行幸とは? わかりやすく解説

ぎょう‐こう〔ギヤウカウ〕【行幸】

読み方:ぎょうこう

[名](スル)《「ぎょうごう」とも》天皇外出すること。行く先が2か所以上にわたるときには巡幸という。みゆき。→行啓(ぎょうけい)


み‐ゆき【行幸/幸】

読み方:みゆき

【一】行くことを敬っていう語。特に、天皇外出をいう。行幸(ぎょうこう)。古くは、上皇法皇女院にもいったが、のちに御幸(ごこう)と音読し区別した

群臣或は帝に勤むるに浙(せつ)に—するを以てするあり」〈露伴運命

こちごち花の盛りに見(め)さずともかにもかくにも君が—は今にしあるべし」〈万・一七四九〉

【二】(行幸)源氏物語29巻の巻名光源氏36歳から37歳冷泉帝大原野行幸、玉鬘(たまかずら)の裳着(もぎ)の行事などを描く。


行幸

天皇外出されること。

行幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/16 09:56 UTC 版)

昭和天皇行幸碑の例(広島県福山市
第18回都市対抗野球大会開幕式における昭和天皇香淳皇后三笠宮崇仁親王の行幸啓(1947年8月3日)

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が居所から外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸という[1]

また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)という場合もあるが、これは上皇法皇女院に対しても使う。

語法

皇后皇太后皇太子皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)/巡啓(じゅんけい)というほか、行幸と併せて行幸啓(ぎょうこうけい)/巡幸啓(じゅんこうけい)という。単に「行幸啓」といった場合には、天皇と皇后が一緒に外出することを指す場合が多い。

行幸啓した皇族が外出先から帰ることを還幸(かんこう)、還啓(かんけい)、還幸啓(かんこうけい)という。

日本書紀には「天皇幸」で、天皇の行幸となり、「天皇至自」で、天皇の還幸と言う意味になっている。一方、「天皇」が外れると、皇族もしくはそれに近い者の行幸、還幸と言う意味になる。行幸して儀式などに臨む場合、臨幸(りんこう)という。


これら以外の皇族の外出は御成りお成り(おなり)、お成りをした皇族が外出先から帰ることを御帰還(ごきかん)という。

行幸の際に宿泊するところを行宮(あんぐう、かりみや)という。[2]

行幸に際し、地名や社名が付く場合がある。特に、目的地を持った行幸には地名が付くことがある。例えば、住吉大社に行幸する場合は「住吉行幸」などと呼ばれる。また、鎌倉時代の書物の中には「鞍馬御幸」などの表記もうかがえる。江戸時代に入ると、慶安4年2月25日(1651年4月15日)の後光明天皇による朝覲行幸以後、文久3年3月11日(1863年4月28日)の孝明天皇による上賀茂神社下鴨神社行幸まで行幸は行われなかった(ただし、火災等による御所移動時の行幸は除く。また、天保8年(1837年)には江戸幕府との合意によって仁孝天皇による朝覲行幸が計画されていたが、対象となる光格上皇の病気と崩御によって実現されなかった)[注 1]。明治の「東京行幸」は行幸という言葉を使い、その形態を装っているが、実質的な東京奠都という意味で用いられる。

現在、宮内庁法他に用いられる法令用語でもある[注 2]

官報

独立行政法人国立印刷局が発行する官報には、天皇・皇后の行幸啓があった場合、下記の項目が掲載される。

  • 行幸啓した者(天皇の行幸・皇后の行啓・両者の行幸啓)
  • 行幸啓先とその目的
  • 出門と還幸啓の日時

具体的には、下記の例のように掲載される。

天皇陛下は、九月二十八日午後零時四十一分御出門、第百六十五回国会開会式に御臨場のため、国会議事堂へ行幸、同一時十九分還幸になった。
(平成18年10月2日月曜日付官報第4434号より引用)

歴史上著名な行幸啓

神戸税関行幸記念碑。1899年(明治32年)11月、居留地撤廃を記念しての行幸。
第107代後陽成天皇
第108代後水尾天皇
第122代明治天皇
第124代昭和天皇
在位中、沖縄県を除く46都道府県に行幸した。
第125代天皇(現:上皇明仁
在位中、全47都道府県に行幸した。

明治天皇「聖蹟」

史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定されていた明治天皇の行在所等の「聖蹟」[7]は、1948年(昭和23年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号によって一斉に指定解除された。同告示(『官報』6435号所載)には指定解除物件の一覧がある。

四大行幸啓

第42回全国豊かな海づくり大会での天皇徳仁皇后雅子2023年

天皇は毎年開催される以下の行事には皇后を同伴して行幸するため、「四大行幸啓」といわれる。

この時には当該行事に臨席するだけでなく、天皇、皇后の希望により地域の高齢者福祉施設、障碍者福祉施設の視察・行幸啓を計画に入れるのが慣例になっている。

古代の行幸

のちの女帝持統天皇は正式即位前の持統天皇4年(690年)正月に吉野宮に行幸したが、その後も吉野へ行幸し、計31回となる。これは(天武天皇が天皇号を称したのち)天皇としての権威や正当性を補い、強化するための行幸とみられ、皇后就任の地としての吉野宮を訪れることで、先の女帝である皇極(斉明)天皇と同様に、天皇としての資格・正当性を宣伝する意味合いがあったとされる[8]

天平15年(743年)に聖武天皇恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと記されている(『続日本紀』天平15年4月辛卯条)他、また他の奈良時代から平安時代にかけての他の行幸でも1000名以上の随行が確認できる行幸が複数確認できるため、天皇の行幸となるとその1000名もしくは2000名クラスでの陪従者が発生したと考えられる。行幸に際しては律令官人は天皇に随従する「陪従」と宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があった。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子監国を務めて留守を守ることを前提とした条文が存在しているが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している事例がほとんどで、皇親議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていた[9]

平成期以降の行幸啓

現在(平成以降)の行幸は、天皇皇后の二人で行う「行幸啓」が原則である。国内の行幸は金曜日から月曜日、土曜日から火曜日の三泊四日で一つの道府県へ行幸啓するように計画される。行幸啓においては宮内庁の総務課長が「行幸主務官」として責任者となる。そのため総務課長は警察庁からの出向者が務める。行幸啓に使用する交通機関は航空機は民間の航空会社の特別機、新幹線も特別車となる。見送りには首相、宮内庁次長、警視総監が出席する[10]。1994年2月の小笠原行幸啓では、現地に飛行場がなく、船舶では時間がかかるため、海上自衛隊US-1A飛行艇が使用された[11]

供奉者

行幸には以下の者が随行する。これらを「供奉者(ぐぶしゃ)」という。

訪問先では訪問地の知事と首長が供奉者に加わる。

車両編成

行幸啓先での天皇、皇后の鹵簿は以下のような編成となる。

通常編成

御料車(2019年、奈良県にて)
先導車
白バイ護衛2台
前駆車(黒塗りの自動車)
行幸主務官と警官2人
御料車
天皇、皇后と護衛官
側衛車
白バイの護衛2台
後衛車
訪問先の警察本部長、護衛官(責任者)、護衛官
供奉車(マイクロバス)
宮内庁長官侍従長、侍従、女官長、女官、侍医、宮内庁職員2人、訪問先の道府県庁職員、護衛官3人
第1随従車
知事、道府県議会議長、道府県庁秘書課長
第2随従兼無線車
警察庁長官、皇宮警察本部長、警察庁職員2人、護衛官、警察官2人
後押さえ車
白バイ2台
報道1号車(バス)
宮内庁記者会、道府県広報課職員、宮内庁職員
報道2号車(バス)
地元記者クラブ、記者、道府県広報課職員
予備車両
道府県庁職員2人
予備
白バイ2台

災害被災地

災害被災地の行幸啓では、前駆車、御料車(マイクロバス)、後衛車の3台のみとなり、御料車になるマイクロバスに供奉者も同乗する。白バイの護衛はなく、地元の知事や警察本部長は災害救援優先のために随従しない。

行幸を題材にした和歌

  • このたびは幣もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに(菅原道真
  • 小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびの御幸またなむ(藤原忠平

行幸にちなむ名称

上記のほか、各地の「みゆき通り」のように行幸にちなむ名が随所に見られる。

脚注

注釈

  1. ^ これについて、高埜利彦は江戸幕府が社会に広く天皇の存在と権威を直接示すことを拒む朝廷統制策(「江戸幕府による行幸禁止政策」)があったとする。これに対して藤田覚は行幸の衰退・廃絶傾向は鎌倉時代後期から一貫して見られる現象であり、なおかつ財政的な問題もあったことから、それが江戸時代における朝廷側の行幸への消極的な姿勢につながっているとする[3]。また、鎌倉時代後期から行幸の衰退・廃絶について、佐古愛己は財政的な問題に加え、行幸に際して随行した公家たちの対する叙位が行われたことで、随員に選ばれず他者に超越される(位階を越される)ことになった公家の反発を招いて公家社会内部でのトラブルが深刻化したことにより、徳政の目標として「公平な人事」を求める声が高まり、叙位発生の原因となる行幸そのものが抑制された可能性を指摘する[4]
  2. ^ この規則は、天皇の行幸、皇后、皇太后、皇太子及び皇太子妃の行啓並びにその他の皇族のお成りの場合の警衛に関し必要な基本的事項を定め、もってその適正な実施を図ることを目的とする[5]

出典

  1. ^ 精選版 日本国語大辞典『行幸』 - コトバンク
  2. ^ 日本書紀にも記載がある為、奈良時代の朱鳥年間には既に使われていたものと思われる
  3. ^ 藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)第6章「天保期の朝廷と幕府-朝覲行幸再興を中心に」
  4. ^ 佐古愛己『平安貴族社会の秩序と昇進』(思文閣出版、2012年)補論2「中世公家社会における叙位の一考察」
  5. ^ 国家公安委員会規則『警衛要則』第1条
  6. ^ 富山県護国神社『富山県における聖帝四代の御製を拝す 』富山県護国神社、2012年、p27頁。 
  7. ^ 柴崎力栄「関東地方における明治天皇親率演習---一八八一年の厚木行幸を中心に」(年報近代日本研究12・近代日本と情報、山川出版社、1990年)133-136頁に「明治天皇聖蹟の史跡指定」について記述がある。
  8. ^ 遠山美都男『天皇と日本の起源「飛鳥の大王」の謎を解く』(講談社現代新書、2003年)pp.289-290.
  9. ^ 永田英明「天皇の行幸」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P94-95
  10. ^ 山本雅人『天皇陛下の全仕事』(2009年、講談社現代新書)
  11. ^ 第71航空隊 US-1A 90号除籍記念式典

参考文献

関連項目


行幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)

二条城」の記事における「行幸」の解説

寛永元年1624年):徳川家光将軍秀忠大御所となった寛永元年から、二条城後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築始まった城域は西に拡張され天守拡張され西側位置変え廃城となった伏見城天守移築した作事奉行には小堀政一五味豊直(後の京都郡代)が任じられる尾張藩紀伊藩などの親藩譜代19家が石垣普請担当した寛永3年1626年):行幸は寛永3年9月6日1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれその間舞楽能楽鑑賞乗馬蹴鞠和歌の会が催された。この行幸が二条城最盛期である。行幸のために新たに建てられた行御殿上皇となった後水尾院御所移築、その他多く建物解体撤去された。 寛永11年1634年7月秀忠死後家光307千の兵を引き連れ上洛し、二条城入城したのを最後に二条城将軍迎えることは途絶え幕末の動乱期までの230年間、二条城歴史表舞台から姿を消す。 その230年の間に暴風雨地震落雷徐々に建物破損し老朽化する寛延3年1750年)には落雷により天守焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年1788年)の大火の際には、飛び火原因本丸御殿隅櫓などが焼失した破損部分に関して修理が行われたが、失した建物について再築されることなく幕末迎える。 寛永2年1625年):二条城には、将軍不在の間の管理警衛のために二条城代二条在番設置された。 元禄12年1699年):二条城代廃止され、その職務二条在番担当することとなった文久2年1862年)閏8月交代制二条在番廃止され、それに代わって常勤制の二条定番設置された。なお、朝廷監視および折衝担当する京都所司代二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在二条城幕府政庁としては全く使用されなかった。

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「行幸」を含む「二条城」の記事については、「二条城」の概要を参照ください。

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行幸

出典:『Wiktionary』 (2021/08/18 12:16 UTC 版)

名詞

 ぎょうこう

  1. 天皇外出すること、みゆき
  2. 中国皇帝訪れること。

関連語


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