組手スタイル
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変化していった組手スタイル 増田の組手スタイルは、長い選手生活の中で常に変化し続けてきた。選手には大きく分けて自分の攻撃パターンに拘るタイプと、攻撃バターンを変更していくタイプと二通りいる。前者の典型的な選手が黒澤浩樹であるが、増田は後者のタイプである。 浜井識安直伝の前蹴りと左下突き 松井章圭の合わせ技と上段回し蹴りと後ろ回し蹴り 大西靖人の奥足への下段回し蹴り ミッシェル・ウェーデルのカウンター アンディ・フグのかかと落としとヒット・アンド・アウェイ戦法 など、いっしょに練習したり、対戦した相手からそれぞれの良い技を吸収していた。 松井章圭が増田のカラテを 「 組手のスタイルは年々変わってきているけれども、増田選手の場合、その流れに取り残される事はないですね。彼の組手スタイルは、僕と試合をしていた頃に比べると、時代に応じて変わってきています。そして、強さやカラテの技術的な面では頭が下がります。今の若手や歴代の選手も含めて、増田選手ほどオープントーナメント全日本空手道選手権大会やオープントーナメント全世界空手道選手権大会で、高いレベルを維持できた選手はいない。日本でただ一人、全世界選手権に3回出場〔1994年(平成6年)時点〕した選手ですし、安定感とか強さではピカイチだと思います。外野から見ていても最高の実力者。現役時代、自分は3回対戦し、いずれも勝ちをもらっていますが、実感として「ああ、勝った」と思えた試合は一つもありませんね。それと増田選手は勝負に対する執着心がすごく、相手によって臨機応変に戦う。ジャン・リビエール戦のようにヒット・アンド・アウェーをして対応する。 」 と評する所以である。 スピード 増田にはパワーもあるのだが、瞬発力を活かした攻撃は「爆撃機」と称されるほどのラッシュ力であった。その瞬発力は、客観的な体力テストでも証明されている。去る1986年(昭和61年)5月8日に現役極真会館のトップ選手の体力測定が、早稲田大学体育局の主催で行われた。参加者は増田の他に、松井章圭・小笠原和彦・緑健児ら、オープントーナメント全日本空手道選手権大会ベスト4経験者を含む17名の選手であった。測定項目は、筋力・筋持久力・脚パワー・柔軟性・敏捷性・平衡性であったが、増田は脚パワー(垂直跳び:75.5センチメートル/平均:61.91センチメートル)、敏捷性(反復横跳び:56回/平均:47.1回)で優れた値を出している。ちなみに一般人(24歳男性)の平均はそれぞれ57.5センチメートルと44回であった。一般人を上回るのは当然だが、増田の場合、体重が85.5キログラムありながら、上記の結果を出した。これらが増田の爆発的攻撃力の源の一因であるといえよう。
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その体格からパワーの組手と思われがちだが、実際は左右の突き、中段回し蹴り、前蹴り、膝蹴りを主軸に、上段、下段回し蹴り、後ろ回し蹴り、後ろ蹴りを使いこなし、突きから蹴り、蹴りから突きへのコンビネーションで連打ができる事に秀でていた。 松井章圭は「大山倍達総裁は、豪快な中に華麗さを備えた組手、特に自分と体質が同じ突きが強くて、華麗な組手をする人が好きでしたね。たとえば、中村誠師範であるとか。中村師範は勿論体格、パワーでも圧倒していましたが、スピードも速くて、突きから蹴りへの繋ぎのタイミングが絶妙だったですね」と評している。
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石橋雅史 「 茂くんもセンスよかったね。最初の頃はそれほど切れ味がいいとは思わなかったけど、的確に受けて捌いて入ってくるようになった。 」 加藤重夫 「 茂先輩は冷静な人で、こちらが体を小刻みに振っているのにカウンターで正拳をガツンガツン打ち込んできた。 」 盧山初雄 「 直線的な組手をする人でしたが、懐が深かった。組手は力強く、我々が懐に入っていこうとするとピシャリと顔面に掌底を合わせられましたね。ダイナミックなカラテとでもいうのでしょうか。 」 添野義二 「 パンチは凄く重く、体の心まで響くような感じだった。金的蹴りも得意で昇段審査の際、アメリカに行く前の茂師範と組手をしたけど、猫足の構えから、前足で2回ばかり金的を蹴られ、死ぬ思いをした。 」
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殴打技による顔面攻撃が禁止されている選手権大会のルールのため、ボクシングでいうジャブ、ストレートとワン・ツーを、胸元や鎖骨に打ち下ろすように突いていた。突きから間合いに応じて膝蹴り、左前蹴り、左回し蹴りなどを繰り出していた。さらに二段蹴り、跳び膝蹴り、跳び回し蹴り、跳び後ろ回し蹴りなどの大技も出していた。その一方で右の蹴りは、完治したとはいえ、過去に右膝を痛めていた事から、後ろ蹴りのみであった。また、ウエイトトレーニングを本格的に取り入れ、組手に生かしていた。 盧山初雄は「佐藤勝昭のカラテは、大山道場とはまた違ったカラテだと思うんです。彼の場合は、極真のオープントーナメントが世に広まってから極真を学んだ人間だから、あくまでも選手権大会を目的としてカラテを修行しましたよね。それ以前というのは、大会がなかったから自分がカラテの達人・名人になる事を目標にして稽古をしていましたから、当然、稽古の内容は違うわけです。ルールを意識した稽古のカラテとルールを考えずに稽古したカラテは質的にも内容的にも違いますね」と評している。
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正拳突き・裏拳あご打ち・掌底・背刀打ち・前蹴り・金的蹴りを多用し、特に前蹴りは事前に「前蹴りやるぞ」と相手に伝えておいても、防げないほどの威力とスピードがあったという。ある日、大山道場によく出入りしていた太気拳創始者澤井健一が、次々と拳法の動きで初段クラスの3、4人の門下生を、あっという間に倒した。大山倍達は「このままではまずい」と思い、安田に澤井と組手をさせる事にした。行う前に大山は安田へ近づき、ボソッと「当てて構わん」と言った。そして組手が始まり、安田の前蹴りで澤井は腸断裂の重傷を負ったという逸話がある。なお、その様子は偶然、道場に居合わせた記者の手により、写真に収められている。
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組手スタイル
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極真会館時代は、半身に構え、顔面めがけて長身を利してスピードの乗ったワン・ツーとストレートを打ち込んできた。外れてもそのまま接近して後襟首をつかみ、足払いの攻撃にほとんどと言っていいほど全員がかかってしまい、投げ飛ばされた。 加藤重夫 「最高の外国人選手はカレンバッハでしょう。あの選手が極真に残っていたら本当に面白かっただろうね。相手にする時は大変だった。僕とか藤平君なんかは小柄だから、飛び込んで金的蹴りしかなかった。カレンバッハは相手の呼吸にあわせ、技を出すのが上手だった。頭が良く研究家でもあった。得意の右ストレートと足払いでみんなやられていたね」 盧山初雄 「カレンバッハは顔面と金的を十分カバーした構えのまま、ジリジリ攻め寄ってくる。私はその度に少しつづ後ろへと押され、道場の壁まで追いやられた。もうこれ以上あとがないと知るや、苦しさのあまり攻撃をしかけるのである。捨て身の攻撃というのだろうか。このような状態の中での攻撃など、とてもではないが相手にきくはずがない。突いても蹴ってもまるで歯が立たない。その上、後屈立ちに構えた前脚からちょこんと蹴られるだけで、身体が大きくのけぞり、さらに左右の正拳突きまるでピストン運動のように連続してくる。まるでサンドバッグとなり、彼の攻撃をもらう度に息がつまり、立っているのさえつらい。私は3、4回 “参った” をした。本部道場指導員として、まさに世の春を謳歌していた私が空手道に対する理念が根底から崩れ、自分の修行まで左右するような大疑問をもつこととなった瞬間でもあった。しかし、彼と組手をしたお陰でどうすれば自分より大きい人間を倒すことが出来るか、本当の空手道の強さを目指すきっかけとなった。カレンバッハには試合のルールを超越した強さがあった。私が歴代の外国人カラテ家で、ナンバーワンを挙げるとするならばやはりカレンバッハだ」 山崎照朝 「カレンバッハはどんなごまかしにも乗らず、冷静に自分の体力を生かした組手をした。私にとって体力差を感じた初めての対戦相手であり、どうしたら完璧に大きい者との組手を受けて立つことが出来るか、いつも考えることになった。後にキャンプ座間で指導を任せられたときに、道場生には身長が2メートル近く、体重が90キログラム以上の身体が大きい者ばかりが十数人いて、中にはボクシングをやっている道場生もいたことで、体力負けしない技を研究することにとても役立った」 郷田勇三 「僕は組手をやってないけど、結構みんな、てこずっていた。藤平君なんかは、飛び込んで蹴りの軸足を蹴って倒していた。だけど、カレンバッハは柔道もやっていたから、倒れるとき藤平君をガッと掴んで倒れるんだな。倒れたときは藤平君が上なんだけど、次の瞬間には入れ替えている。そういう器用さと強さがあったね。選手権大会なら藤平君の方が強いだろうけど、カレンバッハにはそういう巨体に似合わない、したたかさがあったね」
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組手スタイル
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構えた前の手(左手を前に構えているので、荒賀の場合は左手)から繰り出される刻み突きをベースに戦う。本人曰く、この技はその時の調子のバロメーターである。第43回全日本空手道選手権大会では右肩を故障しつつも、刻み突きと蹴りを駆使して優勝まで上り詰めた。
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組手スタイル
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技の習得が早く、フットワークを生かした素早い動きで相手を翻弄し、技の切れで倒すスタイルだった。泰彦の上段への中足蹴りは、黒崎健時から「禁じ手」と言い渡されていたほど強力だった。 大山倍達 「 山崎照朝と並ぶ天才。泰彦の絶好調の頃の蹴りは文字通り風車だったよ。とにかく迅かった。泰彦はサッカーの経験もあるから、それが生かされたのではないか。ヌンチャクやトンファーなども、容易に習得してしまう上手さを持っていた。 」 石橋雅史 「 弟の泰彦くんはすばしっこいんだよ。そういうものが身につけばもっと伸びると思っていたら、その通りになったからね。 」 安田英治 「 大山茂と泰彦の兄弟も僕がよく教えたんですけども、泰彦はまだ小さかったけれど覚えが早くてね。『何か一つこうしろ』と言うと、僕が次に道場へ来る時にはもう覚えているわけです。 」 黒崎健時 「 泰彦の方が春山よりいくらか上じゃなかったかな。大山道場時代では大沢昇と泰彦、この二人が一番だったろう。泰彦は速かったし、うまかった。強さというものは相対的なものだから一概に決めかねるが、その全盛期に於いて他の誰よりも技が切れた、ということで言えば文句なしに泰彦だな。 」 郷田勇三 「 当時は黒帯と茶帯の差が大きかったんだけれども、春山先輩と泰彦師範は黒帯が真剣になって相手をする茶帯で、中には組手を避ける黒帯が何人もいた。泰彦師範と春山先輩の対決は、フットワークを駆使した出入りの素早いスタイルである泰彦師範と、春山先輩のパワーで押すスタイルの、技と力の対決となって見応えがあった。お互い負けず嫌いでムキになるから、いいライバルだったんじゃないかな。泰彦師範は大山道場時代からフットワークを使って、いろんな技を使っていた。師範が第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場した時は、一度カラテから離れて戻ってきた直後だったんですよ。だから、殆ど稽古していなかった。それでも準優勝してしまったんだから。やはり素質とその前の貯金があったからだろうね。 」 加藤重夫 「 泰彦先輩のスピードには驚きましたよ。左右どちらも同じように動ける上にスピードがあったからね。どうしてこんな風に動けるんだろう?って不思議だったね。 」 盧山初雄 「 泰彦先輩の組手は他の人たちと違い、相手の後ろに回り込み引っ掛けて倒したりするのです。体の柔らかさと天才的な閃きがあった先輩ですね。技を真似して会得しようとしたこともありました。華麗といえば華麗な組手なのですが、その中に天才性を秘めていました。人間には泰彦先輩のように、持って生まれた天分というものがある人もいることを知りました。 」 山崎照朝 「 私が入門前に道場見学をした時、いろいろな人たちの組手をみた。その中でも大山泰彦先輩の動きに釘付けになった。先輩はとてつもなく速い動きで、柔道出身らしい相手のパワフルな攻撃を捌いていたが、攻撃に転じた瞬間、突き出した腕を取られ一本背負いで投げられた。私が「やられた!」と思った刹那、先輩は投げられた勢いを利用して投げ返し、上に乗るや否や下段突きを決めた。泰彦先輩の見事なケンカ強さだった。 」 岸信行 「 大柄な相手と戦う時に真っ直ぐ中へ入るとみせかけて、背後に回りこみ片手を首に回し、もう片方の手は髪をつかんで、床に引き倒した。ヒントになったのは「天才空手家」と呼ばれていた大山泰彦先輩の左右にパッパッと飛ぶ動きだったんだよ。泰彦先輩の動きは風車に例えられるぐらい機敏だったからね。俺は泰彦先輩のそのサイドへの動きを見ていて「あぁこの動きいいなあ」と思い、そこからこの技を作り上げていった。 」 佐藤勝昭 「 先輩たちから聞いた話だが、ある時FBIの高官が来日し、彼らの前で中村忠先輩と大山泰彦先輩が模範組手を行った。両者互いにじっとして動かず、隙をうかがう。そして、接近した次の瞬間にはもう離れていた。そのとき、中村先輩の口から、歯が2,3本、ポロリと落ちたという。FBIの高官は、あまりのそのパンチの速さと威力に、そして真剣勝負の迫力に驚愕したということだった。泰彦先輩は第3回全日本選手権にも出場した。かつての伝説的な「触れなば切れん」といった強さは最早なかったが、実に巧いのである。フットワークを使った速い動きで後ろ蹴り・パンチを繰り出し、相手を追い込む。それ以上に素晴らしいのは完璧な受けである。試合ぶりは老獪で、いつの間にか自分のペースにもちこんで、相手の技を殺す。相手は自分の技を出す暇もなく、気が付くと試合が終わっている、といったあんばいだった。この時期の泰彦先輩は相手を徹底的に叩きのめす破壊力こそなかったが、相手の実力を封じて試合を進める円熟さを示した。 」 磯部清次 「 大山泰彦先輩こそ「真の天才」だっただろう。大山総裁自ら泰彦先輩の組手は天才的だと絶賛していた程である。もちろん私にとって、泰彦先輩は雲の上の存在だったという事は言うまでもない。私が本部道場に入門した当時、泰彦先輩は休会中だった。弁護士になるため、勉強中だったのだ。そのため、5~6年は空手から離れていたはずである。ところが、私が茶帯になった頃、泰彦先輩が本部道場に戻ってきた。先輩の事を噂に聞いていた私は、「この人が泰彦先輩か」と有名人を見るような目付きで眺めていたものである。泰彦先輩の組手を何度も目にしたが、技の切れ味・スピード・身のこなしは当時の本部道場でも随一だったと記憶している。対戦相手を華麗な技で翻弄する姿は、まさに天才の名に相応しいものだった。私は泰彦の先輩の組手を見て『5~6年のブランクがあるにもかかわらずこれほど凄いのだから、数年前はどれだけ強かったのだろう』と心底感心していた。 」 大石代悟 「 大山泰彦先輩と山崎照朝先輩。この二人が極真カラテが輩出した代表的な天才ですね。泰彦先輩の空手に対する理論と、全体の動きそのものが天性のもので、他人が真似できるような次元ではありませんでした。私と泰彦先輩の出会いは、1970年1月末に山崎先輩が指導するクラスに出席した時でした。稽古終了後に白帯締めた人が道場に入ってきたんです。そうしたら山崎先輩が入ってきた白帯に対して、姿勢を正して『押忍』と頭を下げたんです。山崎先輩はムダな事は一切しゃべらず、めったに笑ったりもしない人でした。私の憧れで、本当にストイックで一徹な先輩で、凛として、人を近づけないような、そしてまず人に頭を下げないような人でした。その山崎先輩が入ってきた白帯に対して、頭を下げたんです。私も負けん気だけは強かったですし、黄帯を締めていましたからビックリして「何だ、この白帯は?」と思いました。 するとその白帯から「君、ちょっと組手の相手をしてくれないか」と手招きされたんです。「相手をしていいのかどうか」と思っていたら、滅多に笑わない山崎先輩が笑いながら、「OK」の合図をされたのです。それで組手をしたのですが、あっという間に転がされました。もう1回向かい合ったら、またやられました。黄帯を締めていた私は「どんな偉い人かわからないけど、やっぱり白帯に負けちゃいけない」と思い、また向かっていたら、3度目はより一層鮮やかに転がされました。そこで山崎先輩が「先輩、もういいでしょう」と言ったんです。その白帯が泰彦先輩でした。 あとになって、背後に回り込まれていたのがわかったのですが、あまりに速過ぎてその時はわからなかったんです。泰彦先輩の次元の違う強さを嫌というほど、思い知らされました。泰彦先輩が「道着を着たのは何年ぶり」など山崎先輩といろいろ話し合ってましたが、私は幸運にも、二人の天才を目の前でみる事ができました。そして『私にできる事は努力あるのみ』と思い知りました。 」
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組手スタイル
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大山の組手スタイルについて高弟はそれぞれ次のように証言している。 石橋雅史 「 立ち方は両足に均等に体重をかけた「自然体」に近い立ち方を用い、片方の掌でみぞおちをカバーしている。構えから間合いをつめる場合は、ただ歩を進めるのではなく、掌を外側に向けて回しながら、掌の旋回がそのまま「掛け受け」になっている状態で前進する。大山先生は組手では決して後ろに下がることはなく、攻撃を捌きながら側面に回って反撃する動きを身上としていた。剛柔流の型を生かし、掛け受けからの掌底打ち、 手刀上段受けから正拳回し打ちまたは手刀打ち、 相手の肘関節の逆を取る 弓張受けからの孤拳受け 猫足立ちから下突きに繋ぐ掛け受け、 猫足立ちから逆技につなぐ掛け受け など、円型逆突きを基本にした掛け受けからの手技を多用し、手刀・回し打ち・掌底打ちなどの円の攻撃、また、相手の攻撃をかわしながら入る柔の歩法などに長じていた。しかも、その動きは剛柔流の型の中に見出せるものが多く、大山先生は、ある意味で伝統の空手の動きを組手でそのまま体現できる数少ない達人のひとりであった。 」 安田英治 「 僕が見てきた大山先生の組手は、様々な要素を取り入れて相手に応じて変えていくもので、これと決まった形はなかった。追い突きよりも右の逆突きを得意とし、蹴りでは前蹴りが多かった。直線よりも、当然受けて打つんだけれども、それを円を描きながら回り込んでといった動きであった。受けるというのも普通にパンと受けるのではなく、引っ掛けていた。僕らなら上段受け、中段受けなんてやるけれども、大山先生は受けて掛ける。いろいろな武道を先生は学ばれたから、その中から生まれてきたのかもしれない。掛けて、相手の動きに合わせて捻ったり関節技をかけたり、それでも完全に極めることはあり得ないわけで、ある程度で止めていた。空手の中に違うものを入れていく、これは他の空手の師範にはない所で、格闘技的な要素を追求されていたのだと思う。前手か両手で掛け、回り込んでしまえば横に行く、相手は死に体になるから、後は突いても先生は柔道もなさっていたから、ポンと投げていた。蹴りがきたら、受けずに肘で落としたりもしていた。正拳突きを当てるにしても中段で、顔は掌底で押したりして、まともに当てることはしなかった。裏拳・回し打ち・振り打ちなどを回り込みながら使っていたが、剛柔流的な要素でしょう。とにかく技は多彩で、最終的には正拳が威力あることははっきりしてるけど、それをみぞおちにも形でしか当てなかった。接近したらヒジで突き上げるだけでなく、力があるからそのまま持ち上げて、3~4メートルも投げてしまったり、縦横無尽だった。 」 大山茂 「 まず、大山倍達総裁の組手の構えは左足前の猫足立ちが多かった。得意技は貫手で目突きと金的蹴りという激しいものだった。貫手の目突きは、バラ手にして、スナップをきかせて目を突かれると、もう目から涙がポロポロ止まらない。左前蹴りのあと、右のバックハンドという回転技も良く使っていた。それとよく使っていたのは左足前の構えから「尾麟(びりん)の構え」のように右手を前に出す。接近戦だと左足前なのに右手を前に出してきた。これで上体を逆にタメておいて左の掌底を出す。この掌底が真っ直ぐ来る時と振り打ち気味に来る時がある。ほとんど正拳は使わないで、ボディーを突く時でもコントロールして、ほとんど生徒にケガさせなかった。私は右の正拳が得意だったが、胸などはわざとたたかしてもらったが、胸の汗が私の目にバシッと入り、目がヒリヒリしたことを覚えている。「今のはいいね。もう1回来なさい」という感じだった。でもたいていは右の正拳で行くと左の掌底がカウンターで顔面に来て、次に総裁の右の拳などが飛んでくる。総裁の組手で多かったものは、遠い間合いは両手を前に出して「前羽の構え」で構えて、近づくとダイナミックな動きになる。よく使われていたコンビネーションは、左足前の構えのままで右手を前に出し相手の前手をひっかけ左の掌底、このあとに右の貫手・右の金的蹴りへと繋げる。ストレートな攻撃が得意だった。蹴りも前蹴り・後ろ蹴りといった直線的な攻撃が得意だった。左の前蹴りを出して、回転して右の後ろ蹴りを出したりね。この時の後ろ蹴りは、腰を入れた横蹴りぎみのやつだね。私も参考にさせてもらった。でも、総裁の蹴りの中で一番危なかったのは何と言っても金的蹴りだね。泰彦なんかも当時一番動いたからね。よく金的蹴りを喰らっていた。当時は毎日、総裁ひとりで何十人も組手の相手をしていた。とにかく総裁との組手はいい思い出ですよ。 」 大山泰彦 「 大山総裁は左足前の半身の組手立ちに構えて、スーと前に出て左手で相手の前の手を落とす。その時総裁の右手は掌底で顔面カバーする。払った左手で裏拳左右打ちのような感じで「最破(サイファ)」の型通りに下からポーンと来る。時には奥の右手で髪を掴まれ、それで裏拳を決められたこともある。総裁は相手の左手を払った後、受けた自分の左手を胸までもってくる。そうすると相手の胸に向かって肘が出る。そこからパーンと裏拳がきて右の正拳がゴチン。勿論強くは当ててこなかった。あとよくもらったのが、右の踏み足で間合いを詰めて右の掌底の回し打ち。だいたい耳の辺りをパチンと引っ叩かれた。また私が左の前拳で突くと総裁は左手で突きを受け引っ掛けながら、右手は私の肩を摑んで私の体をくるっと回し、それからドーンと押したり、投げ技はずいぶん使っていた。総裁は体は大きかったけれども、組手になると動きに柔らかさがあり、手が上から下から横から出たりしていた。普通の人だと一、二と真っ直ぐに来てそれから横の技となるんだけど、総裁の場合、いきなり裏拳だったり回し打ちが下からくる。ある時は裏拳打たれて右の正拳をお腹にポーンともらったり、ある時は摑まれて投げられたりした。とにかく総裁の両手が変幻自在で何が来るか、全く分からなかった。あとは目突きと金的蹴りかな。目突きは横から下からパッと入れられてしまうので「アッイテ」と思ったときには涙が出てた。金的蹴りも総裁の得意技で、蹴りを大きく蹴っていくとパチンとスナップをきかせて蹴られる。すると総裁は「キミ、金的は男の魂だよ。ケ、ケ、ケ」と(笑)。金的蹴りは私もよく真似した。 総裁はよく私の突きや蹴りをその大きな体で受けてくれた。「叩いてこい」というので、思い切り叩くと汗がパチッとはね返ってくる。「もっと強く」と再び言われ、「よーし」ともう1回叩くと上から掌底で頭をガチンと叩かれ、グシャと総裁の足元に潰されてしまう。でも、私たちには思い切りは攻撃しなかったね。裏拳でもキチっと握るんじゃなくて軽く握ってパンという感じだった。だから、総裁と組手をして次の日に残るケガというのはなかった。他の黒帯の人たちの方がイヤだったよ。総裁との組手は「パチっ」とのばされるんだけど気持ちよかった。「泰彦、頑張れ」という意味で叩いたと思う。それだけ弟子のことを思っていたんだと思うよ、総裁は。 」 中村忠 「 大山館長が僕らと組手をする時は、いつも受けの組手ですからね。攻撃をさせて、それを受ける。僕らは腹や胸をポンポンと突いても蹴っても構わない。そんな時の大山館長の組手の構えは、最初は「前羽の構え」で、次に寄り足をして、「尾麟の構え」、そして「龍変の構え」で、スッと踏み込んでくる。この上下に回転する手が、裏拳に変化したり、相手の道着を手刀で引っ掛けたり、様々に変化する。今度は手が来ると思って上段をガードすると、ローキックのように足払いでいきなり倒される。まさに変幻自在で、こちらからは動きが読めない。でも、僕ら生徒とやるときはほとんど正拳を使わず、掌底で顔面にバチンときたり、みぞおちやアバラを狙う時も掌底でしたね。掌底と言っても体重を乗せ、踏み込んで打ってくるのですごく効きますよ。僕も大山館長の掌底を脇腹に喰い、動けなくなったことがあります。でも、僕なんかじゃなく、もっとうまい上手な先輩とやる時は正拳も使うこともありましたよ。僕は高一でまだ始めて間もない頃で館長も手加減してくれていましたが、安田先輩や茂さん、泰彦さんなんかと、組手をするときは激しくやってましたね。大山館長は右の正拳が得意だったようですが、直線的な正拳だけでなく、回して打つ正拳もよく使っていましたね。それが回し打ちとは違って、正拳の背刀部側の拳頭で打つんです。館長の正拳は普通の人の何倍も拳頭が大きく、いろんな角度から鍛錬されていましたから、その拳頭の背刀部側をフックのように使い、相手が前へ出てくると、サッと左側45度へ体サバキして、すれ違いざまに右の正拳回し打ちを当てるんです。ただし、顔面やみぞおちは危ないので、わざと胸を狙って入れてましたね。 館長の組手は柔らかく受け、変幻するけれども、極めの時は「ウウッ!」と腹から呼吸というか気合を出し、瞬間的にすごい威圧感を感じさせるんです(原文ママ)。こちらは自由に攻撃させてくれるんですが、他から見るとあまり動いていないように見えるんです。実際に大山館長と向き合うと、撹乱されて攻められないんですね。「上からくるか下からくるか?」と思っているうちに倒されてしまう。最初は間合いが遠くて、こちらは突いたり、蹴ったりできるんですが、わからないうちにスーッと入ってきて、瞬間に何か小技を出してきてやられてしまう。今思うと、遠い間合いの攻撃も全て館長にコントロールされていたんでしょうね。館長はダイナミックな攻めの方に、接近すると相手の突きを孤拳で受け、その手を掌底に返して腹を打ったり、手刀に変化させたり非常に小技もうまい方でした。たぶん当時は30代前半の一番円熟していた時期だったんじゃないでしょうか。大山館長はあの大きな体で動きが速く、足も股割りで全部開く柔軟性をお持ちでした。回し蹴りも横蹴りも上段にヒュッと上がりましたよ。組手のときはほとんど中足で回し蹴りを使い、やはり強く当てないように気を使っていましたね。でも一番の得意技はやはり右の正拳で、掌底や孤拳はそれを使うための付随する技だったと思います。 」 山崎照朝 「 組手において私が大山総裁から学んだ最も重要なことは「技は力の中にあり」で、相手の構えを正面から崩していく破壊の組手であった。フットワークを使う動きをしてくる相手よりも、ガードが固く、どっしりと腰を落とした静の動きを持つ相手の構えはなかなか崩せない。総裁はこういう状態のとき、よくこう言われた。「何も体を打つ必要はない。正拳を打つんだ。相手の手を殴って崩せ。相手の出している前手を殴って、構えを崩して相手の中に入れ!」ということをいつも言っていた。「相手の構えが固ければ、それを力で崩していけばいいじゃないか」という正面突破の理論が総裁の考え方の根本にあると思った。「相手の拳が強かったら、相手の拳を殴って使えなくしてしまう。蹴りが強かったら逆に蹴り返して折ってしまう。相手の最も自信のある技を受けるのではなく、打ち砕いて戦意をなくしてしまう。これが極真カラテであり、組手の極意である」と常々仰っていた。相手の攻撃を受けるときも極真では真っ直ぐ直線で中に入って受ける。他流の場合、サイドに出て捌くのが一般的だけど、相手にしてみたら体勢をそれほど崩されないから、不利にならない。直線で受けるということは相手の攻撃のラインを変えるということだから、無駄な動きは不要になる。総裁の理論で「点を中心に円を描き、線はそれに付随するものである」という言葉があるが、これは自分が点になって直線で進むことによって相手を崩し、また相手の攻撃ラインを変えて、相手の背後に回りこむことで結果的に円を描かれるということで、自分の攻撃が必然的に防御になり、防御は攻撃になる「攻防一体」を意味している。総裁は私に「点を中心に円を描く、破壊の組手」を伝授してくれたと思っている。 」 真樹日佐夫 「 大山先生は強かったよ。スタイルは地味なんだ。でも肘と膝が強い。左右の肘が横っ腹にくる。みんなその場でバタッといくくらい肘が強かった。蹴りは、俺がいたころはもう肉がついてて脚が太すぎてあんまりだったけどな。だからな、ないものねだりじゃないけど東谷巧とか、華麗な蹴りを持っているのを可愛がってたな。 」
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