南太平洋海戦
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「ガダルカナル島の戦い」の記事における「南太平洋海戦」の解説
詳細は「南太平洋海戦」を参照 日本海軍連合艦隊は日本陸軍第17軍の総攻撃支援のために近藤信竹中将指揮下の第二艦隊(第三戦隊:戦艦金剛、榛名、第二航空戦隊:空母隼鷹、飛鷹)および南雲忠一中将指揮下の第三艦隊(第一航空戦隊:空母瑞鶴、翔鶴、龍驤、瑞鳳等)を派遣する。 10月26日、これによって発生した南太平洋海戦において日本側は搭乗員の多数を失ったが、空母1隻が沈没、同1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力が無くなることとなった。この報告を受け第38師団約1万名の輸送が決定した。 一方、アメリカ側はこの頃のガダルカナルの情勢に相当の危機感を持っていた。ヨーロッパ戦線では間近に迫っていたドイツへの反攻作戦のために大量の兵力・兵器を必要としていたが、ルーズベルト大統領は10月24日に統合参謀本部に「入手可能なあらゆる兵器を、ガダルカナル保持のためその地域に確実に送れ。」と書いたメモを送っている。 第1海兵師団で2つの機関銃分隊を指揮していたジョン・バジロン軍曹は、日本軍の第二次総攻撃が行われた10月24日 - 26日の間、分隊のほとんどの隊員が死傷する中で機関銃陣地を死守して日本軍の撃退に大きな役割を果たした。この行為に対してアメリカ軍の最高位の勲章である名誉勲章が授与され、英雄として帰国した(帰国後は戦時国債販売キャンペーンで顔の一人として活動した。しかしその後、前線への復帰を志願して硫黄島の戦いで戦死)。
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南太平洋海戦
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「サウスダコタ (戦艦)」の記事における「南太平洋海戦」の解説
ニューカレドニアのヌーメアでは、新任の南太平洋部隊指揮官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将が麾下のアメリカ軍機動部隊に対し、サンタクルーズ諸島からガダルカナル島にかけてのソロモン海の安全を確保するよう命じた。すなわち、ガ島の日本陸軍がヘンダーソン飛行場に総攻撃をおこなうので、この支援のためガ島に接近する日本艦隊(近藤信竹中将の前進部隊、南雲忠一中将の機動部隊)を阻止する任務を与えた。ウィリス・A・リー提督が指揮する第64任務部隊(戦艦ワシントン、重巡サンフランシスコ、軽巡ヘレナ、軽巡アトランタ、駆逐艦6隻)には、日本軍のガダルカナル島増援部隊を砲撃で阻止するよう命じた。キンケイド提督の第61任務部隊(英語版)(第16任務部隊、第17任務部隊)に、ガダルカナル北東海面に進出するよう命じた。10月25日正午、PBYカタリナ飛行艇が日本の空母機動部隊を発見した。第61任務部隊は攻撃隊を発進したが、空振りにおわった。 翌10月26日未明、ヌデニ島を発進したアメリカ軍のPBY飛行艇が南雲機動部隊を爆撃したが、被害はなかった。同日26日午前5時(日本時間)、翔鶴索敵機は第61任務部隊を発見し、午前6時に第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)は攻撃隊を発進させた。またエンタープライズから索敵として出撃したSBDドーントレスが一航戦を発見、このうち2機が軽空母瑞鳳を爆撃して中破させた。ここに南太平洋海戦の火蓋が切られた。第61任務部隊は二つの集団にわかれており、航空戦が始まったときキンケイド提督直率の第16任務部隊(空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、重巡ポートランド、軽巡サン・ファン、駆逐艦8隻)は、ジョージ・D・マレー少将が指揮する第17任務部隊(空母ホーネット、重巡ノーザンプトン、ペンサコラ、軽巡サン・ディエゴ、ジュノー、駆逐艦6)からおよそ20km離れた海域にいた。 一航戦の第一次攻撃隊はスコールの中にあったエンタープライズ隊をやりすごし、青天下のホーネット隊に攻撃を集中した。爆弾と魚雷の命中によりホーネットは炎上して傾斜した。F4Fの邀撃と各艦の対空砲火で一航戦第一次攻撃隊は大きな被害を受け、攻撃隊指揮官村田重治少佐(翔鶴飛行隊長)も戦死した。 続いて一航戦の第二次攻撃隊(0610分発進の翔鶴隊〈零戦5、艦爆19、触接艦攻1〉、0645発進の瑞鶴隊〈零戦4、艦攻16、触接艦攻1〉)が日本時間8時20分から午前9時の間に到達し、健在の第16任務部隊(エンタープライズ、サウスダコタ、ポートランドほか)を狙った。米軍時間9時50分、エンタープライズのレーダーは接近する日本軍攻撃隊を探知した。サウスダコタはエンタープライズのそばで対空砲撃を行った。『ニミッツの太平洋海戦史』では「戦艦「サウス・ダコタ」の対空砲火が正確で猛烈をきわめたため、「エンタープライズ」の損害は飛行甲板に三個の爆弾を受けたにすぎなかった。」と記述している。翔鶴隊(爆撃)は「敵航空母艦一隻爆撃六弾命中、続イテ攻撃セル瑞鶴艦攻隊ノ成果ト相俟テ之ヲ撃沈ス 駆逐艦一隻大破炎上 敵機一機撃墜」、瑞鶴隊(雷撃)は「航空母艦一(エンタープライズ型)撃沈、戦艦一(サウスダコタ型)轟沈、巡洋艦一(艦型不詳)撃沈、駆逐艦一大破 敵機八機撃墜」、制空隊は敵戦闘機4・艦爆1機撃墜と報告した。一航戦第二次攻撃隊損害は、喪失(零戦1、艦爆10、艦攻9)、不時着(零戦1、艦爆2、艦攻1)であった。実際の戦果/被害は、エンタープライズが中破、重巡洋艦ポートランドに魚雷3本命中(不発)、駆逐艦スミス(英語版)が被弾機に突入された。 つづいて日本の攻撃第3波が12:30(日本時間午前9時30分)に襲来し、サウスダコタは九九式艦上爆撃機に襲われた。ホーネットが着艦不能となったので、エンタープライズは2隻分の艦上機を受け入れていた。サウスダコタはレーダーで疑わしい目標を探知、エンタープライズに着艦しようとしていた味方機を誤射した。エンタープライズは「周辺に所属不明機なし」と通知した。直後、日本軍攻撃隊が低い雲をついて攻撃を開始した。この攻撃隊は、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)の空母「隼鷹」から飛来した志賀淑雄大尉が率いる二航戦第一次攻撃隊29機(零戦12、艦爆17)であった。雲高3500メートル、雲底500メートルと視界が悪く、空母を発見できなかった部隊は周囲の護衛艦艇を攻撃した。サウスダコタは一番主砲塔上に250kg爆弾の直撃を受け、49名が負傷した。ほとんど損傷がなかったにもかかわらず、動揺した士官が操舵系を無断で第2戦闘指揮所に切り換えたため数分間操艦不能となり、結果サウスダコタは空母エンタープライズに突進した。この時はエンタープライズが4万トンの戦艦を回避し、大惨事をまぬかれた。二航戦第一次攻撃隊は空母に命中弾3発、大型巡洋艦に命中弾1、軽巡に命中弾2、敵機12撃墜を報告した。日本側は艦爆11(自爆9、不時着2)を喪失した。実際には、エンタープライズに至近弾、サウスダコタに命中弾1、軽巡サン・ファンに命中弾があった。 これ以降、エンタープライズとサウスダコタは、炎上したホーネットと曳航役の一部艦艇を戦場に残して避退した。アメリカ艦隊はニューカレドニアのヌーメアに退いた。連合軍はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場基地を引き続き保持し、エスピリッツサント島の航空基地と共に拠点の強化をすすめた。本海戦で、サウスダコタは日本機26機の撃墜を記録した。しかしサウスダコタのピート・パブリック対空射撃指揮官は、戦艦ワシントンのスコッティ・キャンベル対空射撃指揮官に「個々の撃墜申告を合計しただけ」と2人きりの場所で打ち明けている。10月30日の04:14、サウスダコタは駆逐艦マハン(USS Mahan, DD-364)と衝突、マハンは船首が曲がり構造材が大破した。また、火災は直ちに鎮火され両艦はヌーメアに帰還し、サウスダコタは再び工作艦ヴェスタルから補修を受けた。この頃、サウスダコタは「艦隊の疫病神」であるという評判が立っていたという。 南太平洋海戦における日本軍の大本営発表では「空母4隻、戦艦1隻、艦型未詳1隻撃沈/戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻中破、敵機200以上撃墜/我方空母2隻、巡洋艦1隻小破、未帰還40数機」だったももの、アメリカ側は空母ホーネットと駆逐艦ポーターが沈没、空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、軽巡サンファン、駆逐艦2隻が損傷した。日本側は空母翔鶴と瑞鳳および重巡筑摩、駆逐艦照月(27日未明、夜間空襲)が損傷し、航空隊の損害も甚大であった。11月上旬の戦果訂正では、空母3隻(ホーネット、エンタープライズ、大型空母〈サラトガ疑いあり〉)、戦艦サウスダコタ、巡洋艦3隻と駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦3隻と駆逐艦3隻撃破、敵機喪失200以上となった。
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南太平洋海戦
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「ホーネット (CV-8)」の記事における「南太平洋海戦」の解説
詳細は「南太平洋海戦」を参照 帰投したホーネットは、三脚マストの上にCXAMレーダーを設置し、従来この位置にあったSCレーダーはメインマストに移動した。また、艦首部をはじめとして20ミリ機銃が30基から32基増設され、格納庫甲板に設置されていたカタパルトは撤去された。整備の後、ホーネットは真珠湾近海で訓練を行った。 8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島に建設中の日本軍飛行場と部隊を急襲し、ガダルカナル攻防戦が始まった。この方面のアメリカ機動部隊はエンタープライズの他、サラトガ (USS Saratoga, CV-3)、ワスプ (USS Wasp, CV-7) を中心としたフレッチャー少将率いる任務部隊がいたが、8月24日の第二次ソロモン海戦でエンタープライズが損傷し、サラトガは8月31日に伊26の雷撃で損傷。ワスプも9月15日に伊19の雷撃で沈没し、即座に行動可能なアメリカ空母は、この時点でホーネットただ一隻となってしまった。ホーネットはただちにソロモン戦線に進出し、損傷したエンタープライズも急ピッチで修理を行って真珠湾を出撃。10月24日にニューヘブリディーズ諸島北西海域でホーネットとエンタープライズの各任務部隊が合流。ガダルカナル島に対する日本側の動きを警戒することとなった。10月25日には偵察機が日本の機動部隊を発見していたが、無線封止と不手際により攻撃は成功しなかった。 10月26日の南太平洋海戦当日。アメリカ軍は再度日本機動部隊を発見し、ホーネットは早朝より第1次攻撃隊(F4F 8機、SBD 15機、TBF 6機)と第3次攻撃隊(F4F 7機、SBD 9機、TBF 9機)を飛ばした。第1次攻撃隊は7時27分に機動部隊を発見し、空母翔鶴に450キロ爆弾4発を命中させ、翔鶴を大破させた。第3次攻撃隊は空母を発見できなかったものの、重巡筑摩に爆撃を開始して筑摩を撃破した。 しかし、ホーネットは入れ違いで殺到してきた日本側機動部隊本隊からの第1次攻撃隊(村田重治少佐指揮:艦攻20機、艦爆21機、零戦21機)に発見された。エンタープライズがスコールの中に逃げ込んだので、ホーネットのみが打ちのめされる形となった。第1次攻撃隊の攻撃により、ホーネットは250キロ爆弾3発と魚雷2本が命中。艦爆と艦攻各1機(指揮官機である村田機含む)がホーネットに体当たりした。ホーネットは被弾により艦内の動力を失い航行不能となり、火災を発生させた。また、11度傾斜した。駆逐艦モリス、ラッセル、マスティンによる支援も受けて消火には成功したが、依然航行不能であり重巡洋艦ノーザンプトンが曳航を試みた。だが、曳航索が切れやり直しとなった。続く日本軍の攻撃はエンタープライズに向かい、損傷したエンタープライズはホーネットを残して退避した。 ノーザンプトンは前回より太いワイヤーを用いてホーネットの曳航を再開したがそこに日本軍第二航空戦隊からの第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が来襲した。攻撃を受けた際ノーザンプトンが曳航索を切り離したためホーネットは停止状態であったが、命中した魚雷は1本だけであった。魚雷は第二エレベーター側部の右舷に命中し、これにより傾斜が14度に増大。メーソン(英語版)艦長は総員退艦準備を発令した。続いて瑞鶴からの第3次攻撃隊(艦爆2機、艦攻6機、零戦5機)がホーネットを攻撃。まず艦爆の攻撃により至近弾1発があり傾斜がさらに増大。艦長は総員退艦を命じた。次に艦攻が爆撃を行い800キロ爆弾1発が命中した。乗員の退艦終了後、第二航空戦隊の第3次攻撃隊(艦爆4機、零戦6機)が現れホーネットにさらに爆弾1発を命中させた。 このころアメリカ軍はホーネットの放棄を決定し、駆逐艦マスティン(英語版)(USS Mustin, DD-413) およびアンダーソン(英語版)(USS Anderson, DD-411) に処分を命じた。マスティンが魚雷8本を打ち込んで3本を命中させ、続いてアンダーソンも8本の魚雷を発射し6本を命中させるもホーネットは沈まず、2隻はさらに5インチ砲弾430発を打ち込んだ。そうこうしている内に、日本艦隊が迫ってきたのでマスティンとアンダーソンは避退していった。
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南太平洋海戦
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詳細は「南太平洋海戦」を参照 10月25日深夜、第三艦隊はソロモン諸島へ向け南下中、アメリカ軍哨戒機に爆撃されて瑞鶴前方150m程に至近弾となった。報告を受けた第三艦隊司令部は対応を協議、アメリカ軍に位置を発見されたと判断して一時北方へ反転する。この行動が、日本側にとって僥倖となった。10月26日、日本艦隊は再度米機動部隊(空母エンタープライズ、ホーネット基幹)と交戦する。日本艦隊は、南雲中将直率の機動部隊本隊(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴、瑞鳳》、重巡《熊野》、第4駆逐隊《嵐、舞風》、第16駆逐隊《雪風、初風、天津風、時津風》、第17駆逐隊《浜風》、第61駆逐隊《照月》)、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将(戦艦比叡座乗)指揮下の機動部隊前衛、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(重巡愛宕座乗)指揮下の前進艦隊(第二航空戦隊角田覚治少将、空母隼鷹を含む)に分離していた。日本側は空母ホーネット (USS Hornet, CV-8)と駆逐艦ポーター(USS Porter, DD-356)を撃沈、空母エンタープライズを中破、戦艦サウスダコタ (USS South Dakota, BB-57)、防空巡洋艦サンフアン(USS San Juan, CL-54)、駆逐艦スミス(USS Smith,DD–378)に損傷を与えた。一方、アメリカ側は空母翔鶴と重巡筑摩を大破、空母瑞鳳を中破させた。なお、第一次攻撃隊発進時に瑞鶴攻撃隊の発艦が遅れた件について瑞鶴の野元艦長は、「レーダーを持っている翔鶴から矢の催促がきたが、瑞鶴は(レーダーが)ないのでのんびりやることにした」と回想している。瑞鶴は航空隊発進のため風上へ向かい翔鶴と2万メートル近く離れ、このためアメリカ軍攻撃隊は再び翔鶴に集中攻撃を加えた。大破した翔鶴は航空隊発進・収容が不可能となり旗艦としての通信能力も喪失、そこで一時的に野元瑞鶴艦長が航空戦の指揮をとることになった。のちに南雲中将や草鹿少将など第三艦隊司令部は翔鶴から駆逐艦嵐(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)へ移動し、さらに同艦から瑞鶴に移乗して将旗を掲げた。また本艦に損傷はなかったものの、艦載機の消耗は甚大であった。10月30日、トラック泊地帰投。戦死者の葬儀を行うが、輸送船に救助されていた瑞鶴飛行隊長高橋定大尉は葬儀開始1時間前に母艦(瑞鶴)へ帰還している。 11月4日、瑞鶴は第五戦隊(妙高)、第16駆逐隊(初風、時津風)と共に内地へ帰投するよう命じられる。9日、瑞鶴隊(瑞鶴、初風)は豊後水道にて佐世保へ向かう妙高隊(妙高、時津風)と分離、呉に到着した。このため11月中旬の第三次ソロモン海戦には参加していない。後日、翔鶴と瑞鶴は三回目の感状を授与された。11月11日、第三艦隊司令長官は南雲中将から小沢治三郎中将に交代した。同艦隊参謀長も23日附で草鹿少将から山田定義少将に交代している。
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南太平洋海戦
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日本海軍は1942年(昭和17年)10月7日付で秋月型2隻(1番艦秋月、2番艦照月)により第61駆逐隊を編成した(駆逐隊司令則満宰次大佐、海兵46期)。編制と同時に第61駆逐隊は、第三艦隊(司令長官南雲忠一中将・海軍兵学校36期)・第十戦隊(司令官木村進少将・40期)に編入される。10月10日、照月は横須賀を出港する。10月14日、トラック諸島に到着する。 詳細は「南太平洋海戦」を参照 「照月」は直ちに機動部隊本隊(第三艦隊司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将:旗艦「翔鶴」)と合流して出撃した。10月22日から23日にかけて重巡洋艦「筑摩」と共に艦隊から分離、2隻だけで南雲機動部隊南方を捜索した。だがアメリカ軍を発見できず、「筑摩」は南雲機動部隊前衛艦隊に、「照月」は南雲機動部隊本隊に合流した。10月26日の南太平洋海戦における「照月」は、第三艦隊司令長官(南雲中将)直率の第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の直衛についた。随伴艦は重巡洋艦熊野と駆逐艦8隻(第4駆逐隊〈嵐、舞風〉、第16駆逐隊〈初風、雪風、天津風、時津風〉、第17駆逐隊〈浜風〉、第61駆逐隊〈照月〉)という編成である。 戦闘の初期、SBDドーントレス2機(空母エンタープライズ所属機)の奇襲により空母「瑞鳳」が被弾、発艦不能となり戦線離脱を余儀なくされた。つづく米空母2隻(エンタープライズ、ホーネット)艦載機の攻撃により機動部隊前衛部隊に所属していた「筑摩」が大破。機動部隊本隊では旗艦「翔鶴」が大破した。戦史叢書によれば、「照月」は翔鶴直衛として対空戦闘中に至近弾を受け、若干の損傷を受けた。照月主計長は、本艦の損傷は空襲中ではなくアメリカ軍飛行艇の夜間爆撃によると回想している。7名が戦死した。また南雲長官(機動部隊司令部)は大破した「翔鶴」から「照月」に移乗する予定だったが、照月不在のため「嵐」に移動した。中島親孝第三艦隊通信参謀によれば、「照月」は出撃前の打ち合わせに参加していなかったため、いつのまにか「翔鶴」から離れていたという}。損傷空母2隻(翔鶴、瑞鳳)は駆逐艦「初風」と「舞風」に護衛されてトラックへ向かい、「嵐」は27日午前7時に機動部隊本隊に合流して南雲司令部を「瑞鶴」に送り届けた。南雲長官が「瑞鶴」に移乗するまで第二航空戦隊司令官角田覚治少将(旗艦隼鷹)が航空戦の指揮を委任され、航空部隊(隼鷹、瑞鶴)を指揮してアメリカ軍機動部隊と交戦した。海戦後の10月29日、トラック泊地に到着した。工作艦「明石」による修理を受けた。
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南太平洋海戦
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詳細は「南太平洋海戦」を参照 ガダルカナル島の日本軍は劣勢に陥り、日本軍は10月25日を予定して陸海軍の総攻撃実施を決定する。10月11日、翔鶴以下南雲機動部隊はトラック島を出撃し、ソロモン海域に進出した。 10月15日、索敵機が4群からなる船団を発見。そのうち最も近いものに対して「翔鶴」と「瑞鶴」は艦攻9機、艦爆21機、零戦8機が攻撃に向かい駆逐艦「メレディス」を撃沈した。損害は艦爆、艦攻各1機未帰還、艦攻1機不時着水(搭乗員は駆逐艦「磯風」が救助)であった。艦攻9機、艦爆21機からなる第二次攻撃隊は敵を発見できず、本隊からはぐれた艦爆5機のみが輸送艦2隻を攻撃したものの損害は与えられなかった 10月25日夜、アメリカ軍飛行艇が夜間爆撃を敢行したが、被害はなかった。10月26日の戦闘における第三艦隊本隊の戦力は、第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、第七戦隊の重巡洋艦1隻(熊野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊〈嵐、舞風〉、第61駆逐隊〈照月〉、第17駆逐隊〈浜風〉、第16駆逐隊〈雪風、初風、時津風、天津風〉)であった。同日朝、索敵中のドーントレス2機が空母瑞鳳を奇襲し、爆弾1発を艦後部に命中させて着艦不能とさせた。午前6時50分、翔鶴の索敵機がアメリカ軍機動部隊を発見、翔鶴飛行隊長村田重治少佐率いる九七式艦上攻撃機20、高橋定大尉率いる九九式艦上爆撃機21、零戦8機の第一次攻撃隊が発進する。続いて第二次攻撃隊の発進が開始されたが、瑞鶴艦攻発進が遅れたため、翔鶴艦爆隊(関衛少佐、艦爆19・零戦5)は瑞鶴隊を待たずにアメリカ軍機動部隊へ向かった。旗艦(翔鶴)が南下する一方、瑞鶴は航空隊発進のため風上へ向かい、20kmも離れる。孤立した翔鶴は珊瑚海海戦に続いてアメリカ軍機の集中攻撃を受けることになった。爆弾4発(飛行甲板後部左舷3発、右舷後部に1発)が命中、高角砲弾の一部誘爆はあったが致命傷にはならず、機関は健在だった。特に煙突冷却用ポンプは効果を発揮し、事前に被弾火災想定訓練をおこなっていた事が被害を最小限にしたといえる。また艦橋防空指揮所の有馬(翔鶴艦長)が右舷前方から接近するドーントレスの一群に対し「取舵」を下令したところ、塚本(翔鶴航海長)は珊瑚海海戦の経験から独断で面舵へ転舵(アメリカ軍艦爆隊と反航態勢)。爆弾4発命中にとどめた。塚本航海長は「艦長の命令だからといって、ミスミス悪いことと知りながら盲従していたら、おそらく全弾命中して『翔鶴』の運命は終わりであったろうと思う」と、南雲長官や草鹿参謀長の面前でも命令違反を犯したと回想している。有馬も取舵転舵を下令した事は失敗だったと認め、塚本を叱責する事態にはならなかった。 南雲機動部隊が攻撃を受けていたころ、日本軍攻撃隊もアメリカ軍機動部隊を空襲し 第二航空戦隊(空母隼鷹)や第二艦隊と共同で空母ホーネットと駆逐艦1隻撃沈、エンタープライズ大破という戦果をあげている。その一方、村田少佐を含む艦攻10機、関少佐を含む艦爆22機、零戦12機、搭乗員計54名を失った。随伴駆逐艦も不時着機搭乗員救助にあたった。午後5時、南雲司令部は駆逐艦「嵐」(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)に移乗して翔鶴から離れた。なお、有馬(翔鶴艦長)は徹底追撃と戦果拡大の必要を痛感しており、翔鶴で逃走するアメリカ軍機動部隊を追撃することを主張した。自艦を被害担当艦(囮)にして、他艦の攻撃を支援をしようという有馬の特攻精神だったという。だが草鹿龍之介機動部隊参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と退けられている。 艦上戦死者144名、航空隊戦死者54名を出して大破した翔鶴は、駆逐艦「舞風」と「初風」に護衛されて避退した。10月28日、トラックに帰港した。有馬(翔鶴艦長)と大林末雄大佐(瑞鳳艦長)は戦艦「大和」の連合艦隊司令部を訪ね、戦闘状況を報告した。このあと、山本長官と宇垣参謀長は翔鶴を自ら視察した。後日(翌年3月28日)、有馬は海兵43期の同期生で友人の高木惣吉(当時、海軍省教育局長)に心情を打ち明け、南太平洋海戦時の状況について「山本長官は間もなく戦死された。それなら思い切って遠慮せず本心を吐露すればよかった。残念でたまらない」と語ったという。10月29日、昭和天皇は南太平洋海戦における連合艦隊の戦果を称える勅語を贈る。 この後、南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(熊野、筑摩)は駆逐艦8隻に護衛されて内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した。横須賀に到着後は同地で修理を行うが、この間、東条英機首相が視察に訪れている。日本海軍は、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・南太平洋海戦における2隻(翔鶴、瑞鶴)の奮戦に対し3回の感状を授与した。また二度の大海戦における2隻(翔鶴、瑞鶴)の被害の差から、瑞鶴は幸運艦と呼ばれた。瑞鶴乗組員達は翔鶴について、「実に運の悪い艦だ」と噂していたという。一方、福地周夫(翔鶴運用長)は「海軍軍人の立場からいうと、(瑞鶴は)逃げ隠れていて戦うことができずに、かえって不運だったと思っている。翔鶴の方が武運に恵まれて幸運だった」・「敵が攻めて来ているのに隠れていて、しかも、僚艦が攻撃されているのに知らん顔をして戦わなかった『瑞鶴』を、単に運がよかったとばかりは思わない」と著している。珊瑚海海戦の時も、「瑞鶴は隠れていて無事で、まことに幸運でした」と報告したら山本長官は喜んだだろうか……と指摘している。
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