ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表とは? わかりやすく解説

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ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 20:23 UTC 版)

ラグビーフットボール」の記事における「ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表」の解説

出来事ルール19世紀1400-1800年 多く異な種類フットボールラグビーフットボール先祖)がグレートブリテン島中で行われていた。現代サッカー異なり、ほとんどのフットボール試合では手を使うことが許されていた。 1830年 ボール持って走ることは1830年代ラグビー校一般的になり、1850年代1860年代にラグビースクールフットボールは連合王国中で人気となった1863年 ザ・フットボール・アソシエーション (FA) が結成されFAラグビーフットボールの間の分裂正式なものとなった1864年 初のラグビークラブがリーズとハダーズフィールドで結成されその後1870年代1880年代にはカンバーランドランカシャーヨークシャーで何百ものクラブ作られた。 1871年 ラグビー・フットボール・ユニオンラグビーフットボール協会RFU)が創設され、ポールモールレストラン(英語版)で21クラブによる会合開かれた1871年 確認されている初の国際試合イングランドスコットランドの間で行われた1876年 マシュー・ブロクサム(英語版)の書簡がザ・ミーティア(英語版)に掲載された。この書簡ではラグビー校生徒のウィリアム・ウェブ・エリスがボール拾い上げたことがラグビー発祥であると主張されている。1895年ラグビー協会調査では証拠はないとされたが、この神話不朽のものとすることが決定された。 1876年 ヨークシャーカップ英語版)がヨークシャーのラグビークラブによって始まった。この大会FAカップ決勝よりも多く観客集めた1877年 選手数が1チーム20人から15人に減少した1883年 初のホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがイングランドアイルランドスコットランドウェールズの間で行われた1886年 大部分労働者階級構成される北部クラブの高まる優越性危惧して南部主体ラグビーフットボール協会厳格なアマチュアルール導入した1888年 1888年1889年に、ニュージーランド先住民フットボールチームがブリテンオーストラリアニュージーランド遠征行った1890年 1890/91シーズンから現代得点システムホーム・ネイションズによって一様に承認された。 1892年 ブラッドフォード[要曖昧さ回避]とリーズのラグビーフットボールクラブが選手休業保障行ったことによって、プロフェッショナリズム非難向けられた。しかしラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) 自身も、1888年ブリテン諸島代表のオーストラリア遠征や、1904年イングランド対戦したニューサウスウェールズHarry Hamill対す支払い認めている。 1893年 ヨークシャークラブ選手休業保障として6シリング支払うことを提案したが、RFUはこの提案否決した。これによって北部クラブおよび選手による試合中止広がっていった。 1895年 ラグビーフットボール界の分裂結果、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) が結成された。この分裂には、労働者階級北部チーム成功や、入場料徴収した競技場でのラグビー試合RFUによる禁止命令クラブアマチュアリズム受け入れなかった場合RFUからの除籍対す恐れ選手仕事休んでラグビー試合出場した際の休業保障開始など多く要素作用している。同じよう動き他の国々でも存在した22クラブがハダーズフィールドのジョージホテルで会合開きNRFUが結成された。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200上のクラブRFU脱退しNRFUに加入した。 リーグ・ユニオン 1896年 マニンガムが初のノーザン・ユニオン・チャンピオンシップで優勝した。マニンガムは1903年アソシエーションフットボールサッカー)に転向しブラッドフォード・シティとなったリーグ 1896年 ラグビーリーグ・チャレンジカップ創設され開始から成功収めた。バトリーがセント・ヘレンズ10対3破り、初の勝者となったリーグ 1897年 試合をより興奮するものにするため、ノーザン・ユニオンはラインアウト廃止し全てのゴール得点2点減らしたラインアウトタッチラインからのパント変更された。トライ3点与えられた。 リーグ 1898年 ノーザン・ユニオンにプロフェッショナリズム導入された。このプロフェッショナリズム厳密にパートタイムであり、選手は他の「きちんとした仕事持っていることが義務付けられた。 リーグ 1900年 ラグビーユニオン1900年夏季パリオリンピック採用された。これは1924年パリオリンピック終了したユニオン 20世紀前半1901年 ラグビーリーグラインアウト代わるパントアウトの導入実験がわずか4年終了した。現在はボールアウト・オブ・プレーになるとスクラムリスタートされる。 リーグ 1904年 ラグビーリーグ初の国際試合ウィガン行われイングランド他国合同チームに3対9で敗れたリーグ 1905年 ウェールズが初遠征行ったラグビーユニオンニュージーランド代表かろうじて勝利した。この試合は「世紀試合英語版)」と呼ばれたユニオン 1906年 イングランドは(スプリングボクスとして知られる南アフリカラグビーユニオン試合初め行った南アフリカ黒人選手プレーすることに抗議した後、ジェームス・ピータース英語版)がイングランドチームから外された。 ユニオン 1906年 ジェームス・ピータースイングランド代表としてスコットランド戦い、初の黒人ラグビー選手となったユニオン 1906年 ラグビーリーグにおいて、よりクリエイティブプレーのためのスペース与えるために選手数が15人から13人に減らされた。タックル後の試合再開の形としてプレー・ザ・ボールの初期の形導入された。 リーグ 1907年 ラグビーリーグオーストラリアおよびニュージーランド広まっていった。ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグがシドニーBateman'sホテル創設された。ニューサウスウェールズ・ラグビー・リーグは故障した選手対す保障問題でオーストラリアン・ラグビー・ユニオンと喧嘩した後に、8チーム開始した初優勝はサウス・シドニーが果たしたラグビーリーグニューサウスウェールズ州クイーンズランド州での主要なフットボール競技としてラグビーユニオンに取って代わっていったリーグ 1907年 ニュージーランドラグビーリーグチームがブリテン遠征行ったニュージーランド郵便局員アルバート・ヘンリー・バスカヴィル(英語版)によって組織されニュージーランド遠征チームは、彼らのオープン・プロフェッショナリズムのために母国メディアに「オール・ゴールズ (All Golds)」との汚名着せられた。彼らはシドニーブリテンではラグビーユニオンルール試合行いオーストラリア偉大な選手であるダリ・メッセンジャー(英語版)に遠征に加わるよう説得した。彼らは初のテストマッチに2対1で勝利したが、バスカヴィル帰国中に肺炎のため25歳死去したリーグ 1908年 初のオーストラリアカンガルーズ遠征チームブリテン訪れた。ハンスレット(英語版)は、チャンピオンシップチャレンジカップヨークシャーカップ、ヨークシャーリーグの4つトロフィー全てを手にした初のクラブとなった。ハンスレットはラグビーリーグ初期主要な選手であるアルバート・ゴールドソープ(英語版)に率いられた。 リーグ 1910年 ラグビーユニオンのホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがフランス参加によりファイブ・ネイションズ・チャンピオンシップとなったユニオン 1910年 初のノーザン・ユニオンのブリティッシュ・ライオンズによる遠征オーストラリアおよびニュージーランド行われシドニーブリスベン行われたテストマッチ勝利したリーグ 1912年 ラグビーユニオン南アフリカ代表ブリテン諸島およびフランス遠征した。遠征チームイングランドアイルランドスコットランドウェールズフランスヨーロッパ5チーム全ての勝利するグランドスラム」を達成したユニオン 1914年 ハダーズフィールドのアルバート・ローゼンフェルド(英語版)が1シーズン100トライ記録したブリテン代表遠征チームテストマッチ3連戦最終戦オーストラリアに14対6で勝利しThe Ashes英語版)を勝ち取った最後までこの試合残っていたのはわずか10人であり(選手交代認められていなかった)、ロークス・ドリフト(英語版)のテストマッチとして知られるようになったリーグ 1922年 ノーザン・ユニオンはラグビー・フットボール・リーグ改名した。この組織名オーストラリアにおけるこのスポーツの名称としても以後使用されるようになったリーグ 1925年 ラグビーユニオンオールブラックスブリテンフランスカナダ遠征が行われた。ニュージーランド人達は遠征無敗誇り、「The Invincibles(無敵)」の称号得たユニオン 1929年 初のラグビーリーグ・チャレンジカップ決勝ウェンブリー行われた41,500人の観衆の前でウィガンデューズベリー英語版)に13対2で勝利したリーグ 1930年 ファイブ・ネイションズとは別にラグビーユニオンヨーロピアンカップが始まった。この大会第二次世界大戦中断された。 ユニオン 1930年 ラグビーリーグブリテン代表とオーストラリア代表テストマッチ第3戦が0対0の引き分け終わった後、前例のない第4戦がロッチデール行われたブリテン代表は3対0で勝利しThe Ashesを手にした。 ユニオン 1932年 夜間照明の下で初のラグビーリーグ試合開催された。 リーグ 1933年 大晦日フランスにおける初のラグビーリーグ試合が、イングランドオーストラリアの間で行われたフランスプロフェッショナリズム申し立て真っ只中にありラグビーユニオンファイブ・ネイションズから除外されていたことから、新しスポーツ受け入れようとしていた。 リーグ 1934年ラグビーユニオン代表のジャン・ガリア英語版)によってフランスでラグビーリーグ設立された。1939年までにフランスリーグには225クラブ所属したリーグ 1934年 フランスパリ初めての国際試合行いイングランド3221敗れたサルフォードフランス遠征行い、‘Les Diables Rouges’(赤い悪魔)のニックネーム得たリーグ 1941年 フランスヴィシー政府敵国との繋り(フランスドイツおよびイタリア占領下にあった)を理由ラグビーリーグ禁止したラグビーリーグ資金および資産全て没収されるラグビーユニオンクラブ渡ったラグビーユニオン無傷であり、ラグビーリーグ奪われ競技場のほとんどを取り返した今でもラグビーリーグクラブ資産は彼らに返還されていない。 リーグ・ユニオン 1943年 ノーザン・コマンド(英語版陸軍ラグビーリーグチームとノーザン・コマンド陸軍ラグビーユニオンチームはヘディングリーでラグビーユニオンルールで戦いラグビーリーグ側が18対11勝利した次の年は三軍統合ラグビリーグチームが三軍統合ラグビーユニオンチームを1510破った1996年交流再開されるまでリーグユニオン試合はこれらだけであった。 リーグ・ユニオン 1944年 ヴィシー政権崩壊により、フランスにおけるラグビーリーグ禁止令が解除された。 リーグ 1945年 ブライアン・ビーヴァン(英語版)がウォリントンでラグビーリーグデビューを果たした16年間に渡って、ビーヴァンはウォリントン620試合出場し740トライ上げたキャリア通算トライ数は796。しかし、故郷オーストラリア代表としてプレーすることはなかった。 リーグ 1946年 ランス・トッド・トロフィー(英語版)がチャレンジカップ決勝のマン・オブ・ザ・マッチに初め手渡された。ウェイクフィールド・トリニティー・ワイルドキャッツのビリー・ストット(英語版)が初の受賞者となった1942年交通事故死亡したランス・トッド(英語版)は1907年ニュージーランド代表遠征チーム一員であり、サルフォード1928年から1940年まで指揮したリーグ 1946年 この年史上最も有名なラグビーリーグ遠征が行われた。ライオンズHMSインドミタブルオーストラリアへ航海したオーストラリア横断する5日間の旅で、ガス・リスマン(英語版)に率いられチームテストマッチを2勝1引き分け終えThe Ashes保持したリーグ 1949年 フランスラグビーリーグは名称への「ラグビー」の使用禁止され、Jeu à Treize(Game of Thirteen)へと改称したリーグ 1950年 トリノからのイタリアチームがイングランド北部へと遠征した。イタリアは後に国内大会オーストラリアとの試合行ったが、この活動1962年途絶えたリーグ 20世紀後半1951年 南米ラグビーチャンピオンシップ英語版)が開始したユニオン 1951年 南アフリカラグビーユニオン代表がブリテン諸島およびフランスへ遠征した。南アフリカ二度目のファイブ・ネイション・グランドスラムを達成したユニオン 1951年 活動終えてからちょう10年後、フランスオーストラリアでの初のラグビーリーグシリーズに勝利したフランス1955年にも再び勝利を収めたリーグ 1951年 ラグビーリーグのセク・トンプソン(英語版)はあらゆるスポーツの中で初のグレートブリテン代表の黒人選手となったリーグ 1952年 ラグビーユニオンのヨーロピアンカップが再開したユニオン 1953年 英国陸軍通信部隊で兵役果たしていたウェールズ人若者、ビリー・ボストン(英語版)がウィガンデビューした。彼はイギリス最多トライ数の記録持っており、全世界ではビーヴァンに次いで第2位である。 リーグ 1954年 イングランドブラッドフォードOdsalスタジアム行われた1953-54 ラグビーリーグチャレンジカップ英語版決勝102,569観衆集め、ラグビーユニオン・ラグビーリーグを含むラグビーフットボール試合新記録打ち立てたリーグ 1954年 初のラグビーリーグ・ワールドカップユニオン含めて初)がフランスで開催された。パリパルク・デ・プランス行われた決勝では、グレートブリテン代表がフランス代表を1612破り優勝したリーグ 1956年 スプリングボクスニュージーランドに遠征した。南アフリカニュージーランドに対して遠征初めての敗戦喫したユニオン 1957年 オーストラリアラグビーリーグ・ワールドカップ第2回大会優勝したリーグ 1958年 ラグビーリーグテストマッチ第2試合グレートブリテン代表はオーストラリア代表2518勝利した。この試合では健康なグレートブリテン代表はピッチに8人しかいなかった。アラン・プレスコット(英語版)は腕を骨折しながら77分間プレーしたリーグ 1960年 グレートブリテン第3回ラグビーリーグ・ワールドカップ優勝したリーグ 1964年 ラグビーリーグ初め選手交代認められたが、ハーフタイム前に負傷した選手限られていた。 リーグ 1966年 国際ラグビーリーグ委員会は、ボール保持したチームには3度のプレー・ザ・ボールが認められ4度目タックルスクラム組まれるルール導入した次の年に南半球はこのルール採用した1972年には6度攻撃権認められるようになり、1983年スクラムボール引き渡し変更された。 リーグ 1967年 プロラグビーリーグは減少する観客呼び戻す試みで、他のスポーツ先駆けて主な試合日を日曜日とした。 リーグ 1968年 ‘Watersplash’(浅瀬チャレンジカップ決勝が、豪雨ピッチ満たしていたにもかかわらず行われた。この試合は最もドラマティック幕切れとなったウェイクフィールドのドン・フォックス(英語版)が逆転のためのゴール近くからの簡単なコンバージョン試みた失敗しリーズ1110勝者となったリーグ 1968年 ラグビーユニオン選手交代初め認められた(負傷選手のみ)。 ユニオン 1969年 スクリングボクスがブリテンアイルランド遠征した。この遠征アパルトヘイト対す抗議を受け、以後南アフリカアパルトヘイト廃止までヨーロッパ遠征を行わなかった。 ユニオン 1969年 ラグビーリーグイギリス大学スポーツとしてついに認められていったリーグ 1970年 グレートブリテン代表はオーストラリアとのテストマッチ後半2戦に勝利しThe Ashes得たリーグ 1970年 イングランド開催されラグビーリーグ・ワールドカップ少な観客しか集めることができなかった。オーストラリア優勝したリーグ 1971年 ニュージーランドブリテンでのラグビーリーグシリーズで初め勝利したリーグ 1971年 ラグビーユニオンライオンズオーストラリアとニュージーランド遠征した。このライオンズニュージーランドでのテストシリーズで勝利した唯一のチームである。 ユニオン 1971年 スプリングボクスオーストラリア遠征抗議活動受けたユニオン 1972年 タイムキーパーサイレンラグビーリーグ初め導入された。 リーグ 1972年 グレートブリテンがフランス・ラグビーリーグ・ワールドカップで再び優勝したリーグ 1973年 バーバリアンズカーディフ・アームズ・パークオールブラックス破ったユニオン 1973年 多くのアマチュアリーグ・クラブが消滅していることに対すRFL軽視抗議して草の根レベルラグビーリーグ運営するためイギリスアマチュアラグビーリーグ協会英語版)が設立された。両者再統一には30年要したリーグ 1974年 ラグビーユニオンライオンズ南アフリカ遠征した。99コール悪名高い遠征である。 ユニオン 1974年 ラグビーリーグドロップゴールによる得点2点から1点減点された。 リーグ 1975年 ウェールズイングランドが別々のチームラグビーリーグ・ワールドカップ参加し、両半球数カ月渡ってプレーしたオーストラリアイングランドに1ポイントリードしトロフィーを手にした。 リーグ 1976年 ラグビーユニオンニュージーランド代表(オールブラックス)が南アフリカ遠征した。南アフリカスポーツ交流することを禁じた国際オリンピック委員会 (IOC) の決定反抗したニュージーランド1976年夏モントリオールオリンピックからの追放IOC拒否したことから、28の国(アフリカのほとんどの国)がモントリオールオリンピックボイコットしたユニオン 1978年 ラグビーユニオンニュージーランド代表がブリテンおよびアイルランド遠征した。ニュージーランドイングランドアイルランドスコットランドウェールズ破り初めグランドスラム達成したユニオン 1980年 ロンドンにラグビーリーグクラブ、フラムRFC結成された。9,500人以上の観客が初試合訪れウィガン勝利したフラムは初シーズン終り昇格し昇格降格ホーム移転経て、現在もロンドン・ブロンコズとして存続している。 リーグ 1980年 オーストラリア出身州別のラグビーリーグチームが対戦する形式クイーンズランド出身選手とサウスウェールズ出身選手相対する)が作られた(ステート・オブ・オリジン)。‘State against state; mate against mate’である。1982年から、3試合シリーズとして行われており、世界最強・最も厳しラグビー認識されている。 リーグ 1981年 オーストラリアラグビーリーグに「シン・ビン」が導入された。 リーグ 1981年 スプリグボクスがニュージーランドに遠征した。 ユニオン 1981年 国際ラグビー評議会によってアパルトヘイト政策廃止するまで南アフリカラグビーユニオン国際大会への参加禁止された。 ユニオン 1982年 トンガフィジーサモアによるラグビーユニオンパシフィック・トライネイションズ開催 ユニオン 1982年 ラグビーリーグオーストラリアチームの遠征において初め全試合勝利し、「The Invincibles(無敵)」として知られるようになったリーグ 1983年 ラグビーリーグトライ4点加点された。6度目タックルによるポゼッション移行導入スクラム下図劇的に減少させたことで、試合性格大きく変化した退場値しない反則に対してシン・ビン一時的な退場)が導入された。 リーグ 1983年 ラグビーリーグ他国リーグ間の移籍解禁された。 リーグ 1984年 オーストラリアラグビーユニオンチームのブリテンおよびアイルランド遠征オーストラリアイングランドアイルランドスコットランドウェールズ破り初めグランドスラム達成したユニオン 1987年 ニュージーランドオーストラリア開催された初のラグビーユニオンワールドカップでニュージーランドフランス29対9で破り優勝したユニオン 1987年 アマチュアレベルにおける2つルール間の「自由通路」が導入されたが、個々場合区別継続した。 ユニオン・リーグ 1987年 RFUラグビーユニオン108リーグのおよそ1000クラブ参加する昇格・降格ありのピラミッド型カリッジ・リーグ(the Courage Leagues)を導入したユニオン 1988年 ラグビーリーグウィガンハリファックスRLFC3212破りチャレンジカップ8連覇スタート切った。エレリー・ハンリー(英語版)、アンディー・グレゴリー(英語版)、ショーン・エドワーズ(英語版)といった選手擁した現代的なタレント揃いチーム10年リーグ支配しこの期間に3度ワールドカップ優勝したリーグ 1989年 初の公式ワールドクラブチャレンジウィドネス・バイキングズがキャンベラ・レイダーズ(英語版)を3018破ったリーグ 1990年 ロシアラグビーリーグ始まったロシア2000年ワールドカップ出場しクラブチャレンジカップ出場したリーグ 1990年 ラグビーリーグにブラッド・ビン(Blood-bin)が導入された。 リーグ 1990年 フランスラグビーリーグの名称への「ラグビー」の使用禁止解除された。これいによって名称はRugby à Treizeへと戻ったリーグ 1991年 ブリテン諸島フランスで開催され第2回ラグビーユニオンワールドカップ決勝ロンドントゥイッケナム)でオーストラリアイングランド12対6で破ったユニオン 1992年 アパルトヘイト廃止によりスプリングボクス国際ラグビーユニオン界に復帰したユニオン 1992年 ウェンブリー・スタジアム行われたラグビーリーグワールドカップ決勝73,631人の観衆集めオーストラリアグレートブリテン10対6で破ったリーグ 1992年 マーティン・オファイア(英語版)が世界記録440,000ポンド移籍金によりウィドネスからウィガン移籍したリーグ 1993年 アメリカ合衆国は初のラグビーリーグ国際試合カナダ5414破ったリーグ 1994年 デイヴィッド・ヒンチリフ(英語版議員ラグビーユニオン側のラグビーリーグアマチュア選手対す差別禁止する法案提出した。 ユニオン・リーグ 1994年 イギリス三軍ラグビーリーグスポーツであると認めたラグビーリーグは軍において他のスポーツと同じ立場得たリーグ 1995年 国際ラグビー評議会ラグビーユニオンが「オープンプロフェッショナルスポーツであると宣言した。これによって、試合関係する全ての支払い手当制限撤廃された。 ユニオン 1995年 南アフリカ開催され第3回ラグビーユニオンワールドカップにおいて、ヨハネスブルクエリス・パークで行われた決勝で、延長戦の末に南アフリカニュージーランド1512破ったユニオン 1995年 ブリテンワールドカップ復活しラグビーリーグ百周年祝われた。ウェンブリー行われた決勝オーストラリアイングランド16対8で勝利したフィジートンガ南アフリカ西サモアは本大会出場したが、アイルランドスコットランドアメリカ合衆国ロシアクック諸島モルドヴァモロッコラグビーリーグ新興国トーナメント英語版)に参加したリーグ 1995年 ラグビーユニオンヨーロッパ12クラブによって争われるハイネケン・カップ作られた。 ユニオン 1995年 オーストラリアにおけるテレビ放映権に関する紛争一部として、イギリスRFLニューズ・コープからラグビーリーグスーパーリーグ新設する87百万ポンドオファー受けたリーグ側は夏シーズン制移行することを承諾し、パリ・ザンジェルマン・ラグビーリーグ(英語版)がイギリスのトップクラブに加わり14チーム参加したリーグ 1996年 RFLラグビーリーグスーパーリーグビデオ判定導入したリーグ 1996年 オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの間で争われるラグビーユニオントライ・ネイションズ始まったユニオン 1996年 イングランドユニオンおよびリーグそれぞれトップクラブであるバース・ラグビーウィガンRLFCが、それぞれのルール試合を行うという歴史作ったクラッシュ・オブ・ザ・コーズ参照)。最初試合マンチェスターメイン・ロードにおいてリーグルール行われウィガンバース82対6で勝利した2週間後、リターンマッチトゥイッケナムにおいてユニオンルールで行われバースウィガン4419勝利した。 リーグ・ユニオン 1998年 オーストラリアにおいて、スーパーリーグ戦争英語版)が終わり迎え、ニューズ・インターナショナル(英語版)とオーストラリアン・ラグビーリーグ(英語版)は彼らの大会融合させてナショナルラグビーリーグ作ることで合意したリーグ 1998年 コモンウェルスゲームズおよびアジア競技大会においてラグビーセブンズ競技始まったユニオン 1999年 IRBセブンズワールドシリーズ始まったユニオン 1999年 ウェールズ開催され第4回ラグビーユニオンワールドカップ、カーディフミレニアム・スタジアムで行われた決勝オーストラリアフランス3512下したユニオン 2000年 IRB南半球スーパー12試みた後、国際ラグビーユニオンに「シン・ビン」と「テレビジョン・マッチ・オフィシャル」(TMO) を導入したユニオン 2000年 ラグビーユニオンのカリッジリーグはチューリッヒ・プレミアシップとなったユニオン 2000年 ラグビーユニオンファイブ・ネイションズイタリア参加によりシックス・ネイションズ・チャンピオンシップとなったユニオン 2000年 スタジアムオーストラリア世界記録109,874人の観衆の前で、ニュージーランドオーストラリアかろうじて破ったユニオン 21世紀2001年 ラグビーユニオンライオンズによるオーストラリア遠征が行われた。ワラビーズはライオンズ初め勝利したユニオン 2003年 ラグビーユニオンチャーチルカップカナダアメリカ合衆国、イングランド・サクソンズ(イングランドA代表)と招待国1チーム(後に3チーム)によって始まったユニオン 2003年 オーストラリア開催され第5回ラグビーユニオンワールドカップ、シドニースタジアム・オーストラリア行われた決勝で、イングランド延長戦の末にオーストラリア2016破ったユニオン 2003年 ラグビーリーグヨーロッパ全土への振興のために欧州ラグビーリーグ連盟英語版) (RLEF) が作られた。 リーグ 2006年 フランスのチームカタラン・ドラゴンズにラグビーリーグのスーパーリーグライセンスを与えられリーグ 2007年 フランススコットランドおよびウェールズ開催され第6回ラグビーユニオンワールドカップ決勝スタッド・ド・フランスにおいて、南アフリカイングランド15対6で破ったユニオン 2008年 ラグビーリーグ2000年大会以来ワールドカップ開催したリーグ 2011年 ニュージーランド開催され第7回ラグビーユニオンワールドカップ決勝オークランドイーデン・パークにおいて、ニュージーランドフランスを8対7破ったユニオン 2011年 14チーム2013ラグビーリーグワールドカップ出場得た: オーストラリアイングランドニュージーランドサモアウェールズフィジーフランスパプアニューギニアアイルランドスコットランドトンガクック諸島イタリアアメリカ合衆国リーグ 2012年 トライネイションズアルゼンチン含んで拡大しラグビー・チャンピオンシップ改称された。 ユニオン 2015年 ニュージーランド第8回ラグビーユニオンワールドカップ決勝オーストラリア3417下し、初の連覇達成したユニオン 2016年 アメリカ合衆国PROラグビー初開催シーズンPROラグビーはわずか1シーズン解散したユニオン 2016年 夏季オリンピックラグビーセブンズ競技開始ユニオン 2017年 トロント・ウルフパックカナダ初の完全なプロラグビーリーグチームとなったイギリス/フランスのプロラグビーリーグシステムの3部ディビジョンであるリーグ 1加入したリーグ 2018年 メジャーリーグラグビー初開催シーズンアメリカ合衆国とカナダのラグビーユニオンチームが参加ユニオン 2019年 ラグビーワールドカップ日本大会開催決勝南アフリカイングランド3212破り3回目優勝ユニオン

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「ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表」を含む「ラグビーフットボール」の記事については、「ラグビーフットボール」の概要を参照ください。

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