物議を醸したレース
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「アイルトン・セナ」の記事における「物議を醸したレース」の解説
1985年第4戦モナコGP 予選で速さを見せた一方、自身のアタック後もコース上に留まったり、レース用タイヤを履き再度出ていくなどの行動を取る。結果的に自身3度目のPPを獲得するも、他者のアタックを妨害したとして、ニキ・ラウダやミケーレ・アルボレートから非難を受けた。決勝ではエンジントラブルが発生し、序盤のうちにリタイヤとなった。 1987年第3戦ベルギーGP 予選では3位グリッドを獲得し、決勝では赤旗中断を経た後、スタートでトップに立つが、その周のうちに2位のマンセルと絡みリタイヤとなった。一旦は復帰したマンセルも、結局は接触の際のダメージによりリタイヤとなった。 マンセルはリタイヤ後、ロータスのピットに殴り込みをかけ乱闘となるが、セナはメカニックがマンセルを抑えさせている間に殴打し、返り討ちにした。ピットにマンセルが現れた際、セナは高級な腕時計を付けた状態であったが、乱闘になりそうなことを察知して、時計が壊れないよう外してから迎え撃ったという。 1988年第3戦モナコGP 予選で2位のチームメイトのプロストに1.427秒、3位フェラーリのベルガーに2.687秒の差を付けてPPを獲得。この予選についてセナは「意識的な理解を大きく越えていると実感したので突然怖くなり、ゆっくりピットに戻って、それ以上は走らなかった」と語っている。 決勝レースでも速さを見せトップを走った。プロストは終盤に2位に浮上するも、1分近い差が開いていた。直後より、プロストはセナを上回るペースで少しずつ差を詰めると、セナはこれに反応し、互いにファステストラップを出し合う状況が続いた。チームは無用の争いを避けるべく双方にペースダウンを指示したが、これでセナは集中力が切れるかたちとなり、67周目にトンネル手前のポルティエコーナーでガードレールにクラッシュしリタイヤとなった。残り周回数は少なく、追いつかれる可能性がほぼ無い状況でのミスであった。セナはこの後ピットに帰らずモンテカルロの自宅へと直帰し、なぜこのミスが起きたのが自分の一週間前の行動をすべて振り返り分析したという。以降のセナのレーススタイルに大きく影響したレースと言われている。 1988年第13戦ポルトガルGP 予選ではプロストがPPを獲得し、セナは2番グリッド。決勝ではスタートで多重事故が発生、赤旗中断を経て再スタートとなった。再スタートでは、プロストがセナをアウト側に牽制、グリーンにはみ出しそうになったセナだが、プロストを抜き1コーナーでトップに立った。2周目のメインストレートで、プロストはセナに仕掛けるが、今度はセナがプロストをイン側の壁に幅寄せし、接触寸前となった。結局、プロストはセナを抜きそのまま優勝、セナはセッティングの失敗もあり、徐々に順位を下げ最終的に6位で終わった。 レース後プロストはセナを批判し、両者に確執が生まれるきっかけとなった。幅寄せは双方が行ったが、プロストはスピードの乗り切らないスタート直後であるのに対し、セナは完全にレーシングスピードで走行する2周目であった為、後年にはセナの行為だけが取り上げられるケースが多い。 1989年第2戦サンマリノGP 予選ではセナがPP、プロストが2番グリッドを獲得し、マクラーレン勢がフロントローを独占。レース前に2人の間では、序盤に無用な争いで共倒れになることを避ける為、「スタートで先に第1コーナーに進入したほうが、レースの主導権を握る権利を得る」という紳士協定が取り交わされていた。そんな中決勝が開始となり、一旦はセナが好スタートを切ったが、ベルガーの炎上事故によりレース中断となる。再スタートではプロストが好スタートを切り第1コーナー(タンブレロ)をトップで通過したが、セナは続く第2コーナー(トサ・コーナー)でプロストのインを突き、あっさりと抜いてしまう。 レースは、そのままセナが優勝、プロストが2位となりマクラーレンの1-2フィニッシュで終わったが、レース後にプロストは「協定を反故にした」としてセナを批判。ロン・デニスも交えた3名で話し合いも行われたが、これ以後2人の確執は、外部にも知られるものとなった。 1989年第15戦日本GP タイトルの可能性は残るものの、セナがタイトルを獲得するためには、最低でもこのレース及び最終戦での優勝が必須条件。ノーポイントであれば、ここでプロストのタイトル獲得が決まる状況の中、予選で2位プロストに1.730秒の大差をつけてPPを獲得。しかし決勝では、スタートからプロストに先行され、プロストが決勝レースでのセッティングに重点を置いていたこともあり、抜くことが出来ないまま終盤を迎えた。 数周に渡り同様の狙いを見せた後、47周目のシケイン進入でついにセナがプロストのインに飛び込んだ結果、レース前からセナに対して「もう扉を開けない」と宣言していた通り、ラインを譲らずに走行したプロストに追突。2台のマシンは並んで停止。プロストは即座にマシンを降りたが、逆転王座に賭けるセナはマーシャルに押し掛けを指示、シケインをショートカットする形でレースに復帰した。ノーズ交換のためにピットインをする間にナニーニが先行するが、セナはこれをパスし、ひとまずトップでチェッカーを受けた。 しかしレース終了後、シケインのショートカットと言う理由が後に押し掛けをしたという理由に変更される不可解な裁定ではあったが、失格処分を受ける。この結果プロストのタイトル獲得が決定した。セナは控訴していたが後に棄却された。「一歩も引く気はなかった。ただ右側へ向かっただけで、自然なことだ。でも塞がれてしまった。あまり意味のないレースだったかもしれないね。このことは忘れない」と語った。 1990年第10戦ハンガリーGP 予選ではタイムが伸びずに4番グリッド、決勝でもスタートに失敗し6位まで転落する。更にはパンクにより想定外のタイヤ交換を余儀なくされ、22周目にピットアウトした際には、11位まで順位を下げていた。ここから追い上げを見せ、最終的には優勝したブーツェンと0.288秒差の2位でフィニッシュした。しかし追い上げの過程の中で、64周目のシケインで2位のナニーニを弾き飛ばし、リタイヤに追い込んでいた。レース後、ナニーニは直接セナを批判するコメントをしなかったが、「今日のことは忘れない」と語った。 このGPでは、チームメイトのベルガーも、同じシケインでマンセルを弾き飛ばす場面があり、マクラーレン勢の行為が揃って物議を醸すこととなった。 1990年第15戦日本GP プロストがノーポイントであれば、セナのタイトル獲得が決まるという、前年とは逆の立場でこのレースを迎えた。セナは予選でPPを獲得しプロストが2位と、同じドライバーが同じ順で3年連続フロントローに並んだ。過去2年、スタートを失敗しているセナは、このレースでもスタートで出遅れプロストが先行、1コーナー進入時にはプロストのフェラーリがアウト、セナがインの状態だった。先行したプロストがレコードラインを守りインに切れ込む中、セナは前年に引き続きまたも後方から接触。左側のグラベルに弾き出され、双方共にリタイア。レース開始から9秒で、セナのタイトル獲得が決定した。 セナの行為は、当時は故意か否かで紛糾したが、翌年の鈴鹿でセナ自ら故意の追突であったことを告白。前年のプロストとの接触を、故意によるものと判断したセナの報復行為に非難が浴びせられた。「レーサー同士の戦いはリスクがつきものだ。わずかな隙を逃さずに挑まなければ、レーサーとは言えない。僕たちは常に勝つために競争をしている。それが勝利へのモチベーションなんだ」と語った。 1991年第9戦ドイツGP 予選では2位グリッドを獲得するも、スタートで順位を落としたこともあり、レースの大半をプロストとの4位争いに費やす。終始セナが先行し、プロストが肉薄する展開であったが、プロストは38周目に第2シケインでセナに仕掛けた。セナはそのまま譲らず、プロストは押し出されるかたちで直進、パイロンを倒しながらエスケープゾーンに入り、そのままマシンを止めた。セナはその後も4位を走るが最終周にガス欠でストップし、ノーポイントに終わった。 プロストはセナの行為を危険だと激しく非難したが、続くハンガリーGPで2人の話し合いが行われ、一時的に和解することとなった。 1991年第15戦日本GP 予選から、僚友のゲルハルト・ベルガーと共に当時のレコードラップを更新しあう走りを見せ、2番手グリッドを獲得。決勝前にベルガーと「最初に1コーナーに入った者が優勝する」という紳士協定を密かに結びレースに挑む。決勝はベルガーが先行し、セナは、優勝しかチャンピオンへの道がない3番手のマンセルを抑え、ベルガーを逃がす作戦に出る。 しかし、マンセルが10周目の2コーナーでコースアウトしてリタイアした瞬間にセナのチャンピオンが確定したことで、作戦を変更しベルガーを追撃する。ベルガーは序盤でエキゾーストパイプが破損、エンジン出力が低下したことでラップタイムが落ち、追撃してきたセナにあっさり抜かれてしまう。紳士協定違反に当惑するベルガーを尻目に、セナは磐石の走りでトップを快走。このまま終わると思われた最終ラップの最終コーナー、セナはベルガーに合図を送りながらイン側を明け渡し、ベルガーがセナを抜き優勝した。 この行為は、「チャンピオン獲得に協力してくれたベルガーへのセナからのプレゼント」と好意的な評価をする声があった一方、「セナが自身の速さを充分見せつけて真の勝者を印象付けた後で紳士協定に基づき仕方なく優勝を譲った」恣意的な行動と非難する声も多くあがった。レース後、ことのいきさつについて当事者とロン・デニスの3人が激論を交わし、特にベルガーはその露骨な譲り方に怒りを抱いていたことが明らかになっている。後にベルガーはフジテレビのインタビューに対して、「セナがスローダウンしたからエンジンがトラブりやがったな、ざまあみろ、と思って前に出たら違った。もし意図がわかっていたら抜かなかった」との旨を語っている。 1992年第3戦ブラジルGP ニューマシン・MP4/7Aを投入するも、予選ではウィリアムズ勢にタイムで大きく離された3位となった。決勝でもペースが上がらずウィリアムズ勢に大きく引き離され、後方には4位のシューマッハ以下が数珠繋ぎに続く状態であった。シューマッハが何度も仕掛けようと試みる中、セナは加減速を繰り返すという手段で抑え込んだ。しかし17周目に1コーナーでシューマッハの先行を許すと、アレジやブランドルにも次々と抜かれた後、電気系トラブルによりリタイアとなった。 セナを憧れとしていたシューマッハだが、このブロックの件で「チャンピオンのとる行動ではない」と批判した。一方のセナは、加減速を繰り返した理由について「既にエンジンにトラブルがあった為(意図的ではない)」と主張。以後両者の間で何度もトラブルが起こる発端となった。 1992年第7戦カナダGP 前戦モナコGPでの優勝の勢いもあり、予選でシーズン初(結果的に唯一)のPPを獲得し、決勝でもスタートからトップを走るが、ペースがあがらず、セナを先頭に5秒以内に8台がひしめき合う状態となった。15周目、2位のマンセルが最終コーナーで仕掛けるが、曲がり切れずにクラッシュし、そのままリタイヤとなった。一方のセナは、マンセルのリタイヤ後もトップを守っていたがギアボックストラブルにより中盤にリタイヤ、連勝はならなかった。 マンセルは自身のクラッシュをセナの危険走行が原因と判断、リタイヤ後もマシンの中に留まり1周後に戻ってきたセナに拳を上げ抗議するまで、マシンから降りようとしなかった。それでも怒りは収まらず、マクラーレンピットへ向かい、今度はロン・デニスに抗議を行った。レーシングスーツから着替えた後は、ウィリアムズのメカニックを引き連れてコントロール・タワーへ向かい、「セナの危険な行為ではじき出された」と主張、前戦モナコGPで健闘を称え合ったのとは対照的な場面となった。一方のセナはレース後に、クラッシュの原因は「曲がり切れないようなスピードでコーナーに入っていったマンセルにある」と主張した。 1992年第16戦オーストラリアGP セナはホンダエンジンで戦う最後のレース、マンセルはF1からの引退レースと、互いに想いを抱える状況の中、予選ではマンセルがシーズン14回目のPPを獲得、セナも2位でフロントローを獲得した。決勝ではセナが1周目に一旦トップに立つが、すぐにマンセルに抜き返され、そのまま膠着状態でレースが進んだ。このシーズンで初めて、マンセルを追い詰める展開となったセナだが、19周目に両者は接触しそのままリタイヤとなった。 接触直後、セナはマンセルの元へ向かい握手の為に手を差し出したが、マンセルは拒否。更にはコントロールタワーへ向かい「セナがオーバースピードで突っ込んだ」と主張するも、認められなかった。一方、セナは「マンセルが突然減速し避けきれなかった」と語り、両者共に後味の悪い形で節目のレースを終えた。 1993年開幕戦南アフリカGP 予選2位からスタートを決めトップでレースを進めるが、序盤から油圧系トラブルを抱えペースが上がらず、後方にはプロストとシューマッハが肉薄する。22周目のS字でプロストに抜かれると、続けざまにシューマッハにも抜かれてセナは一気に3位に転落する。しかしその周のうちにシューマッハと同じタイミングでタイヤ交換に入り、メカニックの迅速な作業により再度シューマッハの前に出た。その後もシューマッハに攻め立てられるが、40周目のコンチネンタル・カーブで両者は軽く接触、セナが何事もなく走行を続けたのに対し、シューマッハはスピンを喫しリタイアとなった。 シューマッハは、接触の原因をセナの過度なブロック走行によるものと捉え激怒。しかしFIAの裁定は「不可抗力」とされ、セナには一切のペナルティが下ることは無く、そのまま2位でフィニッシュした。
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物議を醸したレース
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「ナイジェル・マンセル」の記事における「物議を醸したレース」の解説
1987年ベルギーグランプリ 1周目にセナをアウト側から強引に抜こうとして接触。両者スピンしセナはリタイアする。その後リタイアしたマンセルは激昂してロータスのピットへ向かい、セナと殴り合いの騒ぎを起こし、粗暴な振舞いを非難された。 1989年ポルトガルグランプリ 予選からフェラーリ勢が好調で、決勝でもマンセルがベルガーを抜いて首位を走る。しかし、ピット作業時にチームのピットを通り過ぎたあとに後退ギアを使った為、失格の裁定が下った。ピットインを指示する黒旗が提示されたが、3周に渡ってこれを無視し、最終的に第1コーナーでセナに接触した。マンセルは「逆光で旗が見えなかった」と弁明したが、5万ドルの罰金と1レース出場停止処分を受けた。黒旗を無視して走行し続け、チャンピオン争いをしていたセナと事故を起こしたことは大きな波紋を呼んだ。 1990年ポルトガルグランプリ フェラーリ勢が予選1列目を獲得し、ポールポジションのマンセルは僚友プロストのチャンピオン争いのアシストを期待された。しかし、スタートでマンセルが斜行してプロストの進路を塞ぎ、その隙にマクラーレン勢の先行を許す。その後マンセルは首位を奪い返し、結果的にポールトゥーウィンでこの年唯一の勝利を上げるが、プロストはチームの管理能力への不満をマスコミに漏らした。マンセル自身は「ホイールスピンが激しく横滑りしてしまった」と述べ、故意の幅寄せを否定した。 1992年カナダグランプリ この年初めてポールポジションを逃し、決勝でもセナに前をふさがれる。最終シケインでインを突くが曲がりきれず、グラベルに突っ込んでこの年初のリタイヤを喫した。コースアウトしたマシンからマンセルはセナに怒りのジェスチャー右手を挙げ、さらにウィリアムズのピットに戻る途中マクラーレンのピットに立ち寄り、ロン・デニスに激しく抗議した。この姿はテレビ中継でも映し出されており、マンセルとデニスの確執を象徴するシーンの1つともなっている。その後競技委員に「セナにはじき出された」と訴えたが認められず。
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物議を醸したレース
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「ミハエル・シューマッハ」の記事における「物議を醸したレース」の解説
1990年マカオGP マカオGPの第1レグではハッキネンから約5秒遅れの2位。第2レグでも先行しながらハッキネンを引き離せず、総合タイムでハッキネンの優勝が濃厚かと思われた。しかし、ファイナルラップのメインストレートでオーバーテイクを仕掛けてきたハッキネンをブロックして接触。ハッキネンはクラッシュし、シューマッハはリヤウイングが脱落したものの、残り1周を走りきって総合優勝を手にした。 シューマッハはハッキネンのガレージに行き「すまなかった。君が後ろにいるなんて見えなかったんだ」と謝ったが、ヨーロッパに戻ってテレビ出演した際、接触のことを聞かれると「ミカのことは見えていたよ。だからブロックしたんだ。あの状況では、僕は勝つために当然のことをしたと思うよ」と答えた。 1994年第16戦オーストラリアGP 1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルとバトルを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体右側を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは次のコーナーでインを刺すが、シューマッハがアウト側から阻んだことで両者は衝突し、シューマッハのマシンはヒルに弾き出されタイヤバリアに突き刺さり、この時点でシューマッハはリタイアとなる。ヒルもスローダウンしながらピットまでは戻ったものの、左サスペンションロッドが曲がっておりリタイアを余儀なくされた。当時のビデオを見ると、最初に単独コースアウトした時点でシューマッハのマシンはダメージを受けており、ステアリング操作に問題を抱えていることが判る。そのままレースを継続することは不可能と考えられ、ヒルをブロックする正当な理由は見あたらない。またシューマッハのヘルメットの動きから視線を追うと、後方からオーバーテイクを試みるヒルのマシンの動作を認識していることが確認出来る。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から物議を醸した。 1995年第11戦ベルギーGP 雨絡みの予選で16位に沈むが、レースでは他がレインタイヤに交換する中で唯一スリックタイヤを履き続けて首位に躍り出る。レインタイヤを履くデイモン・ヒルが追いつき抜きにかかるも、シューマッハは何度もラインを変えて2周にわたりヒルをブロックし続けた。その後ヒルに抜かれたが、コンディションの回復により再び首位に立ち、最終的にギャンブルを成功させたシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。しかし、ヒルへ危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。また、次戦から「後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみ」という新たなレギュレーションが設けられた。 非難を浴びた一方で、全91勝の中で一番後方のスタートから追い上げ、雨が降っている中、2周に渡ってドライタイヤで抑えきったということで、FIAの処分も下手な演出だと笑い飛ばすジャーナリストたちもおり、イギリスの『F1 Racing』誌(2008年6月号)が掲載した「史上最高のドライバートップ100ランキング」では、キャリアハイライトと捉えている。また、シューマッハ自身は過去のベルギーGPの中でこの1995年が一番良い思い出と語っている。 1997年第17戦ヨーロッパGP 1994年と同様、1点差のランキング1位で迎えた最終戦。前回のこともあり、FIAの配慮により、レース前にタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと、お互いにフェアなレースをする誓い合いが行なわれた。決勝では1位シューマッハ、2位ヴィルヌーブのまま、2度目のピットイン終了。シューマッハのペースが落ち、ヴィルヌーブが0.5秒以内に差を詰めてきた。48周目のドライサックヘアピンへの進入でヴィルヌーブがシューマッハのインをつき、切り込んだシューマッハの右前輪がヴィルヌーブの車体の左サイドポンツーンに接触。シューマッハは弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。一方のヴィルヌーブは3位で完走し、タイトルを獲得した。 FIAは「シューマッハがヴィルヌーブに故意にぶつけ、リタイアへ追い込もうとした」と判断。シーズン終了後の11月11日、FIAに召喚されたシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。 1998年第7戦カナダGP ピットアウト直後にシューマッハは後方から接近したハインツ=ハラルド・フレンツェンをブロックし、フレンツェンはグラベルに押し出される形でリタイヤとなる。これに激怒したウィリアムズのパトリック・ヘッドがフェラーリ陣営に猛抗議し、シューマッハは10秒のピットストップペナルティを課せられた。シューマッハは優勝記者会見で「ミラーを見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後、ピットレーン出口に白線が敷かれ、この白線を踏むとドライブスルーペナルティが課せられるようになった。 1998年第13戦ベルギーGP 決勝当日の雨で波乱続きのレース、2回目のスタートでヒルに続く2位を暫く走行の後、8周目のバスストップシケインでヒルを交わして首位に浮上する。しかし25周目、リバージュを抜けた後のプーオンの手前にて周回遅れのデビッド・クルサードを抜こうとして追突する格好になり、フロントウィングと右フロントタイヤ周りを吹き飛ばし、そのまま豪雨のヘヴィウェットの下り坂を半周近く3輪状態でピットまでスピンせず戻りリタイア。ガレージでマシンを降りるや、鬼の形相でクルサードに詰め寄り、罵声を飛ばす。評議会にも訴えたが、クルサードに故意は認められないとして却下される。この背景には毛嫌いしているヒルに序盤先頭を走られた事で冷静さを失った、と複数のジャーナリストが推測している[要出典]。 2002年第6戦オーストリアGP 首位を走るルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリの1-2体制で走行中、ファイナルラップのフィニッシュライン直前でバリチェロが順位を譲った。チームの判断によるものだったが、チームオーダーによる露骨な順位の変更に、観客から罵声を浴びせられた。これに配慮する形で、表彰台ではバリチェロに最上段を譲ったが、表彰式のルールに従わなかったとしてFIAから罰金を課せられた。FIAは2003年よりチームオーダー禁止規定を導入した(2010年まで)。 2008年11月25日、ブラジルのテレビ局「Rede Globo」の番組「Fantastico」に出演したバリチェロはこのレースに言及した。バリチェロによると、首位走行中に残り8周に差し掛かかった時点で、ピットから指示が入った。そして「後ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな」と言われ、周回が進むにつれて言葉が強くなり、「もし従わない場合は、契約を考え直す」と言われたという。さらにバリチェロは、このことを「シューマッハが知っていた証拠がある」とも語った。 2006年第7戦モナコGP 前年度覇者、ルノーのアロンソとの新旧王者対決シリーズとして注目された。予選の最終局面で先にトップタイムを出したシューマッハは、「ドライビングのミス」によりラスカスコーナー出口でストップし、結果としてアロンソらのアタックを妨害する形となった。これによりポールポジションを獲得するも即時審議対象となった。本人は「マシンが止まってから自分の順位もわからなかったし、ポールを獲れるとは思ってなかったよ」とコメントしたものの故意と裁定され、予選タイム抹消のペナルティが課せられた(通称「ラスカスゲート」)。 2010年第12戦ハンガリーGP レース終盤、ブレーキの不調からペースの上がらないシューマッハに対して、ウィリアムズのバリチェロが背後に迫り、ホームストレートでオーバーテイクを試みるが、シューマッハはイン側に出たバリチェロに対して幅寄せし、バリチェロは時速300km以上のスピードであわやコンクリートウォールに接触する寸前まで追い込まれた。これが危険なドライビングとみなされ、次戦での10グリッド降格ペナルティを受けた。直後のバリチェロの無線には「あんなのブラックフラッグだろ!恐ろしい!」と入っていた。 3度のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダはこの行為に対し「あのような方法でライバルを危険にさらす必要性はまったくない。なぜ彼がこういうことをするのか理解できない」とコメントした。その他にも元チームメイトのアーバインや、ロータスのマイク・ガスコイン、デビッド・クルサード、アレクサンダー・ヴルツ、マルク・ジェネ、ジャッキー・スチュワート、ジョン・ワトソンなど各方面から批判の声が寄せられた。 各国のメディアもこの件を厳しく批判した。イギリスのデイリー・テレグラフ紙は、「シューマッハのF1における傲慢な行いは、もはや許容しがたい」として再度引退することを要求。イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は、「傲慢なシューマッハは後悔の念を示してこなかったが、今回も同じだった。彼が間違いを犯すことはないようだ。今回、最悪の結末にならなかったのは奇跡だ」とした。 このレースでスチュワード補佐を務めた元F1ドライバーのデレック・ワーウィックによると、レース中にシューマッハに黒旗を提示して失格にしたかったが、時間がなく間に合わなかったという。次戦での10グリッドペナルティについては妥当だとしながらも、2戦にわたって出場停止にすることも考えたという。また、レース後の事情聴取の際のシューマッハの対応も、非常に残念なもので落胆したとコメントしている。 ただし、この件に関して、小林可夢偉は「ストレートで並んだら、幅寄せされるのが当然」というように、バリチェロへの対応に対して他とは違った意見を述べた。 2011年第13戦イタリアGP マクラーレン勢、特にルイス・ハミルトンとの激戦となったレース。ハミルトンをかわして3番手に浮上すると、20周近くに渡り、互いに何度もポジションを入れ替えあう激しいバトルを展開した(シューマッハ自身も「ルイスとの距離が近くて、僕のミラーが小さく見えるくらいだったよ」とコメントした)。厳しいディフェンスを続けたため、FIAからメルセデスチームへ警告が出され、ロス・ブラウンは「ハミルトンにもっとスペースを残すように」と無線連絡した。 レース後に、スチュワードのデレック・デイリーは問題のシーンを見逃していたと述べ、ビデオを見返した結果「シューマッハにはドライブスルーペナルティーを科すべきだった」と述べた。
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