ずさんな捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 08:59 UTC 版)
「徳島ラジオ商殺し事件」の記事における「ずさんな捜査」の解説
1954年6月徳島地検は2人を犯人として逮捕したが1人はヒロポン中毒で証言ができず、1人は断固として犯行を認めなかった。そのため起訴できず、停滞する警察の捜査に変わって徳島地検が直接捜査を指揮することになり、「強気の田辺」の異名をとる田辺光夫検事正が責任者となり「無能な警察」にかわって犯人逮捕を目標に掲げた。その結果何ら客観的証拠もないままわずか1ヶ月で「いつまでも内縁の妻の地位であることに不満を抱いた冨士が殺害を決意した」「もみ合いの末自らも傷を負いながら殺害した」と冨士が犯人とされた。 また店員の1人を45日間、もう1人を27日間勾留し店員たちに冨士の犯行を裏付けさせた。2人は「強要されたもので、偽証だった」と後に主張したものの、認められず店員のうち1人はこれを苦に睡眠薬で自殺未遂をおこしている。 さらに裁判において娘・佳子が泥棒を見たと外部犯であることを訴えたが『年令10歳小学4年生の少女である。智力も判断力も劣るのみならず本件のごとき早暁のしかも暗中の突発的事件にあっては見聞の確実ならざることは当然である』と一審の津田裁判長は証言を退け判決に考慮されなかった。 再審請求の段になって検察はそれまで法廷にだされなかった不提出記録22冊を提示したが、その中には布団の上にのこる靴跡の写真が数枚あり外部犯行の可能性を示唆していた。
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