物議を醸したレースとは? わかりやすく解説

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物議を醸したレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:49 UTC 版)

アイルトン・セナ」の記事における「物議を醸したレース」の解説

1985年第4戦モナコGP 予選速さ見せた一方自身アタック後もコース上に留まったりレースタイヤを履き再度出ていくなどの行動を取る。結果的に自身3度目PP獲得するも、他者アタック妨害したとして、ニキ・ラウダミケーレ・アルボレートから非難受けた決勝ではエンジントラブル発生し序盤のうちにリタイヤとなった1987年第3戦ベルギーGP 予選では3位グリッド獲得し決勝では赤旗中断経た後、スタートトップに立つが、その周のうちに2位マンセル絡みリタイヤとなった。一旦は復帰したマンセルも、結局は接触の際のダメージによりリタイヤとなったマンセルリタイヤ後、ロータスピット殴り込みをかけ乱闘となるが、セナメカニックマンセル抑えさせている間に殴打し返り討ちにした。ピットマンセル現れた際、セナ高級な腕時計付けた状態であったが、乱闘なりそうなことを察知して時計壊れないよう外してから迎え撃ったという。 1988年第3戦モナコGP 予選2位チームメイトプロストに1.427秒、3位フェラーリベルガーに2.687秒の差を付けてPP獲得。この予選についてセナは「意識的な理解大きく越えていると実感したので突然怖くなり、ゆっくりピット戻ってそれ以上は走らなかった」と語っている。 決勝レースでも速さ見せトップ走ったプロスト終盤2位浮上するも、1分近い差が開いていた。直後より、プロストセナ上回るペース少しずつ差を詰めると、セナはこれに反応し互いにファステストラップ出し合う状況続いたチーム無用の争い避けるべく双方ペースダウン指示したが、これでセナ集中力が切れるかたちとなり、67周目にトンネル手前のポルティエコーナーでガードレールクラッシュリタイヤとなった残り周回数は少なく追いつかれる可能性がほぼ無い状況でのミスであったセナこの後ピット帰らずモンテカルロ自宅へと直帰し、なぜこのミス起きたのが自分一週間前の行動をすべて振り返り分析したという。以降セナレーススタイル大きく影響したレースと言われている。 1988年第13戦ポルトガルGP 予選ではプロストPP獲得しセナ2番グリッド決勝ではスタート多重事故発生赤旗中断経てスタートとなった。再スタートでは、プロストセナアウト側に牽制グリーンはみ出しそうになったセナだが、プロスト抜き1コーナートップ立った。2周目のメインストレートで、プロストセナ仕掛けるが、今度セナプロストイン側の壁に幅寄せし、接触寸前となった結局プロストセナ抜きそのまま優勝セナセッティング失敗もあり、徐々に順位下げ最終的に6位で終わったレースプロストセナ批判し両者確執生まれきっかけとなった幅寄せ双方が行ったが、プロストスピード乗り切らないスタート直後であるのに対しセナは完全にレーシングスピードで走行する2周目であった為、後年にはセナ行為だけが取り上げられるケースが多い。 1989年第2戦サンマリノGP 予選ではセナPPプロスト2番グリッド獲得しマクラーレン勢がフロントロー独占レース前2人の間では、序盤無用な争い共倒れになることを避ける為、「スタート先に第1コーナー進入したほうが、レース主導権を握る権利を得る」という紳士協定取り交わされていた。そんな中決勝開始となり、一旦はセナが好スタート切ったが、ベルガー炎上事故によりレース中断となる。再スタートではプロストが好スタートを切り第1コーナータンブレロ)をトップ通過したが、セナは続く第2コーナー(トサ・コーナー)でプロストイン突き、あっさりと抜いてしまう。 レースは、そのままセナ優勝プロスト2位となりマクラーレン1-2フィニッシュ終わったが、レース後にプロストは「協定反故にした」としてセナ批判ロン・デニス交えた3名で話し合い行われたが、これ以後2人確執は、外部にも知られるものとなった1989年第15戦日本GP タイトル可能性は残るものの、セナタイトル獲得するためには、最低でもこのレース及び最終戦での優勝必須条件。ノーポイントであれば、ここでプロストタイトル獲得が決まる状況の中、予選2位プロストに1.730秒の大差をつけてPP獲得。しかし決勝では、スタートからプロスト先行されプロスト決勝レースでのセッティング重点置いていたこともあり、抜くことが出来ないまま終盤迎えた。 数周に渡り同様の狙い見せた後、47周目のシケイン進入でついにセナプロストイン飛び込んだ結果レース前からセナに対して「もう扉を開けない」と宣言していた通りラインを譲らずに走行したプロスト追突。2台のマシン並んで停止プロスト即座にマシン降りたが、逆転王座賭けセナマーシャル押し掛け指示シケインショートカットする形でレース復帰したノーズ交換のためにピットインをする間にナニーニが先行するが、セナはこれをパスしひとまずトップチェッカー受けた。 しかしレース終了後シケインショートカットと言う理由が後に押し掛けをしたという理由変更される不可解な裁定ではあったが、失格処分を受ける。この結果プロストタイトル獲得決定したセナ控訴していたが後に棄却された。「一歩も引く気はなかった。ただ右側向かっただけで、自然なことだ。でも塞がれてしまった。あまり意味のないレースだったかもしれないね。このことは忘れない」と語った1990年第10戦ハンガリーGP 予選ではタイム伸びずに4番グリッド決勝でもスタート失敗し6位まで転落する更にはパンクにより想定外タイヤ交換余儀なくされ、22周目にピットアウトした際には、11位まで順位下げていた。ここから追い上げ見せ最終的に優勝したブーツェンと0.288秒差の2位フィニッシュした。しかし追い上げ過程の中で、64周目のシケイン2位のナニーニを弾き飛ばしリタイヤ追い込んでいた。レース後、ナニーニは直接セナ批判するコメントをしなかったが、「今日のことは忘れない」と語った。 このGPでは、チームメイトベルガーも、同じシケインマンセル弾き飛ばす場面があり、マクラーレン勢の行為揃って物議を醸すこととなった1990年第15戦日本GP プロストがノーポイントであればセナタイトル獲得が決まるという、前年とは逆の立場でこのレース迎えたセナ予選PP獲得しプロスト2位と、同じドライバーが同じ順で3年連続フロントロー並んだ過去2年スタート失敗しているセナは、このレースでもスタート出遅れプロスト先行、1コーナー進入時にはプロストフェラーリアウトセナインの状態だった。先行したプロストがレコードラインを守りイン切れ込む中、セナ前年引き続きまたも後方から接触左側グラベル弾き出され双方共にリタイアレース開始から9秒でセナタイトル獲得決定したセナ行為は、当時故意か否か紛糾したが、翌年鈴鹿セナ自ら故意追突であったことを告白前年プロストとの接触を、故意よるもの判断したセナ報復行為非難浴びせられた。「レーサー同士戦いリスクつきものだ。わずかな隙を逃さずに挑まなければ、レーサーとは言えない。僕たちは常に勝つために競争をしている。それが勝利へのモチベーションなんだ」と語った1991年第9戦ドイツGP 予選では2位グリッド獲得するも、スタート順位落としたこともあり、レース大半プロストとの4位争い費やす終始セナ先行しプロスト肉薄する展開であったが、プロスト38周目に第2シケインセナ仕掛けたセナそのまま譲らず、プロスト押し出されるかたちで直進パイロン倒しながらエスケープゾーン入りそのままマシン止めたセナその後も4位を走るが最終周にガス欠ストップし、ノーポイントに終わったプロストセナ行為危険だ激しく非難したが、続くハンガリーGP2人話し合いが行われ、一時的に和解することとなった1991年第15戦日本GP 予選から、僚友ゲルハルト・ベルガーと共に当時のレコードラップを更新しあう走り見せ2番グリッド獲得決勝前にベルガーと「最初に1コーナー入った者が優勝する」という紳士協定密かに結びレース挑む決勝ベルガー先行しセナは、優勝しチャンピオンへの道がない3番手のマンセル抑えベルガーを逃がす作戦に出る。 しかし、マンセル10周目の2コーナーコースアウトしてリタイアした瞬間セナチャンピオン確定したことで、作戦変更しベルガー追撃する。ベルガー序盤エキゾーストパイプ破損エンジン出力低下したことでラップタイム落ち追撃してきたセナにあっさり抜かれてしまう。紳士協定違反当惑するベルガー尻目にセナ磐石走りトップ快走このまま終わると思われ最終ラップ最終コーナーセナベルガー合図送りながらイン側を明け渡しベルガーセナ抜き優勝した。 この行為は、「チャンピオン獲得協力してくれたベルガーへのセナからのプレゼント」と好意的な評価をする声があった一方、「セナ自身速さ充分見せつけて真の勝者印象付けた後で紳士協定に基づき仕方なく優勝譲った恣意的な行動非難する声も多くあがったレース後、ことのいきさつについて当事者ロン・デニスの3人が激論交わし、特にベルガーはその露骨な譲り方に怒り抱いていたことが明らかになっている。後にベルガーフジテレビインタビューに対して、「セナスローダウンしたからエンジンがトラブりやがったな、ざまあみろ、と思って前に出た違った。もし意図わかっていたら抜かなかった」との旨を語っている。 1992年第3戦ブラジルGP ニューマシン・MP4/7A投入するも、予選ではウィリアムズ勢にタイム大きく離され3位となった決勝でもペース上がらずウィリアムズ勢に大きく引き離され後方には4位のシューマッハ以下が数珠繋ぎに続く状態であったシューマッハ何度も仕掛けようと試みる中、セナ加減速繰り返すという手段抑え込んだ。しかし17周目に1コーナーシューマッハ先行を許すと、アレジブランドルにも次々と抜かれた後、電気系トラブルによりリタイアとなったセナ憧れとしていたシューマッハだが、このブロックの件で「チャンピオンのとる行動ではない」と批判した一方セナは、加減速繰り返した理由について「既にエンジントラブルがあった為(意図的ではない)」と主張以後両者の間で何度もトラブルが起こる発端となった1992年第7戦カナダGP 前戦モナコGPでの優勝勢いもあり、予選シーズン初(結果的に唯一)のPP獲得し決勝でもスタートからトップを走るが、ペースあがらずセナ先頭に5秒以内に8台がひしめき合う態となった。15周目、2位マンセル最終コーナー仕掛けるが、曲がり切れずクラッシュし、そのままリタイヤとなった一方セナは、マンセルリタイヤ後もトップ守っていたがギアボックストラブルにより中盤リタイヤ連勝はならなかった。 マンセル自身クラッシュセナ危険走行原因判断リタイヤ後もマシン中に留まり1周後に戻ってきたセナに拳を上げ抗議するまで、マシンから降りようとしなかった。それでも怒りは収まらず、マクラーレンピットへ向かい今度ロン・デニス抗議行ったレーシングスーツから着替えた後は、ウィリアムズメカニック引き連れてコントロール・タワー向かい、「セナ危険な行為ではじき出された」と主張、前戦モナコGP健闘称え合ったのとは対照的な場面となった一方セナレース後に、クラッシュ原因は「曲がり切れないようなスピードコーナー入っていったマンセルにある」と主張した1992年第16戦オーストラリアGP セナはホンダエンジンで戦う最後のレースマンセルはF1からの引退レースと、互いに想い抱え状況の中、予選ではマンセルシーズン14回目PP獲得セナ2位フロントロー獲得した決勝ではセナ1周目に一旦トップに立つが、すぐにマンセル抜き返されそのまま膠着状態レース進んだ。このシーズン初めて、マンセル追い詰める展開となったセナだが、19周目に両者接触しそのままリタイヤとなった接触直後セナマンセル元へ向かい握手為に手を差し出したが、マンセル拒否更にはコントロールタワー向かいセナがオーバースピードで突っ込んだ」と主張するも、認められなかった。一方セナは「マンセルが突然減速し避けきれなかった」と語り両者共に後味の悪い形で節目レース終えた1993年開幕戦南アフリカGP 予選2位からスタート決めトップレース進めるが、序盤から油圧トラブル抱えペース上がらず後方にはプロストシューマッハ肉薄する。22周目のS字プロスト抜かれると、続けざまシューマッハにも抜かれセナ一気3位転落する。しかしその周のうちにシューマッハと同じタイミングタイヤ交換入りメカニック迅速な作業により再度シューマッハ前に出たその後シューマッハ攻め立てられるが、40周目のコンチネンタル・カーブで両者軽く接触セナ何事もなく走行続けたのに対しシューマッハスピン喫しリタイアとなったシューマッハは、接触原因セナ過度なブロック走行よるもの捉え激怒。しかしFIA裁定は「不可抗力」とされ、セナには一切ペナルティが下ることは無くそのまま2位フィニッシュした。

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物議を醸したレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:44 UTC 版)

ナイジェル・マンセル」の記事における「物議を醸したレース」の解説

1987年ベルギーグランプリ 1周目セナアウト側から強引に抜こうとして接触両者スピンセナリタイアする。その後リタイアしたマンセル激昂してロータスピット向かいセナ殴り合い騒ぎ起こし粗暴な振舞い非難された。 1989年ポルトガルグランプリ 予選からフェラーリ勢が好調で、決勝でもマンセルベルガー抜いて首位を走る。しかし、ピット作業時にチームピット通り過ぎたあとに後退ギア使った為、失格裁定下ったピットイン指示する黒旗提示されたが、3周に渡ってこれを無視し最終的に第1コーナーセナ接触したマンセルは「逆光で旗が見えなかった」と弁明したが、5万ドル罰金と1レース出場停止処分受けた黒旗無視して走行し続けチャンピオン争いをしていたセナ事故起こしたことは大きな波紋呼んだ1990年ポルトガルグランプリ フェラーリ勢が予選1列目を獲得しポールポジションマンセル僚友プロストチャンピオン争いアシスト期待された。しかし、スタートマンセル斜行してプロスト進路塞ぎ、その隙にマクラーレン勢の先行を許す。その後マンセル首位奪い返し結果的にポールトゥーウィンこの年唯一の勝利を上げるが、プロストチーム管理能力への不満をマスコミ漏らしたマンセル自身は「ホイールスピン激しく横滑りしてしまった」と述べ故意幅寄せ否定した1992年カナダグランプリ この年初めポールポジション逃し決勝でもセナに前をふさがれる。最終シケインインを突くが曲がりきれず、グラベル突っ込んでこの年初のリタイヤ喫したコースアウトしたマシンからマンセルセナ怒りジェスチャー右手挙げ、さらにウィリアムズピットに戻る途中マクラーレンピット立ち寄りロン・デニス激しく抗議した。この姿はテレビ中継でも映し出されており、マンセルデニス確執象徴するシーン1つともなっている。その後競技委員に「セナにはじき出された」と訴えた認められず。

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物議を醸したレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 06:17 UTC 版)

ミハエル・シューマッハ」の記事における「物議を醸したレース」の解説

1990年マカオGP マカオGPの第1レグではハッキネンから約5秒遅れの2位。第2レグでも先行しながらハッキネンを引き離せず、総合タイムハッキネン優勝濃厚かと思われた。しかし、ファイナルラップのメインストレートでオーバーテイク仕掛けてきたハッキネンブロックして接触ハッキネンクラッシュし、シューマッハリヤウイング脱落したものの、残り1周を走りきって総合優勝を手にした。 シューマッハハッキネンガレージ行き「すまなかった。君が後ろにいるなんて見えかったんだ」と謝ったが、ヨーロッパ戻ってテレビ出演した際、接触のことを聞かれると「ミカのことは見えていたよ。だからブロックしたんだ。あの状況では、僕は勝つために当然のことをしたと思うよ」と答えた1994年第16戦オーストラリアGP 1点差のランキング1位で迎えた最終戦タイトル争っていたデイモン・ヒルバトル繰り広げたが、36周目にトップ走っていたシューマッハコースアウトコース脇のウォール車体右側当ててしまう。この機を逃すまいとしヒル次のコーナーインを刺すが、シューマッハアウト側から阻んだことで両者衝突しシューマッハマシンヒル弾き出されタイヤバリア突き刺さり、この時点シューマッハリタイアとなる。ヒルスローダウンしながらピットまでは戻ったものの、左サスペンションロッドが曲がっておりリタイア余儀なくされた。当時ビデオを見ると、最初に単独コースアウトした時点シューマッハマシンダメージ受けており、ステアリング操作問題抱えていることが判るそのままレース継続することは不可能と考えられヒルブロックする正当な理由は見あたらない。またシューマッハヘルメット動きから視線を追うと、後方からオーバーテイク試みヒルマシン動作認識していることが確認出来る。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定仕方から物議を醸した1995年第11戦ベルギーGP 絡み予選16位に沈むが、レースでは他がレインタイヤ交換する中で唯一スリックタイヤを履き続けて首位躍り出るレインタイヤを履くデイモン・ヒル追いつき抜きにかかるも、シューマッハ何度もライン変えて2周にわたりヒルブロックし続けたその後ヒル抜かれたが、コンディション回復により再び首位に立ち、最終的にギャンブル成功させたシューマッハ優勝ヒル2位となった。しかし、ヒル危険な行為行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。また、次戦から「後方マシンブロックする際の進路変更一度のみ」という新たなレギュレーション設けられた。 非難浴びた一方で、全91勝の中で一番後方スタートから追い上げ降っている中、2周に渡ってドライタイヤ抑えきったということで、FIA処分下手な演出だと笑い飛ばすジャーナリストたちもおり、イギリスの『F1 Racing』誌(2008年6月号)が掲載した史上最高のドライバートップ100ランキング」では、キャリアハイライト捉えている。また、シューマッハ自身過去ベルギーGPの中でこの1995年が一番良い思い出と語っている。 1997年17ヨーロッパGP 1994年と同様、1点差のランキング1位で迎えた最終戦前回のこともあり、FIA配慮により、レース前タイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと、お互いにフェアレースをする誓い合いが行なわれた。決勝では1位シューマッハ2位ヴィルヌーブのまま、2度目ピットイン終了シューマッハペース落ちヴィルヌーブ0.5以内に差を詰めてきた。48周目のドライサックヘアピンへの進入ヴィルヌーブシューマッハインをつき、切り込んだシューマッハ右前輪がヴィルヌーブ車体の左サイドポンツーン接触シューマッハ弾き出されグラベルに嵌り、後輪空転し脱出できずにリタイアした一方ヴィルヌーブ3位完走しタイトル獲得したFIAは「シューマッハヴィルヌーブ故意にぶつけ、リタイア追い込もうとした」と判断シーズン終了後11月11日FIA召喚されシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪裁定受けた獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁一環としてシューマッハFIAからシーズンオフ交通安全キャンペーンでの奉仕活動命じられている。 1998年第7戦カナダGP ピットアウト直後シューマッハ後方から接近したハインツ=ハラルド・フレンツェンブロックし、フレンツェンはグラベル押し出される形でリタイヤとなる。これに激怒したウィリアムズパトリック・ヘッドフェラーリ陣営に猛抗議しシューマッハ10秒のピットストップペナルティ課せられた。シューマッハ優勝記者会見で「ミラー見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後ピットレーン出口白線敷かれ、この白線を踏むとドライブスルーペナルティ課せられるようになった1998年第13戦ベルギーGP 決勝当日波乱続きレース2回目スタートヒルに続く2位暫く走行の後、8周目のバスストップシケインでヒル交わして首位浮上する。しかし25周目、リバージュを抜けた後のプーオンの手前に周回遅れデビッド・クルサード抜こうとして追突する格好になり、フロントウィングと右フロントタイヤ周り吹き飛ばしそのまま豪雨のヘヴィウェットの下り坂半周近く3輪状態でピットまでスピンせず戻りリタイアガレージマシン降りるや、鬼の形相クルサード詰め寄り罵声を飛ばす。評議会にも訴えたが、クルサード故意認められないとして却下される。この背景には毛嫌いしているヒル序盤先頭を走られた事で冷静さ失った、と複数ジャーナリスト推測している[要出典]。 2002年第6戦オーストリアGP 首位を走るルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリ1-2体制走行中、ファイナルラップフィニッシュライン直前バリチェロ順位譲ったチーム判断よるものだったが、チームオーダーによる露骨な順位変更に、観客から罵声浴びせられた。これに配慮する形で、表彰台ではバリチェロ最上段を譲ったが、表彰式ルールに従わなかったとしてFIAから罰金課せられた。FIA2003年よりチームオーダー禁止規定導入した2010年まで)。 2008年11月25日ブラジルテレビ局Rede Globo」の番組「Fantastico」に出演したバリチェロはこのレース言及したバリチェロによると、首位走行中に残り8周に差しかかった時点で、ピットから指示入った。そして「後ろミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな」と言われ周回が進むにつれて言葉強くなり、「もし従わない場合は、契約考え直すと言われたという。さらにバリチェロは、このことを「シューマッハ知っていた証拠がある」とも語った2006年第7戦モナコGP 前年度覇者ルノーアロンソとの新旧王者対決シリーズとして注目された。予選最終局面先にトップタイムを出したシューマッハは、「ドライビングミス」によりラスカスコーナー出口ストップし結果としてアロンソらのアタック妨害するとなった。これによりポールポジション獲得する即時審議対象となった本人は「マシン止まってから自分順位もわからなかったし、ポール獲れるとは思ってなかったよ」とコメントしたものの故意裁定され予選タイム抹消ペナルティ課せられた(通称「ラスカスゲート」)。 2010年第12戦ハンガリーGP レース終盤ブレーキ不調からペースの上がらないシューマッハに対してウィリアムズバリチェロ背後迫りホームストレートオーバーテイク試みるが、シューマッハイン側に出たバリチェロに対して幅寄せし、バリチェロ時速300km以上のスピードであわやコンクリートウォールに接触する寸前まで追い込まれた。これが危険なドライビングみなされ、次戦での10グリッド降格ペナルティ受けた直後バリチェロ無線には「あんなのブラックフラッグだろ!恐ろしい!」と入っていた。 3度ワールドチャンピオンニキ・ラウダはこの行為対しあのような方法ライバル危険にさらす必要性はまったくない。なぜ彼がこういうことをするのか理解できない」とコメントしたその他にも元チームメイトアーバインや、ロータスマイク・ガスコインデビッド・クルサードアレクサンダー・ヴルツマルク・ジェネジャッキー・スチュワートジョン・ワトソンなど各方面から批判の声寄せられた。 各国のメディアもこの件を厳しく批判したイギリスデイリー・テレグラフ紙は、「シューマッハのF1における傲慢な行いは、もはや許容しがたい」として再度引退することを要求イタリアガゼッタ・デロ・スポルト紙は、「傲慢なシューマッハ後悔の念を示してこなかったが、今回同じだった。彼が間違い犯すことはないようだ今回最悪の結末にならなかったのは奇跡だ」とした。 このレーススチュワード補佐務めたF1ドライバーデレック・ワーウィックによると、レース中にシューマッハ黒旗提示して失格にしたかったが、時間がなく間に合わなかったという。次戦での10グリッドペナルティについては妥当だとしながらも、2戦にわたって出場停止にすることも考えたという。また、レース後の事聴取の際のシューマッハの対応も、非常に残念なもので落胆したコメントしている。 ただし、この件に関して小林可夢偉は「ストレート並んだら、幅寄せされるのが当然」というように、バリチェロへの対応に対して他とは違った意見述べた2011年第13戦イタリアGP マクラーレン勢、特にルイス・ハミルトンとの激戦となったレースハミルトンかわして3番手に浮上すると、20近く渡り互いに何度もポジション入れ替えあう激しバトル展開したシューマッハ自身も「ルイスとの距離が近くて、僕のミラー小さく見えるくらいだったよ」とコメントした)。厳しディフェンス続けたため、FIAからメルセデスチームへ警告出されロス・ブラウンは「ハミルトンにもっとスペースを残すように」と無線連絡した。 レース後に、スチュワードデレック・デイリー問題シーン見逃していたと述べビデオ見返した結果シューマッハにはドライブスルーペナルティーを科すきだった」と述べた

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