し‐せき【史跡/史×蹟】
史跡
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史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。この語は一般には遺跡全般と同義で現在においてもその意味で使用される場合も多いが、日本においては1919年(大正8年)の史蹟名勝天然紀念物保存法以降、特に法律で指定保護されている遺跡を指すようになり、現在では狭義の「史跡」は文化財の種別の一つとして文化財保護法第109条第1項に規定されている[1]。
注釈
- ^ 単に「史跡」と称した場合は、日本国指定の史跡を指しており、官報でも「史跡」と表記される。しばしば「国指定史跡」と称されるが、これは、都道府県指定史跡や市区町村指定史跡と区別した便宜的な用語である。
- ^ 指定基準については複数の基準にまたがるものがある。たとえば、大安寺旧境内附石橋瓦窯跡(奈良県)は、「3 社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡」と「6 交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡」の2つの基準により史跡に指定されている。
- ^ 「特別史跡」を含み、名勝、天然記念物と重複指定されている件数を含む。
- ^ 史蹟名勝天然紀念物調査会、朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存会のほか、古社寺保存会、国宝保存会などの委員を務めた。
- ^ 2008年2月22日、宮内庁が管理する神功皇后陵(五社神古墳)に日本考古学協会など16学会の研究者代表らが墳丘に立ち入り調査をした。「陵墓」に学会側の立入が認められたのは初めて。(2008年2月23日「朝日新聞」)
出典
- ^ “史跡 とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2014年5月30日閲覧。
- ^ 「近代の遺跡の保護について」『月刊文化財』1995年4月号、38頁。
- ^ 森(1996)。
- ^ 文化庁 文化庁月報 連載 「文化財行政の現代的な課題 」- 史跡の現地保存,凍結保存,及び復元について
史蹟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 07:55 UTC 版)
田村虎蔵先生之生地 鳥取県岩美郡岩美町馬場 碑と像が建てられている。 田村虎蔵旧居跡 東京都新宿区筑土八幡町4-24 区指定史蹟。由緒の書かれた案内板がある。 田村虎蔵先生をたたえる碑 東京都新宿区筑土八幡町2-1 筑土八幡神社入口。金太郎の一節と由緒の書かれた碑が建てられている。
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史蹟
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松並木 2・3丁目付近の塩付街道沿いに残され、かつての街道の様子を伝えるという。
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史蹟
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瑞穂遺跡 瑞穂小学校敷地内に所在する。弥生時代後期の遺跡で、瑞穂式土器を出土している。
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史蹟
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ピノ教区にあるカルダローバの塔は中世の城塞、またカルダローバ城館は17世紀の館。また、第二次世界大戦中にドイツ軍によって建てられた、アルネイロの塔と呼ばれる、高さ112mの3つのアンテナがあり、これはビスケー湾の潜水艦や飛行機追尾のためのアンテナであった。
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史蹟
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サスにはおよそ5,000年前のものと考えられている巨石文化の遺跡が、残されており、ムイーニョ教区にあるアルカ・ダ・ピオーサと呼ばれるドルメンは最も知られている。また、サン・アドリアンのカストロのようなカストロもいくつか発見されている。 南部にはローマ時代のものを基礎に、中世に建造された石橋ポンテ・デ・ブランドミル(ブランドミル橋)、また、アージョ教区には16世紀にたてられたアージョの塔などが残されている。 サス教区では民族音楽(フォーク・ミュージック)の祭典フェスタ・デ・カルバジェイラが開かれ、2008年には25回目を数えた。
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史蹟
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松本奎堂の塾跡 安政6年から文久元年まで当地に私塾を開いていたという。
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史蹟
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大河内存真宅址(小市場町四丁目) 小袖塚跡 小塚町の東側に所在したという。塚の近くには小袖松と称する木が植わっており、松についての由来が複数伝わっている。井戸田村に流された藤原師長が都に戻ることを嘆いた女が入水した際に小袖を掛けた松であるとするもの、師長の形見の小袖を彼女の故郷である前津小林に近い当地に埋めたとするもの(府城志および金鱗九十九之塵)、戦乱により行方知れずとなった長者の女の小袖がかかっていた松であるとするもの。ただし、尾張藩士阿部直輔は『阿部直輔備忘志』の中で、小塚町が清須越により移った地名であり、その名前の由来となった小袖塚も当然元々清須にあったはずであるとしている。小袖松は1794年(寛政6年)に枯死しており、その後改めて別の木が植えられている。
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史蹟
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「城北新町 (名古屋市)」の記事における「史蹟」の解説
城北新町遺跡は当地名を冠しているが、地名変更のため現在は名城2丁目に位置する。
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史蹟
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毛受城址(毛受ノ古城) 『尾張志』は「浅井新八郎家老浅井玄蕃屋敷跡」とし、『新編一宮市史』は字城之越地内に比定し、苅安賀城の浅井新八郎の弟の砦であると推定している。
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史蹟
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西行腰掛石(浜明神社境内) 月待供養碑(浜神明社境内) 年代の銘記されたものとしては名古屋市内最古とされる。
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史蹟
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袈裟襷文銅鐸発見地 1870年(明治3年)、現在の2丁目にあたる地域において行われた道路改修工事において、袈裟襷文銅鐸1点および土器片が発見された。出土した銅鐸は辰馬考古資料館に所蔵され、現地には名古屋市立中根小学校に実物大の複製品が残されるのみである。 井守塚古墳 直径15m・高さ2.5m程度の円墳。
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史蹟
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