動機に関する諸説とは? わかりやすく解説

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動機に関する諸説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:46 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「動機に関する諸説」の解説

秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐つまり「唐入り」を行った動機について古くから諸説語られているが、様々な意見はどれも学者納得させるには至っておらず、これと断定し難い歴史上の謎の一つである。戦役本編に入る前に動機に関する諸説について述べる。主なものだけで以下のようなものがある。 鶴松死亡説鬱憤説) 1591年天正19年正月、征明の遠征準備始めさせた秀吉であったが、その直後日付の上では2日後)に弟である豊臣秀長病死するという不幸があり、さらに8月には豊臣鶴松の死という大きな悲しみ遭遇した秀吉相次ぐ不幸に悲嘆暮れたが、その極み至って、却って自らの出陣明国隠居の地とする決意新たにしたと、秀吉同時代人近衛信尹は『三藐院記』で書いている。征明の決意公に表明したのは愛息の死の直後であった林羅山はこれを受けて豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らし出兵した」という説を書き、『朝鮮征伐記』など様々な書籍でも取り上げられている。しかし、秀吉心情としてはそれも当たらずといえども遠からずであったかもしれないが、見てたように計画それ以前からあってすでに実行段階入っていたのであり、順序から考えればこれを動機とは呼べないのである東洋史学者池内宏批判して後人こじつけ」であると評した功名心説(好戦説/征服欲説) 遠征動機秀吉功名心とする説の根拠は、秀吉朝鮮送った国書に「只ただ佳名三国顕さんのみ」と端的にその理由述べている点にある。このため動機一つであることは容易に推定できるのであるが、江戸前期儒学者貝原益軒 が、欲のために出兵するは“貧兵”であり、驕り任せた驕兵”や怒り任せた“忿兵”でもあって、天道背いたが故の失敗であった批判したのを皮切りとして、道義適わぬことがしばしば問題とされた。道学者道徳的批判に過ぎないと言えばそれまでだが、功名心対す価値観は(第二次世界大戦の)戦前戦後でも劇的変化があり、動機評価合わせて考え場合は、英雄主義による賛美大義なき戦争という批判変わったことに留意すべきであろう歴史家徳富蘇峰秀吉英雄賛美しつつも遠征動機端的に征服欲発作」と述べた動乱外転江戸後期儒学者である頼山陽も、国内動乱を外に転じるための戦役だったという説を唱えて有名だった明治期の御雇教授マードックも、国内安定のために諸大名資源精力海外遠征消費させる方策であったという見解示した。『日本西教史』の著者ジャン・クラッセの場合は「太閤日本不平黨が叛逆すべき方便悉く除去せんと欲し、その十五萬人渡海させしめ」船を呼び戻して軍隊再び日本帰る妨げ飢餓困難に陥り死に就かしめんと欲する」 とまで細かく書いている。しかし、この説の矛盾は、秀吉遠征の失敗予期したことを前提にしている点である。実際に出征した諸将見れば子飼い武将を含む譜代外様でもより身近な大名中心で、徳川家康のごとき最も警戒すべき大老出征しなかった。豊太閤三国処置などから判断する出征した諸将大きな報奨知行与えるつもりで、逆に秀吉遠征成功信じて疑わなかったのである池内宏はこれを「机上の空論」と評し、(敗北主義的な頼山陽の説が気に入らない蘇峰国内諸大名に「秀吉喰って掛る如き気概はなかった」として「架空臆説、即ち学者書斎管見」と完全否定している。 領土拡張急成長遂げてきた豊臣家は、諸将俸禄とするために次々と新たな領地獲得を必要としていたという説は、戦国大名としては当然のこととして当初より検証なく受け入れられてきた。功名立てることと領土獲得はしばしば同じことであるため両説重複して主張されることがあるが、歴史学者中村栄孝秀吉名声不朽に残さんがために「当時わが国知られていた東洋諸国をば、打って一国為すのを終局希望として、海外経略計画進められていた」 と大帝国建設目的だとし、「政権確立のため、支配体制強化所領流通対外的拡大求め東アジア征服による解決目指していた」 とも述べたまた、中村は「その目的手段も、殆ど海内統一に際して群雄臨んだ場合異なることがなかった」 と書状等から分析し諸国王が諸大名同様に扱われたことを強調蘇峰秀吉朝鮮異国とは思わず「朝鮮国王は、島津義久同様、入洛し、秀吉節度服すべきものと思った」とした。これらの見解は、天下統一達成日本列島限られるという現代国境概念中で考えることを否定するものでもあった。 勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説) 秀吉戦略可能な限り平和的手段降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易復興通商貿易拡大目指したときに、朝鮮が明との仲介要請拒否したことが、朝鮮出兵理由であったという説は、日本史学田中義成辻善之助柏原昌三など多く学者唱えてきたものである秀吉平和的外交強調する一方侵略責任一端朝鮮明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判受けたであったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易当初からの目的考えるには根拠が薄いことである。 歴史学者田保橋潔が「どの文書にも勘合その他の貿易についての言及はない」 と批判したように、肝心部分史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉あまりにも近世化した見解ではないか疑問呈した日明交渉において突如登場した勘合貿易復活条件主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服不可能なるを覚った後、所期結果とは別に考慮されたものに他ならない」 と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉万暦帝臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封の意味秀吉本人理解していなかったという説 もあって、慶長の役再開理由が単に朝貢勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たない指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授三鬼清一郎領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議唱え対外領土拡張も対明貿易独占体制企て一部であるとした。また歴史学者鈴木良一は、豊臣政権基盤弱く商業資本依存していたと指摘し商業資本による海外貿易拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした。 国内集権化説(際限なき軍役説) 国内統一権力集中あるいは構造的矛盾解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権統治体制未完終わったために検証できないものが多いのが難点である。 日本史学者である佐々木潤之介の話によると、「全国統一同時に集権的封建国家体制建設武士の階級的整備確立と、統一的な支配体制完成努力しなければならず、統一的支配体制完成事業は、この大陸侵略過程推進した」 と指摘した同じく朝尾直弘家臣団内部対立紛争回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず唐国までも上意得られ候」という論法用いていたことから、大陸を含む統合視野にいれていたとし、朝鮮出兵による軍賦役利用して身分統制令課して新し支配隷属の関係を設定した論じた貫井正之教授は「大規模な海外領土獲得によって、諸大名間の紛争停止させ、全大名および膨張した家臣団まるごと統制下に組み込もうとした」と論じ構造的矛盾解決する必要不可欠なものであった主張した日本史学者の山口啓二も「自らの権力維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役統一戦争終結後海外向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉直臣団は少数一族子飼い武将官僚除けば兵農分離によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊構成しており、戦功による恩賞機会求めていたので、豊臣氏自体内側絶え間なく対外侵略志向して麾下外様大名統制するために彼らを常に外征動員し豊臣氏麾下管理しておかなければならなかった」と説明した国内統一策の延長説 これは統一軍事的征服過程であるという従来見解否定する点が特徴の説で、歴史学者藤木久志天下統一=平和を目指す秀吉にとって惣無事令こそが全国統合基調であったとし、海賊禁止令は単に海民掌握目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令拡大計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北意識よりはむしろ海を越えた征伐昂揚残した」 と述べた。対明政策は勘合復活、すなわち服属要求伴わない交易政策であるが、朝鮮台湾フィリピン琉球には国内惣無事令搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策重層性が存在し秀吉は「朝鮮地位保全前提とした服属儀礼強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であった主張した東アジア新秩序下克上生まれた豊臣政権は、従来東アジア秩序破壊する存在であったとする説。明・中国中心とした東アジア支配体制秩序への秀吉挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島領有巡って争った日清戦争前史のように捉えるものであり、明治時代前後支持得た。しかし頼山陽の『日本外史』にある秀吉日本国王冊封されて激怒したという有名な記述近代以前流布され典型的な誤解 であり、基本的な史実反する点があった。史料から秀吉自身足利義満のように望闕礼行った十分に判断でき、史学的には秀吉意図して冊封体制崩そうとしたという論拠存在しないといっていい。 しかし一方で16世紀と17世紀東アジアにおける明を中心とする国際交易秩序解体によって加熱した商業ブーム起き、この時期周辺地域交易利益基盤台頭した新興軍事勢力登場必然とし、軍事衝突はこの「倭寇状況」が生み出したと言う岸本美緒教授や、「戦国動乱を勝ちぬいて天下人となった豊臣秀吉が、より大きな自信自尊意識をもって国際社会臨んだのは、当然のなりゆき」 という村井章介名誉教授など、秀吉冊封をどう考えていたかに関係なく、統一国家日本誕生したこと自体東アジア国際情勢変動促した要因であったとする東アジア史からの指摘もある。論証も十分ではないという批判 もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。 また、ケネス・スオープ米ボールステイト大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)が「日本朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジア支配体制秩序への秀吉挑戦。これは日本中国戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮要請ではなく自分利益のために参戦した」と述べ地政学的見地から日中衝突必然性をもって説明する学者もいた。 こうした見方に対して東洋史学者新宮学は秀吉述べたとされる豊太閤三国処置早計』から読み解けるのは、秀吉発想は完全な明の冊封体制焼き直し従来東アジア秩序継承に過ぎない、としている(詳細後述)。 キリシタン諸侯排斥ルイス・フロイスやジャン・クラッセ、『東方伝道史』のルイス・デ・グスマンなど同時代宣教師達が主張した説で、「基督キリスト信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し若し支那掌握せば基督信者騙して支那移住せしめん」 と秀吉考えていたという。 戦役バテレン追放令キリシタン弾圧重なり、同じ頃フィリピンインド伸ばした秀吉外交が彼らの目にはキリスト教世界全体対す攻撃映っていた可能性はあるが、小西行長筆頭としてキリシタン大名排斥されておらず、そのような事実はなかった。動乱外転説に似ているが、排斥対象キリスト教徒限定されているところに特色がある。 元寇復讐説 秀吉元寇復讐戦として文禄慶長の役起こしたという説は、辻善之助が「空漠なる説」 と一蹴しており、事実とはかけ離れたのである。しかし、特に根拠のない俗説の類であるとしても、朝鮮書物においても交渉当事者であった景轍玄蘇言及していたことが記録されており、信じる者は当時からいたようである。 しかしそれ以外でも大名武士の間でも噂にあり、この当時ではないが遡ること信長討たれ明智を討つと権力を掌握した時に予想のできなかった信長の死という悲しみ混乱の中で、まずこれから国をどうする真っ先取り掛かる問題として、外国からの侵略対策問題真っ先当たらないといけないとの考え強く持っており「日本以前外国から国の存滅関わる大きな攻撃受けたこと(即ち元寇の意)から、それをどうにかしないといけない」と来る日も来る日も悩んでいたという側近記録残っている。天下統一最初から、国内ではなく海外の中での日本どうするかで頭を中でいっぱいであったそれ故に、その兆候沿ったことを生涯で他にはほとんど行っておらず晩年になって該当するその通り実行していることから、朝鮮出兵最初からその未来構想立てていて人生最後にそれを実行した可能性影響受けた一つ理由とも考えられる朝鮮属国説(秀吉弁護説) 異端儒学者山鹿素行主張したもので、神功皇后の頃より「凡朝鮮本朝属国藩屏」なのだから従わぬ朝鮮征伐して本朝武威異域に赫(かがやか)すこと」は至極当然であるというもの。功名心説(好戦説)が道義的批判受けた反撥から生まれた儒者論法だが、動機原因というよりも単なる称賛であり、しかも朝鮮征伐本来の目的ではなく秀吉古代知識あったか疑わしいとして、国家主義者蘇峰すら「恰好たる理屈当て嵌めたものに過ぎぬ」 と評した

※この「動機に関する諸説」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
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