極真カラテの誕生
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「フルコンタクト空手」の記事における「極真カラテの誕生」の解説
大山倍達が始めたフルコンタクト空手は、しばしば空手界からは異端視され、また本人もそのような受け取られ方をある種肯定していた側面はあるが、実際にはその起源は大山倍達が所属していた剛柔流にある。山口剛玄や曺寧柱らが率いた本土の剛柔流は、戦前から独自に「チョッパー」と呼ばれる防具付き空手を、戦後は「当て止め」というライトコンタクト空手を実践していた。剛柔流は後に寸止めルールに移行するが、大山が学んでいた頃の剛柔流は、防具付き空手もしくはライトコンタクト(セミコンタクト)による空手だったのである。 大山はその後、山田辰雄や森良之佑との親交を通じて、ますます直接打撃制空手の実現へと傾斜していくが、そもそも彼の空手修業の出発点からして、「当てる空手」は当たり前だったのである。大山は昭和31年(1956年)、東京池袋に大山道場を開設した。当初は剛柔流所属であったが、この当時からすでにフルコンタクトによる組手練習を行っていた。後にルール上の対立から袂を分かち、昭和39年(1964年)、大山は正式に国際空手道連盟極真会館を立ち上げる。昭和44年(1969年)9月には、直接打撃制による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を開催した。 発足当初は町道場規模であったが、昭和46年(1971年)から大山を主人公にした漫画「空手バカ一代」の連載が始まると、爆発的なブームが起こり、極真会館は急成長を遂げていく。極真カラテの成功は、漫画人気によるところが大であるが、それ以外にも大山の精力的な執筆活動、メディアを通じての宣伝など、空手家としては異例の自己プロデュース力を持っていた。こうして、戦前から再三挫折を余儀なくされてきた直接打撃制空手は、極真会館がはじめて体系化に成功し、社会的認知を得たのである。
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