設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:50 UTC 版)
熊本市西区にある慈恵病院は、1898年(明治31年)10月に私設ハンセン病診療所「待労院」と同一敷地内に、フランス人のカトリック宣教師ジャン・マリー・コール神父と、マリアの宣教者フランシスコ修道会の5名の修道女により設置された「慈恵診療所」を前身とするキリスト教系の産婦人科病院である。カトリック教会の教説が、受精の瞬間から人間であり、中絶は殺人であるとしていることが、特に大きく関わってくる。 慈恵病院理事長兼院長の蓮田太二は2007年の論文で、ハンセン病救済という病院の由来とカトリック系病院としての使命を述べるとともに、「こうのとりのゆりかご」設置の直接の契機でもあり、実現に向けて共に歩んできたカトリック系プロライフ団体「生命尊重センター」「円ブリオ基金センター」(後述)の活動を紹介し、ドイツの「ベビークラッペ」視察と相談事業の実施、高校生への性教育などの実績を経て「ゆりかご」設置を決断したという経緯を明らかにしている。 1982年4月、マザー・テレサが2度目の来日の際に「日本は美しい国だが、中絶が多く心の貧しい国だ」と、人工妊娠中絶をなくすよう呼びかけたことを契機に、1984年5月に「生命尊重センター」が発足した。 1992年10月14日付『朝日新聞』で、ドイツのバイエルン州にあるエアランゲン大学病院が、交通事故で脳死状態になった妊娠4か月の未婚女性の胎内で胎児が生きていることから、出産までの延命措置を続けることを発表したことが報じられた。この記事を見て生命尊重センターが支援を申し出たことが契機となり、翌1993年9月に「1口1円1億人への胎児おうえんボランティア基金」として募金活動を開始。1998年10月に「円ブリオ基金」と改名、受精後8週までの胎児を表す「エンブリオ」と「円」を掛けて名付けた(命名は元NHKアナウンサーの鈴木健二)。 2002年3月、NPO法人「円ブリオ基金センター」設立。同年7月にドイツの「ベビークラッペ」と「妊娠葛藤相談所」を視察する。同年11月に全国27か所で「妊娠かっとう相談ヘルプライン」を実施、以降も定期的に電話相談を実施する。翌2003年5月には熊本県女性相談センターに「女性の心と妊娠にかかわる相談窓口」が開設された。2006年3月からは円ブリオ基金センター内に「妊娠SOSほっとライン」が常設された。 2004年に生命尊重センターと慈恵病院が共同でドイツの「ベビークラッペ」を視察し、日本初の「赤ちゃんポスト」設置への道筋を付ける。翌2005年には生命尊重センタースタッフの田口朝子によりドイツでの視察記として「赤ちゃんポスト」が出版されている。 生命尊重センター・円ブリオ基金センターは2005年7月、政府に対し「お腹の赤ちゃんと妊産婦を守る相談窓口」設置要望書を提出、翌2006年4月の「家族・地域の絆再生」政務官会議「PT-あったかハッピープロジェクト」では、妊娠相談窓口と「赤ちゃんポスト」の必要性を提言。また2006年3月に啓発ビデオ『生命尊重学習ビデオIII 赤ちゃんポスト - ドイツと日本の取り組み』、同年11月に『生命尊重ビデオVI 赤ちゃんポスト』を制作している。 翌2007年5月10日、日本初の「赤ちゃんポスト」となる「こうのとりのゆりかご」が慈恵病院に誕生した。 生命尊重センターは2014年に創立30周年を迎えた。生命尊重センター・円ブリオ基金センターでは、現在も啓発と相談・支援事業および募金活動を継続している。
※この「設置までの経緯」の解説は、「赤ちゃんポスト」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「赤ちゃんポスト」の記事については、「赤ちゃんポスト」の概要を参照ください。
設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:25 UTC 版)
消費者庁設置前の消費者行政は、製品や事業ごとに所管が多数の省庁にまたがり、こうした縦割り行政が、こんにゃくゼリー窒息事故や中国製冷凍餃子中毒事件、パロマ湯沸器死亡事故、渋谷温泉施設爆発事故などについて、行政上の対応の遅れを露呈した。このことから、消費者行政の一元化が急務となった。 消費者庁は、2008年(平成20年)1月18日に、内閣総理大臣 福田康夫が第169回国会(常会)で行った施政方針演説の中で示した、「消費者行政を統一的、一元的に推進するための、強い権限を持つ新組織」の構想を具体化した行政機関であり、福田康夫の宿願とも言われた政治主導案件である。 福田は「消費者行政の司令塔として、消費者の安全、安心にかかわる問題について幅広く所管し、消費者の視点から監視する強力な権限を有する消費者庁を来年度に立ち上げ、早急に事務作業に着手する」 として、各省庁に対する是正勧告権を新機関に附与する考えを明らかにした。さらに「消費者庁創設は行政組織の肥大化を招くものであってはならない。各省の重複や時代遅れの組織の整理にもつながるものでなければならない」 との方針を表明し、消費者庁の職員は他省庁から振り替えることで行政の肥大化を防ぎ、同時に縦割り行政の弊害解消や小さな政府の実現を目指すよう指示した。 (略)国民に新たな活力を与え、生活の質を高めるために、これまでの生産者・供給者の立場からつくられた法律、制度、さらには行政や政治を国民本位のものに改めなければなりません。国民の安全と福利のために置かれた役所や公の機関が、時としてむしろ国民の害となっている例が続発しております。私は、このような姿を本来の形に戻すことに全力を傾注したいと思います。今年を「生活者や消費者が主役となる社会」へ向けたスタートの年と位置付け、あらゆる制度を見直していきます。現在進めている法律や制度の「国民目線の総点検」に加えて、食品表示の偽装問題への対応など、各省庁縦割りになっている消費者行政を統一的・一元的に推進するための、強い権限を持つ新組織を発足させます。併せて消費者行政担当大臣を常設します。新組織は、国民の意見や苦情の窓口となり、政策に直結させ、消費者を主役とする政府の舵取り役になるものです。既に検討を開始しており、なるべく早期に具体像を固める予定です。(略) — 内閣総理大臣福田康夫君による施政方針演説(平成20年1月18日) 消費者庁の設置により、主務業務に影響が及ぶことを畏れた各省庁は設置には概ね冷ややかであり、中には設置の必要はないというアピールとも取れる行動に動いた省庁も幾つかみられた。たとえば、2009年(平成21年)6月2日に山口県美祢(みね)市のホテルで発生したボイラーの不完全燃焼による修学旅行児童らの集団一酸化炭素中毒事故の件があげられる。 この事故では従業員に被害はなく労災事故ではなかったため、警察・消防以外に主務官庁と言えるものがないかに思われたが、経済産業省は原子力安全・保安院の複数の職員を急派して事故原因の特定に速やかにあたり、事故5日後に現地調査の結果をまとめた。また、翌月の7月31日付けで各自治体宛てにホテル・旅館の緊急調査の実施を依頼する通達を出す一方(緊急調査の調査票は原子力安全・保安院が作成した)、翌年の2010年1月には安全・再発防止対策についての報告書を作成している。この件以外にも、穀物輸送船の酸欠労災事故に農林水産省が職員を急派するなど、通常では例のない迅速な対応がとられたケースがあり、マスコミも注目せざるを得なかった。
※この「設置までの経緯」の解説は、「消費者庁」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「消費者庁」の記事については、「消費者庁」の概要を参照ください。
設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 21:08 UTC 版)
明治時代の演劇改良運動の中で国立劇場の設置が構想されたほか、何度か設置運動が行われてきたが実現に至らなかった。 第二次世界大戦後、文化庁の前身である文化財保護委員会に芸術施設調査研究協議会が設置され、1956年の協議会答申に基づき、国立劇場の計画が具体化した。 設計案は、計307案のコンペティションから、校倉造の正倉院を模した外観とした竹中工務店の岩本博行ほか13名による案が1963年に選択され、1966年10月に竣工した。 1966年7月の国立劇場法により特殊法人国立劇場が設立され、11月1日に国立劇場本館が開場した。11月1日に開場式を催して11月3日から「菅原伝授手習鑑」を上演した。1979年には隣接地に落語・講談を中心とする国立演芸場が開場した。その後、東京都渋谷区千駄ヶ谷に国立能楽堂、大阪府大阪市日本橋に国立文楽劇場、沖縄県浦添市に国立劇場おきなわが開場した。 1990年に特殊法人国立劇場は日本芸術文化振興会に改称し、2003年に独立行政法人化した。 当地は、江戸時代は播磨明石藩松平家の屋敷があり、明治時代に陸軍施設となり東京第一衛戍病院、陸軍教育総監部、陸軍航空本部などが置かれた。終戦後は1945年12月に接収され、アメリカ空軍の住宅施設であるパレスハイツとしてカマボコ型兵舎が多数建設された。1958年11月25日に返還され、跡地は国立劇場のほか、最高裁判所などの用地となった。
※この「設置までの経緯」の解説は、「国立劇場」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「国立劇場」の記事については、「国立劇場」の概要を参照ください。
設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/01 05:41 UTC 版)
アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA)プレプログラムとして建設が行われた。アメリカ国立電波天文台の超大型干渉電波望遠鏡群サイトに設置してテストを行った口径12mのALMAプロトタイプアンテナとは仕様が異なる。 本望遠鏡は国立天文台チリ観測所が設置及び運用管理を行っている。本施設による観測の目的は、サブミリ波帯での電波観測である。 高所に位置するため、少人数での観測が可能なように出来る限り自動化されている。人工衛星を活用した専用線通信によって、国立天文台三鷹及び野辺山より観測が可能である。
※この「設置までの経緯」の解説は、「ASTE望遠鏡」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「ASTE望遠鏡」の記事については、「ASTE望遠鏡」の概要を参照ください。
設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 15:50 UTC 版)
「石狩 -無辜の民-」の記事における「設置までの経緯」の解説
1973年(昭和48年)11月、石狩町(当時)の役場庁舎前広場に、本郷新によるブロンズ胸像「飯尾円什之像」が建立された。この胸像制作を機に、本郷は『石狩 -無辜の民-』の設置場所を石狩川河口付近にと望むようになった。 1978年(昭和53年)、北海道文化賞を受賞した本郷は返礼として『石狩 -無辜の民-』を北海道に寄贈し、設置場所を石狩浜に指定したうえで「ハマナスの咲く6、7月ころに除幕式を」と希望した。石狩町は翌1979年(昭和54年)4月に受け入れ計画の文書を道に提出し、台座経費の補助金交付を待った。ところが7月になって、補助金の解釈について石狩町と北海道との間に食い違いがあったことが発覚し、交付は中止された。そのため石狩町は、経費の捻出のため新たに議会の了承を得る必要に迫られたが、ハマナスの時季をとうに過ぎても結論を出せなかった。約束が守られないことを知った本郷は像の寄贈を取りやめてしまい、そのうえ1980年(昭和55年)に当人が死去したため、一連の話は立ち消えとなった。 1980年夏、石狩ライオンズクラブ会長の稲見研二は、前年の町長選挙が紛糾したせいでバラバラになってしまった住民たちの心をまとめるため、一丸となって取り組める目標として『石狩 -無辜の民-』設置運動の再開を提唱した。稲見が札幌市中央区宮の森の本郷のアトリエに赴いたところ、像はアトリエの外で雨ざらしになっていた。しかし本郷新記念札幌彫刻美術館の収蔵予定リストには含まれていなかったので、石狩設置は可能であった。 本郷新の遺族代表である息子の本郷淳と会談した稲見は、像の設置場所や台座のデザインなどについて全面的に遺族側の意向を受け入れ、設置の了解を得た。1980年12月20日、石狩ライオンズクラブが中心となり、各町内会や農協、漁協などに呼びかけて「ブロンズ像設置期成会」が結成された。会員たちは資金集めに奔走し、募金活動は全町的な盛り上がりをみせた。目標金額1050万円に対し、募金収入額は1025万6442円とわずかに及ばなかったものの、1981年(昭和56年)6月30日に無事『石狩 -無辜の民-』の除幕式が石狩浜の砂丘で行われた。この日をもってクラブ会長任期を満了した稲見は、翌7月1日の財団法人札幌彫刻美術館の記念式典に出席し、集まった寄付金の中から500万円を贈呈した。11月3日、ブロンズ像を石狩町に寄贈して、期成会は解散した。
※この「設置までの経緯」の解説は、「石狩 -無辜の民-」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「石狩 -無辜の民-」の記事については、「石狩 -無辜の民-」の概要を参照ください。
設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:28 UTC 版)
「臨時仮名遣調査委員会」の記事における「設置までの経緯」の解説
当時、普通教育をおこなううえで国語読本の仮名遣いを決定する必要があった。文部省は1900年(明治33年)に『小学校令施行規則』で字音仮名遣の表音式化を決定、漢語の「学校」を「がっこー」と表記するなどの方針をうちだし、1903年に作られた最初の国定国語読本は、字音語(漢語)については表音式、和語に関しては歴史的仮名遣いで編纂された。ついで1905年、次期の国定教科書では、国語調査委員会の諮問をもとに、表音式仮名遣いを漢語、和語ともに採用することを決定した。この国語調査委員会は前島密を委員長として1900年に文部省内に設置されたもので、委員長の前島自身や上田万年、芳賀矢一など委員のほとんどが表音派でしめられていた。なお国語調査委員会は1902年に官制に移行、そのときの委員長は明治初期に口語体で文章を書いていた加藤弘之である。このことからみると、表音式仮名遣いが委員会の答申としてあがったことは当然のなりゆきであった。 しかし貴族院議員などからこの表音式案に反対する声がでたため1908年5月文部大臣牧野伸顕は、菊池大麓を委員長に、表音的仮名遣い派、歴史的仮名遣い派、双方の委員を集めて仮名遣いについて諮問した。
※この「設置までの経緯」の解説は、「臨時仮名遣調査委員会」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「臨時仮名遣調査委員会」の記事については、「臨時仮名遣調査委員会」の概要を参照ください。
設置までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:59 UTC 版)
1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説で訪れたケネディ大統領夫妻を乗せた車が、ダラス市内をパレード中に狙撃され、ケネディ大統領が死亡し、同乗していたジョン・コナリーテキサス州知事が重傷を負った。これは全米を震撼させて世界中に大きな衝撃を与えた。暗殺後に昇格したジョンソン大統領は、事件発生から3日後の11月25日に当時のFBI長官エドガー・フーバーにケネディ暗殺事件の詳細な報告を求めておきながら、FBIからのオズワルドの単独犯行という結論を得て捜査を終わらせることを(何者かの指示を受けての事かは不明だが)考えていた。 しかし容疑者であったリー・ハーヴェイ・オズワルドがジャック・ルビーによって警察署管内で殺害されたことによって、ダラス市警察本部のずさんな捜査と背後関係に大きな疑惑が浮かび、テキサス州の司法長官が州としての暗殺調査を行うことを明らかにした。また上下両院が個々に事件の調査委員会を設置する動きをみせ、もはやFBIからの最終報告だけで調査が終了することは困難で、また単なる暗殺事件で処理できる問題ではないと判断して、大統領直属の特別調査委員会を設置して、当面は特別調査委員会で全ての調査を行うことで、テキサス州や上下両院議会の動きを牽制する狙いもあった。 しかし一番大きな目的は、当時の東西冷戦下で、前年のキューバ危機でソ連との緊張関係が続いていた時代の中で、ソ連へ亡命してまた米国に戻り、親カストロ派の活動を行うオズワルドが犯人と目されるがため、米ソ関係にも波及して外交問題にもなりかねない懸念が生じ、また陰謀説も囁かれるなかで国内の政治状況にも影響が心配されることで、国民の不安や疑惑を払拭することに重きを置き、次の年の大統領選挙の前にも暗殺事件の調査を終えて国内の安定を図ることが緊急の課題となっていた。 そこで、上下両院の与野党議員と前CIA長官、そして民間から1人を入れて、最終的に委員長には最高裁長官のアール・ウォーレンを指名し、彼は当初司法は行政に介入したくないという理由で固辞したが、ソ連の核攻撃の危険性を訴えるジョンソンに説得され委員長就任を受諾した。
※この「設置までの経緯」の解説は、「ウォーレン委員会」の解説の一部です。
「設置までの経緯」を含む「ウォーレン委員会」の記事については、「ウォーレン委員会」の概要を参照ください。
- 設置までの経緯のページへのリンク