経歴と作品概論
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1934年、徳島に生まれる。父親は千葉大学で化学を教えた人物。2歳の時に千葉県へ引っ越し、現在も千葉県八千代市在住。 戦争末期に疎開を行った際、2回に分けて荷物を運んだが、2回目の荷物を運び出す前に空襲の被害を受けるが 1回目に運んだ荷物の中にピアノが含まれていたことが、その後の彼の人生を決定づけた。 中学時代、学問、芸術、スポーツなどあらゆることに熱中するが、それらの中で音楽に最も惹かれるようになる。千葉大学文学部に入学後、法経学部法律政治科に転科。学内のオーケストラ(千葉大学管弦楽団)でヴィオラを弾くが、やがて才能が周囲に認められ、大学3年より指揮をするようになる(以後、1995年まで指揮を続けた)。またその頃、東京交響楽団の定期演奏会で聴いた、ヘンツェの交響曲第2番に大きな感銘を受け、作曲家を志す。大学4年の時、音楽を志す決意を完全に固め、半年で受験準備をして東京藝術大学楽理科に入学した。柴田南雄、長谷川良夫、小泉文夫に師事し、1961年に卒業した。特に柴田と小泉の2人からは多大な影響を受けた。 作曲家としての正式デビューは、1961年の「金管群のための3つの次元」。初期は、譜面の中に演奏者が自主的に演奏部分や演奏法を選択できる部分を盛り込み、演奏者の自発性を引き出すことを試みる。この頃の代表作としては、「声のオートノミー」(1964年)、「オーケストラ1966」(1966年/1973年改訂)などがある。当時の作品のサウンドは、師の柴田南雄に逆に影響を与えたとされる。 東京藝大在学中、小杉武久と出会い、学内でヴァイオリンとチェロで即興演奏を始める。やがて塩見允枝子、刀根康尚、戸島美喜夫、柘植元一、武田明倫が加わり、卒業後「グループ音楽」という集団を結成する。コンサートホールや野外などあらゆる場所で、ジョン・ケージばりの集団音楽パフォーマンスを繰り広げた。当時、藝大にはオノ・ヨーコも出入りしており、ステージパフォーマンスでのコラボレーションの経験がある。 1960年代後半、米国より渡辺貞夫が帰国し、ジャズ理論講座を開催することになると、彼はこれを皆出席で受講し、ジャズ理論を完全にマスターする。そしてジャズ作品を次々に発表し始め、1973年に発表されたビッグバンドによる「ジャズ・オーケストラ'73」や、1975年に発表された「ジャズ・オーケストラ'75」は、日野皓正、渡辺香津美、中村誠一、村上秀一らジャズ界のトッププレーヤーたちの手により演奏され、迫力あるドライブ感と大音響で聴衆を圧倒した。特に「'73」は、現代音楽の手法を採り入れた、当時としては非常に破天荒な作風であり、ジャズ、現代音楽の両分野で多大な反響を呼んだ。 1974年、ロックフェラー財団からの招聘で、武満徹、一柳慧、高橋悠治と共に1年間米国へ留学する。米国の音楽家との交流で「純血文化はやがて淘汰され、これからの世界を席捲していくのは混血文化である」との確信を得、クラシック、現代音楽、ジャズなど様々なジャンルの技法を一つの作品の中に混在させ、統合を図る「ポスト・モダン」的作風へと結びつき、帰国後に発表の作品に反映される。留学後、自らが日本人であることを意識するようになり、お囃子や和太鼓などの伝統音楽の素材や楽器が高い頻度で作品に登場するようになる。 1987年、1961年に構想され、様々な作品で試みたクラシック、現代音楽、ジャズ、ロックなどの技法が、縦横無尽に駆使されている3時間の大作『交響的変容』4部作が完成する。第1部から第3部までは通常のコンサート会場で演奏されたが、第4部「合唱とオーケストラの変容」は、演奏時間2時間、演奏者数700人を要する為、上演の機会はないと諦めていたが、バブル経済最盛期であったこと、千葉県の幕張メッセの杮落としで上演された「第3部」が好評を呼んだことなどから、地方自治体援助のもと、大手企業から協賛金が寄せられ、1992年9月20日、幕張メッセで全4部作の上演が実現された。(岩城宏之指揮、東京交響楽団、東京混声合唱団、栗友会合唱団等)。 その後は、叙情性が増し、歌うような旋律が頻繁に出現するようになる。交響詩『夏』(1989年)交響曲第2番『佐倉』(1991年)歌劇『ミナモ』(1991年)などにその特徴が顕著に現れている。1990年代よりミュージカルを作曲、八千代市の子供のための「泣きたくなったら笑うんだ」(1993年、岡本おさみとの共作)「ミュージカルシアターヒラソル」のための「イノセント・ムーン」(1999年、空矢庵(金井誠のペンネーム)台本)などが誕生する。ミュージカルから生まれた親しみやすいメロディーは、交響曲第4番(2003年)や千葉室内弦楽合奏団のために作曲した作品にも反映されている。 1955年から1995年まで、千葉大学管弦楽団で、ベートーヴェン、ブラームス、マーラー等の作品を指揮、1968年には、千葉県初演のベートーヴェンの「交響曲第9番」指揮した。 1960年代後半から1999年まで、千葉大学教育学部で教鞭を執りながら、民俗音楽、流行歌を研究した。東京藝術大学講師も務める。千葉大学退職後、静岡文化芸術大学教授、武蔵野美術大学講師を務めた。千葉大学での門下生には青木愛がいる。
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