相原村とは? わかりやすく解説

相原村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 10:16 UTC 版)

相原村(あいはらむら)は、1889年(明治22年)から1941年(昭和16年)にかけて神奈川県高座郡に存在した町村制による自治体である。


  1. ^ 「鉄道省編纂 汽車時間表 昭和9年12月号」ジャパン・ツーリスト・ビューロー
  2. ^ 『人事興信録 第14版 上』ア35頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月18日閲覧。


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相原村

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相原郷」の記事における「相原村」の解説

1608年慶長13年)、慶長検地に際して当地周辺には相原村が成立した。相原村は元は鳴海領域であったといい、鳴海から分立したのだという。そのため周囲鳴海囲まれていた。相原村の領域現在の相原郷その周辺地域指し徳重鳴海町字宿地・早稲屋・片坂の辺りまでを含んだという。『寛文覚書』よると、相原村は家数30人口213牛馬23。『尾張徇行記によれば、相原村の概高632石のうち約576石が藩士8人の給地で、当時給人として中条多膳、尾崎伝兵衛兼松銀之丞、室賀多宮、長坂右衛門上田右衛門酒井左衛門平八挙げられている。田畑42町2反のうち32町6反が田を占めていた。江戸時代専ら農業のみが行われており、人口多かったため労働力は十分であったという。 1876年明治9年)に相原村は鳴海平手新田合併し鳴海となった。もともと「相原郷」とは相原村のことを指したというが、合併以降相原郷中心地を指す小字名となった。なお鳴海町小字に「相原町(あいばらまち)」があるが、これは1584年天正14年)に当時相原村の領域であった字宿地の人々移住してきたためこの名がついたのだという。

※この「相原村」の解説は、「相原郷」の解説の一部です。
「相原村」を含む「相原郷」の記事については、「相原郷」の概要を参照ください。

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