経歴と仕事
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週刊朝日などの寄稿をしている、大阪をベースにするジャーナリスト。 国が株主で「国策会社」と呼ばれる、整理回収機構(RCC)初代社長、中坊公平元弁護士の不正な回収手法を告発。 2002年、検察庁の裏金告発直前に逮捕された、元大阪高検公安部長の三井環と親しく、その告発を週刊朝日などで執筆。三井が収監されるときには、「秋霜烈日」の検察バッジを預けられたことを、2010年5月16日にテレビ朝日で放映されたザ・スクープスペシャル 8年目の約束 三井環×鳥越俊太郎で明かす。 2005年、愛媛県警の現職警官として、裏金告発した仙波敏郎とも緊密な関係を有し、告発を展開。その後、仙波が鹿児島県阿久根市の副市長に就任。仙波をスカウトした、前阿久根市長、竹原信一の手法を好まない関係者が仙波から離れる中、継続して支援した。 2007年4月、長崎市長が殺害された(長崎市長射殺事件)とき、当時の安倍晋三総理との疑惑を報じる記事の執筆にかかわったことで、安倍の秘書らから民事訴訟を起こされる。その後、週刊朝日は謝罪し、裁判は和解した。 2010年、郵便不正事件に関係して逮捕された厚生労働省の元局長、村木厚子の刑事裁判では当初から、大阪地検特捜部のずさんな捜査を週刊朝日で連載。村木が無罪判決を受ける前に『私は無実です 検察と闘った厚労省官僚 村木厚子の445日』(朝日新聞出版)を出版する。 2011年3月の福島第一原発事故後、ジャーナリストとして初めて同原発敷地内での取材を継続して行い、週刊朝日に事故現場の生々しい写真を掲載するなど、東京電力本社や日本政府と異なる角度から、内部の詳しい状況を伝えた。 週刊朝日2012年10月26日号に佐野眞一と共同執筆した連載記事「ハシシタ 奴の本性」が差別的な内容であるとして人権団体や読者などから激しい抗議が寄せられた(週刊朝日による橋下徹特集記事問題)。今西は当初、twitterにおいてこの記事に対する応援に感謝するツイートを行なっていたが、11月2日〜4日にお詫び行脚と取材でtwitterのチェックがままならないことをツイートした後、この件に触れることはなくなった。ブログでは、同年10月25日に実態は共同執筆ではなく、佐野眞一のカバン持ち、運転手であり、内容は知らなかったが、記事にかかわった責任の一端がある等と述べ謝罪したが、以降はこの件に触れることはなく、翌月にブログを移転させた。
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経歴と仕事
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「木原太郎 (物理学者)」の記事における「経歴と仕事」の解説
出身はその頃の東京市京橋区で、現在の東京駅八重洲口前の地に生まれた。そして地元の小学校、旧制府立高等学校(7年制)を経て1937年に東京帝国大学理学部物理学科に入学。在学中に1年間を数学科の授業受講に費やして年限3年の(旧制)大学に4年をかけ、1941年3月に卒業した。 卒業後は大学院に残って小谷正雄教授の指導を受け、原子・分子の物理学を研究した。しかし、当時は戦時下で指導教官の小谷も極超短波の研究をしていた時期だったので、木原もその一環として導波管内のマイクロ波の挙動を研究し、その成果を戦後にまとめて単行本「導波管」(修教社、1948)として出版した。そしてこれが木原の学位論文となった。 一方その間、1943年に同大学理学部助手に採用され、戦後になって 1949年に助教授に昇進、1959年に教授に昇進した。 木原の研究の本領は分子間力ないしは気体論にあり、それはライフワークとも言うべきものである。実際、1943年に気体の第3ビリアル係数を具体的に計算したのを始めとして、気体の状態方程式や輸送係数をもちいての分子間力の決定、凸体のコアを持つ分子間ポテンシャルの創始、自力で結晶する分子模型の発明など、数多の創意あふれる仕事をして、それらをまとめて岩波全書の1冊「分子間力」(1976)を出版した。なお、この時期にある機縁で2次元結晶の相転移現象を研究したモデル(s色イジング模型)は現在 Potts-Kiharaモデルと呼ばれている。 1950年代後半になって日本でも熱核融合研究の機運が生まれ、その中で木原はクーロン力を分子間力とする気体としてプラズマの研究を始め、まずはプラズマの基本的性質に関する理論をとりまとめて岩波講座「現代物理学」の1冊「プラズマの物理学」(1959)を著した。そして多くの研究を行ったが、もっとも関心をもっていたクーロン力の衝突断面積の発散の問題を解決したのち、1967年頃から研究の重心を宇宙論にうつした。なお、日本の熱核融合研究の初期、その研究体制づくりにおいても日本学術会議核融合特別委員会幹事として大いに貢献した。 宇宙論においてはまず膨張する宇宙において物質が凝集して銀河をつくるための密度のゆらぎの閾値を決定した。そして、宇宙で重力によって相互作用する銀河の体系の研究に2体相関関数を導入し、また計算機シミュレーションを行ってその群がり方の特徴をよく再現出来ることを示した。これらの先駆的研究により1998年に東レ科学技術賞を受賞した。 1977年に東京大学教授を定年退官した後、電気通信大学において5年間、つづいて明星大学において10年余にわたり教授を務めて教育に力をいたした。特に明星大学では学生を指導して計算機シミュレーションを行い、相転移現象の様子などを一緒に調べて楽しんだ。そしてその結果をまとめて「Cによる統計物理」(東京大学出版会、1993)として出版した。 そのほかにも木原には「化学物理入門」(岩波全書、1978)、「分子と宇宙」(岩波新書、1979)、「幾何学と宇宙」(東京大学出版会、1983)、「原子・分子・遺伝子」(東京化学同人、1987)などの一般向け著書があり、いずれも木原の自然観の現れである。
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