極真会館除名・芦原会館設立・死去までとは? わかりやすく解説

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極真会館除名・芦原会館設立・死去まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 09:46 UTC 版)

芦原英幸」の記事における「極真会館除名・芦原会館設立・死去まで」の解説

しかし1980年9月、自らの弟子石井和義命じた芦原道場関西進出などが原因となり、師である大山倍達対立し極真会館永久除名される同年自流である芦原会館発足相手攻撃受け流して側面背後から反撃加える『サバキ捌き)』と呼ばれる技術体系化し、「誰にもできるカラテ」を提唱海外各国へも積極的に指導に赴き、芦原会館国際的な空手会派へと育て上げた。しかし1992年筋萎縮性側索硬化症ALS)を発症し2年以上に渡る闘病生活の末、その生涯閉じた。体の自由が利かなくなって口述館長業務続け喋れなくなってからは文字盤を使い、手が動かなくなってからは目で文字盤合図する等で、亡くなる当日まで館長業務従事し続けた最後に病院運ばれる直前次期館長である英典に文字盤で伝えた言葉は「後を頼む」だったという。指導した門下生には石井和義の他に二宮城光照尾暢浩らがいる。他にも努力の男として芦原英幸著書空手燃え空手生きる」の中で「努力の男」と紹介されている寺嶋隆浩という極真会館芦原道場入門後、僅か1年満たない月日にして初段となる力量持った若く精悍な男がいた。寺嶋隆浩は、口数少なかった空手における熱意センス当時道場生の誰もが認めるものであった事実大学2年生にして芦原道場岡山支部門下生指導する立場であった芦原英幸氏は、寺嶋隆浩の空手センス決して目立つことをしない人柄信頼し、よく電話をしていた。寺嶋隆浩は大学卒業後、福岡県数学教師という煩忙な職に付きながらも芦原英幸氏の指導のもと熊本県北支部、博多支部開設九州北部中心に精力的に芦原空手広めたまた、本部道場後輩にあたる長谷川一幸全日本空手道選手権大会前に四国に赴き、芦原特訓受けた太気拳創始者澤井健一柔道家・棟田利幸(棟田康幸の父)といった武道家らとも交流深く、特に少林寺拳法からは自らの技術・指導体系や、自派道場普及方法大きな影響受けた昭和40年代第一次キックボクシングブームの頃には、自らキックスタイルの試合四国に於いて開催している。また武器術では手裏剣ナイフ投げ名人としても知られ、またトンファ改良したAバトンなる護身具開発している。 著書の中では「師と弟子一生の関係」のような考え方否定していた芦原だが、自身の元を去り独立した弟子達はほとんど許さず、自らの葬儀への参列許さぬよう側近家族遺言しており、石井和義のように葬儀場参列断られた者も多かった

※この「極真会館除名・芦原会館設立・死去まで」の解説は、「芦原英幸」の解説の一部です。
「極真会館除名・芦原会館設立・死去まで」を含む「芦原英幸」の記事については、「芦原英幸」の概要を参照ください。

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