ラグビーユニオンとアパルトヘイト
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「ラグビーユニオンの歴史」の記事における「ラグビーユニオンとアパルトヘイト」の解説
詳細は「ラグビーユニオンとアパルトヘイト」を参照 「ラグビー南アフリカ共和国代表」も参照 1948年に南アフリカでアパルトヘイト法が可決される前ですら、南アフリカへ遠征するスポーツチームは非白人選手を排除する必要を感じてきた。1906年、南アフリカチーム(英語版)は黒人のイングランド代表選手ジミー・ピーターズ(英語版)の選出に反対したが、当局者らによってプレーすること納得させられた。しかし、その後にイングランドが南アフリカ遠征を行った時には、ピーターズは代表に選ばれなかった。ニュージーランド代表は特にこれを行い、1928年のオールブラックスの遠征からマオリ系のジョージ・ネピア(英語版)とジミー・ミル(英語版)の排除と、その9年前のニュージーランド陸軍チームからのランジ・ウィルソン(英語版)の脱落は、当時ほとんど論評されなかった。しかしながら、1960年、「変革の風(英語版)」演説とシャープビル虐殺事件をきっかけとしてアパルトヘイトに対する国際的批判が大きくなった。 この時点から後、スプリングボクスは次第に国際的な論争と抗議の標的となった。 日付出来事1960年 「No Maoris, No Tour」のスローガンに基づく組織的運動と15万人が署名した白人選手のみの遠征に反対する嘆願書にかかわらず、マオリ選手を含まないオールブラックスが南アフリカへ遠征した。 1969年 1969年のスプリングボクスのイギリスおよびアイルランド遠征のあらゆる場所で、大規模な反アパルトヘイトデモが起き、多くの試合が有刺鉄条網の向こう側でプレーされなければならなかった。 1971年 スプリングボクスのラグビーユニオンオーストラリア遠征は抗議活動を受けた。 1976年 IOCによる南アフリカとのスポーツ交流の禁止に従わなかったにもかかわらず、IOCがニュージーランドのオリンピック参加を拒否しなかったため、28の国がこれに抗議して1976年夏季オリンピックをボイコットした。 1981年 1981年のニュージーランド遠征(英語版)はグレンイーグルス合意(英語版)を無視して勧められた。この遠征とニュージーランドにおける大規模な市民の分裂は、ラグビーをはるかに超えた波及効果があった。 1984年 1984年のイングランドラグビーユニオンの南アフリカ遠征(英語版)では、ブリストルのラルフ・ナイブズ(英語版)のみが政治的理由のため遠征を拒否した。 1985年 計画されていたオールブラックスの南アフリカ遠征がニュージーランド高等法院(英語版)によって差し止められた。これの反抗する南アフリカ遠征が翌年にザ・キャバリアーズ(英語版)と呼ばれるチームによって行われた。 1989年 国際ラグビー評議会によって認められた世界選抜が南アフリカへミニ遠征を行った。ニュージーランドを除く全てのラグビー伝統国が選手を送り出した(ウェールズ10人、フランス8人、オーストラリア6人、イングランド4人、スコットランド1人、アイルランド1人)。
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