冤罪のお詫びで公爵に叙される
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:13 UTC 版)
「ベッドフォード公爵」の記事における「冤罪のお詫びで公爵に叙される」の解説
5代ベッドフォード伯の息子のラッセル卿(儀礼称号)ウィリアム・ラッセル(1639-1683)は、ホイッグ党幹部、反カトリックの強硬プロテスタントとして庶民院で活躍した。そのため淫靡な風潮を好む国王チャールズ2世やカトリックの王弟ヨーク公ジェームズと対立を深めた。 そんな中の1683年6月にライハウス陰謀事件(チャールズ2世やヨーク公を暗殺して、チャールズ2世の庶子でプロテスタントのモンマス公ジェイムズ・スコットを擁立しようとしたとされる計画)が持ちあがった。官憲の捜査の手はホイッグ党幹部に伸び、事件と関係がなかったラッセル卿も冤罪で逮捕された。ラッセル卿は裁判で無罪を主張したものの、結局大逆罪により死刑判決を受けた。父である5代ベッドフォード伯をはじめとする多くの人から助命嘆願が国王に寄せられたものの受け入れられず、7月21日に処刑された(ただしヨーク公が首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を求めたのに対してチャールズ2世はそれを退けて貴族の尊厳を認めた斬首刑で死刑を行わせている)。 1685年、カトリックのヨーク公がジェームズ2世として即位したが、1688年には名誉革命が発生し、ジェームズ2世は王位を追われ、プロテスタントのウィリアム3世とメアリー2世夫妻が新国王に擁立された。この影響で1689年の議会はラッセル卿の大逆罪を否認する決議を出し、その名誉を回復した。ついで1694年5月11日には息子を冤罪にかけたお詫びとして81歳になっていた5代ベッドフォード伯がベッドフォード公爵(Duke of Bedford)とタヴィストック侯爵(Marquess of Tavistock)に叙されたのだった。
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