交友関係、他者への評価・発言
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「村山富市」の記事における「交友関係、他者への評価・発言」の解説
穂積五一 村山が明治大学の学生時代に入っていた至軒寮の寮長。村山は「終戦直後、右翼から左翼から色々な人が至軒寮に出入りしたが、穂積さんは一切区別も差別もせず、誰とでも分け隔てなく接した。説教をされたことは一度もないが、こういう生き方が出来れば素晴らしいと思った」と、穂積五一から深い薫陶を受けたと述懐する。 浅沼稲次郎 「大衆とともに大衆と学ぶ」という村山の政治哲学は、社会党委員長の先輩でもある浅沼稲次郎の生き方から学んだ教訓と言い、社会党に骨を埋める決意をしたのは、浅沼との出会い、偉大な存在として極めて深い尊敬の念を抱いている。「浅沼さんが右翼青年に刺殺されたことは、どうしても忘れられない」「憲法9条を護ることが、浅沼の精神が生き続けている証拠」などと語り続ける。 一萬田尚登 大分県議会議員時代の村山は、他の大分県議や市町村長らとともに、大分出身である時の大蔵大臣・一萬田尚登に、大分県への新産業都市指定を陳情した。ところが一萬田からは「国家全体を考慮して可否を判断すべき問題であり、陳情には左右されない」とたしなめられてしまった。村山はそんな一萬田に失望するどころか、逆に感銘を受けたという。 土井たか子 1989年7月の参院選で、日本社会党が大勝して委員長だった土井たか子が「山は動いた」と言った当時を振り返り「土井さんの人気は凄かった。当時は土井さんが来るだけで人だかりだった。ああいう人気は、あの人でなければ作れなかったのではないか」と評している。土井は村山が首相時代の衆議院議長であり、議長辞任後に共に社民党を支えるなど、盟友関係と言える。2014年9月に逝去した土井のお別れ会で「憲法を守り、暮らしに生かすと叫び続け頑張ってきた。僕よりも若い土井さんに先立たれたことは残念だが、志を引き継ぎ絶対に守り抜く。おたかさん、ありがとう」と追悼の言葉を述べた。 山花貞夫 村山の前任の社会党委員長。1993年の総選挙後に成立した非自民連立政権の細川内閣に、国務大臣(政治改革担当)として初入閣するが、この総選挙で社会党は大敗したため、委員長は辞任した。村山政権発足後、社会党の枠を超えた民主・リベラル勢力を結集する新党構想を打ち出した山花貞夫に対し、村山は「なぜ急ぐのか理解できない」と、新党反対の意向を伝えるが、物別れに終わる。しかし山花が新党結党のための会派離脱届を提出する予定だった日に、阪神・淡路大震災が発生して、それどころではなくなり、山花新党は立ち消えとなった。 久保亘 村山が社会党委員長時代の書記長。山花貞夫辞任後の社会党委員長選挙では、久保亘と村山の名前が取り沙汰された。村山は自身が委員長になることには断乎反対だったが、周囲の説得を受けて出馬を決心し、久保は村山と会談して出馬を断念、書記長に就任した。久保は、社会党内でも非自民連立政権派の立場であり、考え方の相違はあったが、村山は首相時代、党務はほぼ久保に任せたと述懐している。 五十嵐広三 村山が思いがけず首相に指名され組閣に入った際、官房長官は躊躇することなく五十嵐広三を指名した。「手腕、力量、キャリア、人柄、いずれを見ても最適の人」とし、村山政権時代に阪神・淡路大震災やオウム真理教事件といった危機対応などにも、手腕を大いに発揮したと高く評している。2013年に亡くなった五十嵐のお別れ会に出席し「私より2歳若く(87歳)まだまだ仕事ができる年齢だった」と語った。現役時代には、五十嵐など数人の社会党議員と夫婦連れで、奈良を一泊旅行したこともあるという。 野坂浩賢 村山改造内閣で官房長官を務めた野坂浩賢は、村山の側近的存在。少数与党の羽田内閣が頓挫して政局が混迷する中、古くから面識があった自民党の亀井静香と水面下で交渉を重ねて、自社さ連立政権成立に尽力した。しかし村山本人は、1994年6月の首班指名選挙で、自民党が村山への投票で話をまとめたことは知らされておらず、投票が進む中で、前の席に座る野坂に「わしが当選したらどうするんじゃ」と言ったという。野坂は村山から首相退陣の意向を打ち明けられると「これが総理と私の唯一の戦いだ」と言う程、徹底的に退陣に反対した。 後藤田正晴 村山は、後藤田正晴が衆議院初当選の頃は田中角栄に近く、金銭不正の印象が強い後藤田に国会で野次を飛ばしたが、後藤田が野党時代の村山に「蟻の一穴」論で、自衛隊の海外派遣反対だけは協力しようと呼びかけて以降、ハト派同士で意気投合する。村山が首相在任中、阪神・淡路大震災などに際して後藤田が度々助言を行い、村山も1995年7月の参院選で社会党が敗北した後、進退を相談するなど良き相談相手の一人であった。 梶山静六 村山が社会党国会対策委員長を務めていた際、自由民主党では梶山静六が国会対策委員長を務めており、国会運営を巡り両者は度々対立した。その後、梶山は2000年の第42回衆議院議員総選挙目前で死去し、村山は第42回衆議院議員総選挙に出馬せず衆議院議員を引退した。その際、村山は梶山について「決めたことはきちっと守る、そして実行する」と評しており「お互いの信頼関係はあった」と回顧している。また自社さ政権成立前には、梶山からも首相就任を説得されたという。なお、村山と梶山は、両者とも大日本帝国陸軍軍曹を経験し、地方政界を経て国政に進出したという共通点がある。 石原慎太郎 石原慎太郎は、村山が社会党国会対策委員長を務めていた際に「米軍横田基地の問題は、本来社会党が取り組むべき課題」と言うと村山が、素直に聞き入れて土井たか子委員長に進言したことから親しくなり、1994年6月の自社さ政権成立直前には「村山さんで行こうよ」と発言。村山事務所を訪ね首相就任を受けるよう要請した石原に対し、村山は「人違いじゃないのか」と一蹴した。 護憲派・親中派筆頭格の村山と、改憲派・対中国強硬派筆頭格の石原であるが、2013年6月に政界の長老が集った円卓会議などで同席する仲である。 亀井静香 亀井静香は、社会党で村山の側近だった野坂浩賢と水面下で交渉して、自社さ政権の成立に尽力。首相就任を固辞する村山に「天命です、あきらめて総理を受けて下さい」と説得した。ハト派の村山が、組閣でタカ派の亀井に運輸大臣就任を依頼すると、亀井は「私はタカはタカでもハトを守るタカ」と言って入閣した。首相としての有能ぶりを絶賛する亀井に対し、村山は「褒め殺しじゃないのかと思うほど」と述べている。 野中広務 社会党の山口鶴男と接触するなど、自社さ政権成立に尽力した一人。村山が首相時代の1995年6月に全日空機ハイジャック事件が発生した際、村山は国家公安委員長の野中広務に「あなたを全て信頼してお任せします。もし何かあったら僕は責任を取って、総理を辞めて白装束をして慰霊に回ります」と言うほど、野中に全幅の信頼を寄せた。首相辞任後、与野党に分かれて以降も超党派で訪朝するなど活動を共にしている。「野中さんは敵に回すと怖いと言われていますけど」とインタビューで質問されても「僕はそうは思わないけど」と答えている。 河野洋平 非自民連立政権の羽田内閣が頓挫して政局が混迷する中、自民党総裁だった河野洋平は首相就任を固辞する村山に「今、国を救うことができるのは、あなたを首班指名するしかない。私どもは腹をくくった」と涙ながらに村山を説得し、村山も感動したというが「長年反目してきた社会党と自民党が手を結ぶと言う。これは大変なことになった」と首相就任前の複雑な胸の内を明かす。自社さ政権時代を振り返り、連立政権のパートナーである河野洋平、新党さきがけ代表・武村正義との三党党首間の信頼関係が強固だったので、政権を円滑に運営できたと述懐する。同じハト派で思想的にも近く「河野さんには一度首相をやってもらいたかった」とも評している。 武村正義 非自民連立政権の細川内閣で小沢一郎の強権政治への反発を強める中で、新党さきがけ代表・武村正義との協力関係を深めるようになり、羽田内閣の成立直前に統一会派「改新」が社会党、新党さきがけを外す形で結成されたことにより、共に非自民連立政権を離脱し、以降は共同歩調を取る。羽田内閣の頓挫で政局が混乱する中、武村も村山に首相就任を説得。村山内閣の大蔵大臣に就任して、村山を支えた。村山は「常になんでも相談してきた間柄」と語り、社会党解党後の新党問題に至るまで、協力関係を大切にした。 小里貞利 小里貞利も、自民党国会対策委員長として自社さ政権の成立に尽力。村山政権では当初、北海道開発庁長官を務めていたが、 阪神・淡路大震災が発生すると、その2日後に村山は小里を震災対策担当大臣に任命し、震災復興の権限を与えた。村山は震災当時の小里を振り返り「よく現地と東京を行き来し、国会答弁でも懇切丁寧に答弁した。小里さんを任命したことが良かった」と高く評している。 大島理森 村山が長年の懸案として解決に取り組んだ課題の一つが、水俣病被害者救済問題であった。辞任直前の1995年12月に談話を発表して解決を見るが、これには大島理森環境庁長官の働きが大きかったと高く評価している。 江藤隆美 アジア諸国への侵略と植民地支配を謝罪した村山談話は、戦後50年の終戦記念日である1995年8月15日に閣議決定され、いわゆる「タカ派」と称される江藤隆美総務庁長官、島村宜伸文部大臣、平沼赳夫運輸大臣らも一切の異議なく談話に署名した。その後「植民地時代は日本は良いことをした」と発言した江藤隆美総務庁長官を、村山は政府の見解とは異なる発言をしたとして、更迭した。 石原信雄 1987年の竹下内閣以降、自民党政権、非自民連立政権に渡り長年内閣官房副長官を歴任してきた石原信雄は、村山政権成立直後は辞意を固めるが、村山が「自分だってなりたくて総理になったわけではない。どうか支えてほしい」と強く慰留して、1995年2月まで留任した。同年4月の東京都知事選挙に石原が立候補した際は、村山が応援演説を行い「阪神・淡路大震災に対応できたのは石原さんの存在が大きかったから」と訴えた。 大田昌秀 1995年、沖縄でアメリカ兵による少女暴行事件発生後、沖縄の米軍基地の強制使用手続きによる代理署名を拒否する大田昌秀沖縄県知事と長時間会談したが、大田に「他人に痛めつけられても寝ることはできるが、他人を痛みつけては寝ることはできない」という沖縄の言い伝えを引用されると、なんとも言い返せず、日本国政府が代理署名することとなった。沖縄在日米軍基地問題を自らの手で解決できなかったことを、村山は後悔している。 岸信介 岸信介首相が日米安保条約改定を行った1960年、村山は大分市議会議員だったが国会周辺で行われた安保反対デモに参加した。「岸内閣のやり方は、民主主義を否定するものという意識が強かった」と述懐している。ただ村山は首相に就任した直後の1995年7月20日の国会答弁で、自衛隊の合憲を認めるとともに、日米安保条約の容認も表明し、長年の日本社会党の政策転換を行った。 三木武夫 三木武夫は村山同様、明治大学出身の首相であり、2011年11月、明治大学創立130周年記念事業として行われた「三木武夫シンポジウム」に村山はパネリストの一人として出席し「三木さんも私も共に明大出身の首相は変革期に出たようですなあ」と語った。村山は2010年には、徳島県にある三木の墓参りを行っている。 福田赳夫 村山は首相在任中に亡くなった福田赳夫元首相の内閣・自民党合同葬で追悼の辞を読み、「政治は最高の道徳」という福田の言葉を称えた。村山は著書でも「有権者から選ばれる政治家は、有権者以上に正しい道徳観念を持たなければならない」と語っている。また村山は首相就任直後の1994年夏、軽井沢で静養する福田を訪ねている。 竹下登 村山が思いがけず首相に就任した際の良き相談相手の一人は、同い年の竹下登であった。竹下が経済政策に弱い村山にアドバイスをすると、村山は「あんたは練習に練習を重ねて総理大臣になられた。わしは練習なしになったから」と述べた。 海部俊樹 自民党・社会党・新党さきがけの推薦で、村山が首班指名選挙で当選した時、非自民連立政権で主導権を握っていた小沢一郎は、自民党から海部俊樹元首相を引き抜いて村山の対抗馬に立てた。決選投票にまでもつれ込んだ時、自らが首相になることを望んでいなかった村山は「首相までやった海部さんに勝てるわけがないと思った」と述懐している。その後、海部は野党第一党の新進党代表に就任し、村山と対峙した。2011年11月、明治大学主催の恩師・三木武夫のシンポジウムで、村山と同席した。 宮澤喜一 経済政策に弱かった村山は首相時代、竹下登と並び財政通である宮澤喜一にも度々助言を求めた。英語を話せず外交経験もない村山は、首相就任直後にサミットに出席する直前に、宮澤に挨拶に行き「サミットでは英語は使わなくていい、ちゃんと通訳がいるんだから、日本語で堂々と話せばいいですよ」と激励され「良いアドバイスを頂いた」と評している。 細川護煕 細川内閣当時、細川護煕の記者会見が深夜に行われることが度々あった。特に重大な発表ほど深夜に行われることが多く、そうした折には、一夜明けるとマスコミや野党ばかりか、与党にも大きな驚きを与えることがあった。当時連立与党の社会党委員長だった村山は、細川のことを「深夜に騒ぐ男じゃのう」と評していた。 橋本龍太郎 村山内閣で通商産業大臣を務めた橋本龍太郎は、かつて村山と同じ社会労働委員会に所属しており「若くて初々しかった」と当時を振り返る。首相辞任後の橋本への政権交代は、マスコミなどから「禅譲」と揶揄されたが、村山は「橋本さんでいいと思ったわけではない。僕に後継者を決める権限はない。河野さんに一度総理になってほしかったけど」と述べている。 小渕恵三 小渕恵三が首相在任中に脳梗塞で倒れて、2000年5月に亡くなった際、村山が追悼演説を読み、小渕の業績の中でも特筆すべきは「わが国でサミットを開催するに当たり、開催地を沖縄に決めたこと」として、若い頃からの沖縄問題への取り組みを評した。なお翌月の総選挙で、村山は政界を引退をしており、この追悼演説が最後の国会演説となった。首相経験者から首相経験者への国会における追悼演説は、これが唯一である。 森喜朗 森喜朗は、自民党が1993年の総選挙で野党に転落して、辛酸を舐めた当時の幹事長であり、自民党の政権復帰のために亀井静香と連携して、社会党委員長である村山を首班とする「自社さ連立政権」成立に尽力した。村山は首相就任直後、長年の社会党の政策方針を転換して、自衛隊を合憲と認める国会答弁を行った。この政策転換は、村山にとって歴代の社会党委員長の顔を思い出すほど大変苦渋の決断だったが、森が御礼に行くと村山は「首相と社会党委員長とどちらが大事だ。聞くまでもないじゃろ」と答えたという。 小泉純一郎 山崎拓の著書『YKK秘録』によると小泉純一郎も村山に首相就任を要請したという。小泉が戦後60年の首相談話として、村山談話を踏襲する小泉談話を発表したことは評価する一方、小泉の靖国神社参拝については「村山談話と靖国参拝は両立しない、実が無い」と断じた。2005年4月、京都迎賓館開館式で小泉が隣に座った村山に「いま村山談話を勉強しています」と言うと「それは結構なことじゃ」と冗談半分に言ったという。 麻生太郎 村山は首相時代、麻生太郎を国土庁長官に起用する意向を示したが、野中広務の反対で実現しなかったと言われる。 鳩山由紀夫 第45回衆議院議員総選挙で、自民党から民主党への政権交代は「有権者が一票投じることにより、政権を変えることが出来た。これは大変画期的なこと」と講演したが、その後鳩山由紀夫が、普天間基地移設問題で内閣総理大臣を辞任したことに触れ、「何か見通しと根拠があって移設を唱えたのかと思ったが、見通しも根拠もなかった」と批判した。 菅直人 東日本大震災の発生翌日に、被災地入りして批判された菅直人について「僕は阪神・淡路大震災の時、現地入りが遅くて批判され、菅さんは翌日に行って批判された。東日本大震災とは規模が違うので一概には言えないが、混乱した状況で総理が行くと、かえって現地に迷惑をかける」と述べる。菅が首相辞意を表明しつつ、辞任を先延ばしした際には「早く辞任すべき」と厳しく批判した。 野田佳彦 「政治生命を賭ける」と言って、消費税増税法案を成立させた野田佳彦に対し「私が消費税増税法案を成立させたときは、先行減税を行った。野田さんの場合は、いきなり消費税を全面に出して、政治生命を賭けると言い出した。本人がそういう決意をするのも必要だが、我々には関係ない」と増税を批判した。 安倍晋三 2006年10月、第1次政権時の安倍晋三が首相就任直後に訪中し、小泉政権時代に冷え込んだ日中関係の打開を図り、中華人民共和国との戦略的互恵関係を打ち出したことを高く評価する一方、2013年12月末に第2次政権の安倍が靖国神社に参拝した際には「本人の気持ちを守るために国を売るような首相があるか」と厳しく批判した。安倍の憲法改正論や村山談話をめぐる発言のブレについても批判している。 日本記者クラブの講演で「村山談話とアベノミクスは、総理大臣の名前を冠する路線だが、どちらが長生きするか」と質問され「村山談話じゃろ。アベノミクスは経済だから、目的を達すれば消えて行く。こっちは歴史だから」と述べた。 小沢一郎 1993年の総選挙で、非自民連立政権の細川内閣が成立した当時、村山はまだ社会党委員長には就任しておらず、社会党の連立政権参加には反対の立場だった。小沢一郎が大きな権力を握っていた非自民連立政権で、羽田内閣が成立する直前に社会党を外した統一会派「改新」が結成されたことに激しく反発し、「数の力で政治を両断しようとする意図がありありと見受けられる。これは許しがたい」として、連立政権から離脱した。また小沢が主張する小選挙区制度導入にも反対の主張を貫いた。 前原誠司 2006年2月に民主党代表だった前原誠司と会談し、靖国神社に参拝する小泉首相(当時)を批判したうえで「ブレずに自分で決断することが大事だ。自分も首相の時そうしてきた」とアドバイスした。 広瀬勝貞 2007年3月、広瀬勝貞の大分県知事選挙出陣式にて、この選挙は「当落を問う選挙ではない」とスピーチし、広瀬の「圧倒的な勝利」の実現を聴衆に訴えた。 2015年4月12日に行われた大分県知事選挙でも、村山は日本国憲法改正を主張する安倍晋三を批判する立場でありながら、自民・公明が推薦した広瀬勝貞の支持に回り、広瀬の四選に貢献して、社民党大分県連内から物議を醸した。 田母神俊雄 2008年11月に、村山談話の日本国政府見解と異なる認識を示した論文を発表したとして、自衛隊航空幕僚長を更迭された田母神俊雄について「田母神論文は多くの学者が否定している」と批評した。 橋下徹 2013年5月に、橋下徹大阪市長が「従軍慰安婦は当時必要だった」として、戦時中の従軍慰安婦制度を正当化する発言をしたことに対し、NHKの取材に応え「このように従軍慰安婦が国際問題化している中で、そういう発言するのは理解できない」と厳しく批判。橋下がこの発言で国内外から厳しい非難を受けながら、謝罪や発言の撤回をしないことについても「弁解を繰り返しても問題が大きくなるだけ。謝罪するなら謝罪し、訂正するなら訂正することから出発した方が良い」と忠告した。
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