エダルジ事件
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「エダルジ事件」の解説
その最初の事件はバーミンガムに近いグレイト・ワーリー(英語版)で発生した「ジョージ・エダルジ事件」だった。これは1903年中、6か月にわたって同地の家畜の牛馬たちが何者かによって腹を裂かれて殺害された事件だった(傷口は浅かったものの長く、家畜たちは出血多量で死んでいた)。 地元警察から疑われたのは、インド系の弁護士ジョージ・エダルジだった。エダルジはこれまでも散々人種差別に晒され、地元警察や住民から忌み嫌われてきた人だった。上記の事件が発生するとエダルジを犯人と告発する怪文書が地元警察や住民に出回った。警察はこの怪文書もエダルジの自作自演と判断し、エダルジの自宅を家宅捜索した。そして血痕らしき小さなシミと馬の毛がついたスーツが発見されたとして、エダルジを家畜殺害の容疑者として逮捕した。怪文書の筆跡もエダルジの筆跡であると鑑定された。裁判にかけられたエダルジは有罪判決を受け、石切場での7年の重労働刑に処された。 しかし警察が依頼した筆跡鑑定官は別の事件の裁判でもいい加減な鑑定をしたことで悪名高い人物であり、しかもエダルジが石切場で重労働させられている間にも家畜が殺される事件が発生したため、エダルジ冤罪説が強まり、内務省に再審請求が殺到した。内務省は1906年10月にエダルジを仮釈放したものの、仮釈の理由を説明せず、有罪判決を取り消したわけではなかった。このやり口に憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えた。 これを読んで事件に関心を持ったドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察し、またエダルジ本人とも会見した。ドイルはエダルジと会った瞬間に彼の無罪を確信したという。ドイルがエダルジを訪問したとき、エダルジは眼を近づけて横にずらすように新聞を読んでいるところだったが、かつて眼科の勉強をしていたドイルは、この様子を見て彼がメガネでも矯正できないほどの強度の近視かつ乱視だと見抜いたという。そのため彼が闇夜の野原の中から家畜場や家畜の位置を特定して傷つけることなど不可能と考えたのだった。 ドイルは証拠の洗い直しを行い、警察のずさんな捜査の実態を次々と暴いた。エダルジが書いたと鑑定された怪文書を別の筆跡鑑定人のところに持ち込んだ結果、エダルジの筆跡ではないという鑑定結果を得られた。上着の馬の毛については、その衣服が警察署へ運ばれる途中に馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけであると突き止めた。また、同じく衣服に付着していた血痕らしきシミについては「どんなに腕のいい暗殺者でも暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つの血痕しか付かないなどということはあり得ない」と問題視しなかった。 著名な作家コナン・ドイルが事件を出版したことで事件への国内外の注目は大いに高まった(アメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』は一面で報道している)。そのためイギリス政府としてもこの事件をいい加減なままにしておくことはできなくなり、1907年春には事件の再調査を行う「エダルジ委員会」が設置された。しかしそのメンバーには警察に都合のいい人物が入れられていたため、委員会は家畜殺しについてエダルジの無罪を認めつつも、怪文書を書いた件については有罪を覆さなかった。その結果、エダルジは特赦を受けつつ、「ある程度までエダルジの責任」とされて、3年間の重労働刑についての刑事補償を認められなかった。ドイルはこれにがっかりし、役人のかばい合い体質を批判するとともに、この事件はイギリス裁判の汚点となるだろうと主張した。
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