地理歴史
地理歴史
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1962年、福山市東部に日本鋼管 (NKK) 福山製鉄所(現・JFEスチール西日本製鉄所)が設立される。それに伴い山地を切り開いての宅地造成が行われ、学区が形成された。学区内世帯の多くがNKKおよびその関連会社に従事し、また日本各地からの転住者が多い。
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地理歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 14:03 UTC 版)
つぼう郷土史研究会という組織の手によって、継続的な地理歴史の研究伝承がなされている。 史跡 西楽寺 - 高野山真言宗の寺院。 神森神社 石州往来
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地理歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 10:20 UTC 版)
東は黄海北道、西は朝鮮西海、北は平安南道、南浦特級市、黄海北道、南は大韓民国仁川広域市、朝鮮西海に面す。黄海南道に、市は一つしかない。 平野が広く、載寧平野、延白平野などの朝鮮有数の平野がある。農業は米、綿花、とうもろこしなどが多く生産され、北朝鮮でも特に農業が盛んである。水産業は黄海沿岸で盛ん。鉱物は金、亜鉛、銀など資源が多い。 第二次世界大戦後、日本統治時代の黄海道の範囲に北緯38度線が走っていたことで、黄海道は南北に分断される。黄海道の主要な都市をはじめとする面積の大部分は北側に属したため、1945年11月4日に韓国は黄海道碧城郡・延白郡・長淵郡・甕津郡を京畿道に編入した。尚、碧城郡は延白郡と甕津郡に分割編入され、長淵郡は甕津郡に編入され消滅した。
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地理、歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:44 UTC 版)
マノクワリは、太平洋戦争時に大日本帝国海軍の艦船が多く寄港した。マノクワリ近海には白露型駆逐艦である春雨が沈没している。 インドネシア西パプア州マノクワリの気候月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年平均最高気温 °C (°F)29.9 (85.8) 29.6 (85.3) 29.6 (85.3) 30.0 (86) 30.1 (86.2) 29.7 (85.5) 29.4 (84.9) 29.3 (84.7) 29.8 (85.6) 30.5 (86.9) 30.5 (86.9) 30.3 (86.5) 29.89 (85.8) 日平均気温 °C (°F)25.9 (78.6) 25.9 (78.6) 25.9 (78.6) 26.1 (79) 26.2 (79.2) 25.9 (78.6) 25.6 (78.1) 25.4 (77.7) 25.7 (78.3) 26.2 (79.2) 26.3 (79.3) 26.2 (79.2) 25.94 (78.7) 平均最低気温 °C (°F)21.9 (71.4) 22.2 (72) 22.3 (72.1) 22.3 (72.1) 22.3 (72.1) 22.1 (71.8) 21.8 (71.2) 21.6 (70.9) 21.7 (71.1) 21.9 (71.4) 22.1 (71.8) 22.1 (71.8) 22.03 (71.64) 降水量 mm (inch)264 (10.39) 247 (9.72) 296 (11.65) 304 (11.97) 210 (8.27) 198 (7.8) 160 (6.3) 167 (6.57) 140 (5.51) 122 (4.8) 141 (5.55) 266 (10.47) 2,515 (99) % 湿度86 85 86 86 86 85 87 87 86 84 85 86 85.8 出典1:Climate-Data.org (気温、降水) 出典2:Weatherbase (湿度)
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 14:32 UTC 版)
最高峰 鳥屋ヶ森 山の耕作地は南予特有の「段々畑」で多くは柑橘類などの果樹園で、自動車の通れる農道が整備されている。 年間降水量は1800ミリだが、河川が急勾配で保水能力が低い。給水に問題があったが、1973年宇和島市の宮下浄水場から海底送水が始まる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/06 15:57 UTC 版)
小町大路の滑川にかかる夷堂橋以北を小町とし、以南を大町と呼称したため、大町に対して小町と名付けられたと伝えられる。 吾妻鏡によると、中世鎌倉の商工業地域であったと記されている。また、歴代の北条執権邸や有力御家人の館の多い地域であった。承元4年(1210年)11月20日に、小町に所在する北条泰時らの御家人の邸宅が消失したとの記録がある。また和田合戦においても、小町の北条義時第の西門と北門を襲撃したことから始まったという。 鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱の最後の戦いで、新田義貞軍に攻められた北条高時ら北条一族と家臣が東勝寺において自害したと伝わる(東勝寺合戦)。 昭和14年(1939年)に鎌倉市の大字となり、昭和41年(1966年)に住居表示に伴い小町一丁目-三丁目となった。現在の鎌倉駅東口側の地域であるが、小町通り周辺は小町のほか雪ノ下も含まれる。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 03:18 UTC 版)
徳島市の中心駅徳島駅の南方、内町地区南部に位置する。南北に伸びる両国橋通りの両側に広がる町で、北から1~2丁目が連なる。北は国道192号から、南は新町川直前まで延びている。 この地域には東西に伸びる町が並んでおり、両国本町はそれらを貫き分断している。すなわち、八百屋町の南側、通町、中通町、新内町、南内町のほとんどであり、それぞれ、両国本町より東が1丁目、西が2~3丁目である(ただし新内町は2丁目まで)。新内町の通りが、両国本町1丁目と2丁目の境である。 両国橋通りの両側には両国本町商店街が広がっている。毎年8月12日から8月15日の阿波踊り期間中には大規模な演舞場が設けられる。 両国橋通り自体は新町川に架かる両国橋を越えて南岸まで延びており、南岸での両側は両国橋(地名)である。ただし両国本町は新町川まで達していないので、両国橋と直接には連なっていない。新町川北岸の河岸公園(新町川水際公園・徳島こども交通公園)は南内町である。 八百屋町 通町中通町新内町 通町中通町新内町 両国本町 南内町
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 09:30 UTC 版)
徳島市の東部に位置し、東は新町川に面し、西は東新町、南は銀座の銀座商店街に連なる。両国橋から新町橋に至る町筋に第一勧業銀行・高知銀行・兵庫銀行・伊予銀行の各徳島支店、阿波銀行両国橋支店・四国銀行船場支店があって、銀行の町などといわれる。また新町川沿いにあるしんまちボードウォークでは毎月最終日曜日にとくしまマルシェが開催される。 元は船場町のうち新町橋から両国橋に至る東の部分で、昭和17年より現在の町名となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/30 06:57 UTC 版)
広島県を流れる太田川の河口部に位置している。 元々は「箱島」と呼ばれた小さな島であった。広島が五箇庄といわれていた寒村の頃に、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在丘の部分がデルタに点在していた島々であった。白島の他に現在の中区江波(えば)の江波山及び江波皿山は江波島(えばじま)、南区黄金山(おうごんざん)が仁保島(にほじま)、比治山が日地島(肘山・ひじやま)と呼ばれていた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 09:16 UTC 版)
徳島市の北部に位置しており、南は鮎喰川に面している。徳島県道・香川県道1号徳島引田線(徳島県道15号徳島吉野線と重用)が鮎喰川の不動橋を渡って地内に入り、北西に向かう。 元は新居町南新居の一部で、昭和30年に現在の町名となった。 河川:鮎喰川、飯尾川
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/07 03:35 UTC 版)
白山国立公園内の原生林の中にあり、高さ72m、幅8m。深い森の谷から絶壁を水が垂直に落下する一筋の滝である。「白水滝」の名は落ちる水の色が乳白色に見えることから付けられた。かつてはその雄大な姿から日本三大名瀑の一つ(ほかの二つは那智滝・華厳滝)に数えられることもあったが、日本の滝百選(1990年選定)には含まれていない。岐阜県の名勝に指定されている。 1963年、隣の谷に大白川ダムが完成すると、滝の上流で取水が行われてダムに水が供給されるようになった。このため、滝に流れる水の量は調節されており、すべての水をダムにむけて取水する冬季には滝が遮断される。滝の姿を見ることができるのは、観光用に放流する夏~秋の間のみである。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 07:17 UTC 版)
多摩丘陵最東端の一角に位置し、多摩川流域の平坦な扇状地に隣接する、標高 45m 前後の小高い丘陵地。 1940(昭和15)年に川崎市が公営墓地として都市計画決定し、1943(昭和18)年10月01日に開園。以降、都市開発が規制され、市民霊園および緑地保全を目的に整備されている。 1953(昭和28)年、千葉県松戸市より運ばれた桜が園内に並木状に植えられた。以降毎春になると園内を桜色に染め、夏には適度に陽射しを遮り、訪れる人々に憩いのひとときを提供する。 また、本霊園と尾根続きで東高根森林公園、旧向ヶ丘遊園、生田緑地があり、多摩川と平瀬川に挟まれる形で概ね東西方向に緑地帯を構成する。これらの公園緑地は、今ではすっかり都市化が進んだ多摩丘陵最東部で往時の貴重な自然環境を今に伝えるとともに、近隣の生態系を支え、また散策などで訪れる近隣住民の憩いの場になっている。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 13:44 UTC 版)
徳島県板野郡北島町高房にて旧吉野川より分流し板野郡松茂町長原で紀伊水道に注ぐ。吉野川下流部における分流のひとつ。 昔から川舟の重要な交通路で、榎瀬江湖川や鍋川と結んで徳島〜撫養間の水路として利用され、明治25年から昭和35年の間は阿波巡航船の定期航路となった。河口の長原港からも徳島市両国橋まで、大正10年〜昭和33年の間定期船が出ていた。 2011年3月、北島町に親水公園・北島町水辺交流プラザが完成した。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:09 UTC 版)
タウデニ地方は盆地となっており、古代の塩湖の湖底に分厚い岩塩の鉱床が広がっている。塩湖は第四紀に干上がったという説もある。塩は中世からサハラ交易の重要な商品となってきた。かつては少し北のテガーザの岩塩の塩鉱が知られていたが、17世紀に枯渇し、かわってタウデニでの採掘が始まった。20世紀に駐屯したフランス軍の報告では、約200人の住民がおり、100人の労働者、労働者の家族である80人の女性や子供、首長や商人が20という内訳だった。1967年以降は採掘者の家族はトンブクトゥに移住し、女性や子供がタウデニに行くことは禁止された。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 22:52 UTC 版)
地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。初見は義堂周信の『空華日用工夫略集』で、貞治6年(1367年)の「密かに山崎に匿る」である。鎌倉公方足利基氏の万寿寺住持就任を謝絶し山崎に隠棲した。応安7年(1374年)11月23日に円覚寺大火のため、長老大法大闡が「山崎宝積寺」に移っている。この宝積寺は京都の宝積寺を模して創建されたという(現在は廃寺)。康正3年(1457年)2月の「今川範忠禁制」に「相州山崎村」の記述がある。明応3年(1494年)4月19日の「玉井院檀那本銭返売券」において「山崎泉蔵坊」は熊野詣の先達職を持つ坊であったことが記されている。永正17年(1520年)3月25日の資料でも「鎌倉山崎泉蔵坊 祐秀」と記録され、江戸時代に続く熊野信仰の拠点となっていた。 後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し、正保元年(1644年)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった。 皇国地誌によると明治12年(1879年)の戸数52、人口284人であった。明治22年(1889年)4月の町村制施行により、梶原、上町屋、手広、寺分、常盤、笛田と合併して深沢村が誕生し大字となった。 昭和23年(1948年)1月、深沢村が鎌倉市と合併した際に鎌倉市の大字となる。昭和42年(1967年)2月、住居表示により山崎の一部が台一丁目、二丁目となった。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/03 14:01 UTC 版)
「小松島町 (小松島市)」の記事における「地理・歴史」の解説
かつては勝浦郡小松島町に属していた。小松島市の行政・商業の中心地として港町として栄えてきたが、1985年に国鉄小松島線の全線廃止、さらに1993年に共同汽船が運航していた小松島フェリーが廃止され、1999年には市内唯一の発着路として残った南海フェリーが撤退した。交通の要衝としての小松島の重要性は大きく減じられたが、2006年には徳島赤十字病院がこの地に新築移転し、「医療都市」として再生しようとしている。[要出典]
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/29 23:25 UTC 版)
「西大工町 (徳島市)」の記事における「地理・歴史」の解説
徳島市の北東部、市街地の南西に位置。東は西新町一丁目から五丁目、西は寺町に挟まれる。 元は徳島市西新町・大工町・寺町の各一部。新町橋筋以西、佐古橋に達する町筋。阿波志によれば江戸時代には大工町の第一坊であった。昭和50年に南新町西の1丁目の一部を編入。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/25 17:12 UTC 版)
紀元前148年に執政官 スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・マグヌス が建設した。 ジェノヴァの海岸を起点とし、山越えしてDertona(現在のトルトーナ)、Placentia(現在のピアチェンツァ。ここでアエミリア街道と接続)、クレモナのすぐ近くでポー川を渡る。クレモナを過ぎると街道はBedriacum(現在のカルヴァトーネ)まで東に向かい、そこで分岐し、1つはヴェローナに向かい、もう1つはMantua(現在のマントヴァ)、Gemona(現在のジェモーナ・デル・フリウーリ)、アクイレイアを結んでいる。リグーリアの軍事占領においてはこの街道が重要な役割を果たし、この街道沿いに重要な町がいくつか生まれることになった。クレモナは街道のちょうど中間点にあり、西と東の道のりがほぼ同じである。 Via Julia Augusta はアウグストゥスが紀元前13年から建設を開始したローマ街道で、Via Aemilia Scauri とポストゥミア街道を繋ぐ街道である。Placentia(ピアチェンツァ)を起点として、ラ・チュルビの凱旋門まで続いていた。後にArelates(現在のアルル)まで延長され、ドミティア街道に合流するようになった。途中、Dertona(トルトーナ)、Vada Sabatia(ヴァード・リーグレ)、Albingaunum(アルベンガ)、Album Intimilium(ヴェンティミーリア)を通っている。 古代のガーヴィ門にはポストゥミア街道から分岐したヴェローナへの道の遺跡がある。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:55 UTC 版)
地名の由来は、鎌倉幕府の鎌倉(大倉)御所の西門があったことから転じ、西門前を南北に通ずる西御門大路の北方の地域を指した。 吾妻鏡によると文治2年(1186年)正月5日に「美濃藤次安平西御門家」と記されているのが初見である。建保元年(1213年)5月4日、将軍源実朝は西御門に赴き、和田合戦で傷付いた武士の実検を行っている。 元仁元年(1224年)9月5日子ノ刻に三浦義村の「西御門亭」が焼失。暦仁元年(1238年)正月10日には、義村亭の他に後藤基清、三浦家村らの居宅が罹災。義村亭を譲り受けた三浦泰村は、宝治元年(1247年)の合戦で敗れて居宅を焼失。 応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では、禅秀に加担した足利満隆、持仲が義堂周信開祖の保寿院で挙兵。享徳3年(1454年)には関東管領上杉憲忠が鎌倉公方足利成氏の西御門亭で殺害される(享徳の乱)。 戦国時代には建長寺の所領があり、天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、二階堂郷中の一つである当地に禁制を下し、掌握しようとした。正保国絵図には「西御門村」が記録されている。いつの頃からか二階堂、浄明寺、十二所とともに「谷合(やつあい)四ケ村」と称された。 明治22年(1889年)の町村制施行で東鎌倉村に属した。明治27年(1894年)の鎌倉町誕生で大字となり、昭和14年(1939年)から鎌倉市の町名となる。昭和43年(1968年)1月1日の住居表示に伴い西御門一丁目-二丁目となった。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 01:58 UTC 版)
山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園ではブドウなどの果実栽培が盛んである。 笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」と呼ばれる民話に語られており、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえることから、誰とはなしに笛吹川というようになったと言われている。江戸時代には甲斐国の鮎が名産として知られ、宝暦2年(1752年)の『裏見寒話』や嘉永3年(1850年)の『甲斐廼手振』には荒川・釜無川とともに笛吹川の鮎が名産として記されている。笛吹市石和町では石和鵜飼も行われている。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 01:28 UTC 版)
地名の由来は、源頼朝が奥州合戦後の凱旋の際、中尊寺大長寿院の二階堂を模して、当初に永福寺という二階堂(=二階建ての建物。当時、二階建ての建物はかなり珍しく、いわば「非常に立派な建物」を意味した。)を建立したことに由来する。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた(永福寺は応永12年(1405年)の後に廃絶)。 戦国時代には小坂郡(小坂郷、おさか — )二階堂郷となされ、豊臣秀吉の小田原征伐の際に当地を掌握しようとしていたことが、「豊臣秀吉禁制」の宛書に記されていることからわかる。 江戸時代に入り正保国絵図や元禄内国改定図では「二階堂村」一村として記されているが、いつの頃からか西御門、浄明寺、十二所が同じ大倉の谷に存在するとして「谷合(やつあい)四ケ村」と称された。 明治22年(1889年)の市町村制により東鎌倉村の大字、明治27年(1894年)に鎌倉町、昭和14年(1939年)から鎌倉市の大字となって現在に至る。小名として四ツ石小路、東御門、杉ケ谷、西ケ谷、亀ケ渕、向荏柄、稲葉越、熊野谷、杉本小路などの地名が残る。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 01:47 UTC 版)
地名の由来は、天保9年(1838年)まで光触寺境内にあった鎮守熊野三山の「熊野十二所権現社」(現在の十二所神社)に由来する。『新編鎌倉志』では「民家が十二軒あったことによる」と記載されているが、これは俗説である。 初見は文和4年(1355年)9月の『頬焼阿弥陀縁起奥書』に「十二所道場」と記載されている。この道場は光触寺を指している。熊野社は「大倉の熊野堂」と称し、鎌倉における熊野信仰の拠点であった。 上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏が岩殿寺から十二所を経て小坪、由比ヶ浜、佐助へと逃走したという記録が残っている。 天正19年(1591年)の「徳川家康寄進状」では十二所において建長寺、東慶寺両寺の寺領が寄進されている。幕末には五十八貫余の寺領があった。『新編相模国風土記稿』において二階堂村の項に、十二所村民戸26戸と記載され、明治3年(1870年)には家数42戸、人別198人とされている。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/11 14:46 UTC 版)
対馬の南部に位置する対馬市厳原町国分は、かつて西海道・対馬国の国府が置かれた場所である。有明山はその西方に位置し、山名は有明の月(明け方の月)がかかる山という意味で命名されたものと考えられている。筑紫国(後の筑前国・筑後国、現・福岡県)や壱岐島(一支国、壱岐国、現・壱岐市)から船で対馬国国府の浦を目指すにあたり、その目標とされた山(前山)でもある。 登山口は町なかにある「観光情報館 ふれあい処つしま」(対馬観光物産協会)の近くにあり、そこから清水山を経て2時間ほどで有明山の山頂に至る(道のり約2.9キロメートル)。山頂に三角点(基準点名は「有明山」、等級は一等三角点)が設置されており、標高は558.09メートル、地理院地図上では558.1メートルと記載されている。山体の地質は対州層群の砂岩や頁岩、およびそれらが黒色のホルンフェルスと化したものからなる。 有明山の南麓、8合目に相当する場所に「有明峠」がある。厳原から西に約2.5キロメートル、目掛方面へと越える峠道にあり、有明山の山頂に至る登山道が分岐している。山頂周辺は草原(ススキ)となっており、眺望に優れる。対馬でも登山人気の高い山である。毎年4月はゲンカイツツジやコバノミツバツツジが、5月から6月にかけては山頂のヤマボウシが見頃。有明山の南東側は佐須川の源流域(日掛川)であり、対馬林業公社が所有する「日掛水源の森」として自然環境が保護されている。また、東側の斜面は原始林で覆われており、国の史跡・清水山城および万松院がある。 清水山 万松院
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地理・歴史
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「アルカス (曖昧さ回避)」の記事における「地理・歴史」の解説
ナカメアルカス - 東京都目黒区上目黒1丁目地区再開発事業による再開発地区の愛称。 アルカス・デル・ビジャール - スペイン、カスティーリャ=ラ・マンチャ州クエンカ県の自治体。 トーレ・デ・アルカス - スペイン、アラゴン州テルエル県の自治体。 カストロ・デ・アグラ・ダス・アルカス - スペイン、ガリシア州ア・コルーニャ県サダの史蹟、カストロ・デ・サモエーダの別名。 ビラ・デ・アルカス(Vila de Arcas) - スペイン、ガリシア州、ルーゴ県の自治体カストロ・デ・レイに残る古代ローマ時代のヴィラの遺構。
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地理・歴史
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JR南豊科駅から西へ約200メートル、大日堂(大日如来堂)前に位置する。当地は江戸時代のころ安曇郡成相組成相本村として成立し、村の東部には千国街道(糸魚川街道)が通っていた。明治維新後は南安曇郡豊科町を経て、現在は安曇野市の一部となっている。 神代文字碑は高さ・幅ともに50センチメートルの大きさで、覆屋の中に安置されている。向かって右隣には双体像(酒器像)道祖神が、さらにその右隣には高さ205センチメートル、幅180センチメートルという日本一の大きさを持つと言われる文字道祖神碑が建っている。 神代文字碑はもともと当地の庄屋であった丸山家の屋敷神として、江戸時代・文政年間に建立された。このころ起こった世直し一揆「赤蓑騒動」の犠牲者に対する慰霊碑であったという。平安時代、平安京では岐の神の名を記したものを神殿の厄祓いに用いたといい、古くは荘園であった当地にもこの習わしが伝わったと考えられている。これを町の共有財産として明治末期から大正初期のころ(一部媒体では昭和とも)現在の場所に移転し、以来道祖神として当地に存在している。1975年(昭和50年)、豊科町有形民俗文化財に指定され、平成の大合併後の2008年(平成20年)10月29日付けで安曇野市有形文化財に指定された。
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地名の由来は不詳である。天養2年(1145年)2月3日の官宣旨案に大庭御厨の四至として「東玉縄御庄堺俣野川」とあり、平安時代末期に同名の荘園があったと確認されている。玉縄荘の位置は、現在の片瀬川を境にして大庭御厨の東側、現在の玉縄付近を中心とした地域と考えられている。 応永3年(1396年)に小山若犬丸の乱に際し、相州玉縄の住人である瀬河兵衛宗泰という人物が活躍した(『鎌倉公方九代記』)。 永正9年(1512年)、北条早雲により現在の城廻に玉縄城が築城される。当初は三浦半島の三浦氏を攻略するために建築されたが、堅牢な城であり、永正15年(1518年)の上杉朝興、大永6年(1526年)の里見実堯、永禄4年(1561年)の上杉謙信の攻撃を撃退している。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で徳川家康軍に包囲され、籠城の末に開城した。 江戸時代には玉縄藩として本多正信が領主となり、その後大河内松平家が領有するが、3代目の正久の時に上総国大多喜藩へ転封となり、天領とされ玉縄城は廃城となった。 明治22年(1889年)4月の町村制施行により、玉縄村が誕生(現玉縄地域に当たる)。昭和8年(1933年)4月2日、大船町へ編入され、昭和23年に鎌倉市へ編入された。 昭和60年(1985年)の住居表示により、それまで岡本、関谷、城廻のそれぞれ一部分であった地域が、玉縄一-五丁目となった(玉縄城は含まれない)。
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徳島市の東部に位置し、東新町商店街と家具の町といわれる東大工町の中間に位置し、南は籠屋町北は新町橋の両商店街に隣接している。 元は古物町の一部で昭和17年より現在の町名となった。昭和50年に東新町の一部を編入。
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1997年12月28日に徳島市立動物園(現在のとくしま動物園)が閉館し、1998年4月4日に隣接していた徳島児童文化公園も閉園した。同地では埋蔵文化財発掘調査が行われ、その後、現在の徳島文化公園に整備された。 助任川沿いに位置し、徳住橋西岸を堺に中徳島河畔緑地と隣接している。周辺には徳島県立城東高等学校等の施設がある。
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「常葉」とも記された。地名の由来は『新編鎌倉志』によると「常葉ノ松」といわれる常緑の松があったとされる。『吾妻鏡』によると初出は康元元年(1256年)である。8月20日に連署北条政村が設けた「常葉別業」「常葉第」に、将軍宗尊親王が赴く予定とし、予定通りに8月23日に赴いたという記載がなされている。弘長3年(1268年)2月8日「常盤御亭」で和歌の会があり、2月10日に和歌千首の披露があった。政村の系統は代々常盤に住み、政村流北条氏の他に常盤流北条氏と称していた。『金沢文庫古文書』にはしばしば「常葉寺」の名が現れるが、廃寺となり場所は不明。 鎌倉幕府滅亡後も御内人の曽我右衛門太郎入道に警固が命じられるなど、北条氏にゆかりの深い地域である。 江戸時代には天領となり、267石5斗4升5合の地であった。 皇国地誌によると明治12年(1879年)の戸数25、人口165人であった。明治22年(1889年)4月の町村制施行により、深沢村外十一ケ村連合から離脱し、梶原、上町屋、手広、寺分、笛田、山崎と合併して深沢村が誕生し、常盤はその大字となった。 昭和23年(1948年)1月,深沢村が鎌倉市と合併した際に鎌倉市の大字となる。
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丹沢山地の東端に位置し、標高は概ね 90~180m。かつては里山として近隣住民の生活に利用されてきたが、都市化が進んだ1980年代になり隣接地域(現・森の里)で宅地造成されることとなった。 しかし現在当公園がある地域は急傾斜地であり、以前から土砂流出防備保安林として維持されてきた林も多く含まれている。また人々の生活の中で維持されてきた雑木林が残っていることから、これらの地形やかつての里山環境を活かした形で都市公園として整備されることとなり、1990年4月1日に開園した。 供用面積は 64.6ha で、神奈川県立公園では津久井湖城山公園(77.7ha)、観音崎公園(70.4ha)に次いで 3番目の広さ(2018年4月現在)。緑の文明学会・日本公園緑地協会による「日本の都市公園100選」にも選ばれている。 広範囲にわたり雑木林で覆われ、園内には沢も流れ、様々な自生植物や野生動物の姿が見られるなど、かつての面影を色濃く残す都市公園になっている。
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「高島 (愛媛県宇和島市)」の記事における「地理・歴史」の解説
東西に細長い形をしている。藩政期に開墾されたが、水が不足していたため、島民は離島し、無人島となった。その位置から三浦湾の防波堤の役目を果たし、また季節風除けの格好となって、島の南側海面は真珠養殖場として利用されている。昭和40年代には盛運汽船の旅客船が宇和島港と往復し、多くの海水浴客で賑わった。「世界の中心で、愛をさけぶ」の「夢島」のモデルでもある。 同じ宇和島市には、竹ヶ島の陸繋島に同名の高島があるので注意を要する。
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サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の途上にある。ピレネー山脈を越えた二本の巡礼路がプエンテ・ラ・レイナで合流したのち、エステーリャを通過する。その後は西進してエブロ川を越え、ログローニョに向かう。 アラバ県から東進してきたエガ川(スペイン語版)はエステーリャで南に向きを変え、サン・アドリアン(スペイン語版)でエブロ川に合流する。 かつてはナバラ王国の宮廷がおかれ、現在はその王宮が美術館とされている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 15:58 UTC 版)
前橋市中心市街地から北東へ約10キロメートル、赤城山の南西斜面を流れる細ヶ沢川とその支流・不入沢川は、流下能力の低さから洪水時に氾濫を起こし、周辺の農地に被害をもたらしてきた。群馬県は抜本的対策としてダム建設を計画し、1990年(平成2年)度に調査を開始。1999年(平成11年)度から本格的に工事着手した。 当初は高さ18.8メートルのダムとして計画されたが、下流の河川改修が進んだことから規模を縮小し、費用を削減。2009年(平成21年)10月に完成した。総事業費は33億4千万円。型式はゾーン型アースフィルダムで、普段は水を貯めない方式を採用した、いわゆる「穴あきダム」である。完成後の管理者は前橋市。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/02 14:53 UTC 版)
東西に長谷小路(現在の由比ガ浜大通りの一部)、南北に大仏切通と極楽寺坂切通を結ぶ神奈川県道32号藤沢鎌倉線が通じ、長谷寺の門前で交わっている。 地名の由来は、当地に建立された長谷寺にちなむ。吾妻鏡には地名の記載が見られない。もともとは「玉縄」もしくは「甘縄」と呼ばれる地域だったと推測される。初出は元弘3年(1333年)の上杉家文書の押紙で、「山内荘長谷郷」との記載がある。 明治以降、深沢と甘縄双方の土地を一部ずつ併せて長谷村が成立した。江ノ島参詣の経路であった長谷界隈は、高徳院(鎌倉大仏)や坂東三十三箇所の第四番札所である長谷寺への参拝者が絶えなかった。 明治22年(1889年)の町村制により長谷村は西鎌倉村の大字となる。昭和14年(1939年)に鎌倉市の大字となる。昭和47年(1972年)10月1日の住居表示により、長谷1~5丁目の新町名が生まれた。 明治以降、横須賀線が開通すると鎌倉御用邸の造成も相まって、政界、財界、官僚、軍人、皇族、華族などが別荘を競って構えるようになった。鎌倉文学館(旧前田家別邸)、鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)、旧華頂宮邸、古我邸(旧荘邸)などは現存している。現在は別荘地ではなく、近代以前のように鎌倉大仏や長谷寺などへの観光客で賑わっている。別荘の所有者に対する商業活動を行ってきた古い店舗が、今でも由比ガ浜大通りに点在している。
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「東山手町 (徳島市)」の記事における「地理・歴史」の解説
徳島市の東部、眉山山麓に位置。東は東大工町、北は新町橋二丁目、南は住宅地の幟町一丁目・弓町一丁目に接続する。 元は徳島市大工町・北山路町の各一部で、昭和17年より現在の町名となる。眉山山麓で、東は瑞巌寺の通りを越えて幟町に、西は天神社を境に西山手町に接続している。
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旧美馬郡一宇村と旧三好郡東祖谷山村との境界付近にある大小ふたつの池の呼称。東側を雄池(おんいけ)といい、沼沢状で長径約120m。道路を隔てた西側の雌池(めんいけ)は小さいが深く、昔は大蛇がいたという伝説がある。北の御荷鉾統と南の古生界との境界付近にある。 大規模な地滑りの結果形状されたくぼ地に水がたまったものと考えられる。塔丸と丸笹山の間の標高1,450m内外の稜線付近にあり、高原状を呈する。ミズナラやブナの群生があり、一帯は県民の森に指定された。 以前は北麓の葛龍から標高800mを登ったところにある休憩地であった。昭和30年代の末、剣山観光道路が開通し、雄池のほとりに国民宿舎・剣山荘や林業資料館が建設された。近くから剣山などの展望ができ、手軽に高原情緒を楽しめる場所である。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 22:46 UTC 版)
小町大路の滑川にかかる夷堂橋以北を小町とし、以南を大町と呼称した。街の規模が小町に比べて大きかったので、大町と称したという。かつては現在の材木座、由比ヶ浜に至る一帯を指していた。 古代の東海道は鎌倉市中を通過しており、鎌倉時代には大町大路の若宮大路以西の部分(現由比ガ浜)が重複していたと考えられる。大町大路と小町大路の交差する地点一帯が、町屋(商店)が並ぶ商業地域であった。 吾妻鏡によると、承久2年(1220年)2月16日に火災が発生し浜辺まで類焼、また小町大路を北上し北条泰時邸の前まで延焼した。鎌倉幕府は建長3年(1251年)、文永2年(1265年)に町屋を大町、小町など7箇所に限定している。 旧高旧領取調帳によると、幕末の大町村は鶴岡八幡宮、八雲神社、妙本寺、別願寺、安養院、長勝寺、本興寺の所領になっており、総額四五六貫一五〇文となっている。 昭和14年(1939年)に鎌倉市の大字となり、昭和41年(1966年)に住居表示に伴い大町一丁目-七丁目となった。
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地理・歴史
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かつての吉備国から分立した備前国・備中国・備後国の中で、北部が美作国として独立した備前国に比べ、備中・備後の2カ国は南北に長く広域となった。そのため、便宜的に南北に分けて表現する事があった。また南北で風習などが違う面もあり、それも南北に分けて表現するようになった理由の一つと思われる。 備中北部と備後北部が合わせて備北と呼ばれたのは、両地域の間で文化・経済的な交流が盛んであったことが理由として挙げられる。かつては東城街道などの街道が走っており、国境を越えて繋がりの深い地域であった。現在も新見市や高梁市と庄原市東部・神石郡などは民間レベルでの繋がりは深い。 明治になり廃藩置県が行われ都道府県の再編が進んでいくと備中は岡山県、備後は広島県となり、県の管轄が分かれた。そのため岡山県側では備中国北部・県北西部、広島県側では備後国北部・県北東部を指して備北を呼ぶようにもなった。 「備北 (備中国)」および「備北 (備後国)」も参照 現在では、前述のように新見市・高梁市と庄原市東部・神石郡などの民間レベルでの交流はいまだにあるため、これらの地域を「備北」と称することもある。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 16:58 UTC 版)
県中東部、郡南西端、甲府盆地の最東端に位置。日川流域の山村。山梨県を東西に分け、甲府盆地を指す国中と、県東部の山間部を指す郡内地方の中間に位置する。 室町時代の応永23年(1416年)2月には、鎌倉で起こった上杉禅秀の乱に荷担した甲斐守護・武田信満が、都留郡で上杉憲宗勢に敗退し、木賊山で自害している。棲雲寺は中国で中峰明本から臨済禅を学んだ業海本浄が貞和4年(1348年)に開創した寺院で、信満の宝篋印塔が所在している。 また、戦国時代の天正10年(1582年)3月には、織田・徳川連合軍の侵攻に備えた武田勝頼が新府城(韮崎市)から郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城へ退く途中の駒飼において信茂の離反を知り、日川渓谷沿いに天目山へ逃れ田野郷で敗死した(天目山の戦い)。武田氏滅亡後、天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康により、勝頼の追福のため景徳院が建立され、初鹿野山が寄進され田野郷を寺領に与えられた。 江戸時代には日川両岸に村落が成立する。右岸に初鹿野、鶴瀬の2村が成立し、両村は九筋二領における山梨郡栗原筋に属した。左岸には日影、田野、木賊の3村が成立し、八代郡石和筋に属した。山間部で水田は少ないため、生業は僅かな畑作のほか養蚕や煙草など商品作物の栽培のほか、林業や製炭などの山稼ぎ、甲州道中沿いの駒飼宿や鶴瀬宿での駄賃稼ぎが行われた。 また、九州のキリシタン大名・有馬晴信の配所としても知られる。幕末の戊辰戦争では、慶応4年(1868年)3月6日に近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(旧新選組)が甲州街道を甲府へ向けて進軍し、一方の明治政府軍も参謀・板垣退助率いる軍勢が進軍し、甲州市勝沼の柏尾において衝突し、甲陽鎮撫隊が敗退した(甲州勝沼の戦い)。甲州勝沼の戦いでは村域の初鹿野村横吹が戦場になっている。 近代には畑作を中心とする農業のほか、養蚕・林業が行われた。1903年(明治36年)の中央線の開通・初鹿野駅(1993年(平成5年)に改称して甲斐大和駅)の開業により駒飼・鶴瀬の宿場は衰退する。1880年(明治13年)には明治天皇の山梨県行幸が行われ、これに際して駒飼宿から駒飼橋に至る直線道路が建設される。 戦後には1951年(昭和26年)に開田計画が実施され、村域においても稲作が開始された。1961年(昭和36年)に国道20号の笹子隧道が開通し、さらに1977年(昭和52年)には笹子山を貫通する中央自動車道が開業し、戦後山梨県の経済に大きな影響を与えた。一方で戦後には過疎化が進む。近年は果樹栽培、灯篭や飛石に使われる甲州鞍馬石の生産、日川渓谷や武田家終焉の地であることを活かした観光に力を入れている。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 23:07 UTC 版)
平安時代中期に編纂された『倭名類聚抄』に鎌倉郡内の七郷の一(梶原郷)として記録がなされており、律令制下の国郡郷制の郷だったと考えられる。現在の梶原よりも広く、深沢地域をほぼ指していたと比定される。 『尊卑分脈』によると鎌倉景通がここに住み梶原氏を称し、その息子景久が住んだとされ、梶原氏出自の地とされる。景通の玄孫である景時の墓と伝えられるやぐらが深沢小学校の裏庭に存在する。一方、『新編鎌倉志』では鎌倉景正が居住した旧地に同族の梶原氏が居住したと記録されている。 戦国時代には後北条氏の支配下になり、松山衆太田豊後守の知行地となる。『小田原衆所領役帳』では116貫22文と記される。永禄年間に州崎郷に、『新編相模国風土記稿』では小松郷に属するとされる。 寛永10年(1633年)より天領となる。 昭和23年(1948年)から鎌倉市の大字となる。 1960年代には野村グループ(野村不動産の梶原山住宅地、野村総合研究所研究センター)等による開発が進んだ。 昭和58年(1983年)2月7日の住居表示に伴い梶原一丁目-五丁目となった。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:01 UTC 版)
舞水端(ムスダン)は、朝鮮半島東北部の海岸線が日本海へ突出し、山塊が75 - 500mの絶壁となって海へと落ち込む一帯を指す。海食崖や奇岩列石が織り成す海岸の地形は、北朝鮮の天然記念物に指定されている。 「舞水端」は「鋳物をつくる村のはずれ」という意味合いを持つ무쇠끝(ムスェックッ)という朝鮮語固有語の地名に漢字を当てたもの、すなわち、무쇠(「鋳鉄」の意)には似た発音の「舞水」を、끝(「端」「果て」「終わり」の意)には意味から「端」を当てたものであるという。 日本統治時代、舞水端一帯は明川郡下古面に属していた。この地区の行政地名は1958年に舞水端里となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 08:12 UTC 版)
北に隣接する東京府南多摩郡堺村との境界をなす境川に沿って細長い氾濫原が広がるほかは、村域の大半を相模原台地が占め、両者の間に段丘崖が伸びる。古くからの集落はこの段丘崖の周辺に分布する。大山道(八王子往還、現国道16号旧道)が村域を南北に横断し、この街道に沿って橋本の旧集落が発達した。相模原台地上の平坦面は清兵衛新田など江戸時代末期以降の新田開発を経て畑地化され、昭和初期まで養蚕業の発展を背景に桑畑が全域に展開した。 1908年(明治41年)、東神奈川駅と八王子駅を結ぶ横浜鉄道(現JR横浜線)が敷設された。当初は当村域内には駅を設けずに通過するのみで、隣接する東京府南多摩郡堺村相原に当村も駅勢圏に想定した相原駅を設ける計画であったが、橋本地区を中心とする住民の運動により当村内の橋本に橋本駅を設置することが決まり、開通と同時に橋本・相原の両駅がともに開業した。橋本駅の開業により橋本地区は当村内だけでなく中野など津久井郡南部方面への玄関口として役割も担うようになり、大正後期以降のバス交通の発達とともに高座郡北部や津久井郡南部への路線バスが橋本駅から発着して神奈川県北部の交通結節点として発展することとなった。1931年(昭和6年)には相模鉄道(現JR相模線)が橋本まで延伸開業し、1932年(昭和7年)に同線上の清兵衛新田に大河原駅(相模町駅を経て現南橋本駅)が開業した。 1923年(大正12年)4月、橋本駅の南側に神奈川県立農蚕学校が開校し、1930年(昭和5年)には神奈川県立相原農蚕学校と改称した(現神奈川県立相原高等学校)。この校名は所在地が相原村に属することによる。 1938年(昭和13年)、当村内の小山から東に隣接する大野村上矢部および矢部新田にかけた区域に陸軍の相模兵器製造所(1940年(昭和15年)に相模陸軍造兵廠と改称)が開設された(現米軍相模総合補給廠ほか)。これに合わせて、同施設を中核とする人口10万人規模の計画都市の建設が構想され(相模原軍都計画)、隣接する大野村と上溝町にまたがる区域が都市計画区域に指定されて神奈川県が主体となり大規模な区画整理事業が着手された。3町村の境界が交わる区域は軍都の中心地区とされ、この中心地区に近く陸軍造兵廠に隣接する横浜線上に軍都の中心駅として相模原駅が設置された(1940年(昭和16年)4月)。1945年(昭和20年)の敗戦により軍都計画は挫折したが、区画整理事業は戦後も継続して行われ、相模原市の中心地区となる基盤となった。 1941年4月29日の合併により相模原町の一部となり、1954年(昭和29年)11月20日の市制により相模原市の一部となった。相模原町および相模原市においては元の当村の領域については「橋本地区」という呼称を用いることがあり、「相原」という呼称は大字相原または住居表示後の新町名である相原一〜六丁目の区域に限定して用いられることがある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:12 UTC 版)
静岡県浜松市中区萩丘一丁目を二級河川の起点とし、佐鳴湖で新川に合流する。全長は約5.2km。 現在はあまり使われないが中流域では「そうめん川」という通称がある。かつて水車を利用した製麺が盛んで、川にそうめんが流れ出していたことに由来するという。 水質汚濁が深刻な佐鳴湖の浄化を目的として、平成3年度から平成12年度にかけ、それまでコンクリート3面張りだった護岸の河床を自然石に戻し、河床からのわき水の復元、河川浄化能力の回復を図る対策がとられた。 昔はきれいな湧き水があちこちで出ていたため水量が豊富であり今でもその名残りで「泉」という町名がある。 段子川沿いは散歩のコースでも人気であり長坂橋から富塚大橋までの約700mの川沿いは、76本の“ソメイヨシノ”の桜並木がある。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 02:49 UTC 版)
金沢区北東部に位置し、北東側は根岸湾に面する。中央やや海寄りを国道357号と首都高速湾岸線、金沢シーサイドラインが北西~南東に通過する。南東は北台川を挟み国道より海側は鳥浜町、内陸側は富岡東二丁目に接する。南西は富岡東一丁目、北西は杉田川を挟み磯子区杉田五丁目に接する。全域が埋立地であるが、埋立時期は国道を挟んで異なる。 現在の国道より内陸側(東端の一角を除く)は東京市豊多摩郡大久保町の若林清ら10名により、1922年(大正11年)5月5日に神奈川県知事に対し、久良岐郡金沢村大字富岡字青砥地先の海面59,748坪(道路敷9,184坪、住宅地50,564坪)を埋め立てる出願がなされた。同年11月28日に埋立免許を得て、1923年4月20日に工事に着手した。しかし、9月1日に発生した関東大震災により計画変更を余儀なくされた。若林は1925年に死去し、相続人が埋立権を継承すると、若林の相続人以外の9名は脱退し、代わって三重県の男性Sが加わった。1926年6月24日、土地利用変更や道路設計変更の申請を行う。1927年(昭和2年)8月23日には工区を6つに分割し、竣工期限を最長で1928年11月25日まで延長する変更申請を行った。第1工区11,176坪は1927年8月24日に竣工認可申請。同年10月12日に竣工認可を得て、11月25日に久良岐郡金沢町に編入。「昭和町」の字名が付けられた。町名は、昭和初期に開発されたことから名付けられた。その後第2工区11,039坪と第3工区10,861坪は1928年3月30日、第4工区10,075坪は1928年10月31日に竣工認可を得たが、第4工区竣工認可に際し、1928年1月に別の事業者に対して埋立免許を与えた杉田地先の埋立地の道路との整合を図るため、既存の第1~3工区の道路設計を変更する条件が付けられた。この道路が未整備であったため第5工区の竣工認可は得られずにいた。1929年、Sは同じ三重県のIに埋立権を譲渡する旨を神奈川県知事に申請したが、申請はなかなか認められなかった。1930年5月にSから知事に対して提出した陳情により、本件譲渡を認め、県はIとともに問題解決にあたることとなる。杉田地先の埋立は1931年に未着工のまま失効し、第5工区12,601坪は1934年12月22日にようやく竣工認可が下りた。第6工区3,993坪は未着工のまま失効した。 現在の国道より海側および内陸側のうち東端の一角は、1963年より「根岸湾ハ地区」として埋め立てられ、1971年に竣工。同年4月23日に杉田川と北台川の間、およびその内陸側の富岡町字昭和町(前述の昭和初期の埋立地)に金沢区昭和町を新設。北台川の東側には同日に金沢区鳥浜町が新設され、杉田川より北は磯子区杉田町に編入された。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:17 UTC 版)
大阪府堺市南区の大正池・天濃池にそれぞれ源を発する法道寺川・明正川合流点付近から、堺市内を北北西に流れる。西区の石津漁港(堺泉北港)で大阪湾に注ぐ。 本河川流域は堺市内に限定される。 上流部は低い泉北丘陵で、支流とともにこの丘陵を北北西に長い形に刻む。その一帯は陶邑窯跡群で、5世紀後半から10世紀、古墳時代から平安時代にかけて盛んに須恵器を生産した。製品は石津川を経由して送り出されたと考えられている。川沿いの深田遺跡がその積み出し倉庫と推定される。 大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は石津太神社の御旅所として祀られている。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:53 UTC 版)
「知床岬」も参照 知床半島先端部は、厳しい自然環境にもかかわらず縄文時代から人間の定住が行われた場所である。周辺には知床岬遺跡や文吉湾チャシなどの遺跡があり、近世には文吉湾の一つ北隣(知床岬側)の湾である啓吉湾付近にシレトココタンがあった。「文吉湾」の名は、明治時代にこの付近で漁業を営んでいたアイヌの古老・坂井文吉(アイヌ名:クンカラシ)にちなむ。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:09 UTC 版)
加賀藩士・富田主計(とだかずえ)の屋敷があったことに由来。金沢市では東山ひがしとともに、種別茶屋町で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 主計町は北国街道が浅野川を渡る地点に架かる浅野川大橋の近くに位置する。茶屋町として明治期から昭和戦前期にかけて栄え、当時の建造物が多く残っている。金沢の茶屋街は東山地区の「ひがし」と、野町地区の「にし」と、浅野川の近くで「ながれ」とも呼ばれた主計町の3つがある。どこも石畳が敷かれ、料亭や茶屋が並び、「木虫籠」(きむずこ)と呼ばれる格子窓から、三味線の音が聞こえてくる情緒ある町並みである。 五木寛之は1978年に主計町を舞台に新聞記者と少女との恋愛を描いた小説『浅の川暮色』(あさのがわぼしょく)を出した。2010年には「金沢ものがたり 主計町あかり坂」(『オール讀物』2010年4月号)を書いた。主計町の芸妓になった高木凜(りん也)と、泉鏡花の研究家で老詩人の高橋冬二郎のやり取りの中で、高橋に名無しの坂に触れて「暗、と、明。泉鏡花にはあけの明星をよんだ句があります。そこで、あかり坂。よし、これできまった」と語らせている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 18:35 UTC 版)
1980年(昭和55年)4月1日 - 広島市の政令指定都市移行と同時に設置。 合併で広島市に編入された、旧安佐郡安佐町、旧安佐郡可部町、旧安佐郡高陽町、旧高田郡白木町から成る。旧可部町に区役所があり、旧安佐町、旧高陽町、旧白木町には安佐北区役所の出張所が置かれている。 広島市に合併後は、住居表示実施により旧高陽町の全域、旧可部町の一部および旧安佐町のあさひが丘地区には旧町名は残っていない。 山がちな地形であるため、区の面積は広島市の8区の中で最大であり、広島市の総面積の約40%を占める。なお、2005年に旧佐伯郡湯来町が佐伯区に編入される前までは、総面積の約半分を占めていた。また、全国の政令指定都市の行政区としても静岡市葵区(1,074km2)、浜松市天竜区(944km2)、札幌市南区(657km2)、岡山市北区(451km2)に次いで5番目の大きさとなっている。 1905年に横川 - 可部間を国産初の乗り合いバスが走ったといわれている。横川駅には、当時のバスを復元した、「かよこバス(可部の「か」と横川の「よこ」が由来)」の名称でレプリカのバスが展示されており、イベント等で借り出されることもある。 広島市の中では高齢化が進んでおり、近年は人口が微減している地区である。宅地開発によって、山際まで住宅が建設されているが、集中豪雨によって地盤の軟化が起こりやすい真砂土が主体の地盤が多く、1999年6月の豪雨や2014年8月の豪雨および2018年の西日本豪雨などでは大規模の土砂災害が多発して山際の住宅地に大きな被害が出た。令和2年7月豪雨では緊急安全確保(警戒レベル5)相当の大雨特別警報が発令(広島市全体に発令)され、近年の異常気象からも災害時に大きな被害になりやすい場所である。 河川太田川 山高松山(339m) - 三入高松城 白木山 (広島県)(889.3m) 可部冠山(735.7m) - 石州街道 松笠山 (広島県)(374.6m) 神ノ倉山(561.5m)
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:42 UTC 版)
「シュプロイアーホフ通り」の記事における「地理・歴史」の解説
シュプロイアーホフ通りは、ロイトリンゲンの旧市街にある全長50mほどの通りである。北東 - 南西方向に延びており、北側はマウアー通り(Mauerstraße)に丁字路の形で直交する。 街路を基準にすれば、北側の出入り口部分に所在するシュプロイアーホフ通り9番地の建物が街路に大きく張り出す形で建っており、向かいの建物(マウアー通り50番地)との間がボトルネックとなっている。この長さ3.80mの区間が街路の最狭部で、幅は31cmしかない。2つの建物の「隙間」が公道とされている、と表現した方が把握しやすい。 この街路は、1726年の大火でこの地区が灰燼に帰したあと、1727年に再建された際につくられた。市当局の記録において公道として扱われており、公式の都市計画図などにも名称が記載されている。シュプロイアーホフ通り付近はもともとロイトリンゲン病院の穀物倉庫があった場所で、このボトルネックも火災の際の避難路や、牛乳配達夫の近道として用いられていたようである。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/06 15:03 UTC 版)
「バラマンド我等の女宰修道院」の記事における「地理・歴史」の解説
トリポリから8kmほど南に離れた、地中海を望む場所にある。 第2回十字軍の失敗後の1157年に、カトリック教会のシトー会の修道士らによって、東ローマ帝国の廃墟が残っていた場所に修道院が建設された。しかしカラーウーンによるトリポリ占領前に、シトー会は修道院を遺棄した。 十字軍が中東を去って300年後から、正教会の修道士がこの修道院を所有するようになった。以降、正教会の修道院として現在に至っている。 主な建築物としては、12世紀から13世紀にかけてシトー会によって建設された聖堂、大ホールなどのほか、16世紀から20世紀にかけて正教会によって追加して建設された通路、学校などがある。 2001年から2005年までの間、のちにアンティオキア総主教となるイオアン10世が修道院長を務めていた。 1921年撮影の聖堂内観。イコノスタシスがある。 1921年撮影 1921年撮影
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/16 13:49 UTC 版)
パルマリア島は、ポルトヴェーネレの南方、ラ・スペツィア湾 (it:Golfo della Spezia) の湾口西端に連なるスペッツィーノ諸島 (it:Arcipelago Spezzino) の島の一つ。面積は 1.89 km2で、同諸島最大の島、ラ・スペツィア湾最大の島であるとともに、リグリア州最大の島でもある。数百mの間隔をおいて、南にティーノ島およびティネット島が所在する。また、北東にはスコラ島があり、海岸防衛のためにスコラ塔 (it:Torre Scola) が築かれている。国際水路機関(IHO)の定義によれば、ティーノ島・ティネット島とともにリグリア海とティレニア海の境界である。 島の形状はおおむね三角形状である。ポルトヴェーネレやラ・スペツィア湾に面している側(北側)はなだらかな地形となっており、海岸線に向けてのゆるやかな斜面を典型的な地中海性の植物が覆う。人間の手も加えられており、多少の一般住居、レストランや入浴施設、海軍・空軍の施設がみられる。 一方、外海(リグリア海)に面した西海岸は、海に向かってせり出す高い崖が特徴的であり、「青の洞窟」(ボートで接近できる)など多くの洞窟がみられる。これらの洞窟へは陸上からの到達は困難である。「鳩の洞窟」には唯一ロープで降っていくことのできるが、この洞窟はラ・スペツィア湾周辺地域の考古学調査のうえで非常に重要な発見をもたらした場所として特筆される。更新世の動物(シャモア(カモシカ属の一種)やシロフクロウ)の化石化した骨がみつかっており、また、人間を埋葬した跡からは、少なくとも5000年前に人類がこの地に存在したことが証明される。 またこの島にある建築物の中には、著名な軍人にゆかりのあるものや、歴史的に興味深いものもある。かつては軍用地であったために一般人のアクセスが不可能であったが、制限が解除された後も文化財としての公式な保護の下には置かれていない。たとえば、カヴール要塞(またはパルマリア要塞) (it:Forte Cavour) 、ウンベルト1世要塞 (it:Forte Umberto I) 、現在は環境教育センターとして使われている砲台、第二次世界大戦時には軍事刑務所として用いられた塔、第二次世界大戦時に島の各所に築かれたバンカー、廃棄された沿岸砲や対空砲などである。島の南部のポッツァーレにある採石場跡は、かつては貴重な黒大理石が採掘された場所で、石の運搬に用いられたクレーンなどの工機や、労働者の住居跡が残っている。
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/23 03:18 UTC 版)
地名の由来は、柏尾川の水運と陸の鎌倉街道が交わる要路沿いに、町屋が軒を連ねていたことによる。町は市場、商工関係者の居住地、屋は集落を意味する。 正保元年(1644年)の正保国絵図には「町屋村」と記載があり、元禄10年(1697年)4月の元禄内国改定図で「上町屋村」と記載がある。「上」が冠された理由は不詳。 寛永10年(1633年)に天領、元禄10年(1697年)に天領と旗本藤本氏が知行し、幕末に再び天領となった。石高は元禄郷帳、天保郷帳、旧高旧領取調帳で219石余とされる。 明治22年(1889年)4月の町村制施行により、当村と梶原、手広、寺分、常盤、笛田、山崎の7カ村が合併して深沢村が誕生し、上町屋はその大字となった。 昭和23年(1948年)1月,深沢村が鎌倉市と合併した際に鎌倉市の大字となる。昭和43年(1968年)に湘南モノレール江の島線の湘南町屋駅が開業した.
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地理・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 15:47 UTC 版)
「ニカラグア日本友好公園」の記事における「地理・歴史」の解説
公園は市内のLos Robles地区に位置し、Pista Miguel Obando y Bravo通りに面している。この場所は、首都の主要道路である国連通り(Paseo Naciones Unidas)にも近い。 公園は、マナグア市長が計画した都市改良プロジェクトの一環として建設された。この公園の建設費は155万9000ドルで、日本国政府は100万ドルを寄付し、マナグア市は残りを負担した。 外交関係樹立80周年(2015年)を機に改修・再整備が行われ、2016年6月11日に改修工事完成式が行われた。
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