本写本の転写本
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「従一位麗子本源氏物語」の記事における「本写本の転写本」の解説
昭和初期になって本写本の転写本と見られる写本が出現した。当時東京文理科大学で国文学を専攻する学生であり、戦後北小路健の筆名で国文学者・古文書学者として活動することになる渡部栄が、同人の父渡部精元が1932年(昭和7年)9月に大連で死去しその葬儀も終えたころに、父の世話になったとする人物から、「京都で古くから茶商を営んでいた自分の家に代々家宝として伝えられてきた源氏物語の古写本」を世話になったお礼として同人の母親に渡し、それを同年の年末に帰省した渡部栄が受け取った。渡部栄はこのような経緯で手に入った本写本を「父親の形見である」として、全文の翻刻を含む詳細な研究成果の発表を目指して研究していたとしている。その写本は箱入りの古写本で源氏物語54帖が揃っている室町時代の書写と見られる形態を持っていた。その写本の巻末にはその写本が従一位麗子本からの転写本である旨が上記の和歌とともに記載されていた。またその写本の筆跡は、前後する時期に渡部栄が書店から購入した中山宣親(1458年(長禄2年)-1517年(永正14年))の筆写と鑑定されていた古写本のものに似ていたという。外箱・中の写本共に部分的に焼けた跡があったものの中身の大部分は読み取ることが可能であったとしている。結局渡部栄は自身が東京文理科大学を卒業する前年の(昭和11年)11月に母親が出した資金によって自費出版の形で本写本の概要と本文中の特徴的な文言を取り上げて青表紙本や河内本と比較した、青表紙本と河内本が大きく異なるため源氏物語の古写本を見るときは先ずここを見るとされる桐壺巻の「大液芙蓉未央柳」の一節の部分と夢浮橋巻末の従一位麗子の和歌の部分の2枚の写真入りの研究論文『源氏物語従一位麗子本之研究』を出版することになった。当時同人は大学を卒業したら大学生に認められていた徴兵猶予が取り消されて召集されることはほぼ確実であり、当時は日中関係が緊迫化していた時期であったため、入隊すれば戦場に送られる可能性が高く、そうなれば戦死してしまう可能性も少なく無かったために急いでその時点までの研究成果を公表したのであるが、結局同人は入隊直後に持病が見つかったため戦地に送られることはなくすぐに除隊となった。その後渡部栄は終戦時には新京(現在の長春)において、満州政府の外郭団体である満州出版協会所属の審査機関である満州文化研究所に研究員として勤めていたが、終戦後、1945年(昭和20年)8月23日に自宅に踏み込んできたロシア兵から、「ここをロシア軍の将校の宿舎とするから今から2時間以内に退去せよ」と言われ、その混乱の中で和書7千冊を含む1万3千冊にもなる蔵書のほぼ全てを焼き払われ、その他の財産も全て失い、特に大事にしていた本写本と中山宣親筆とされる本の二つの源氏物語の古写本についても、このときは何とか残すことに成功し、中国にとどまっていた間は手元に置いていたものの、翌年1月の日本への引き揚げ時にはどうしても持ち出すことが出来ず、満州文化研究所において渡部栄の同僚の研究員であった王惟明なる人物が、戦後四馬路で書店を開こうとしており本写本を欲しがったので同人に預けて日本に帰国したとしている。渡部は再度日中間を自由に往来できるようになった日中国交回復の後1981年(昭和56年)12月から翌年1月にかけて満州の写真集を出版するための取材のために写真家である息子の渡部まなぶとともに中国に赴き、その際時間の許す限り本写本を探し求めたが、その行方を知っていると思われる王惟明の所在も明らかにはならず、町中の書店を探し回ったが本写本を発見することは出来なかったという。このような経緯で本写本は渡部栄以外の研究者の目に触れることがないままに失われてしまった。『源氏物語従一位麗子本之研究』が出版されてまもないころ、後に「校異源氏物語」及び「源氏物語大成」に結実することになる源氏物語の本文調査を行っていた池田亀鑑らのグループの研究者が本写本の調査を渡部栄に願ったが強く拒否され調査することが出来なかったため本写本の実在やその内容を疑問視する意見もあったという。また国文学研究資料館館長の伊井春樹は元東北師範大学教授の呂元明など中国の源氏物語研究者の何人かに本写本のことを伝えて調査を依頼し、興味を持って調査を行った者も何人かいたが今のところ本写本の所在に繋がる情報は得られていないという。
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