相原村
相原村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:56 UTC 版)
1608年(慶長13年)、慶長検地に際して当地周辺には相原村が成立した。相原村は元は鳴海村の領域であったといい、鳴海村から分立したのだという。そのため周囲を鳴海村に囲まれていた。相原村の領域は現在の相原郷とその周辺地域を指し、徳重や鳴海町字宿地・早稲屋・片坂の辺りまでを含んだという。『寛文村々覚書』よると、相原村は家数30、人口213、牛馬23。『尾張徇行記』によれば、相原村の概高632石のうち約576石が藩士8人の給地で、当時の給人として中条多膳、尾崎伝兵衛、兼松銀之丞、室賀多宮、長坂藤右衛門、上田半右衛門、酒井林左衛門、森平八が挙げられている。田畑42町2反のうち32町6反が田を占めていた。江戸時代は専ら農業のみが行われており、人口が多かったため労働力は十分であったという。 1876年(明治9年)に相原村は鳴海村、平手新田と合併し鳴海村となった。もともと「相原郷」とは相原村のことを指したというが、合併以降は相原郷の中心地を指す小字名となった。なお鳴海町の小字に「相原町(あいばらまち)」があるが、これは1584年(天正14年)に当時相原村の領域であった字宿地の人々が移住してきたためこの名がついたのだという。
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