極真会館時代
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「ウィリー・ウィリアムス (格闘家)」の記事における「極真会館時代」の解説
極真会館コネチカット支部に入門。大山茂の指導を受ける。 1975年11月、第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場。3回戦でハワード・コリンズ] に体重判定で敗退。 梶原一騎が極真空手を題材に製作した映画『地上最強のカラテPART2』で巨大なグリズリーとの闘いを披露し、“熊殺し”の異名を取る。 1979年11月、第2回全世界選手権では、準決勝で三瓶啓二に反則負けとなり、3位入賞となった。しかし、杉板による試割りでは正拳5枚、足刀 6枚、手刀8枚、猿臂(肘)7枚の合計26枚を割り、当時山崎照朝が保持していた合計24枚の記録を更新した(現在の記録)。 第2回全世界選手権前にウィリーは「プロレスこそ最強の格闘技」を標榜するアントニオ猪木に対し、“地上最強は極真カラテ”の思いから挑戦を表明した。実際には梶原一騎から新日本プロレスに売込みがあったという説もある。しかし、大山倍達の「門下生の他流試合を禁止」という考えから、ウィリーは破門される。個人として猪木と対戦する事になったウィリーだが、黒崎健時や大山茂が支援した。 1980年2月27日、蔵前国技館で格闘技世界一決定戦(ウィリーはグローブを着用)が組まれた。当日は“極真空手vsプロレス”の様相を呈し、両陣営の選手や関係者がリングサイドに陣取った。結果は4R1分24秒、両者がもつれたままリング下に転落。ドクターストップによる引き分けに終わる。 破門を解かれ極真会館に復帰したウィリーは、1984年1月の第3回全世界選手権に出場。4回戦で田原敬三と再々延長まで戦うが判定5-0で敗退した。同年、大山茂がUSA大山空手を設立するとウィリーもそれに従い、極真会館から離脱した。そして、ウィリーは選手を引退し、バスの運転手を本業として生活をしていた。
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