本写本の伝来とは? わかりやすく解説

本写本の伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/25 16:36 UTC 版)

甲南女子大学本源氏物語」の記事における「本写本の伝来」の解説

写本甲南女子大学1973年昭和48年)に京都古書店から購入したもので、教授であった真下三郎調査によって河内本本文を持つ写本であるとされて、同大学の図書館報にも掲載された。その後詳細な調査長年行われることなく同大図書館公式サイト開設されその中で「同図書館所蔵の貴重書」として紹介された際にも「河内本」とされたままであったが、2004年平成16年10月総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻国文学研究資料館博士後期課程大学院生であった大内英範が2日間にわたって詳細な調査行った結果写本本文河内本ではなく別本であり、さらに別本中でも特異な本文を持つ貴重な古写本であることが明らかになった。このときの調査結果について当初大内甲南女子大学紀要論集投稿することを大学側問い合わせたが、紀要掲載条件が「学校関係者のみ」であるとの理由掲載許可下りなかったため、2005年平成17年5月市販され論文集古代中世文学論考 14』の中に「伝為家筆梅枝巻とその本文」として掲載刊行された。これにより本写本一部研究者の間では知られるようになっていた(なお、このとき同時に調査され紅葉賀巻については翌年2005年平成17年11月刊行された『源氏物語別本集成 続』第2巻校合本文一つとして収録された。)。 さらに2008年平成20年10月源氏物語千年紀の中で大学当局写本存在マスコミ向けに公表され同年11月4日から7日まで甲南女子大学図書館において同図書館毎年秋に開催されている貴重書展のテーマを「源氏物語」とし、その目玉展示品として一般公開されたために広く注目されるようになった。このときの発表発表され媒体によって多少異なりはあるものの、「甲南女子大学日本文学担当米田明美教授が「源氏物語千年紀」を記念した書展を開くため、書庫保管されていた梅枝巻を再読していた際にこれまでの写本異な記述があることに気づいた。(中略米田明美教授は「まさか別本では」と胸高鳴ったという。」といったもので、この報道について国文学研究資料館伊藤鉄也は「過去大内英範という大学外部研究者によってすでに詳細に調査され研究成果として発表されていることに全く触れておらず、学内研究者によってはじめ調査発見されたかのような発表行っている」ことを批判し大内英範君が成した成果踏まえた公開にすべきでした」「研究成果無視したり、踏みにじってはいけないと思います」「たった一冊の『源氏物語』古写本を、大学入試控えた時期に、世間注目を集めるための道具として利用することに疑念持ちます」と述べている。 その後2008年平成20年)に米田による翻刻文が『甲南女子大学研究紀要. 文学文化編』第45号に掲載され2010年平成22年)に紅葉賀合わせて翻刻解説加えた影印本勉誠出版より出版された。

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本写本の伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 23:48 UTC 版)

大沢本源氏物語」の記事における「本写本の伝来」の解説

大沢家伝承によると、本写本は「豊臣秀吉南朝皇胤後醍醐天皇皇子大塔宮護良親王につながる)とされる旧家大沢家第17代当主大沢主計頭久に下賜された」というが、それを証明する記録現存せず、その詳細な経緯不明である。当時大沢護久は直接には大和郡山居城構えていた秀吉の弟豊臣秀長仕えていたとされている。 本写本は、明石の巻(伝承筆者西行)など古い時代形態備えている巻も多いが、近衛信尹1565年永禄8年) - 1614年慶長19年))が外題記しているとみられるなど、大沢家に入る少し前、おそらくは豊臣家のもとにあった時期欠けた一部の巻を補写され、全巻表装等を整えられとみられる。 これ以後写本大沢護久の子孫である奈良旧家大沢家所有となって伝えられてきた。1661年寛文元年)から1707年宝永4年)にかけて古筆鑑定受けており現在54帖中16帖に古筆了栄、古筆了仲による鑑定残っている。 1887年明治20年5、6月ころ、江戸時代末期から明治時代古典研究小杉榲邨は、かつて教部省考証課の同僚であった大沢家出身江戸時代末期から明治時代中期にかけて活躍した国文学者大沢清臣(1833年天保4年) - 1892年明治25年)を奈良県添下郡都跡村七条現在の奈良市)の大沢家尋ねたその際大沢家所蔵源氏物語の写本見ていたものの「冊数数えることも無かった」という。 「奈良朝報」1907年明治40年6月11日には「大塔宮後胤」とする大澤家紹介記事掲載され翌日1907年明治40年6月12日の「大阪朝日新聞」には「大澤家宝物」とする記事掲載された。同記事には大沢家伝来している「豊太閤より賜り源氏物語の写本」について簡単ながら触れており、「黒塗金字箱入り」などと説明加えられている。 大沢清臣の甥である大沢護忠(管二)が1907年明治40年11月小杉榲邨のもとに本写本持ち込んで鑑定依頼しており、小杉鑑定覚書鑑定筆記』(全10巻、題は巻によって『鑑定雑記』や『鑑査筆記となっていることもある。現在は天理図書館所蔵。)の1907年明治40年11月に 「大和国七条薬師寺近処、大沢管二、清臣の甥、源氏物語四五携帯祖先豊公よりいただきものなりとて、あるもの又なきもの多し古筆」(11月21日条) 「大沢二所源氏物語寄合書時代不同」(11月26日条) と2回にわたって大沢管二が持ち込んだ源氏物語古写本鑑定した」旨の記述存在する。この「源氏物語四五帖」という記述については単なる54帖の書き誤りであるという可能性とこのとき大沢管二が小杉榲邨のもとに持ち込んだのが54帖中45帖のみであったという可能性があると考えられている。 この時期大沢家では小杉榲邨始まり美術研究家日本美術院結成時のメンバーであった前田香雪(夏繁)、東京美術学校(現東京藝術大学)の校長であった正木直彦美術史家今泉雄作国文学者池邊義象観山長泰さまざまな人物に本写本鑑定依頼しており、これらの鑑定書は現在も本写本と共に保管されている。さらに大沢家ではそれらの鑑定書いくつかまとめて錦上花』と題して本にして印刷し、少部数ながらも周囲配布していたと見られる。 このとき大沢護忠から鑑定依頼され人物の一人である池邊義象は、自身源氏物語の本を出版した際にその巻頭に本写本写真一葉を「横笛後醍醐天皇宸筆原本大和大澤氏」として掲載しており、その写真について大沢護忠氏提供」との説明加えている。またこの他佐佐木信綱も「大和大沢氏本を実見した」としている。 その後1929年昭和4年)頃に池田亀鑑が後に校異源氏物語及び源氏物語大成として結実することになる源氏物語校本作成のための写本調査一環として写本調査している。しかし、このときの調査何らかの事情橋姫以下が未了のまま中断し再調査不可であったらしい。また池田は、当時から本写本と共に保管されていたと考えられる小杉榲邨多く人物による鑑定書存在には一切触れていない。これは、大沢護忠が写本そのもの以外は不要との判断の下に、鑑定書池田には見せなかったためではないか推測されている(このときの調査は、池田夫妻一週間滞在した奈良江戸旅館大沢護忠が少しずつ持ち込んだ写本調べるという形で行われた)。結局池田橋姫以下の調査出来ないままに「諸般の事情により調査中断せざるを得ず再調査不可であったため、校異編採用することを控えた」として調査行った部分本文についても校異源氏物語源氏物語大成には採用することなく戦後になって出版した源氏物語大成研究編』の「現存主要諸本解説」の中でわずかに触れるにとどまっている。 その後、本写本大沢家離れ数十年間わたって行方不明とされてきた。 2005年平成17年11月所有者依頼により当時国文学研究資料館館長であった伊井春樹鑑定することになり、数十年ぶりに大沢本の存在確認される伊井2008年平成20年7月21日大阪府堺市大阪府立大学において「幻の大沢本源氏物語」と題して講演したことにより、ほぼ同時期に公開され飯島とともに大沢本がマスコミ取り上げられた。当初は「現段階公開予定はない。」とされたが後に本写本管理宇治市源氏物語ミュージアム委託され所有者協議のうえ公開されることになり、2009年平成21年10月1日から11月29日までの間宇治市源氏物語ミュージアム大沢本が展示された。

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本写本の伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 14:36 UTC 版)

従一位麗子本源氏物語」の記事における「本写本の伝来」の解説

前述のように、勅撰集に残る和歌によれば、本写本源麗子その子孫伝えるために作ったものであり、実際に源麗子意図した通りそのまま藤原摂関家伝来した考えられる鎌倉時代初期には源親行河内方によってその証本たる現在河内本呼ばれている本文作るのに参考にされているが、この時点でこの写本が誰の元にあったのかは明らかではない。また池田亀鑑無名草子引かれ本文がこの従一位麗子本の系統であると考えられる指摘している。その後室町時代初期に本写本源麗子の子藤原師通から数えて10代目の子孫にあたる二条良基1320年元応2年)-1388年南朝元中5年北朝嘉慶2年))のもとにあり、同人から一世源氏である四辻善成1326年嘉暦元年)-1402年応永9年))に譲り渡されと見られる記録存在する四辻善成はその著作河海抄』において本写本校異が4個所取り上げられている。また河海抄には津守国冬本源物語桐壷の巻がこの従一位麗子本を元にしたものであるとの記述がある。ただし四辻善成河海抄において取り上げている本写本校異桐壷帚木の2帖に限られるため、このとき四辻善成の手にあったのはこの2帖だけであろう考えられている。さらに『類聚抄』の記事によれば四辻善成はもともと一条家伝来していた「京極北政所自筆水源小巻帚木一巻」を二条良基から受け取って手許置いていたが、1397年応永4年9月24日二条良基の子一条経嗣1358年南朝正平13年北朝延文3年) - 1418年応永25年))に源氏物語講義をした際に返却したとの記録があり、「水源」と呼ばれていることから現在では失われてしまった河内方注釈書水原抄」のことであると理解されることの多かったこの記事について小川剛生は「本写本従一位麗子本』の伝来についての記録であろう」としている。一条経嗣の孫にあたる奈良興福寺大乗院門跡であった尋尊大僧正1430年永享2年)-1508年永正5年))は、その日記「尋尊大僧正記」の1478年文明10年7月28日の条において、源氏物語について、源氏物語のおこり主要な伝本主要な注釈書源氏物語の巻序年立などについて触れているが、主要な伝本について触れている中でこの従一位麗子本を「一条家相伝本である」としている。ただ、尋尊書き記しているように本写本が「一条家相伝本である」ことが事実であったとしても、それがいつ時点のことを指しているのか(またはいつまでのことを指しているのか)は明らかでなく、1467年応仁元年)に応仁の乱勃発してまもなく一条室町にあった一条家邸宅とその書庫桃花文庫」が焼失しており、その後二条良基三代目の子孫であり尋尊の父である一条兼良1402年応永9年)-1481年文明13年))が奈良居住していた息子尋尊のもとに身を寄せてから著した源氏物語注釈書花鳥余情においては定家卿の本」・「行能自筆の親行か本」・「為相卿が本」といった写本触れていながらこの「従一位麗子本」については触れていないため、本写本応仁の乱戦火の中で失われたのであり、尋尊の言う「一条家相伝本である」とはこれが書き記され時点のことではなく、かつて本写本存在したころのことを述べているとする見方もある。そしてこれ以降のこの写本動向を示す記録発見されていない

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本写本の伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:52 UTC 版)

阿仏尼本源氏物語」の記事における「本写本の伝来」の解説

阿仏尼の手による源氏物語の写本存在することは、古くは『紫明抄』・『原中最秘抄』らに触れられている。ただし、本写本南北朝時代から室町時代にかけての所在一切不明である。この写本伏見宮家伝えられていたことから、阿仏尼飛鳥井雅有時代伏見天皇献上されたか、ないしは、後に冷泉家もしくは飛鳥井家からゆかりの伏見宮家献上されではないかとも考えられる。 本写本江戸時代以来紀州徳川家のもとにあったため「紀州家本源物語」・「紀州徳川家旧蔵本源物語」等とも呼ばれていた。21世紀に入って写本現物対す詳細な調査が行われるまでは、本写本代表的な河内本とされている尾張徳川家伝えられていた「尾州家河内本源氏物語」などと同様に徳川家康からその死後御三家譲り渡されいわゆる駿河御譲本」のひとつであると考えられていた。しかし本写本の上掛け表書きによって本写本はもともと伏見宮家伝来しいたものであり、それが1657年明暦3年伏見宮貞清親王の娘安宮照子紀州徳川家第二藩主徳川光貞のもとに降嫁した際に嫁入り道具ひとつとして紀州徳川家持参したのであることが明らかになった。 本写本明治時代入ってからは、紀州徳川家東京麻布区飯倉設けた南葵文庫中に置かれ研究者に対して広く公開されていた。この時期1926年大正15年/昭和元年とされる)に佐佐木信綱及び武田祐吉によって活字本校異書き込む形での調査が行われ、いわゆる武田校合本」が作成されたと考えられる山岸徳平はこの「武田校合本」を三谷栄一を介して借用したとされ、「山岸採録本」を作成したのち、これをもとにいくつかの研究発表している。 関東大震災の後、南葵文庫管理困難になったこと等からこの時の当主である徳川頼倫によって、この文庫含まれていたほとんどの書籍東京帝国大学寄託され東京帝国大学図書館南葵文庫所属することになったが、本写本はその中に含まれていなかった。後に明らかになったところによると、本写本当時この文庫司書務めていた文献学者高木文の管理下にあり、数冊がサンプルとして、さる研究者武田祐吉とされる)に貸与され返却された後はこれらが高木所蔵となっていた。そのため本写本は「高木本源物語」の名前で呼ばれることもある。 その前後写本本体は、1927年昭和2年4月紀州家所蔵品一度目の売立の際、当時横浜在住で、後に神戸オリエンタルホテル長期間居住したことで知られる英国籍のインド人貿易商にして、和時計蒔絵収集家のモーデ(Naoroji Hormusji Mody, 1873-1944. 「モディ」とも呼ばれるの手渡った池田亀鑑は、モーデは写本そのもの興味があったのではなく写本入っていた箪笥箱に描かれ蒔絵関心があったと記している。本写本がモーデの手にあった時期に、池田亀鑑はモーデに対して写本調査願い出たが、手紙出して返事貰えずにいた。ようやく、1930年(昭和5年)に許可得られ松田武夫伴って大阪での平瀬本の調査直後その足で神戸赴いて面会求めたが、モーデの気紛れから、会うことも叶わず、結局きわめて屈辱的な扱い受けた上」に、調査することが出来なかったことを、後年回想している。モーデは、戦時中当局によって軟禁状態に置かれたまま、1944年昭和19年2月死去した池田亀鑑はこの写本について、「戦火免れただろうか。いまどこにあるのだろうか。」と述べている。これに対して山岸徳平はこの写本を「あるところから聞いた情報」として「大阪神戸住友銀行倉庫あるらしい」と述べていたが、以降のことは不明であった最近その後詳細久保木秀夫調査によってようやく明らかとなった久保木によると、1944年昭和19年2月のモーデの死去後敵性資産として住友銀行管理し森本倉庫置かれていたが、1945年昭和20年)の神戸大空襲灰燼に帰したであろう推測している。 この「幻の写本」は、戦後から1990年代に至るまで、武田祐吉三谷栄一室伏信助伊藤鉃也といったさまざまな学者によって、長年この写本行方追い求める努力続けられたが、その行方明らかにはなっていなかった。2002年平成14年時点での伊藤鉃也による本文研究論文にも「現在の所在不明」との記述がある。 ところが、それより30年上前1966年昭和41年5月開催され古書展に東京本郷古書店「琳浪閣書店」が出品した帚木巻1帖のみの源氏物語古写本を、当時東洋大学教授であった吉田幸一見出だし東洋大学付属図書館購入して、その所蔵とした。この「帚木巻1帖のみの源氏物語古写本」こそが、高木架蔵となって難を逃れた、まさに「幻の写本」たる伝阿仏尼本の中の一冊なのであった。この写本東洋大学所蔵になって間もなく、かつて池田亀鑑門下生にして、源氏物語中心とした中古文学専門家であり、同大学の教授であった石田穣二による簡単な調査報告が行われていたものの、この報告掲載されたのが「図書館ニュース」という基本的に東洋大学学内でのみ配布されるだけの出版物であったことから「当時学会反応はほとんど無かった」という状況であって一般源氏物語研究者にはこの後永く知られないままであった石田穣二は、時期見て写本詳細な調査をするつもりであったらしく、その後明融本帚木巻の本文分析行った論文自身論文集収録した際に付記した後記に「なほ帚木の巻については、紀州徳川家旧蔵の伝阿仏尼筆本(鎌倉中期古写本東洋大学)を調査する機会があった。純度の高い青表紙本で、本論記述補強すべき材料に富むが、この本の紹介別の機会譲りたい。」と述べている。しかし、石田穣二はその作業とりかかることのないまま、1995年平成7年)に東洋大学退職し2003年平成15年5月死去してしまったため、本写本は、所蔵先からも、すっかり忘れ去られ存在になってしまっていたようである。 しかし、1990年代半ば東洋大学所蔵する源氏物語の一写本が、世に言う阿仏尼筆本であろうことを前提とした学会報告上原作和によってなされるなど、言わば「再発見」されて以降、ようやくこの写本に関する本格的な研究始まったと言えるその後、浜一・大内英範・久保木秀夫らによって、本写本の伝来や本文についての極めて詳細な研究が行われるようになり、源氏物語諸本中、研究の進展が最も顕著な写本となった2008年平成20年)、勉誠出版より、オールカラーの影印ならびに翻刻本出版されている。

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