親日
(親日家 から転送)
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日本語では、日本や日本人、日本文化に好意的な言動を示す非日本人を指す言葉である。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:24 UTC 版)
「ドラガン・ストイコビッチ」の記事における「親日家」の解説
ストイコビッチは大の親日家として知られている。名古屋在籍時の1999年、母国セルビアのバスケットボール選手で、共に出場したロス五輪以来の親交を持つブラデ・ディバッツとの対談が組まれたことがあった。対談は大いに盛り上がり予定時間を超過したが、彼は神社仏閣の美しさからタクシー運転手の親切な振る舞いまで様々な事象を引き合いに出し、「いかに自分と家族が日本を好きか」ということを興奮気味に語り続けたという。ベオグラードの日本大使館員に真剣に一時帰化の相談をしたというエピソードもある。趣味は盆栽で、夏には浴衣を着て家族と寺院で記念撮影をする。名古屋のゼネラルマネージャーとして共に仕事をした久米一正によれば、日本語は既に「ペラペラ」だが、選手と距離を作るために敢えて話さないという。 "日本のお米はファンタスティック" –来日から1年が経った頃に ストイコビッチは食生活に於いても日本食好きを公言している。名古屋在籍時の1995年、ホテルのバイキングで中西哲生が食べていた納豆に初めてトライし、それ以後は納豆が大好物になり海外キャンプに行くときも納豆を持参するようにクラブにリクエストしていたが、1997年のオーストラリアキャンプで朝食に納豆が出されなかったことに激怒し、クラブスタッフを日本食食料品店に買いに行かせたこともあった。他にも生卵、うどん、鮎の塩焼き、梅干しなども好物であり、梅干はとりわけ大きくて柔らかい物が好みである。鮎に関しては鮎を食べるために夏季キャンプに行くと言われるほどで、故郷のニシュに似ているという岐阜県飛騨市での約1週間のキャンプ期間中に30匹の鮎を食べたとも語っている。縄張りを持つ鮎の習性になぞらえて選手たちに「鮎のファイティングスピリットを見習え」というアドバイスを送った事もある。日本食に加えてイタリア料理も好んでいる一方で、中華料理などの油を多用する料理は好んでいない。 1998 FIFAワールドカップ直前に行われたユーゴスラビア対日本のテストマッチでは、君が代演奏時にブーイングが響いたが、彼がスタンドに静寂を求めると、途端に静かになった。(試合は1-0でユーゴ勝利) これら彼の日本好きというイメージから派生したものではないが、「ストイコビッチ」という名前に漢字を当てた「『須藤彦一(すとう ひこいち)』という日本名を持っている」とのネタが存在し、週刊朝日等の週刊誌で実際にこの話題が取り上げられたことがある。しかしこれは木村元彦が「2000年頃にとあるスポーツ誌に冗談で書いたもので、本人が知るはずもなく事実ではない」とコメントしている。 なお名古屋監督退任後の2015年4月、外務省より「日本・セルビア間の相互理解の促進及び我が国のサッカー界の発展に寄与」の理由で旭日小綬章が授与されている。
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親日家
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大の日本好きで有名。 2018年6月に発表した「GHOST」のミュージック・ビデオは東京・渋谷や原宿のキャットストリートで撮影され、親交がある山下智久やHIYADAMも出演した。同シングルのジャケット写真にはモデルのAMIAYAが起用された。 東京・秋葉原で撮影した「GOKU」のミュージックビデオでは、アニメ「ドラゴンボール」をオマージュ、特殊効果でかめはめ波を撃つパフォーマンスを披露している。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:49 UTC 版)
「スティーヴン・スピルバーグ」の記事における「親日家」の解説
親日家としても有名で、『宇宙戦争』の日本限定のCMを公開したり、自らの作品及び製作に携わった作品の予告編の前振りに出演することがある。『1941』の日本版サントラの解説によると食べ物の中で寿司が好物とのこと。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ウナギの蒲焼きが大好物[要出典]とも言われる。自宅の門には日本語で「スチーブン スピルバーグ」と彫られた木製の表札が掛かっており、これは三船敏郎が『1941』に出演した際にプレゼントしたものである。2001年に『A.I.』と『鉄腕アトム』の類似性について尋ねられた際、「日本のテレビ局のインタビューを受けるまで、『鉄腕アトム』という作品の存在すら知らなかった」と答えた。ただし手塚治虫とは一時親交があった。手塚治虫はテレビのインタビューで、スビルバーグ監督からもらった色紙を披露しており、そこにはサインとともに監督直筆のETが描いてあった。また手塚治虫は、自分とスピルバーグとの共通点は黒澤明監督から影響を受けていることだと述べている。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:19 UTC 版)
デヴィッド・ボウイが大の日本好きであったことはよく知られている。 一時期京都市に居住し、邸宅を構えていたとの噂もあるが、実際には1980年にディヴィッド・キッド(英語版)という同名の東洋美術家の京都市山科区にある家にしばしば滞在し、その間は京都の各地でボウイが目撃されていたことから噂が膨らんだのではないかとの説も示されている。 ボウイが京都に滞在していたころに、阪急電鉄の前でコートを直す姿を写真家鋤田正義に撮影された写真が有名であり、河原町駅にて阪急電車の車両、阪急京都線の1世代前の特急車両「6300系」の6番目に作られた編成(6355×8R)大阪方から4両目前の前で撮影された写真は現在も阪急の資料にて残されている。また、ボウイは1979年から活動を開始した平沢進が率いたテクノポップバンド「P-MODEL」の京都で行われたライブコンサートに観客の一人として訪れ、ライブ終了後にバンドメンバー達に会いに行き、語り合った。米国に帰国後、ボウイは米国版PLAYBOY誌にて坂本龍一と対談している。坂本龍一から日本に気になるアーティストが居たかと聞かれた際、ボウイはP-MODELが気になっていると語っている。 彼のステージ・パフォーマンスは日本文化の要素がいくつも取り入れられていた。このことを示す事例は、異星人という設定の「ジギー・スターダスト」や「ジェローム・ニュートン」のコスチュームなど、枚挙にいとまがない。ボウイは特に、歌舞伎の様式美や女形という要素に大きな影響を受けた。五代坂東玉三郎に女形の化粧のやり方を教わることすらしたが、女形の化粧をそのまま真似することはせず、むしろ女形に両性具有的魅力を見出し、ステージへの応用ができるかを模索した。服飾史研究者 Helene Thian によると、ボウイは歌舞伎の「早替わり」の要素をステージパフォーマンスに取り入れた最初の欧米人であるという。ボウイは「スペース・サムライ」と名付けた日本の袴にインスパイアされた衣装や、着物にインスパイアされた衣装を好んで羽織り、曲の合間などに早替わりするパフォーマンスで観客を魅了した。 ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、1960年代に舞踊家リンゼイ・ケンプのダンス・スクールに通っていた時であった。衣笠貞之助の無声映画に影響を受けたことを自認するケンプは、生徒のボウイに武満徹を聴かせ、共に日本の伝統芸能、能や歌舞伎を研究した。1967年にチベット仏教の僧侶になろうと本気で考えていたボウイであったが、ケンプのレッスンをきっかけとして、黙想に生きる僧侶とは正反対の、ロック・スターという派手やかな歌舞音曲の世界へと、人生の進路が決まった。ボウイが北米市場で成功しようともがいていた1970年代に大きな助けとなったのが服飾デザイナー、山本寛斎との出会いであった。山本は1973年のジギーや1976年のアラジン・セインの衣装をデザインした。 今日では、ボウイのような立場は、異文化から要素をただ盗んできただけと糾弾されがちであるが、前述の服飾史研究者 Thian によると、日本からボウイに対してこのような苦情が申し立てられることは、まずないという。彼女によるとその理由は、ボウイは自身の創造性を、東西文明を融合させ戦後世界を癒すために捧げたが、これはボウイの日本への敬意の表れであり、日本人も彼の敬意を愛しているからだ、という。 2016年1月10日ボウイの訃報に際し、翌日に阪急電鉄は公式ツィッターで、6300系をバックに撮られたボウイの写真と共に、追悼メッセージを送った。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:32 UTC 版)
子供の頃から日本の文化や歴史、礼儀などに興味があったと語っており、プライベートでもたびたび来日するなど親日家として知られている。侍に対する敬意は深く、子供の頃にアニメ映画の獣兵衛忍風帖を見たのをはじめとして、七人の侍や宮本武蔵関連の映画を多く見ている。また、一番好きな俳優として三船敏郎を挙げている。 大の漫画・アニメ好きでもあり、自身の愛称「フィリピーノ・フラッシュ」も漫画のキャラクターに由来している。最初に読んだ日本の漫画は「SLAM DUNK」。その後、ボクシング漫画はないか探したところ、「はじめの一歩」を読むようになり、現在ではアメリカやフィリピンの漫画雑誌には掲載されていない、週刊少年マガジンの最新号に掲載されたばかりの最新話を日本に住む友人に英訳してメールで送ってもらって読んでいるほか、マヌエル・バルガス戦では主人公の幕之内一歩の得意技でもあるデンプシー・ロールを独自に改良して「フラッシュ・ステップ」と名付けた動きを使ったほどの熱狂的なファンである。作者の森川ジョージと対談した際には終始にこやかで、記念写真をTwitterとFacebookに掲載していた。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:08 UTC 版)
頻繁に来日公演を行う親日家であり、畠山美由紀やおおはた雄一、Port of Notesといった、日本のミュージシャンのアルバムをプロデュースすることにも積極的。平井堅やbird、原田知世のアルバムに参加したこともある。2009年から2013年にかけて、自らのアルバム名をタイトルに冠した野外フェス「ウォッチング・ザ・スカイ」が東京・上野などで計6度開催された。これまでに、サニーデイ・サービス、ジョー・ヘンリーなどが出演した(自身は出演しない年もあった)。 アルバム「サブ・ローサ」には「神田の昼下がり (Afternoon in Kanda)」という曲が収録されている。 2015年のアルバム No Wrong No RightにはMiyazakiという曲が収録された。2014年のインタビューによると、ある時、風邪をひいていた時期に、宮崎駿作品を繰り返し見ていたことから、そのとき作っていた曲にMiyazakiとタイトルをつけた。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 04:05 UTC 版)
大の親日家として知られ公式の初来日は1990年の串本町で行われたエルトゥールル号遭難事件100年慰霊式典の参加を兼ねた親善訪問でこのときの交流から更に好意を深めたという。翌年には後述する創価学会インタナショナルの後援で再来日を果たし以降来日を繰り返し1995年には日本ツアー公演が行われ実況録音盤が発売され、公演のほか各地では交流の機会を設けトルコと日本の友好親善活動に尽力している。この日本語版曲や実況録音盤から日本ではバルシュ・マンチョの知名度や人気が高いと一部のトルコ人には誤解されていた。当時トルコではバルシュ・マンチョの名を知らぬものはいない、と言われたスターだったが普段は庶民的で質素、威丈高な態度を見せたことは無く気さくで控えめに接していたという。ところが外人に日本人を見つけると積極的に話しかけることが多く、声を掛けられた旅行者などはあとで有名人と気がつく場合が殆どだったと云う。観光に飽きたある日本人旅行者はホテル従業員にバルシュ・マンチョの邸宅を外から見物することを勧められる。。地区を散歩して、マンチョ邸その門前で記念写真を撮影していると本人が現れ日本人と知るとお茶に誘いに邸内に招き入れ歓迎された。帰宿して勧めた従業員に顛末を話すと見ず知らずの旅行者を家に入れてお茶は有り得ないことだと云い驚嘆されたという。店先で値段交渉や雑談にはお茶が付き物だが赤の他人を自宅に招くことは無い。イスタンブールモダ地区ユセフカミルパシャ通りにある邸宅は現在記念館として公開されている。 創価学会インタナショナルの名誉会員で来日公演はその援助で行われたがバルシュ・マンチョは生涯ムスタファ・ケマル・アタテュルクを尊敬したイスラム教徒でクルド労働者党のテロなどに胸を痛め民族や国境を越えた平和運動や活動に共感し加盟したものである。
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親日家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:16 UTC 版)
ジャック・シラクは親日家(知日派)として知られており、日本文化に対する造詣も深い。幼少期にパリの東洋美術館、ギメ美術館を観覧し東洋美術に関心を持ったのが日本への関心の始まりである。学生時代に『万葉集』を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。温泉も好きで、来日時は、しばしば入浴する。日本古美術の膨大なコレクションを所蔵する。来日時、首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめた。以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれる。さらに、愛犬の名前に「スモウ」とつけるほどの大相撲の大ファンでもあったが、「スモウ」は繰り返しシラクに噛み付いたため後に手放さざるを得なくなったと伝わる。駐日大使館の重要な任務の一つは、エリゼ宮に大相撲の結果を場所中毎日報告することだったとさえいわれる。1999年1月、首相の小渕恵三(当時)が訪仏した際、貴乃花が明治神宮に奉納した綱と軍配を贈ると、大喜びしたというエピソードもある。一番の贔屓の力士は琴錦で、琴錦と同郷の小渕首相と琴錦の話題を楽しんだ。エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させた。 2005年3月26日の来日は、公私合わせて45回目になるが、真っ先に大阪で開かれている大相撲春場所を訪れ、27日に愛知万博を見た後、28日に天皇、首相と会見した。2005年3月場所で相撲観戦を終えて会場を後にする際、観客が総立ちになって「シラク」コールを浴びせた。それだけシラクが好角家として相撲ファンに認知されていたということである。 自身が死去した際、日本相撲協会の八角理事長は「突然の訃報に接して、思いがけないこと故、驚いております。生前は相撲を大変愛好され、何度も相撲観戦に足をお運びいただきました。ご生前のご厚情に深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ。年月が経過しても好角家として各界から認知され続けていた。 外交政策的にも日本を重視した姿勢が見られた。2003年11月29日にイラクで日本人外交官2人が殺害された事件で、翌30日に「大変な悲しみを覚える」「困難な事態に日本と連帯して取り組んでいきたい」とする書簡を首相の小泉純一郎に出した。2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故で、26日に「事故を知り、深い悲しみを感じている。遺族に対して私から、仏国民からお悔やみを申し上げる」と小泉に弔意を表明した。2006年9月6日に悠仁親王が誕生した際に、英国女王エリザベス2世と並んでいち早く上皇(当時は天皇)に祝賀のメッセージを送った。2007年1月12日の安倍晋三との会談で、シラクは「日本のいない安保理は馬鹿げている」と述べ、日本の常任理事国入りへの支持と協力を約束した。 2008年10月14日に元首相森喜朗と会談し、2016年の東京五輪招致について「日本を支持したい。日本しかないと考えている」と述べた。ラグビーワールドカップの日本招致についても支援する意向を示した。 自身の「回想録」の第1巻で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べている。人生に関する多くの教訓を相撲から学んだことを明かしている。そして、日本を含むアジア文化との出合いは高校時代に通ったパリのギメ美術館だったことに触れ、「日本に行くたびに、ギメ美術館で仏像を鑑賞していた(青年期の)ころの感情に戻る」と述べた。相撲については「戦いの前に、2人の力士が相互ににらみ合う視線以上に強いまなざしを知らない」と仕切りの奥深さを語った。 日本テレビ系番組『第9回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1985年)で、当時パリ市長だったシラクの招請によりパリが決勝地となった(番組内で自身もVTR出演をした)。1986年に行われた大相撲のパリ公演は市長として自ら主催し、1995年にフランス大統領として自ら主催者になった。
※この「親日家」の解説は、「ジャック・シラク」の解説の一部です。
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「親日家」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は親日家だ。
- 親日家のページへのリンク