での天皇、皇后の鹵簿は以下のような編成となる。
通常編成
- 先導車
- 白バイ護衛2台
- 前駆車(黒塗りの自動車)
- 行幸主務官と警官2人
- 御料車
- 天皇、皇后と護衛官
- 側衛車
- 白バイの護衛2台
- 後衛車
- 訪問先の警察本部長、護衛官(責任者)、護衛官
- 供奉車(マイクロバス)
- 宮内庁長官、侍従長、侍従、女官長、女官、侍医、宮内庁職員2人、訪問先の道府県庁職員、護衛官3人
- 第1随従車
- 知事、道府県議会議長、道府県庁秘書課長
- 第2随従兼無線車
- 警察庁長官、皇宮警察本部長、警察庁職員2人、護衛官、警察官2人
- 後押さえ車
- 白バイ2台
- 報道1号車(バス)
- 宮内庁記者会、道府県広報課職員、宮内庁職員
- 報道2号車(バス)
- 地元記者クラブ、記者、道府県広報課職員
- 予備車両
- 道府県庁職員2人
- 予備
- 白バイ2台
災害被災地
災害被災地の行幸啓では、前駆車、御料車(マイクロバス)、後衛車の3台のみとなり、御料車になるマイクロバスに供奉者も同乗する。白バイの護衛はなく、地元の知事や警察本部長は災害救援優先のために随従しない。
注釈
- ^ これについて、高埜利彦は江戸幕府が社会に広く天皇の存在と権威を直接示すことを拒む朝廷統制策(「江戸幕府による行幸禁止政策」)があったとする。これに対して藤田覚は行幸の衰退・廃絶傾向は鎌倉時代後期から一貫して見られる現象であり、なおかつ財政的な問題もあったことから、それが江戸時代における朝廷側の行幸への消極的な姿勢につながっているとする[3]。また、鎌倉時代後期から行幸の衰退・廃絶について、佐古愛己は財政的な問題に加え、行幸に際して随行した公家たちの対する叙位が行われたことで、随員に選ばれず他者に超越される(位階を越される)ことになった公家の反発を招いて公家社会内部でのトラブルが深刻化したことにより、徳政の目標として「公平な人事」を求める声が高まり、叙位発生の原因となる行幸そのものが抑制された可能性を指摘する[4]。
- ^ この規則は、天皇の行幸、皇后、皇太后、皇太子及び皇太子妃の行啓並びにその他の皇族のお成りの場合の警衛に関し必要な基本的事項を定め、もってその適正な実施を図ることを目的とする[5]。
出典
- ^ 精選版 日本国語大辞典『行幸』 - コトバンク
- ^ 日本書紀にも記載がある為、奈良時代の朱鳥年間には既に使われていたものと思われる
- ^ 藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)第6章「天保期の朝廷と幕府-朝覲行幸再興を中心に」
- ^ 佐古愛己『平安貴族社会の秩序と昇進』(思文閣出版、2012年)補論2「中世公家社会における叙位の一考察」
- ^ 国家公安委員会規則『警衛要則』第1条
- ^ 富山県護国神社『富山県における聖帝四代の御製を拝す 』富山県護国神社、2012年、p27頁。
- ^ 柴崎力栄「関東地方における明治天皇親率演習---一八八一年の厚木行幸を中心に」(年報近代日本研究12・近代日本と情報、山川出版社、1990年)133-136頁に「明治天皇聖蹟の史跡指定」について記述がある。
- ^ 遠山美都男『天皇と日本の起源「飛鳥の大王」の謎を解く』(講談社現代新書、2003年)pp.289-290.
- ^ 永田英明「天皇の行幸」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P94-95
- ^ 山本雅人『天皇陛下の全仕事』(2009年、講談社現代新書)
- ^ 第71航空隊 US-1A 90号除籍記念式典
- 1 行幸とは
- 2 行幸の概要
- 3 明治天皇「聖蹟」
- 4 行幸を題材にした和歌
- 5 参考文献
- 6 関連項目
品詞の分類
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