1689年の議会
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「仮議会 (1689年)」の記事における「1689年の議会」の解説
1689年1月22日、仮議会が開催された。議会はジェームズ2世が何らかの形で王位を退位したのか、あるいは放棄したのか、そして誰が王位を承継すべきなのかについての議論に長時間を費やした。ホイッグ党は社会契約論に言及し、ウィレム3世一人が王位に就くべきであると主張した :314 。一部の急進的なホイッグ党員たちは共和国制を支持したが、大半の者たちは限定された立憲君主制を主張した :317 。トーリー党は、ジェームズ2世の摂政としての復権、あるいはウィレム3世の妻メアリーの単独での女王即位を支持した。サンクロフト大主教と彼に忠実な主教達はジェームズ2世が条件付きで復権することを望んだ :319 。 1月29日、イングランドはプロテスタント国家であり、その教徒だけが王位に就けることが決議され、カトリック教徒達の主張は排除された :126 。ジェームズ2世はローマ・カトリック教徒だった。 2月の初めまでに下院は、ジェームズ2世が「退位」し、王位が空位であることに同意したが、上院はコモン・ローによるとその取扱いは不明であるとして退位を否定し、たとえ王位が空位であってもその場合は自動的に次の代に移譲されるべきであるとして、メアリーの即位を示唆した :327 。 しかし2月6日、メアリーもアンもウィレム3世に代わって統治することに同意しないことが明らかになったため、上院はあきらめた 。妥協案として上院はウィレム3世とメアリーが二人とも王位につくことを提案し、下院はウィレム3世だけが法的な権力を握るという条件で合意した。 議会はジェームズ2世の治世下での国家権力の乱用に対処し、プロテスタントの信教と自由を確保するための権利宣言 (Declaration of Right(英語版)) を策定し、2月12日に確定した。 2月13日、ウィレム3世はウィリアム3世として、メアリーはメアリー2世として、イングランド、及びアイルランドの国王と女王になることが宣言された。王冠の受け入れは権利宣言によるものではなく、彼らが法に従って国を統治するという前提に基づいていた:347 。 1689年2月23日、ウィリアム3世は議会を解散させ新しい議会を招集することで、この会議を定例議会 とし、1689年王位及び議会承認法を可決成立させることで、この仮議会の決議を正規のものとした。
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