楠木正成 生涯

楠木正成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:16 UTC 版)

生涯

出自

自称

建武2年(1335年)8月25日、『法華経』の写経を完了し、奥書に「橘朝臣正成」と自著していることから、遅くともこの時期までには橘氏の後裔を自称していた[原文 1]

河内の土豪説

太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[5][6]

楠木氏橘氏の後裔とされる[7]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[7][8]。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[7]

また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[9]

得宗被官・御家人説

得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした[7][10][11][12]。かつてはこの説が定説とされていた。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。

  1. 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」のあざはない。
  2. 鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。
  3. 観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285年)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと想定できる[注釈 3]
  4. 『鎌倉将軍家譜』によれば、元享2年(1322年)には、北条高時の命を受けた正成が摂津国の淀川河口に居を据える渡辺党を討ち、次いで紀伊国の安田庄司を殺し、さらに南大和の越智氏を撃滅したという。この際、安田庄司の旧領は正成に与えられた(ただし、史料の正確性は後述のようにかなり低い)。
  5. 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている[13]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる[7]

網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人北条氏被官御内人)で、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったと推定した[14]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[10]

また『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井、おし、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている[15]。ただし、この楠木氏が正成と同族であるとする根拠は無い。

森田康之助は、弘安8年(1285年)1月29日付の常陸国国府での下文に「(常陸)国司代左近太夫将監橘朝臣」とあり、『楠嘉兵衛本楠木氏系図』には正成の父・正康は左近太夫であると記されているため、何かしら関係がある可能性を示した[16]

しかし、林羅山の『京都将軍家譜』『鎌倉将軍家譜』、浅井了意の『本朝将軍記』、馬場信意の『南朝太平記』、『高野春秋編年輯録』、『紀伊続風土記』など、楠木氏得宗被官説の根拠として使われるものの大半は『太平記評判秘伝理尽鈔』の影響下にあり、その信憑性には疑問が残る[17]

また、河内国石川郡太子町に「楠木」の小字があることが堀内和明によって発見されたため、駿河国出身であるという説も成立しない可能性がある[18]

悪党・非御家人説

永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[19]

林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした[20][21]兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[21]

元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]網野善彦は、この時の正成は、若松荘の所有を主張していた内大臣僧正道祐から何らかの職を得ていたとする[22]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[10][23]佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[23]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[24]。しかし、森田康之助は、高柳光寿の主張を踏襲する形で、「兵衛尉」は御家人でなくても名乗ることができ、むしろ兵衛尉を名乗っていることから正成は御家人ではなかったと述べた[25]

正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている[26]

挙兵以前

元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和越智氏を撃滅している[27]

この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい[27]。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した[12]。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる[12]。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた[14][27]

その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った[27]。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた[28]。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した[12]

新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている[28]。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている[27]。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている[12]

正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた[12]。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた[12]。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる[29]

ただし、前述のように『高野春秋編年輯録』、『紀伊続風土記』などの楠木氏得宗被官説の根拠として用いられる史料の大半は『太平記評判秘伝理尽鈔』の影響下にあり、その信憑性には疑問が残る[30]

また、楠木氏は河内金剛山の辰砂採掘を生業とし、交通を抑える武装商人の面貌を備えており、それによって軍資金を調達していた可能性がある[31]

加えて、正成は磯長の聖徳太子廟や四天王寺で六波羅方と戦闘を行なっているが、中世の鉱山労働者は太子信仰と深く結びついており、彼ら自身も「タイシ」と呼ばれたといい、辰砂を採掘していた可能性のある正成も太子信仰と関連があったと考えられる[32]

挙兵から鎌倉幕府滅亡まで

後醍醐天皇に与する

その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった[14]。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教文観と醍醐寺報恩院道祐とされる[14][33]。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。

元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た[14]。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。なお、正成はこのとき笠置山に参向している[34]。『増鏡』によると天皇側は前もって正成を頼りにしていたという[33]。正成は得宗被官から一転したため、鎌倉幕府からは「悪党楠兵衛尉」として追及を受けた[14]。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]

赤坂城の戦い

赤坂城の戦い(大楠公一代絵巻、楠妣庵観音寺蔵)

9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した[35]

だが、正成は寡兵ながらもその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた[35]。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落として敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした[36][37]。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った[38]。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った[38]

新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している[39]。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている[39]。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる[40]

しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた[14]。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。

赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた[27]。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた[14]

赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧

元弘2年/元徳4年(1332年)4月3日[41]、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ[41]。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出しての声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った[41]。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した[14][41]

楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した[41]。京には和泉・河内の両国から早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込む可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった[41]。このため、六波羅探題は隅田・高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した[41]

5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした[41]。だがこれは正成の策略で、前日に主力軍は住吉、天王寺付近に隠して 2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった[41]。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った[41]

「坂東一の弓取り」宇都宮との駆け引き

その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮高綱(のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した[41]。宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は600-700騎ほどであった[41]

和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた[41]。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った[41]

7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った[41]。正成は天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった[41]

8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した[42]

千早城の戦い

千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている。湊川神社蔵、歌川芳員画)

やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した[43]。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。

元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い[44]。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、大和国奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した[44]

幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった[45]

そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである[46][47]

正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた[48]。天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた[48]

建武の新政

足利方との戦い

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)となる[14]。また、そのほかにも河内新開荘、土佐安芸荘、出羽屋代荘、常陸瓜連など多くの所領を与えられた[14]。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光名和長年千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され[14]、「朝恩に誇った」とされる[49]

だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。

建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。

だが、翌年1月13日に北畠顕家が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、名和長年千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける[注釈 4]。この合戦は30日まで続いた[50]。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。

合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原(大阪府池田市箕面市)の戦い(豊島河原合戦)で足利方を京から九州へ駆逐する。

朝廷との確執

梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある[51]。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい[51]。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である[51]、というものであった。

正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である[52]。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた[53]。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる[52]。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる[52]。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている[52]

この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり[54]、にべもなく却下されてしまった[51]

義貞は、播磨国白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、延元元年/建武3年(1336年)4月に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して態勢を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国鞆津を経て、四国で細川氏土岐氏河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は10万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)に到着した時には2万騎を切っていた[55]

兵庫への下向と決戦前夜

桜井駅跡にある楠公父子別れの石像(大阪府三島郡島本町

絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した[56]

『太平記』西源院本によれば、後醍醐や公卿に「京中で尊氏を迎え撃つべき」という自身の進言が聞き入れられなかったことに対し、「討死せよとの勅命を下していただきたい」と発言しており、開き直った正成の悲痛な言葉や不満を伝えている[57]

道中、正成は息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した[56]。これが有名な楠木父子が訣別する桜井の別れであるが、史実であるかどうかは不明である。

梅松論』には、正成が兵庫に下向する途中、尼崎において「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前に命を落とすべき(足利勢を迎え撃つため、正成は和泉や河内の守護として勅命により軍勢を催しても、親類・一族でさえ難色を示す。ましてや一般の国人・土民はついてきません。天下が天皇に背を向けたことは明確です。正成の存命は無益ですので、激しく戦って死にましょう)。」という旨を後醍醐に上奏したことが記されている[58]。正成は尊氏との戦争の勝敗が人心にあると考えていた正成は、世の中の人々が天皇や建武政権に背を向け、民衆の支持を得られていない状況では、敗北は必至であると考えていた[59]

24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した[56][60]

『太平記』によると、その夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した[56]。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した[60]。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた[61]

正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた[61]。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている[56]

しかし、正成は周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と峰岸純夫は分析している[62]。いずれにせよ、正成にとっては義貞と酌み交わした夜が最後の夜となった。

湊川の戦いと最期

湊川の戦いにおける布陣

25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。

山本隆志によれば、『梅松論』などから判断する限り、実際のこの戦いはそこまで大きな兵力差があった訳ではなく、細川定禅が率いる水軍の揺動と、それに乗った義貞の失策、その機をうまく突いて新田軍と楠木軍を分断させた足利兄弟の戦術的勝利という面が大きいという[63]

戦いに敗北した正成は、弟の楠木正季と刺し違えて最期を遂げたと伝わる[64]。正成と正季の死に関しては『太平記』(二)巻第十六「正成兄弟討死事」に述べられている[64]。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという[64]。死に際に正成は正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという[64]。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。

死後・子孫

南北朝時代

湊川神社にある墓碑(嗚呼忠臣楠子之墓)

湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首された[65]。だが、正成の首を見た人々は、延元元年/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったという[65]。その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返した[65]

息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時正儀らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。正儀は南朝の参議に登りつめ、(橘氏出身の自称は怪しいとはいえ)約400年ぶりの橘氏公卿となっている。孫の正勝は南北朝合一(明徳の和約)後も北朝に降らず、応永の乱で反幕府側として参戦し、その時の傷が元で死亡している。伝説では、正勝は「虚無」という普化宗の高僧となり、虚無僧尺八を広めたとされる。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。

その後

大阪府南河内郡千早赤阪村・南木神社所蔵の楠木正成木像。同社は1337年(延元2年)に後醍醐天皇により創建されたと伝わり、正成を祀る最古の神社である。

南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった[原文 2]。ただし、この時点では「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった[原文 2]

楠木氏嫡流と言われた伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になり、 また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた[66]。 しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死、次いで第8代当主楠木正盛(盛信とも)が1584年小牧・長久手の戦い加賀野井城で戦死したことで絶えた[66]。 刀工としては正重のほか千子正真、坂倉正利、雲林院政盛など千子派の名工を輩出し大いに栄えた[66]。 木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は伊勢楠木氏の傍系[67](ただし、守勝の後を養子が継いだ為、血筋では繋がっていない)。またアラビア石油創業者山下太郎[68]や、伊勢高楠家(仏教学者高楠順次郎が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称する[69]

明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏菊池氏名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、[湊川神社]]内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎である[68]


注釈

  1. ^ 頼山陽の『日本外史』(文政10年(1827年))は正成の没年を数え43歳としている[1]。ここから逆算すると、永仁2年(1294年)の生まれとなる。しかし、『日本外史』説に史料的根拠は無い[1]。今井正之助によれば、享年43歳説は、『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年ごろ)に端を発するという[2]
  2. ^ a b 通俗的には和泉守(和泉国司)にも任じられていたとされるが、『大日本史料』によれば、和泉守説を裏付ける史料はない[3]。正成は、河内・摂津の国司であると同時に、河内・摂津・和泉の「守護」でもあったので、通俗書が守護と国司を取り間違えたものであろう[3]
  3. ^ 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。
  4. ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日ともいわれる[50]
  5. ^ 和暦(明治元年以降はグレゴリオ暦と一致する)。
  6. ^ 大覚寺統に流行っていた宋風の書の影響が見られるという。
  7. ^ a b c 正式には『故太宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録』(天竜寺文書)
  8. ^ 『増鏡』『太平記』も27日説を取るが、『南山錦雲抄』『東寺年代記』は26日、『笠置寺縁起』は29日とする[73]
  9. ^ 兵衛尉は、少尉が従七位上相当で、大尉が正七位下相当、左衛門少尉は正七位上相当。一階か二階の昇進となる。反幕勢力内での昇進のため、幕府側には伝わらなかった。昇進を許可したのが後醍醐天皇か大塔宮かは不明。
  10. ^ 詳細には、金剛山吉水院主律師真遍言上状(金峯山文書)
  11. ^ その後、斯波高経は翌建武2年(1335年)1月30日にようやく反乱軍を鎮圧[169]
  12. ^ 遅くとも建武2年(1335年)8月12日以降、京の決断書の牒文から正成の署名が消える[173]
  13. ^ 贈正三位説は『太平記評判秘伝理尽鈔』等に載り、徳川光圀もこれを採用して「嗚呼忠臣楠氏楠子之墓」に載せた[195]。しかし、渡辺世佑「吉野朝以後の楠氏」(1935年)は、詳細な検討の上で、従五位上から正三位に急陞することは当時考えにくいと結論づけており、今井正之助もこれに賛同する[195]
  14. ^ 「忠功」を「功績」の意味に用いる当時の用例としては、『太平記』巻12「千種殿文観僧正奢侈事」の「六波羅ノ討手ニ上リタリシ忠功ニ依テ」や巻32「鬼丸鬼切事」の「朝敵ノ大将を討タリツル忠功抜群トイヘハ」など[199]
  15. ^ 記録所の寄人では他に、清原氏小槻氏坂上氏も官僚的氏族である。
  16. ^ 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。

原文

  1. ^ a b c 『今田文書』(湊川神社宝物)『法華経』自筆奥書「
    夫法華経者、五時之肝心、一乗之腑蔵也、拠斯三世之導師、以此経為出世之本懐、八部冥衆、以此典為国之依憑、就中本朝一州円機純𤎼、宗廟社稷護持感応、僧史所載縡具縑緗、爰正成忝仰朝憲敵対逆徒之刻、天下属静謐、心事若相協者、毎日於当社宝前、可転読一品之由、立願先畢、仍新写一部所果宿念如件。
     建武二年八月廿五日 従五位上行左衛門少尉兼河内守 橘朝臣正成敬白」[174]
  2. ^ a b c 旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書「
     建武之比、先祖正成依為朝敵被、勅勘一流已沈淪訖。然今為其苗裔悔先非、恩免之事、歎申入之旨、被聞食者也。弥可抽奉公之忠功之由、天気如此悉之以状。
      永禄二年十一月廿日 右中弁(花押)
       楠河内守殿
    並に、
     楠木正成は、建武の古、朝敵たるによりて累葉誅罰せられ候へども、唯今正虎先非を悔いて歎き申候程に、赦免せられ候。弥々奉公の忠を致し候様に仰せ聞かせられ候べく由、心得て申べく候、かしく。
      万里小路前大納言殿へ」(万里小路前大納言は万里小路惟房[197]
  3. ^ 林羅山『鎌倉将軍家譜』元亨2年4月条「頃年摂津国住人渡辺右衛門尉狭野心高時使河内国住人楠正成撃平之、又紀伊国安田庄司有逆心正成撃殺之、賜安田旧領於正成、又大和国越智四郎与六波羅相拒、攻之不利、正成襲撃滅之」[70]
  4. ^ 『増鏡』「笠置殿に大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼みおほされたりし楠木兵衛正成と云ふ者あり、心たけくすくよかなるものにて、河内国におのが館の辺りを厳めしくしたゝめて、此のおはします所、若し危うからん折は、行幸をもなし聞えんなど用意しけり」[72]
  5. ^ 『法隆寺別当次第』憲信僧正「同廿七日笠置寺入御、日本国動乱之元始是也」[73]
  6. ^ 『増鏡』「中務の御子大塔の宮などは、予てより、こゝを出でさせ給ひて、楠が館におはしましけり」[77]
  7. ^ 『光厳院宸記』元弘元年10月18日裏書条「御事書ヲ以テ仰云、天下未静謐、楠木城合戦落居之程、難給御返事暫可在京旨被之云々[81]
  8. ^ 『北条九代記』(『鎌倉年代記』)裏書「元弘元年辛未十月廿一日楠落城、但楠兵衛落行」[83]
  9. ^ 『光厳院宸記』正慶元年6月29日条「是自熊野山、帯大塔宮令旨竹原八郎入道為大将軍襲来云々、驚歎不尠」[93]
  10. ^ 保暦間記』「天台座主山々を廻りて義兵を挙げ、河内国住人、楠正成と云ふものあり。彼を説いて、河内と大和との国境に金剛山と云ふ山に、城廓を構へて、畿内近国の勢を語ふ云々」(天台座主は大塔宮(護良親王)のこと)[92]
  11. ^ a b 『河内国天野山金剛寺文書』「
    御巻数給候了。早可令進覧候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門尉正成(花押)
     謹上 金剛寺衆徒御返事」「
    祈祷巻数賜候了。種々御祈念、返々為悦候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門少尉正成(花押)
     謹上 金剛寺三綱御返事[104]
  12. ^ 『花園天皇宸記』正慶元年11月15日条「楠木事猶興盛候歟。自昨日門々番衆等著鎧直垂祇候候之間、定子細候歟之由、推量候。只冥助之外、無所憑。関東武士も上洛遅々之間、返々非無怖候。熾盛光法、尤忩々可被始行候歟。以俊禅僧正被申入了。仍承之。此時分、懇祈外、不可有他候乎。風気此両三日得減候也。事々期面候。謹言。」[97]
  13. ^ 『紀伊続風土記』附録『須田文書』「
    依大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、自関東尾藤弾左衛門尉所上洛也。有可被仰之子細、不廻時刻可被参洛。仍而執達如件。
      正慶元年十二月五日 左近将監(花押)
         越後守(花押)
       須田一族中」(須田時親に宛てた文書。左近将監は北条時益、越後守は北条仲時[100]
  14. ^ 『楠木合戦注文』十二月日「一 為楠木被取籠湯浅党交名 安田二郎兵衛尉重顕 阿矢河孫六入道定仏 藤並彦五郎入道 石垣左近将監宗有 生地蔵人師澄 宮原孫三郎 湯浅彦次郎時弌 糸賀野孫五郎」[102]
  15. ^ 『和田文書』和田助家への招集状「
     りやうろくはら
    大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、為誅伐所差遣軍勢也。去年雖発向、重可進発云々、殊以神妙。引率庶子親類可抽軍忠之状、依仰執達如件。
      正慶元年十二月九日 右馬権頭(花押)
         相模守(花押)
       (宛名欠)」(右馬権頭は連署北条茂時、相模守は執権北条守時[103]
  16. ^ a b 甲斐身延山所蔵『金剛集裏書』「九日より京中以外騒動候。阿くた川に朝敵充満し、山崎迄せめ入候間、宇つ宮赤松入道賜打手、早速進返候了。仍仁定寺に構城廓、引籠候を、宇都宮ついで責取、即ち昨日打落頸其数令持参候。是大塔殿御所為と申候也」(「昨日」は12月15日)[105]
  17. ^ 『紀伊葛原文書』「
    楠木兵衛正成事、押寄隅田荘之時、度々及合戦数十人徒討留畢、殊以神妙也、仍而執達如件
      正慶元年 十二月十九日 左近将監(判)
      越後守(判)
     隅田一族中」[106]
  18. ^ 『久米田寺文書』「
    当寺幷於寺領等不可有官兵之狼藉由事、令旨進候。此上者、弥可令抽御祈祷之忠勤賜候哉。恐惶謹言。
     正月五日 左衛門尉正成(花押)
     進上 久米田寺御寺者」(12月26日付令旨に翌年1月5日正成が添付した文)[109]
  19. ^ 『真乗院文書』「
    今月八日御札、同廿三日到来。委細拝見仕了。
    抑為追罰大塔宮・楠木兵衛尉正成、可発向茅和屋城由事、御教書案文拝見仕了。早速企参上可供奉仕候。但老父境節本病更発仕候。難儀最中候。可有御心得候。是非早々上洛仕、可申入候。恐々謹言。
      正月廿五日 大中臣頼景(判)
     謹上 和田修理亮太郎殿」[102]
  20. ^ 『道平公記』正慶2年1月16日条「去夜楠木丸与官軍於泉境合戦」[108]
  21. ^ 『楠木合戦注文』「自十九日己時一日合戦、戌亥時に追落、楠木渡辺に責御米少々押取」[113]
  22. ^ 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[129]
  23. ^ 『前田侯文書』「
    大塔宮幷楠木兵衛正成事、為誅伐所差遣軍勢也。早為一揆之思、令対治凶徒者、可有其賞之状依仰執達如件
      正慶二年二月丗日 右馬権守(判)
      相模守
     東大寺衆徒中」[130]
  24. ^ 『楠木合戦注文』「大手本城平野将監入道既三十余人参降畢。此内八人者逐電、或生捕、或及自害。彼所又以被落之由、閏二月一日風聞。楠木舎弟同比城中在之是非左右未聞」[133]
  25. ^ 『門葉記』「正慶二年二月丗日勅書到来。合戦事、凶徒頗雌服。官軍乗勝。後二月朔日、楠木城既没落。平野将監入道以下生虜数輩自方々駕送之。」[134]
  26. ^ 『忽那開発記』「建武五戊寅三月小早河民部大夫入道相順・同左近将監景平以下輩起謀反、安芸国沼田庄内、楯籠妻高山之間、為誅伐同七日御発行直附到着抽軍忠後三月十一日楠多聞兵衛殿賜御判。」(閏3月(後三月)の無い建武5年の閏3月に、建武3年に死んだ正成が判を捺しているという奇妙な記事だが、藤田精一は『忽那開発記』に日付の書き間違いが多いことを指摘し、これも元弘3年の後二月(閏二月)の間違いだろうとしている。そして、正成が千早城にいながら他の地域と連絡を取れる手段を持っていたのではないか、と推測している)[136]
  27. ^ a b 「二月廿四日、主上出御隠岐国、同日遷座伯耆国稲津浦。同廿六日、遷幸船上山。」[139]
  28. ^ 『続史愚抄』「正慶二年三月五日戊戌六波羅勢与橘正成戦大敗道平公記[141]
  29. ^ 『博多日記』三月「二十二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎下着、金剛山ハ未タ不破、赤松入道可打入京之由、披露」[143]
  30. ^ a b 備後『因島文書』「度々合戦捨身命、軍忠之刻、去四月三日、同八日、同廿七日等合戦之時、子息已下郎従、討死之条尤以不便次第、所有御感也。早可恩賞者。大塔二品親王令旨如此、悉之以状 元弘三年五月一日 左中将(花押)。備後国因島大主治部法橋幸賀館」(「中」将ではなく「少」将か?)[145]
  31. ^ 『博多日記』四月「四日雑兵宗九郎自関東打返、金剛山をば近日可打落」[146]
  32. ^ 『和田系図裏書』「
     和田修理亮進正慶二、四、廿、
    和泉国御家人和田修理亮助家、茅葉屋城大手箭倉の下の岸を掘之時、今日四月廿日若党新三郎顕宗、腰骨をすこし右へよりて被射候了。仍注進如件
      正慶二年四月廿日 定兼(花押)
        資兼」[144]
  33. ^ 『和田文書裏書』「
     かん状正文
       はるとき
    於茅破城北山、至野臥合戦取頸了、尤神妙候、仍執達如件
      正慶二年四月廿一日 治時
        和田中次殿」(幕軍大将阿曽治時が和田助秀に与えた感状)[149]
  34. ^ 『紀伊続風土記附録』「爰其身者罷向金剛山城之折節、今年元弘三年五月二日安原卿大楠丸住宅に大塔宮祇候人保田次郎兵衛尉宗顕、生地蔵人師澄以下寄来、令放火之時、彼御下文等悉焼失候畢」(文中に「大楠丸」とあるのは正成ではなく襲撃を受けた栗栖実行の長子の名前)[148]
  35. ^ 『観心寺文書』(元弘3年)「
    此之間何等事候乎、抑為御祈祷、観心寺大師御作不動、可奉渡之由、被下綸旨候之間、申遣寺僧方候、明後日二十八日御京着候様、可候奉渡候也、御共に御上洛候べく候、心事期面候、恐々謹言
     十月二十六日 正成(花押)
     瀧覚御房」[165]
  36. ^ 『玉英記抄』「建武元、二、小除目、従五位下橘正成勲功章 従五位下橘正成、検非違使如元」[3]
  37. ^ 『略年代記抄出』(延元元年正月)「同七日楠木焼払宇治、依余燄平等院消失」[175]
  38. ^ a b 『真乗院文書』「右助康去年十一月廿八日馳参京都属御手自宇治令参東坂本 同十六日罷向西坂本」(和田助康の軍忠状、御手とは正成のこと)[178]
  39. ^ 『忽那重清軍忠状』「同晦日馳向搦手到散々合戦之上、重為四条河原相向朝敵人高橋党、到散々合戦責落畢、次依大将軍仰火口河原在家懸火、次馳向内野責附丹州道追山」(大将軍は洞院実世、実世が搦手を組織して戦っていた)[185]
  40. ^ 『和田助康軍忠状』「晦日鴨河原、内野合戦」(和田助康は正成配下だから、地理的に考えると正成が実世と合流して搦手で戦っていたことかがわかる)[185]
  41. ^ 河内国天野山金剛寺蔵『釈論』第九愚章、禅恵の記入「同三年正月十日帝落給入御山門、同十六日、日田殿折下京中散々合戦、同廿六日、廿七日、晦日三箇日之間、楠木判官大将斗ニテ足利殿足利兵庫ヨリ逃下備後土毛マデ」(日田は新田の誤記)[185]
  42. ^ a b 『和田助康軍忠状』「二月十日・十一日罷向打出・豊島河原到合戦忠節候畢」[188]
  43. ^ 『周布兼宗軍忠状』「今月十日於西宮浜手抽随分之軍忠」[188]

出典

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