オズワルドの不可解な行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:59 UTC 版)
「ウォーレン委員会」の記事における「オズワルドの不可解な行動」の解説
ウォーレン委員会は、いくつかの点でオズワルドの不可解な行動について調査はしたがその後は特に注目することはなかった。 オズワルドが1963年9月にメキシコシティのキューバ大使館にビザの申請をしたが、キューバはオズワルドをCIAの囮かも知れないとして警戒して10月に発行を断られている。その時にキューバ大使館に行って「ケネディを殺してやる」と述べていた。 しかも彼はこの時期にFBIダラス支局のジェームズ・ホスティ捜査官と接触していた。オズワルドのアドレス帳にホスティ捜査官のオフィスの住所と車のナンバーを記していたことをレッドリッチ調査官は確認している。また11月上旬にオズワルドはFBIダラス支局を訪ねて「自分の妻を困らせることはやめてくれ」と警告するメモを残していった。FBIは妻マリーナと実際に接触していてオズワルド自身もダラス支局に足を踏み入れていたのである。ケネディ暗殺事件のわずか2週間前であった。 10月30日にはFBIはオズワルドがダラスのテキサス教科書倉庫で働いていることを知っていた。大統領のパレードのコースが発表されてデイリー・プラザを通り教科書倉庫ビル前を通過することが明らかになったのは11月19日である。 キューバ大使館員のシルビア・ドゥランとオズワルドは親しい関係であった。 反カストロの活動家の娘シルヴィア・オディオは他の反カストロ派の活動家と一緒にオズワルドに会ったことがあると述べている。 これらの話は委員会スタッフも結局はそれ以上の詳しい調査に入らずに終わっている。後に明らかになったことは暗殺事件前年の1962年初めの時点で、移民帰化局以外にCIA、FBI、国防総省、国務省にオズワルドに関するファイルが存在していたという事実である。 「CIA秘録」「FBI秘録」の著者ティム・ワーナーは、フーバーFBI長官もアレン・ダレス前CIA長官(ウォーレン委員会委員)も、1961年のピッグズ湾事件(第1次キューバ危機)以後に密かに進められたカストロ暗殺計画(マングース作戦)を誰一人としておくびに出さないように駄目を押していた、もしその報復として共産主義者の大統領暗殺の陰謀があったとしたら、そしてもしソ連及びキューバが暗殺を命じていたら、そしてアメリカがそれを立証する証拠を一片でも入手したとしたら、新しい世界大戦開戦の合図となっていただろうと述べている。しかし逆に当時キューバの諜報部にいたファビアン・エスカレンテ将軍は2005年1月のインタビューで「オズワルドは元陸軍情報部員であり、CIAの諜報部員である。」として「ケネディは反カストロ派に殺されたのだと思う。」と語り、「オズワルドはケネディ暗殺によってキューバとカストロを糾弾する企てに関与していた。」「反カストロの亡命キューバ人らの足跡は確かに見える。彼らはオズワルドのそばに、ダラスに、そしてメキシコにいた。」「我々が一番恐れたのはアメリカ国内の極右派がカストロがケネディを殺したとしてキューバを攻撃してくることだった」と述べている。そして暗殺事件直後にアメリカ国内の反カストロのキューバへの攻撃が急に抑えられたことは我々には説明ができないこと、ジョンソンがなぜウォーレン委員会を設置して1年も過ぎずに解散したこと、またウォーレン委員会の調査では膨大な量の情報を集めながらその殆どが分析されることがなかったことも付け加えている。
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