冤罪の訴え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 08:59 UTC 版)
「徳島ラジオ商殺し事件」の記事における「冤罪の訴え」の解説
第一審・徳島地方裁判所は1956年4月18日、冨士に懲役13年の有罪判決を言い渡し、控訴審・高松高等裁判所も1957年12月21日に冨士の控訴を棄却する判決を言い渡した。冨士は上告したが、裁判費用が続かないため1958年5月10日に上告を取り下げ、懲役13年の判決が確定した。 その直後に「冨士に証拠隠滅を依頼された」店員が「検事に強要されて偽証した」と告白し、真犯人を名乗る人物が沼津警察署(静岡県警察)に自首したが、後に不起訴処分となる。冨士は、模範囚として服役しながら再審請求を始めた(第1〜3次再審請求)。1966年11月30日に仮出所。姉弟や市民団体の支援のもと再審請求を続けた。1970年の再審請求では、有罪の決め手となった2人の店員が「富士さんが犯人だと言ったのはウソだった」と語るテレビ放送のテープが新証拠として提出されたが認められなかった。再審請求は続けられたが第5次再審請求中の1979年11月15日、富士は腎臓がんのため、69歳で死去した。 その後、冨士の遺志は姉弟が受け継ぎ再審請求がなされた。第5次再審請求は(姉妹弟への請求者継承にともない、名称は「第6次再審請求」)、1980年12月13日に徳島地裁が再審開始を決定。1985年7月9日に徳島地裁は無罪判決を出した。このときの代理人は林伸豪であった。 無罪の理由は 有罪の決め手となった店員の証言は誘導尋問によって導き出された疑いが強い。 冨士に男性を殺害すべき動機もない。 外部からの侵入者による犯行をうかがわせる証拠が多い。 というもので、捜査機関のずさんな捜査が糾弾された。 1985年12月12日、徳島地裁は冨士の娘に対して、逮捕された1954年8月13日から仮出所した1966年11月30日までの4493日間に7200円を掛けた額である3235万円の刑事補償を支払うことを決定した。
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