復讐説
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1948年、田中隆吉は『裁かれる歴史』で、1938年4月の初め、山砲二五の連隊長をしていたとき、三月の移動で咸興の歩兵七四の連隊長になり団隊長会議に列席するため羅南に来ていた長勇が自身を訪ね、「自分は事変当初通州に於て行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと喜んだ」、「自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみならず、犠牲になった無辜の魂を慰めたと信ずる」と語った、と主張した。1953年、滝川政次郎は、南京虐殺の原因として、「通州事件による中国兵の残虐行為が南京攻囲軍の将兵の間に知れ渡ったことも亦その一因がある。」と主張した。1958年、梨本祐平は「この時の通州守備隊は間もなく中支に移動した。南京の開城に参加し、有名な南京の大虐殺事件をひきおこした。このことは、あまり知られていないのではないかと思う。彼らは通州で言語に絶する中国軍隊の日本人の大量虐殺を眼の前に見て、憤怒の感情の消えていないままに、「通州の日本人を見ろ」「通州の日本人の敵討ちだ」と言いながら、虐殺の刃を指ったのだった。」と主張した。 中村粲は「もし通州事件なかりせば、五カ月後の所謂南京事件は発生しなかつたであらうと考へてゐる。」、「済南事件や通州事件など、支那側による日本人虐殺事件がなかつたならば、"南京事件"はいかなる形でも起こらなかつたであらう」と主張した。秦郁彦は「事件の直後に華北に派兵された第一六師団 (京都) が南京虐殺事件の主役となったのは、通州事件に影響されたのではないかとの憶測もある。」と主張した。半藤一利は「通州事件でやられて、その後始末をした部隊が『今度は復讐だ。こんなことやられて黙っていられない』とそのまま南京攻略戦に入っていったから、虐殺を起こしたんだと」いう話を聞いたことがあるが、「どうもこれはデマらしいんです。」と主張した。太田尚樹は、「のちの南京事件も、通州事件の異常性が、兵士たちの心理に影響した可能性も否定できない。」と主張した。阿羅健一は、大西一が「長さんの話は話半分に聞いていいよ」と言っていたことを紹介し、通州の復讐だという話も面白く話したものの一つで、「通州事件があったから日本軍が南京で虐殺をやったことはないと言える」と主張した。
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