ウォーレン委員会
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ウォーレン委員会(ウォーレンいいんかい、英: Warren Commission)は、1963年11月22日にアメリカ合衆国テキサス州ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件を検証するため、1963年11月29日にリンドン・ジョンソン第36代大統領により設置された調査委員会である。
注釈
- ^ この時点で、大統領暗殺事件は法制度上は連邦犯罪とは見なされず、連邦の司法権で大統領暗殺の訴追が出来ないことを暗殺当日に連邦司法省は確認していた。テキサス州の動きはこのことを前提での動きであった。
- ^ 2006年2月にジェラルド・フォードが死去したことで、メンバーの生存者はなくなった。
- ^ 本人は固辞したが事後承諾の形となった。これは彼がジョンソン大統領の恩師と自他共に認める間柄であったことによる。しかし保守派で人種差別については容認する立場で公民権法に真っ向から反対して、後にジョンソンと袂を分かった。
- ^ これより39年後の2003年11月にテレビ朝日『ニュースステーション』で事件から40年が経って特集コーナーを放送した中で、コナリー夫人は振り返って「ケネディ夫人を傷つけるつもりはありません」と前置きして「あの時、パークランド病院に到着した時に乗っていた車を見たが、車のトランクには大統領の骨も肉片も血も無く、何もありませんでした。」とインタビューに答えている。
- ^ この後、自分の傷の説明を求められて、見た方が早いとして、上半身裸になって傷口を説明した。
- ^ この時にCIAはメキシコ警察の承認のもとにソ連大使館とキューバ大使館の電話を盗聴していた。
- ^ この時に訊問したアーレン・スペクターは、後にこの仕事には間違った男で、巨漢で反射能力は素早くなかったと酷評している。
- ^ これは結果としてスピードダウンして狙撃がやりやすい形になったことで彼自身も苦悩していた。そして後にジャクリーンがこのことを聞いて激怒した。
- ^ 32歳。アイゼンハワー大統領時代の1959年にシークレットサービス警護官となり、翌年11月に大統領夫人付き警護官となる。ケネディ大統領暗殺後もほぼ1年間ジャクリーンの警護を続け、後にジョンソン大統領付きとなり、1967年大統領護衛担当特別捜査官となり、1972年に全護衛部隊の責任者であるシークレットサービス副長官に抜擢された。1975年フォード大統領時代に退職。アイクからフォードまで5人の大統領の警護に関わった。しかし暗殺事件を防げなかったことで罪悪感と挫折感は深く彼を悩ませるが、終生ジャクリーン夫人への尊敬の念を持ち続けた。「ミセス・ケネディ」クリント・ヒル著 参照
- ^ アーレン・スペクターは、もっとも微妙な問題について納得がいく説明であったと述懐している。ただヒル自身もその「何か」を実際にみた訳でなく、「右後部バンパーから落ちた何か」「頭蓋骨の破片・・と思う」という表現で、トランクの上にあったということではなかった。
- ^ 暗殺事件から50年後の2013年にクリント・ヒルは「ミセス・ケネディ」を著して、その本でこの時に飛び散った大統領の血・頭蓋骨の一部・脳の一部が自分にもかかったこと、そして夫人が「大統領の頭の一部」に手を伸ばそうとしていたと書いている。「ミセス・ケネディ」366P クリント・ヒル著 白須清美訳 2013年2月発行 原書房
- ^ キャリコとも呼ばれる。
- ^ アーレン・スペクターは後に医師たちが大統領の遺体を検査しようとしても大統領夫人が傍にいて離れないのでは致し方ないと述べている。
- ^ ベセスダ海軍病院で大統領の司法解剖を行ったヒュームズから、後に「一発の銃弾説」と呼ばれるヒントを得たのがこの訊問であった。しかし奇妙なことにヒュームズは実際の弾を見て余りにも無傷であったので、この弾ではありえないと述べて矛盾している。しかしアーレン・スペクターはこの後に「一発の銃弾説」を強調して、ケネディとコナリーの両者に当たったと主張し、そしてヒュームズも後に肯定することとなった。
- ^ 1963年3月からマリーナと交流が始まり、オズワルドと別居している間、マリーナと子供がペインの家へ身を寄せていた。
- ^ 彼女は義理の娘が暗殺に加担して暗殺後に彼女を警護しているシークレットサービスの警護官も加担しているとまくし立てた。後にフォード下院議員は「我々の仕事は辛抱強く腰掛けて耳を傾けることだった」と述べて彼女の話は支離滅裂で全くイカれていると結論づけている。
- ^ これには反カストロの亡命キューバ人グループも入る。
- ^ このメモの実物は1963年11月24日、オズワルドがルビーに射殺された直後に、ホスティ捜査官自身がFBIダラス支局のトイレに流して処分している。この時はダラス支局は少しでもオズワルドとの関係が明らかになることを恐れていたのである。
- ^ カストロの暗殺を計画したとされているが、マングース作戦にはその他に様々な攪乱計画が立案されていて、必ずしも暗殺計画だけの作戦ではない。
- ^ エスカレンテ将軍は、反カストロである反キューバ革命主義者の裁判がケネディ暗殺の謎を解くと確信している、と語った。しかし犯人が亡命キューバ人であることは断言しないし、したくないとインタビュアーに語っている。
- ^ アイゼンハワー政権時の司法次官補。アール・ウォーレンとは親しい関係にある。
- ^ これには、FBIのフーバー長官がオルニーを嫌って、阻止に動いたと見られている。
出典
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intended to serve as protection for innocent persons who could otherwise be damaged because of their relationship with participants in the case. - ^ Final Report of the Assassination Records Review Board (1998), p.2.(英語)
- ^ “ケネディ暗殺文書、全面公開見送り 180日以内に再検討”. 日本経済新聞. (2017年10月27日)
- ^ “JFK文書公開の判断延期 2021年10月まで”. 産経ニュース. (2018年4月27日). オリジナルの2021年1月2日時点におけるアーカイブ。
- ^ 米バイデン政権、ケネディ暗殺文書の全面公開を延期
- ^ 米国国立公文書館(NARA)、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺に関連する1,491件の記録を公開
- ^ ジョン・F・ケネディ暗殺文書の未公開分がついにネットで公開され誰でもダウンロード可能に
- ^ 米ケネディ大統領暗殺の記録、1万3000点を公開 編集なしで
- ^ “Report of the Select Committee on Assassinations of the U.S. House of Representatives.”. Washington, D.C.: United States Government Printing Office.. p. 44. 1979年3月29日閲覧。
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