本写本の伝来
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「甲南女子大学本源氏物語」の記事における「本写本の伝来」の解説
本写本は甲南女子大学が1973年(昭和48年)に京都の古書店から購入したもので、教授であった真下三郎の調査によって河内本の本文を持つ写本であるとされて、同大学の図書館報にも掲載された。その後詳細な調査は長年行われることなく同大学図書館の公式サイトが開設されその中で「同図書館所蔵の貴重書」として紹介された際にも「河内本」とされたままであったが、2004年(平成16年)10月に総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻・国文学研究資料館の博士後期課程の大学院生であった大内英範が2日間にわたって詳細な調査を行った結果本写本の本文は河内本ではなく別本であり、さらに別本の中でも特異な本文を持つ貴重な古写本であることが明らかになった。このときの調査結果について当初大内は甲南女子大学の紀要か論集に投稿することを大学側に問い合わせたが、紀要の掲載条件が「学校関係者のみ」であるとの理由で掲載許可が下りなかったため、2005年(平成17年)5月に市販された論文集『古代中世文学論考 14』の中に「伝為家筆梅枝巻とその本文」として掲載刊行された。これにより本写本は一部の研究者の間では知られるようになっていた(なお、このとき同時に調査された紅葉賀巻については翌年2005年(平成17年)11月に刊行された『源氏物語別本集成 続』第2巻に校合本文の一つとして収録された。)。 さらに2008年(平成20年)10月に源氏物語千年紀の中で大学当局が写本の存在がマスコミ向けに公表され、同年11月4日から7日まで甲南女子大学図書館において同図書館で毎年秋に開催されている貴重書展のテーマを「源氏物語」とし、その目玉展示品として一般公開されたために広く注目されるようになった。このときの発表は発表された媒体によって多少の異なりはあるものの、「甲南女子大学の日本文学担当の米田明美教授が「源氏物語千年紀」を記念した書展を開くため、書庫で保管されていた梅枝巻を再読していた際にこれまでの写本と異なる記述があることに気づいた。(中略)米田明美教授は「まさか別本では」と胸が高鳴ったという。」といったもので、この報道について国文学研究資料館の伊藤鉄也は「過去に大内英範という大学外部の研究者によってすでに詳細に調査され研究成果として発表されていることに全く触れておらず、学内の研究者によってはじめて調査・発見されたかのような発表を行っている」ことを批判し「大内英範君が成した成果を踏まえた公開にすべきでした」「研究成果を無視したり、踏みにじってはいけないと思います」「たった一冊の『源氏物語』の古写本を、大学入試を控えた時期に、世間の注目を集めるための道具として利用することに疑念を持ちます」と述べている。 その後2008年(平成20年)に米田による翻刻文が『甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編』第45号に掲載され、2010年(平成22年)に紅葉賀と合わせて翻刻や解説を加えた影印本が勉誠出版より出版された。
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本写本の伝来
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大沢家の伝承によると、本写本は「豊臣秀吉が南朝の皇胤(後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王につながる)とされる旧家大沢家の第17代当主大沢主計頭護久に下賜された」というが、それを証明する記録は現存せず、その詳細な経緯も不明である。当時大沢護久は直接には大和郡山に居城を構えていた秀吉の弟豊臣秀長に仕えていたとされている。 本写本は、明石の巻(伝承筆者は西行)など古い時代の形態を備えている巻も多いが、近衛信尹(1565年(永禄8年) - 1614年(慶長19年))が外題を記しているとみられるなど、大沢家に入る少し前、おそらくは豊臣家のもとにあった時期に欠けた一部の巻を補写され、全巻の表装等を整えられたとみられる。 これ以後本写本は大沢護久の子孫である奈良の旧家大沢家の所有となって伝えられてきた。1661年(寛文元年)から1707年(宝永4年)にかけて古筆鑑定を受けており現在54帖中16帖に古筆了栄、古筆了仲による鑑定が残っている。 1887年(明治20年)5、6月ころ、江戸時代末期から明治時代の古典研究家小杉榲邨は、かつて教部省考証課の同僚であった大沢家出身で江戸時代末期から明治時代中期にかけて活躍した国文学者大沢清臣(1833年(天保4年) - 1892年(明治25年)を奈良県添下郡都跡村七条(現在の奈良市)の大沢家に尋ねた。その際大沢家所蔵の源氏物語の写本も見てはいたものの「冊数を数えることも無かった」という。 「奈良朝報」1907年(明治40年)6月11日には「大塔宮の後胤」とする大澤家の紹介記事が掲載され、翌日1907年(明治40年)6月12日の「大阪朝日新聞」には「大澤家の宝物」とする記事が掲載された。同記事には大沢家に伝来している「豊太閤より賜りし源氏物語の写本」について簡単ながら触れており、「黒塗金字の箱入り」などと説明を加えられている。 大沢清臣の甥である大沢護忠(管二)が1907年(明治40年)11月に小杉榲邨のもとに本写本を持ち込んで鑑定を依頼しており、小杉の鑑定の覚書『鑑定筆記』(全10巻、題は巻によって『鑑定雑記』や『鑑査筆記』となっていることもある。現在は天理図書館所蔵。)の1907年(明治40年)11月に 「大和国七条村、薬師寺近処、大沢管二、清臣の甥、源氏物語四五帖携帯、祖先豊公よりいただきしものなりとて、極あるもの又なきもの多し、古筆」(11月21日条) 「大沢管二所蔵源氏物語寄合書、時代不同」(11月26日条) と2回にわたって「大沢管二が持ち込んだ源氏物語の古写本を鑑定した」旨の記述が存在する。この「源氏物語四五帖」という記述については単なる54帖の書き誤りであるという可能性とこのとき大沢管二が小杉榲邨のもとに持ち込んだのが54帖中45帖のみであったという可能性があると考えられている。 この時期大沢家では小杉榲邨に始まり美術研究家で日本美術院の結成時のメンバーであった前田香雪(夏繁)、東京美術学校(現東京藝術大学)の校長であった正木直彦、美術史家の今泉雄作、国文学者の池邊義象、観山長泰らさまざまな人物に本写本の鑑定を依頼しており、これらの鑑定書は現在も本写本と共に保管されている。さらに大沢家ではそれらの鑑定書のいくつかをまとめて『錦上花』と題して本にして印刷し、少部数ながらも周囲に配布していたと見られる。 このとき大沢護忠から鑑定を依頼された人物の一人である池邊義象は、自身が源氏物語の本を出版した際にその巻頭に本写本の写真一葉を「横笛(後醍醐天皇宸筆)原本大和大澤氏蔵」として掲載しており、その写真について「大沢護忠氏提供」との説明を加えている。またこの他に佐佐木信綱も「大和の大沢氏本を実見した」としている。 その後1929年(昭和4年)頃に池田亀鑑が後に校異源氏物語及び源氏物語大成として結実することになる源氏物語校本作成のための写本調査の一環として本写本を調査している。しかし、このときの調査は何らかの事情で橋姫以下が未了のまま中断し、再調査も不可能であったらしい。また池田は、当時から本写本と共に保管されていたと考えられる、小杉榲邨ら多くの人物による鑑定書の存在には一切触れていない。これは、大沢護忠が写本そのもの以外は不要との判断の下に、鑑定書を池田には見せなかったためではないかと推測されている(このときの調査は、池田夫妻が一週間滞在した奈良の江戸三旅館に大沢護忠が少しずつ持ち込んだ写本を調べるという形で行われた)。結局池田は橋姫以下の調査が出来ないままに「諸般の事情により調査を中断せざるを得ず、再調査も不可能であったため、校異編に採用することを控えた」として調査を行った部分の本文についても校異源氏物語や源氏物語大成には採用することなく、戦後になって出版した『源氏物語大成研究編』の「現存主要諸本の解説」の中でわずかに触れるにとどまっている。 その後、本写本は大沢家を離れ、数十年間にわたって行方不明とされてきた。 2005年(平成17年)11月、所有者の依頼により当時国文学研究資料館の館長であった伊井春樹が鑑定することになり、数十年ぶりに大沢本の存在が確認される。伊井が2008年(平成20年)7月21日大阪府堺市の大阪府立大学において「幻の大沢本源氏物語」と題して講演したことにより、ほぼ同時期に公開された飯島本とともに大沢本がマスコミに取り上げられた。当初は「現段階で公開の予定はない。」とされたが後に本写本の管理が宇治市源氏物語ミュージアムに委託され、所有者と協議のうえ公開されることになり、2009年(平成21年)10月1日から11月29日までの間宇治市源氏物語ミュージアムで大沢本が展示された。
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本写本の伝来
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「従一位麗子本源氏物語」の記事における「本写本の伝来」の解説
前述のように、勅撰集に残る和歌によれば、本写本は源麗子がその子孫に伝えるために作ったものであり、実際に源麗子が意図した通りにそのまま藤原摂関家に伝来したと考えられる。鎌倉時代初期には源親行ら河内方によってその証本たる現在河内本と呼ばれている本文を作るのに参考にされているが、この時点でこの写本が誰の元にあったのかは明らかではない。また池田亀鑑は無名草子に引かれた本文がこの従一位麗子本の系統であると考えられると指摘している。その後室町時代初期に本写本が源麗子の子藤原師通から数えて10代目の子孫にあたる二条良基(1320年(元応2年)-1388年(南朝:元中5年、北朝:嘉慶2年))のもとにあり、同人から一世源氏である四辻善成(1326年(嘉暦元年)-1402年(応永9年))に譲り渡されたと見られる記録が存在する、四辻善成はその著作『河海抄』において本写本の校異が4個所取り上げられている。また河海抄には津守国冬筆本源氏物語の桐壷の巻がこの従一位麗子本を元にしたものであるとの記述がある。ただし四辻善成が河海抄において取り上げている本写本の校異は桐壷と帚木の2帖に限られるため、このとき四辻善成の手許にあったのはこの2帖だけであろうと考えられている。さらに『類聚抄』の記事によれば四辻善成はもともと一条家に伝来していた「京極北政所自筆水源小巻帚木一巻」を二条良基から受け取って手許に置いていたが、1397年(応永4年)9月24日に二条良基の子一条経嗣(1358年(南朝:正平13年、北朝:延文3年) - 1418年(応永25年))に源氏物語の講義をした際に返却したとの記録があり、「水源」と呼ばれていることから現在では失われてしまった河内方の注釈書「水原抄」のことであると理解されることの多かったこの記事について、小川剛生は「本写本『従一位麗子本』の伝来についての記録であろう」としている。一条経嗣の孫にあたる奈良興福寺の大乗院門跡であった尋尊大僧正(1430年(永享2年)-1508年(永正5年))は、その日記「尋尊大僧正記」の1478年(文明10年)7月28日の条において、源氏物語について、源氏物語のおこり・主要な伝本・主要な注釈書・源氏物語の巻序と年立などについて触れているが、主要な伝本について触れている中でこの従一位麗子本を「一条家の相伝本である」としている。ただ、尋尊が書き記しているように本写本が「一条家の相伝本である」ことが事実であったとしても、それがいつ時点のことを指しているのか(またはいつまでのことを指しているのか)は明らかでなく、1467年(応仁元年)に応仁の乱の勃発してまもなく一条室町にあった一条家の邸宅とその書庫「桃花坊文庫」が焼失しており、その後二条良基の三代目の子孫であり尋尊の父である一条兼良(1402年(応永9年)-1481年(文明13年))が奈良に居住していた息子尋尊のもとに身を寄せてから著した源氏物語の注釈書『花鳥余情』においては「定家卿の本」・「行能自筆の親行か本」・「為相卿が本」といった写本に触れていながらこの「従一位麗子本」については触れていないため、本写本は応仁の乱の戦火の中で失われたのであり、尋尊の言う「一条家の相伝本である」とはこれが書き記された時点のことではなく、かつて本写本が存在したころのことを述べているとする見方もある。そしてこれ以降のこの写本の動向を示す記録は発見されていない。
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本写本の伝来
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阿仏尼の手による源氏物語の写本が存在することは、古くは『紫明抄』・『原中最秘抄』らに触れられている。ただし、本写本の南北朝時代から室町時代にかけての所在は一切不明である。この写本が伏見宮家に伝えられていたことから、阿仏尼や飛鳥井雅有の時代に伏見天皇に献上されたか、ないしは、後に冷泉家、もしくは飛鳥井家からゆかりの伏見宮家に献上されのではないかとも考えられる。 本写本は江戸時代以来紀州徳川家のもとにあったため「紀州家本源氏物語」・「紀州徳川家旧蔵本源氏物語」等とも呼ばれていた。21世紀に入って本写本の現物に対する詳細な調査が行われるまでは、本写本は代表的な河内本とされている尾張徳川家に伝えられていた「尾州家河内本源氏物語」などと同様に、徳川家康からその死後御三家に譲り渡されたいわゆる「駿河御譲本」のひとつであると考えられていた。しかし本写本の上掛けの表書きによって本写本はもともと伏見宮家に伝来していたものであり、それが1657年(明暦3年)伏見宮貞清親王の娘安宮照子が紀州徳川家第二代藩主徳川光貞のもとに降嫁した際に嫁入り道具のひとつとして紀州徳川家に持参したものであることが明らかになった。 本写本は明治時代に入ってからは、紀州徳川家が東京麻布区飯倉に設けた南葵文庫の中に置かれ、研究者に対しても広く公開されていた。この時期(1926年(大正15年/昭和元年)とされる)に佐佐木信綱及び武田祐吉によって活字本に校異を書き込む形での調査が行われ、いわゆる「武田校合本」が作成されたと考えられる。山岸徳平はこの「武田校合本」を三谷栄一を介して借用したとされ、「山岸採録本」を作成したのち、これをもとにいくつかの研究を発表している。 関東大震災の後、南葵文庫の管理が困難になったこと等からこの時の当主である徳川頼倫によって、この文庫に含まれていたほとんどの書籍は東京帝国大学に寄託され、東京帝国大学図書館の南葵文庫に所属することになったが、本写本はその中に含まれていなかった。後に明らかになったところによると、本写本は当時この文庫の司書を務めていた文献学者の高木文の管理下にあり、数冊がサンプルとして、さる研究者(武田祐吉とされる)に貸与され、返却された後はこれらが高木の所蔵となっていた。そのため本写本は「高木本源氏物語」の名前で呼ばれることもある。 その前後、写本本体は、1927年(昭和2年)4月の紀州家所蔵品の一度目の売立の際、当時、横浜在住で、後に神戸オリエンタルホテルに長期間居住したことで知られる英国籍のインド人貿易商にして、和時計と蒔絵収集家のモーデ(Naoroji Hormusji Mody, 1873-1944. 「モディ」とも呼ばれる)の手に渡った。池田亀鑑は、モーデは写本そのものに興味があったのではなく、写本が入っていた箪笥箱に描かれた蒔絵に関心があったと記している。本写本がモーデの手にあった時期に、池田亀鑑はモーデに対して写本の調査を願い出たが、手紙を出しても返事も貰えずにいた。ようやく、1930年(昭和5年)に許可が得られ、松田武夫を伴って、大阪での平瀬本の調査の直後、その足で神戸に赴いて面会を求めたが、モーデの気紛れから、会うことも叶わず、結局「きわめて屈辱的な扱いを受けた上」に、調査することが出来なかったことを、後年、回想している。モーデは、戦時中、当局によって軟禁状態に置かれたまま、1944年(昭和19年)2月に死去した。池田亀鑑はこの写本について、「戦火を免れたのだろうか。いまどこにあるのだろうか。」と述べている。これに対して、山岸徳平はこの写本を「あるところから聞いた情報」として「大阪か神戸の住友銀行の倉庫にあるらしい」と述べていたが、以降のことは不明であった。最近、その後の詳細が久保木秀夫の調査によってようやく明らかとなった。久保木によると、1944年(昭和19年)2月のモーデの死去後、敵性資産として住友銀行が管理し、森本倉庫に置かれていたが、1945年(昭和20年)の神戸大空襲で灰燼に帰したであろうと推測している。 この「幻の写本」は、戦後から1990年代に至るまで、武田祐吉、三谷栄一、室伏信助、伊藤鉃也といったさまざまな学者によって、長年この写本の行方を追い求める努力は続けられたが、その行方は明らかにはなっていなかった。2002年(平成14年)時点での伊藤鉃也による本文研究の論文にも「現在の所在は不明」との記述がある。 ところが、それより30年以上前、1966年(昭和41年)5月に開催された古書展に東京本郷の古書店「琳浪閣書店」が出品した帚木巻1帖のみの源氏物語の古写本を、当時、東洋大学教授であった吉田幸一が見出だし、東洋大学付属図書館が購入して、その所蔵とした。この「帚木巻1帖のみの源氏物語の古写本」こそが、高木文架蔵となって難を逃れた、まさに「幻の写本」たる伝阿仏尼本の中の一冊なのであった。この写本が東洋大学の所蔵になって間もなく、かつて池田亀鑑門下生にして、源氏物語を中心とした中古文学の専門家であり、同大学の教授であった石田穣二による簡単な調査報告が行われていたものの、この報告が掲載されたのが「図書館ニュース」という基本的に東洋大学の学内でのみ配布されるだけの出版物であったことから「当時の学会の反応はほとんど無かった」という状況であって、一般の源氏物語の研究者にはこの後も永く知られないままであった。石田穣二は、時期を見て本写本の詳細な調査をするつもりであったらしく、その後明融本帚木巻の本文分析を行った論文を自身の論文集に収録した際に付記した後記に「なほ帚木の巻については、紀州徳川家旧蔵の伝阿仏尼筆本(鎌倉中期の古写本。東洋大学蔵)を調査する機会があった。純度の高い青表紙本で、本論の記述を補強すべき材料に富むが、この本の紹介は別の機会に譲りたい。」と述べている。しかし、石田穣二はその作業にとりかかることのないまま、1995年(平成7年)に東洋大学を退職し、2003年(平成15年)5月に死去してしまったため、本写本は、所蔵先からも、すっかり忘れ去られた存在になってしまっていたようである。 しかし、1990年代半ば、東洋大学の所蔵する源氏物語の一写本が、世に言う伝阿仏尼筆本であろうことを前提とした学会報告が上原作和によってなされるなど、言わば「再発見」されて以降、ようやくこの写本に関する本格的な研究が始まったと言える。その後、浜橋顕一・大内英範・久保木秀夫らによって、本写本の伝来や本文についての極めて詳細な研究が行われるようになり、源氏物語諸本中、研究の進展が最も顕著な写本となった。 2008年(平成20年)、勉誠出版より、オールカラーの影印ならびに翻刻本が出版されている。
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